07 真夏の夜の夢
「よう、猪狩さんにユーリさん! しっかり食べてるかい?」
瓜子とユーリが近づいていくと、赤星大吾が笑顔で振り返ってきた。
いつまでも同じ顔ぶれで語らっているのも何なので、宴の会場を巡りがてらバーベキューの成果を受け取りにおもむいたのだ。ユーリもまた、満面の笑みで「はぁい」と応じた。
「でもでも、大吾殿のメキシコ料理はいくら食べても食べ足りない心地なのですぅ。このように肥え太ってしまったのに、まったく困ったものですねぇ」
「ははは! ユーリさんが太ってたら、俺なんて脂肪の塊だな! まあ実際、半分がたは脂肪なんだけどよ!」
ビア樽のように巨大な身体を揺すりながら、赤星大吾はいっそう愉快げに笑った。
「さあ、焼きあがったぞ! エビでもイカでも好きなものを食ってくれ! 朝一番に市場で仕入れてきたから、どれも新鮮だぞ!」
「わぁい。普段はなかなか海の幸をいただく機会もないので、ありがたいですぅ」
ユーリもずいぶん赤星大吾と気安く語らえるようになったようである。
まあ、赤星大吾はもともと陽気で屈託がないため、おおよその人間はすみやかに打ち解けることができるのだ。それでも、人見知りのユーリをこんなに早々に手なずけられるというのは大したものであった。
(まあ、ユーリさんはとことん大吾さんの料理が口に合うみたいだもんな。これがいわゆる、胃袋をつかまれるってやつなのか)
ともあれ、ユーリの楽しげな姿は瓜子の気持ちを浮き立たせるばかりである。瓜子とユーリは、笑顔で美味しい海産物をいただくことになった。
「そういえば、グティのやつは大丈夫だったかい? あいつがユーリさんを狙ってるみたいだって、みんなして心配してたんだよな」
「はい。みなさんのご忠告の甲斐あって、うまい具合に回避することができました」
「ははは! 気が多いのは、父親ゆずりなのかねぇ。同じ男としては、あんなに楽しい連中はそうそういないんだけどさ!」
そう言って、赤星大吾は視線を巡らせた。
当のグティは覆面姿で、マリア選手やキッズコースの子供たちとはしゃいでいる。そこにはプレスマン道場の子供たちも加わっており、遠からぬ場所ではサキやサイトーも見守っていた。
「子供は、いいよなぁ。ま、子育てでしくじった俺にそんな台詞を口にする資格はないかもしれないけどな」
「そんなことないっすよ。弥生子さんも卯月選手も、あんなに立派に成長してるじゃないっすか」
「でも、当の二人が仲違いしちまってるからな。それはやっぱり、俺のせいなんだろうと思うよ」
赤星大吾は陽気な笑顔を保持したまま、少しだけ遠い目をした。
「何せ俺は、あいつらに格闘技しか教えることができなかったからさ。おかげであいつらは、格闘技しか頭にない人間に育っちまって……だからあんな風に、いがみあうことになっちまったんだろう」
「うーん。もちろん弥生子さんは、苦労の大きい人生を送ってこられたんでしょうけど……でも、自分は今の弥生子さんが好きですからね。弥生子さんが器用にすいすい順調な人生を送っているようなお人だったら、自分はこんなに心をひかれなかったかもしれませんよ」
「ははっ! そういう話は、本人に聞かせてやってくれよ! 俺から話しても、蹴っ飛ばさるだけだからさ!」
「そんなの、ご本人を前にしたら気恥ずかしいっすよ。……ユーリさんも、そんなむくれないでくださいってば」
「べつに、むくれてはないのですー」と、ユーリは盛大に口をとがらせてから、エビの背中にかぶりついた。
そこに、二つの人影が近づいてくる。それはアルコールで顔を上気させた、レオポン選手と竹原選手であった。
「よう、瓜子ちゃんにユーリちゃん! 大吾さんばっかりじゃなく、俺たちにもかまってくれよ!」
「みなさん、ご機嫌ですね。……おかしな話題を持ち出さなければ、いくらでもお相手いたしますよ」
「おかしな話題って? 俺はタケみたいに、瓜子ちゃんたちが表紙を飾った雑誌を買いあさったりしてねえからな!」
「どうやらこちらの意図が伝わらなかったみたいなんで、失礼いたします」
「うそうそ! 冗談だって! ま、こいつが雑誌を買いあさってるのは本当だけどさ!」
「デ、デタラメ言わないでくださいよ! たまたま欲しい雑誌に、瓜子ちゃんたちが載ってただけッスよ!」
竹原選手は、もともと赤かった顔をさらに赤くしてしまう。
二年前に恋の告白などをされてしまった瓜子としては、挨拶に困るところであった。
「じゃ、真面目に格闘技の話でもするか! 十月は、おたがいに正念場だな!」
「押忍。レオポン選手とご一緒に《アクセル・ジャパン》に出場できるなんて、光栄な限りっすよ」
瓜子がそれを知ったのは、つい先日の話である。瓜子と同様に、赤星道場の面々も秘密保持の契約を厳守していたのだ。
しかしまた、レオポン選手の実績を考えればまったく不思議はない。レオポン選手は《フィスト》のバンタム級世界王者であるのだ。瓜子も同じ《フィスト》の王者という立場であったものの、およそ十倍の競技人口である男子選手とはベルトの重さが違っているのだった。
「メインイベントは卯月さんで、俺と瓜子ちゃんとメイちゃんが出場するんだもんなぁ。今年の《アクセル・ジャパン》は、見どころたっぷりだぜ!」
「ほんとですねぇ。ユーリもドキドキが止まらないのですぅ」
ご機嫌を回復したユーリも、笑顔で相槌を打った。
何気なくそちらを振り返ったレオポン選手は、「おわ」とのけぞる。
「ユーリちゃん、すげえいい顔で笑ってるな。そいつは、水着姿以上の破壊力だぜ」
「あははぁ。レオポン選手がうり坊ちゃんにぞっこんなことは、ユーリも存じあげておりますよぉ」
「瓜子ちゃんにだって、もう下心を持ったりはしちゃいねえさ。……二人とも、もとの生活に戻れてよかったな」
と、レオポン選手はふいに温かい笑みをこぼす。
いかにも当世風の容姿をしているレオポン選手であるが、その内にはこういう一面を隠しているのだ。だから瓜子も、かつては彼に心をひかれかけてしまったのだった。
しかしもう、瓜子とレオポン選手の間にそういった感情は存在しない。だから瓜子も、気兼ねなくレオポン選手の優しさに感じ入ることができた。
「で、でも、その若さで《アクセル・ジャパン》に出場できるなんて、瓜子ちゃんは本当にすげえッスよ。これでますます、瓜子ちゃんは手の届かない存在になっちまいます」
竹原選手が赤い顔でそんなことを言い出したので、瓜子は「そんなことないっすよ」と答えてみせた。
「自分なんかは、たまたまタイミングがあっただけっすよ。ラウラ選手が変に騒いでなかったら、《フィスト》の王座に挑戦する機会もなかったでしょうしね」
「《フィスト》の王者があいつのままだったら、お声はかからなかったんじゃねえかな。やっぱ、瓜子ちゃんの実績が実を結んだんだよ」
そう言って、レオポン選手は肩をすくめた。
「ところで、手の届かない存在ってところは否定しないほうがいいんじゃねえのかな。じゃないとこいつが、無謀なリベンジにチャレンジしようとか考えちまうかもしれねえからさ」
「ええ? それはちょっと、自分としても困るんですが……」
「そ、そんなハッキリ言わないでくださいよ! 自分だって、必死に気持ちをおさえつけてるんスからー!」
男心のわからない瓜子は、竹原選手に無用のダメージを与えてしまったようだった。
そうして竹原選手がしょぼんと肩を落としても、瓜子にはかけるべき言葉を見つけられない。すると、レオポン選手がその代わりに竹原選手の肩を叩いてくれた。
「お前もいい加減、未練がましいよな! あきらめるって決めたんなら、スッパリ割り切れよ!」
「お、俺は割り切ってるつもりッスよ。でもこの一年ぐらいは、本屋やコンビニに行くたびに瓜子ちゃんの可愛さを見せつけられちまうから……」
「ははっ! そんな言い草も、瓜子ちゃんの反感をかきたてるだけだな!」
反感まではかきたてられないが、溜息は止められない瓜子である。
レオポン選手はいっそう愉快げに笑いながら、瓜子に向きなおってくる。
「まあとにかく、十月は頑張ろうぜ! どっちが先に正式契約を勝ち取るか、勝負だな!」
「はあ。自分はそこまで正式契約ってものにこだわってないんすけど……でも、十月は頑張ります」
「おう! おたがいそれまで、ケガだけは気をつけような!」
レオポン選手は竹原選手の落とされた肩に手を回して、賑わいの向こうに引きずっていった。
その間に大量の海産物を焼きあげていた赤星大吾が、笑顔で向きなおってくる。
「俺もマリアに聞いてたけど、ハルキと猪狩さんはでかいイベントに出場するそうだな。草葉の陰から、応援してるよ」
「ありがとうございます。やっぱり大吾さんは、レオポン選手の応援に行ったりしないんすか?」
「俺なんかが行っても、ツキが落ちるだけさ。依頼があったら、料理を準備して帰りを待ってるよ」
やはり赤星大吾は、完全に格闘技業界から身を引いているのだろう。もしかしたら、《アクセル・ジャパン》というイベント名すら把握していないのかもしれなかった。
(まあそれでも……弥生子さんのために、門下生の活躍を願ってるんだろうな)
そうでなければ、わざわざこのような合宿についてきて、料理番のボランティアに励むわけもないのだ。
きっと赤星弥生子は、父親に対して愛憎うずまく感情を抱いているのだろうが――いつかは卯月選手も交えて、笑顔で手を取り合う日が訪れることを願ってやまなかった。
(って、丸三年も親と会ってないあたしが何言ってんだって話だけどさ)
そうして瓜子はユーリとともに、その場を離れることにした。
打ち上げの会場は、どこもかしこも賑わっている。灰原選手は相変わらずあちこちをうろつき回っており、鞠山選手も魅々香選手や雅のエスコートに励んでいる様子だ。
鬼沢選手はいつの間にか、子供たちの輪にまじっている。もしかしたら、彼女も子供好きなのだろうか。そういえば、彼女はサイトーと共通点が多く、そのサイトーも意外に子供好きであるのだ。
蝉川日和は二階堂ルミとともに、キック部門の面々と盛り上がっているようである。稽古の場では部門で分けられていたので瓜子はあまり接する機会がなかったが、彼女も初めての合宿稽古をしっかり楽しめているようであった。
ちょっと賑わいから外れた場所では、オリビア選手とエドゥアルド選手が親密な雰囲気で語らっている。彼女たちは見るたびに、親睦が深まっているようだ。それにエドゥアルド選手も、今回はずいぶん長々と日本に滞在しているものであった。
赤星弥生子は立松やジョンと語らっており、小笠原選手や小柴選手はまだタツヤたちと同じ輪を作っており、リューク氏やビビアナは大江山軍造と笑い合っており――誰も彼もが楽しそうだ。
瓜子がそんな風に考えていると、ユーリが「ふにゅう」と息をついた。
「やっぱり何だか、夢の中みたいだにゃあ……ユーリは夢の中でも、これぐらい幸せな気分だったのです」
「あはは。でも、決して夢じゃありませんからね。しっかり地に足をつけて、この場を楽しんでください」
「むにゃあ。ユーリはクラゲさんのようにぶかぶか浮いているような心地なので、それは難しいですにゃあ」
そんな風に語りながら、ユーリは心から幸福そうな面持ちであった。
そこに、漆原の「おおい」というとぼけた声が響きわたる。それと同時に、あちこちから歓声が響きわたった。
「あんまり酒が入るとグダグダになるから、そろそろ始めようぜぇ」
漆原はギターケースとエフェクターボードを担いでおり、そのかたわらの千駄ヶ谷は三十センチ四方のミニアンプを手にさげていた。
さらにその後から、同じような姿の山寺博人と陣内征生も続く。車から、演奏に必要な機材を運んできたのだ。
「うわぁ。これでお歌まで歌ったら、ユーリはますます夢見心地になってしまうのですぅ」
「そうしたら、自分たちも同じ心地っすよ。もう地に足をつけるのはあきらめましょうか」
瓜子が笑うと、ユーリも笑った。
この瞬間を待ち受けていた人々は、大歓声で漆原たちの挙動を見守っている。そして、『トライ・アングル』の他のメンバーもいそいそと機材の準備に取りかかった。
そうして昨年に引き続き、合同合宿稽古は『トライ・アングル』の生演奏によって締めくくられて――多くの人々の胸に、忘れられない思い出を刻みつけてくれたのだった。




