04 日常の果て
その後も瓜子は、充足した思いでスパーに取り組むことができた。
目新しい相手は武中選手と青田ナナと大江山すみれのみであるが、ユーリやメイや多賀崎選手が手ごわいことに変わりはない。とりわけ厄介なのは、やはり手加減を知らないユーリであろう。
スパーにおいては無軌道なコンビネーションを禁じられているため、ユーリはユーリなりに的確な攻撃というものを心がけようとしている。
しかし、片目を閉ざしているユーリは間合いを測ることが苦手であるし、攻撃に緩急をつけることはもっと苦手だ。もうファイターとしてそれなりのキャリアであるのに、相変わらず打撃技に関してはぶきっちょなユーリであった。
ただしユーリは、一発ずつの攻撃がやたらと重い。破壊力で言えば、きっとこの階級でトップクラスであるのだ。それが入院生活を経て六、七キロ分のパワーを上乗せされたのだから、こちらとしては寒気を覚えるほどであった。
それでも、ユーリのぶきっちょな攻撃をかわすことは、それほど難しくはない。間合いを測るのが不得手である分、おかしなタイミングで攻撃を出されるのは厄介な限りであるが、瓜子ぐらい小回りがきけば対処は可能であるのだ。
しかしそれは、防御に徹した際の話である。
ユーリの不規則で規格外の破壊力を秘めた攻撃をかわしながら自分の攻撃を当てるというのは、ますます難しくなっていた。
(こんなの、手足に刃物をくっつけた相手とやりあうようなもんだもんな)
ユーリに攻撃を当てようとすると、自然に集中が研ぎ澄まされてしまう。もはや試合と変わらないぐらい集中しなければ、ユーリに打撃を当てることは難しくなっていたのだ。
メイなどは瞬発力に優れているので、そうまでしなくても軽い攻撃を当てることは可能であるという。しかし、瓜子にとってはそれが厳然たる事実であった。
そして、スパーで本気を出すというのは、特別な場面に限るべきであろう。それで瓜子と青田ナナも、赤星弥生子に指導を受けることになったのだ。
よって、瓜子がユーリとスパーをする際は、ディフェンスの稽古をしているのだと割り切って、防御に徹する他なかった。
「よし。それでは、三分のインターバルとする」
三分七ラウンドのスパーを終えて、瓜子と七名の女子選手はマットの上にへたりこむ。
休憩なしで二十一分の立ち技スパーに臨むだけで、スタミナはひとまず枯渇するのだ。青田ナナと本気のスパーを続けていたら、途中で力尽きていたはずであった。
「どうも桃園さんが相手では、誰もが防御に徹する他ないようだ。……ナナやすみれも危険を悟って、そうせざるを得なかったということかな?」
インターバルは、指南役の総評を拝聴する時間でもある。青田ナナは水分を補給してから、「ええ」と応じた。
「目の前に立ったら、師範にもわかるでしょうよ。相打ち覚悟なら、いくらでもやれますけどね」
「そうそう。アイドルちゃんとやりあうなら、ボディプロテクターまで着けなね。うっかり一発でもくらったら、こん後ん稽古にまで支障が出るけんさ」
鬼沢選手も気安く相槌を打つと、赤星弥生子は「そうか」と考え込んだ。
「バンタム級の二人がそうまで言うなら、それ以下の階級はより危険だな。ボディプロテクター一枚でも足りないかもしれない」
「はい。それでも桃園さんの攻撃をもらいたくはないですね」
大江山すみれはそんな風に言ってから、内心の知れない微笑をたたえた。
「桃園さんの攻撃は不規則で、タイミングがつかみづらいんです。普段から稽古をご一緒してるみなさんのほうが、わたしやナナさんよりは上手にやりあってたんじゃないですか?」
「うん。それでも桃園さんに攻撃を当てられたのは、メイさんと多賀崎さんだけだったな」
「あたしもやっと目が慣れてきましたけど、猪狩たちよりも頑丈な分、思い切って踏み込めるだけです。それでも、ジャブを当てるのが精一杯ですしね」
「うん……しかしすみれの言う通り、桃園さんはちょっと攻撃のタイミングが独特だから……それを攻略することができても、他の対戦相手には応用がきかないかもしれないね」
赤星弥生子がそのように評すると、ユーリは「うにゃあ」と頭を抱え込んだ。
「みなさんの足を引っ張ってしまって、申し訳ない限りですぅ。やっぱりユーリは、参加をご遠慮するべきだったでしょうか……?」
「そこまで思い詰める必要はないよ。ただ、これでは桃園さんにとっても得るものが少ないだろうから、稽古の内容を見直すべきかもしれないね。立ち技のスパーに関しては、男子門下生の手を借りるべきかな」
「ええ。うちでももっぱら、そういう方向になってきてますよ」
と、別の八名の面倒を見ていた柳原が、横から口を出した。
「あとは、ボディプロテクターと十六オンスのグローブで、同じ階級の相手がやりあうぐらいですかね。フライ以下だと、それでも故障がおっかないんです」
「なるほど。桃園さんも、すっかりバンタムの体格になったようだしね」
「うにゃあ。お恥ずかしい限りなのですぅ」
ユーリは、ますます縮こまってしまう。しかしまあ、これは普段の稽古でもよく見る姿であった。
「それじゃあ次は、寝技のスパーに取り組んでみよう。そちらでも、鬼沢さんと武中さんの力量を確認させてもらいたい」
「そん前に、あんたん目から見てうちん立ち技はどうやったと?」
「あっ、わたしもお聞きしたいです!」
鬼沢選手と武中選手にせがまれて、赤星弥生子は沈着に答えた。
「鬼沢さんは、まだまだ粗削りのようだが……ただ、試合における勢いと冷静さは、私も拝見している。失礼を承知で言わせてもらうと、君は試合で本領を発揮するタイプなのだろうね」
「ふふん。スパーでは、二流以下ってことやなあ」
「少なくとも、多賀崎さんやナナほどの的確さは感じられなかった。ただ、試合では彼女たちと互角以上の勝負ができるのだろうと思う。君に必要なのは……技と動きの引き出しを増やすことだろうね。下手に洗練を心がけても、勢いを殺す結果にもなりかねないだろう」
「洗練なんて、性分やなかけんね。ありがたかことや」
「それで、武中さんは……逆に、洗練を目指すべきかもしれない。技や動きの多彩さは申し分ないので、さらに緻密に組み立てるべきだろう」
「そうですか。みなさんと手合わせすると、自分はまだまだ武器が少ないなあと思い知らされる気分なんですが……」
「みなさんというのは、きっと猪狩さんや小柴さんのことだろうね。君はそれよりも、メイさんを手本にするべきだと思う。今以上の多彩さを目指すより、ひとつひとつの練度を磨くことに注力するべきじゃないかな」
「メイさんですか」と、武中選手は目を丸くした。
「そうか……確かに猪狩さんや小柴さんは空手流の動きまで取り入れて、ものすごく多彩ですよね。それを目指すのは大変だと思っていましたけど……メイさんを手本にするっていうのは、目から鱗です」
「ふふん。このちびっこば目指すなんじゃ、えらか苦労なんやろうな」
「ええ。メイさんとわたしじゃ、もとのフィジカルが違ってますからね。でも……なんとなく、イメージがつかめたような気がします」
きわめて素直な気性をした武中選手は、瞳を輝かせていた。
いっぽう赤星弥生子はあくまで沈着に、「では」と言いつのる。
「その前に、まずは寝技のスパーを開始しよう。そののちに、また人員を振り分けて次の稽古に進むことにする」
そうして、寝技スパーのサーキットが開始された。
これはもう、ユーリの独壇場である。もともとの技術にパワーとウェイトまで上乗せされたユーリにかなうのは、多賀崎選手と青田ナナぐらいであったのだ。
また、そちらの両名もけっきょくタップを奪われてしまったらしい。パウンドなしのルールであれば、ユーリは鞠山選手と五分の力量であるのだ。以前は持ち前のフィジカルで逃げきっていたメイも、ユーリの復帰後は完全にリードを許してしまっていた。
ストライカーである瓜子や鬼沢選手などは相手にもならないし、武中選手や大江山すみれもパワーとテクニックの両面でやりこめられてしまったらしい。二十一分のサーキットを終えた後、ユーリはひとり充足しきった面持ちであった。
「驚いた。桃園さんは本当に、以前よりもいっそう動きが切れているようだね。君の適性体重はフライ級だと思っていたのだけれども……それは私の見込み違いであったようだ」
「えへへ。キョーエツシゴクでございますぅ。昔は六十キロを超えるとカラダを重く感じたのですけれど、今は昔より軽く感じるぐらいなのですよねぇ」
「重量が増える負担よりも、筋力の上昇が上回っているということだね。桃園さんの場合は外見で判断がつかないのだけれども……以前よりも質のいい筋肉でウェイトアップできたということなのだろう」
さすがの赤星弥生子も、感じ入ったように息をついている。
そして、汗だくの姿でボトルのドリンクをあおりながら、青田ナナはひそかに闘志をたぎらせていた。立ち技スパーで防御に徹し、寝技のスパーでもかなわなかったら、ユーリにつけいる隙がなくなってしまうのだ。この八名の中で、彼女と鬼沢選手だけはユーリといずれ対戦することまで視野に入れなければならないのだった。
(あたしなんかは、ウェイトが軽いぶん小回りがきいて、その代わりにパワーで太刀打ちできないわけだもんな。同じウェイトだと、そういう有利や不利もないわけだから……この結果を踏まえて、対策を練らなきゃいけないってことだ)
それはきっと、瓜子にとってのメイぐらい厄介な相手であるということなのだろう。
鬼沢選手はいつも傲然としているが、内心では青田ナナと同じぐらい闘志を燃やしているのではないかと思われた。
その後は他なる八名と合流し、今度はもっと細かい稽古を想定してメンバーが振り分けられる。そうすると、いっそう充実の度合いが増してやまなかった。
途中からは小笠原選手とオリビア選手も合流し、さらに来栖舞と雅もやってくる。ただ――そこでも雅は、ユーリに助言を授けようとしなかった。
「いちおううちは、関西勢やからねぇ。アケミちゃんの可愛い後輩に盾突く物体は、無視させてもらうわ」
そんな言葉も、ユーリ本人ではなくコーチ陣に向けて発せられた。
ユーリは残念そうな顔をしていたが、これも致し方のない話であるのだろう。雅に負けないぐらい兵藤アケミと関係の深い鞠山選手や来栖舞は過不足なく指導してくれるのだから、それを幸いと思うしかなかった。
そうして午後の五時半まで四時間の稽古をやりとげたならば、シャワーとディナーである。
初日の本日は、キッズコースの門下生たちと一緒に食事をとる。そしてその後は、希望者のみによる夜間の自由稽古であった。
瓜子たちにとっては、ここからが重要な後半戦だ。赤星弥生子が稽古に加わるだけで、充実の度合いは跳ね上がるはずであった。
そうして誰もが注目したのは、ユーリと赤星弥生子のスパーであるが――そちらはある意味、予想通りの結果に終わった。立ち技では赤星弥生子も防御に徹するしかなく、寝技においてはユーリの圧勝であったのだ。
去年や一昨年の段階から、ユーリは寝技で赤星弥生子の上をいっていた。もちろん赤星弥生子もたゆみない鍛錬で腕を上げているのであろうが、ユーリはそれ以上に成長しているのだ。パワーを増したユーリには、赤星弥生子さえ太刀打ちできなかったのだった。
しかし――赤星弥生子はスパーにおいて、古武術スタイルも大怪獣タイムも封印している。そうすると、彼女は「ごく尋常なトップファイター」となってしまうのだ。
青田ナナや鬼沢選手、小笠原選手や高橋選手と比べても、そうまで掛け離れた実力ではない。ただもちろん、青田ナナを除く三名はストライカーであるのだから、そちらと互角以上の打撃技を持ちながら、組み技や寝技で圧倒できるというのは、大した話である。二つの規格外の力を封印しても、赤星弥生子はそれだけの力量であるのだ。
(古武術スタイルだったら、きっとユーリさんにスタンドで負けることはないだろうしな。試合をしないと、二人の戦力差はわからないってことだ)
そしてそれは、瓜子にしてみても同じことであった。
瓜子は瓜子で大層な注目を集めていたようだが、赤星弥生子とのスパーではまったく太刀打ちできないのである。立ち技においてはリーチの差でまったく打撃を当てることができないし、寝技の実力などは天と地の差だ。瓜子もまた、集中力の限界突破を目指さない限り、赤星弥生子には手も足も出ないのだった。
「ただ、猪狩さんは明らかに動きの鋭さが増しているよ。次に試合をしたら、私は前回以上に苦しめられることになるだろう」
他の人間には聞こえないように、赤星弥生子はそう言ってくれた。
「何せ、私と猪狩さんでは年齢が違っているからね。わずか八ヶ月ほどでそれだけの成長を望めるというのは……やはり、若さだろう。私なんて、三十目前の老体だからね」
「やだなあ。弥生子さんが老体だったら、他の人たちはどうなっちゃうんすか」
瓜子は思わず笑ってしまい、赤星弥生子も穏やかに笑ってくれた。
それからユーリのほうを振り返ると、案の定むくれた顔をしていた。
そうして夜間の稽古も、とてつもない熱気の中で過ぎ去っていき――終了時間の午後十時半には、誰もが精魂尽き果てていた。
普段の稽古でもこれだけの時間をかけることはなくもないが、やはり稽古内容の濃密さが違っている。普段とは異なる顔ぶれを相手取り、普段とは異なるコーチ陣に指導されるのは、刺激的でならなかった。
「では、明日は七時起床なので、各自十分に休息を取るように」
赤星弥生子の号令で稽古を終え、シャワーをあび、食堂に向かう。夜食を希望する人間のために、そちらに準備があるのだ。おおよその人間は夕食を軽めに済ませていたので、ほとんど全員が食堂に向かうことになった。
そうして滋養を補給したならば、あとは寝るばかりである。
瓜子にあてがわれたのは四人部屋であったが、本年もユーリに愛音、灰原選手に多賀崎選手という五名で身を休めることになった。
「いやー、やっぱしんどいなー! 赤星の合宿稽古は初日が一番きついってことを思い出しちゃったよー!」
そんな風に騒いでいた灰原選手も、すぐさま寝入ってしまう。
多賀崎選手や愛音もそれから遠からぬ内に眠りに落ち――最後に残されたのは、瓜子とユーリであった。
「……どうでした、ユーリさん? しっかり楽しめましたか?」
布団に横たわったままそのように問いかけると、ユーリは眠そうな声で「うん……」と答えた。
恥ずかしながら、ユーリが退院してからしばらくはずっと同じベッドで眠っていたので、布団を分けていると遠く感じるぐらいである。ひかえめにエアコンのつけられた室内で、薄いタオルケットを腹の上に掛けたユーリは、瓜子のほうを見ながら夢見るように微笑んでいた。
「やっぱり立ち技スパーは殿方ばかりをお相手することになって、いささか物寂しいところでありましたけれども……そんな不満も気にならないぐらい、夢のようなひとときであったのです」
「それなら、よかったです。本当に、参加できてよかったですね。ゴールデンウイークは、ユーリさんがいなくて寂しかったですよ。……って、もちろんユーリさんのほうが寂しかったでしょうけど」
「いえいえ……今頃うり坊ちゃんはエンジョイしてるかなぁと想像するだけで、ユーリは夢見心地であったのです……まあ、食欲は増すいっぽうだったけどねぇ……」
「食欲は、今でもすごいですけどね」
「いやーん……それは言いっこなしなのですぅ……」
ユーリの眠たげな声を聞いていると、瓜子まで眠くなってくる。
というよりも、瓜子も最初から眠かったのだ。多忙な日常の果てに今日という日を迎えたのだから、身体はくたびれ果てていた。
それでも眠るのが惜しくなって、ついついユーリと会話を重ねてしまう。ユーリも懸命に眠気をこらえているのだろうなと想像すると、瓜子の胸は温かく満たされた。
「明日は『トライ・アングル』の方々もいらっしゃいますし、午後には体験スクールもありますし……きっと今日より賑やかになるんでしょうね」
「うん……なんとも楽しみな限りだねぇ……またユーリがお騒がせしないといいのだけれども……」
「ああ、体験スクールでは、また写真やらサインやらをせがまれちゃうんでしょうね。でもまあ去年も切り抜けたんだから、今年も大丈夫っすよ」
「うん……きっと今年は、うり坊ちゃんも大人気だろうからねぇ……であれば、心強い限りなのです……」
ユーリの右腕がのばされて、瓜子のすぐそばにぽふっと置かれた。
瓜子は迷わず、その手をつかみ取る。ユーリの手は、子供のように温かかった。
「この手が、自分から何度もタップを奪ったんすね。お返しに、指関節を極めてもいいっすか?」
「あははぁ……MMAでは、反則になっちゃうよぉ……でも、どうぞうり坊ちゃんのお好きなように……」
いつも通りの、取り止めのない会話である。
そんな取り止めのなさこそが、瓜子たちの渇望していたものであったのだ。
合宿稽古やライブステージという非日常も、こんな何気ない日常も、ユーリとともに過ごせるのであれば幸福な限りである。
長きの別離であけられていた心の穴が、今ではユーリの温もりで満たされている心地であった。
そうして瓜子はユーリのやわらかい手を握ったまま、いつしか眠りに落ちており――合宿稽古の初日は、静かに終わりを迎えたのだった。




