03 ランチと稽古
およそ二時間の浜遊びを終えたならば、『七宝館』に戻ってランチである。
そちらの準備を整えてくれたのは、毎度お馴染み赤星大吾だ。そして、マリア選手の父親たるアギラ・アスールことリカルド氏もお手伝いに励むのが常であった。
献立は、やはりメキシコ料理のオンパレードとなる。稽古に備えて香りの強いスパイスは控えめにしているという話であったが、瓜子にとっては十分に刺激的だ。そして、赤星大吾のメキシコ料理をこよなく愛するユーリは、ずっとほくほく顔で旺盛な食欲を満たしていた。
七十名からの大所帯であるため、中庭は大変な賑わいになっている。初参加となる『あけぼの愛児園』の子供たちも心から楽しそうにしていたので、瓜子はほっとした。レクリエーションの時間で、赤星道場の幼き門下生たちともすっかり親睦が深まったようで何よりであった。
そんな中、新たな来訪者がやってくる。
それは、《アトミック・ガールズ》の元アトム級王者、雅に他ならなかった。
「これは聞きしにまさる賑わいやねぇ。誰も彼もお疲れさぁん」
彼女は、特別な形式で合宿稽古に参加するように取り決められていた。ひとりだけ別に宿を取り、稽古の時間だけ合流するという手はずであったのだ。どうやら彼女はユーリ以上に、団体行動を苦手にしているようであった。
「ようこそだわよ、雅ちゃん。赤星道場の面々に紹介するので、ご足労を願うだわよ」
「はいはい。まさか赤星の面々とおんなじ場所で汗をかくことになるなんて、世の中わからへんもんやねぇ」
本日も和柄のウェアを着込んだ雅は、白い蛇のように妖艶であった。瓜子にだけ流し目の視線を向けて、ユーリに見向きもしないというのも、相変わらずのたたずまいである。
「退院以来、ユーリさんの存在をスルーしたのは雅さんが初めてっすよね。あそこまで徹底してると、なんだか感心しちゃいます」
「うんうん。でも、雅殿のグラウンドテクニックはなかなかのスゴワザだものねぇ。稽古をつけていただけたら嬉しい限りだにゃあ」
ユーリはユーリで、他者からの冷淡な対応に動じることはない。それよりも、あけっぴろげな好意のほうが苦手であるというのは、なんとも因果な話であった。
そして、そんなユーリを困惑させる一団が、ランチのさなかに殺到してくる。キッズコースの門下生の保護者たちである。
「ユーリさん、瓜子さん、おひさしぶりです! ファン感覚で声をかけるのはつつしむべしって言われてましたけど、我慢の限界だったんで挨拶させていただきますね!」
一同を代表する形で元気な声をあげたのは、ちょっとひさびさになる岡山という女性だ。かつてユーリが《カノン A.G》に悪さを仕掛けられたとき、ブログやSNSなどで支援してくれたひとりである。瓜子は六月の《レッド・キング》の会場で挨拶をしていたが、もちろんユーリにとっては一年ぶりの再会であった。
「あ、どうも、おひさしぶりでございますぅ。その節は、大変お世話になりましたぁ」
「いえいえ、とんでもない! この前のライブも、動画配信でチェックしましたよ! あの映像って販売されたりはしないんですか? 配信だけで終わらせるなんて、もったいないですよー!」
彼女たちは、ファイターとしてよりもシンガーとしてのユーリに着目しているのだ。昨年はこの合宿稽古で、ともに『トライ・アングル』のサプライズライブを楽しんだ間柄であった。
「新曲のリリースも、楽しみにしています! そうしたら、また特典グッズとかも準備されるんですよね? 瓜子さんの写真や映像も楽しみですー!」
「あ、いえ……それはあの、刺身のツマみたいなもんなんで……」
《カノン A.G》の一件では大変お世話になったので、瓜子も無下に扱うことはできない。それでユーリと一緒に、存分にへどもどすることになってしまった。
「あ、あの、お子さんたちもお元気みたいですね。こちらの門下生も、どうぞよろしくお願いします」
「あの子たち、みんな可愛いししっかりしてますね! うちの子たちにも、見習わせたいぐらいです! それにやっぱり子供が多いと、賑やかでいいですよね!」
それは瓜子も同感であったので、素直に「はい」と応ずることができた。
すると、若き母親のひとりがうっとりとした眼差しで瓜子とユーリを見比べてくる。
「昨日、コンビニでお二人が表紙になってる雑誌を拝見しましたよ。さっきは本物の水着姿を拝見して、なんだか感動しちゃいました」
「うわ、ついに発売されちゃいましたか……お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしいことなんてないですよ! SNSでも、すごい評判ですもん! お二人って、本当にお似合いですよね!」
そんな言葉をぶつけられると、瓜子も返す言葉がなかった。
そうして数分ばかり瓜子の心をかき乱してから、保護者の一団は名残惜しそうに撤退していく。こらえていた溜息をつく瓜子のかたわらで、ユーリは何やら瞳を輝かせていた。
「やっと撮影の成果が発揮されたんだねぇ。このあたりに、コンビニってあるのかにゃあ。うり坊ちゃんとのペア画像は、コンプリートして永久保存しなきゃだもんねぇ」
「……撮影の成果は、『スターゲイト』に届けられるでしょう? 自分の目の届かない場所に保管してくれるんなら、どうぞお好きなように」
瓜子は苦笑して、痛みが生じないていどにユーリの髪を引っ張ってあげることにした。
そうして賑やかなランチが終了したならば、食休みをはさんでついに稽古の時間となる。
稽古の場所は、『七宝館』に併設された体育館だ。明日の午後には体験スクールと称して百名もの受講生を集める場であるため、七十余名の人数であればゆとりをもって使用することができた。
「それでは例年通り、午後の五時半までの四時間を午後の稽古とする。各自、くれぐれも怪我のないように」
赤星弥生子の指揮のもと、コーチ陣が配置される。まず女子選手の指導役にあてられたのは、赤星弥生子と柳原であった。
「今回も対戦の可能性がある相手とはスパーを控えたいという申し出を受けているが、誰がそれに該当するのだろう?」
「それが、いまだに不確定なんですよ。どうも今回は、マッチメイクに難渋しているようでね」
柳原が、くだけ気味の丁寧な口調で赤星弥生子の疑問に答える。たしか両名は同世代であるはずであったが、道場主たる赤星弥生子に敬意を払っているのだろう。
「とりあえず対戦の可能性があるのは……アトム級は、うちの邑崎と小柴さん、そっちの大江山さんの三つ巴。フライ級は、御堂さんとマリアさん。あとストロー級は、灰原さんと武中さんがありえなくもないって話だったけど――」
「でも、あたしとキヨっぺはもう二回も対戦してるからね! そう簡単に三試合目は組まれないと思うから、気にしなくていいよー!」
「わ、わたしもその……次回の興行で羽田さんと当たる可能性は低いのではないかと……鞠山さんにそう言っていただけたのですが……」
魅々香選手が可愛らしい声でおずおずと発言すると、柳原は「そ、そうか」といくぶん言葉を詰まらせる。柳原は、まだ魅々香選手を異性として意識してしまっているようである。
「確かに、マリアと御堂さんが対戦する可能性は低いように思えるな。マリアが王座に挑戦するのは時期尚早だろうし……かといって、ノンタイトルマッチを組まれるほど低い評価ではないはずだ」
赤星弥生子がそのように述べたてると、マリア選手は「えへへ」と嬉しそうに笑った。確かに運営陣としては、マリア選手に挑戦者としての実績を積んでもらいたいと考えている時期であろう。
「となると、対戦の可能性がありえるのはアトム級の三名だけか」
「ええ。ただ、邑崎と小柴さんは今でもプレスマンで一緒に稽古してるんですよね。だからまあ、そっちの大江山さんだけを弾くのは不公平な気もしますけど……」
「しかしすみれは、こういった場で半分がたの技術を隠している。それで対戦の可能性がある相手とスパーを重ねるのは、自分だけ手の内を隠す結果になるだろう」
赤星弥生子の厳粛なる言葉に、大江山すみれ本人が「はい」と応じた。
「わたしがお二人とのスパーを避ければいいんですね? わたしは、それでかまいません」
「うん。それじゃあ、そういう形で進めていこう。あと、九月に試合が決定している人はどれぐらいいるのかな?」
「こっちは桃園さんと猪狩だけで、仮押さえの話があったのが邑崎、小笠原さん、小柴さん、灰原さん、高橋さんの五人ですね。ただし、猪狩はキック・ルールのエキシビションです」
「ああ……猪狩さんとメイさんは、《アクセル・ジャパン》に出場するんだったね」
と、赤星弥生子がいくぶん鋭さをやわらげた目で瓜子を見やってくる。それが発表された翌日、瓜子は彼女に連絡を入れていたのだ。その際に、彼女はとても心のこもった声で『おめでとう』と言ってくれたのだった。
「それなら二人は、十月の試合に照準を定めるべきだろう。こちらで試合が決まっているのは、ナナだけだ」
「ああ、そっちは《フィスト》でしたっけ。そういえば、《レッド・キング》の興行はまだ決まらないんですか?」
「《レッド・キング》も十月に決定したけれど、まだマッチメイクは決まっていないので考慮の必要はない。猪狩さんとメイさんと桃園さんは、試合に向けてどのような対策をしているのかな?」
「相手はだいたいオールラウンダーなんで、そこまで特別な対策はしてないですね。特に猪狩とメイさんは、対戦相手の情報が少ないんですよ。韓国やシンガポールのトップファイターなんだけど、日本で試合映像を手にするのが難儀なもんで」
「では、この時間は皆と同じように稽古を積んでいただこう。何か具体的な案があったら、それは夜の稽古に持ち越すということで」
初日の本日は、夜にもたっぷり稽古の時間が取られているのである。瓜子としては、胸が高鳴るばかりであった。
「では、各自ウォームアップを。その間に、こちらで稽古の段取りをつけておく」
ということで、ようやく稽古が開始された。
過半数は出稽古でお馴染みの相手となるが、赤星道場の面々――マリア選手、大江山すみれ、青田ナナと手を合わせるのは一年ぶりだ。あとは、鞠山選手と武中選手がゴールデンウイーク以来であった。
ユーリは喜びを隠しきれない様子で、ストレッチに励んでいる。長袖のラッシュガードとロングスパッツに包まれた肢体から、色香と一緒に気合がほとばしっているようだ。そして、赤星道場の三名は、最初からずっとユーリのほうをちらちらうかがっていた。
(赤星道場の女子メンバーはみんなお見舞いに来てくれたけど、退院後に稽古をご一緒するのは初めてだもんな)
なおかつユーリが調子を上げているという事実は、瓜子から赤星弥生子に伝えられている。それで他なる面々も、ユーリに着目しているのだろう。その期待を裏切らないぐらい、ユーリは成長ないし変貌しているはずであった。
「じゃ、アタシとオリビアはいったん外れさせていただくね」
と、ウォームアップを終えたところで、小笠原選手とオリビア選手が離脱した。本年も、一部の女子選手はキッズクラスの面倒を見る役目を負っていたのだ。来栖舞と雅、リューク氏やビビアナなども、現在は各セクションの見学に連れ出されていた。
あとは蝉川日和や二階堂ルミがキック部門であるため、残るメンバーは十六名となる。瓜子、ユーリ、サキ、愛音、メイ、マリア選手、大江山すみれ、青田ナナ、鞠山選手、灰原選手、多賀崎選手、小柴選手、高橋選手、魅々香選手、武中選手、鬼沢選手――と、実に錚々たる顔ぶれであった。
「それでは、ウェイトなどを考慮して半数ずつに分かれていただく。猪狩さん、桃園さん、メイさん、多賀崎さん、武中さん、鬼沢さん、すみれ、ナナの八名は、こちらに」
「えー! それじゃあ、ウェイトもバラバラじゃん!」
灰原選手が不満の声をあげると、赤星弥生子は悠揚せまらずそちらを振り返った。
「ウェイトの似通った相手とばかりやりあっていたら、合同稽古の甲斐はないだろう。小さな選手は大きな選手のパワーを攻略し、大きな選手は小さな選手のスピードを攻略することに、大きな意義が生まれるはずだ」
「そうそう。猪狩や多賀崎さんと別の組になったからって、いちいち文句をつけないでくれよ。稽古は遊びじゃないんだからさ」
柳原も気安く言葉を重ねると、灰原選手は「ちぇーっ!」と盛大にすねてしまった。
そちらの世話は柳原におまかせして、瓜子たちは赤星弥生子のもとに集結する。
「武中さんと鬼沢さんは初参加となるので、実力やスタイルの確認という意味もあって私の組になっていただいた。まずは総当たりで立ち技スパーのサーキットに取り組んでいただきたい」
「ふーん。あんたは参加せんの?」
「私は、夜間の自由稽古で参加する。午後の稽古では、指南役だ」
「そらあ夜が楽しみなことばい」
鬼沢選手は厳つい顔で、ふてぶてしく笑う。いっぽう武中選手は、子供のように頬を火照らせていた。やはり誰もがさまざまな形で、赤星弥生子の存在に着目しているのだ。
そうして、三分七ラウンドのサーキットが開始された。
ヘッドガードとレガースパッドとニーパッドを装着し、オープンフィンガーグローブは重めの8オンスだ。このたびは組み技もOKで、テイクダウンに至ったらスタンド状態で再開というルールに定められた。
「それでは、始め」
瓜子の最初の相手は、武中選手である。
彼女とのスパーは、ゴールデンウイーク以来だ。いざスパーが開始されると、武中選手のそう大きくない身体に気合がみなぎった。
彼女はスパーでも、わりあい熱の入るタイプである。インファイターの特性も相まって、けっこう強引に仕掛けてくる相手であった。
(いい意味で攻撃が荒いから、こっちもいい稽古になるんだよな)
それに彼女は、組み技があるかどうかで厄介さが大きく変わる。組み技なしのスパーであれば、瓜子も楽にいなすことができるのであるが――組み技があると、とたんに厄介さが跳ねあがるのだ。彼女は順調に、オールラウンダーとしての道を歩んでいるようであった。
ただそれでも、まだまだ瓜子の敵ではない。
サキやメイや愛音など、瓜子は毎日それだけのストライカーとスパーを積んでいるのである。さらに、厄介さであれば灰原選手のほうが上であったし、小柴選手でも彼女に後れを取ることはなかった。
しかし彼女も、成長の匂いをぷんぷん漂わせている。
それに彼女のジムには女子選手が少ないという話であったので、やはり大柄な相手のほうが手馴れているのだろう。ユーリや多賀崎選手や鬼沢選手などは、けっこう彼女に手を焼いていたのだった。
(試合でも、あたしやメイさんぐらいの小さな相手は珍しいだろうからな。それがこっちのアドバンテージになってるわけだ)
瓜子がその気になれば、足を使って翻弄することも可能である。
しかしそれでは、おたがいの身にならない。アウトファイトのお相手は他に充実しているのだから、瓜子はいつもインファイトで向かい撃っていた。
中間距離を保ちながら、相手の組み技に用心しつつ、打撃を交換する。
そして、瓜子自身も組み技を狙うのだ。彼女は組み技のディフェンスも巧みであるため、そこまで含めれば十分に手ごわいスパーリングパートナーであった。
そうして危険な位置でやりあっていると、瓜子の集中はどんどん研ぎ澄まされていく。
そこで瓜子がレバーブローを撃ち込むとクリーンヒットして、武中選手が後ずさった。
瓜子がさらに間合いを詰めると、武中選手は大振りの右フックを振ってくる。これは、彼女の悪い癖であった。
瓜子はダッキングでその一撃をかわし、ボディブローのフェイントを入れてから右フックをお返しする。それもクリーンヒットして、武中選手はぺたんと尻もちをついた。
「五月のスパーでも、同じ展開がありましたよね。下がるときに大振りのフックは危ないと思います」
「押忍! ありがとうございます!」
武中選手はすぐさま立ち上がり、ファイティングポーズを取る。
彼女は誰にでも助言を求める人柄であるため、瓜子もなるべく言葉を届けるようにしているのだ。そうでなければ、年齢もキャリアも上回っている相手に偉そうな口を叩けるものではなかった。
そうして三分が経過したならば、すぐさま対戦相手が入れ替えられる。
次の相手は、青田ナナであった。
「よろしくお願いします」と瓜子が手をのばすと、青田ナナは目だけで礼をしながら申し訳ていどにグローブをタッチさせてくる。
そして、スパーが開始されるなり、青田ナナは物凄い勢いで拳を振るってきた。
(うわ、いきなり本気モードだな)
昨年の彼女は、もっと落ち着いていた。瓜子に対する反感を引っ込めて、ごく尋常にスパーに取り組んでくれたのだ。
しかし、本年の彼女は凄まじい気迫であった。顔はまったくの無表情だが、その目には試合のような眼光が宿されている。ごく純然とした、闘争心の炎であった。
(まあ……この人も、弥生子さんを追いかけてる一人なんだもんな)
そして瓜子は大晦日の試合で、赤星弥生子と引き分けた身である。さらには、赤星弥生子を長期欠場に追い込んだ身であったのだ。
もちろん彼女は、そんな話で反感を抱いているわけではないのだろう。
ただ、赤星弥生子と引き分けた瓜子の実力というのは、どれほどのものか――と、あらためて闘志を燃やすことになってしまったのだ。
(スパーでこんな本気の塊をぶつけられるのは、犬飼さん以来だな)
青田ナナの猛烈な打撃をかわしながら、瓜子の集中はますます研ぎ澄まされていく。
試合と同じだけの闘志をぶつけられたら、こちらも試合と変わらぬ集中を余儀なくされるのが道理であろう。自分の中で、自然にギアが上げられたような心地であった。
その集中の恩恵で、青田ナナの攻撃がよく見える。
彼女の平常体重は七十キロ近いのだろうから、凄まじい迫力だ。小笠原選手や高橋選手、鬼沢選手などにも負けない迫力である。
それに青田ナナは、それらのメンバーの中でもっとも均整が取れていた。
ウェイトに見合った重々しさに、鋭さと的確さが備わっている。いかにもMMAのために磨き抜かれた動きであり、そういう部分は高橋選手に近いタイプであろう。ただ異なるのは、攻撃の合間にテイクダウンのフェイントを混ぜる巧みさであった。
瓜子の知る三名はいずれもストライカーであり、青田ナナはオールラウンダーであるのだ。そういう意味では、打撃と組み技を得意にする多賀崎選手に近いかもしれない。そしてそこに、より洗練された技術とパワーが感じられるのだ。
そんな難敵を前にして、瓜子の集中はぐんぐん高まっていく。
青田ナナの右フックをダッキングでかわした瓜子は、身を屈めたままボディストレートを射出した。
これはかわしようのないタイミングであったため、瓜子の拳は青田ナナの腹のど真ん中に突き刺さる。
しかし、重めのグローブであるために威力は半減だ。
それを見越して、瓜子はインサイドにステップを踏んだ。
これまで瓜子がいた場所に、青田ナナの左膝が振り上げられる。
瓜子がその浮いた左足に手をのばすと、青田ナナは瓜子の肩を突っ張ろうとした。的確なテイクダウンディフェンスだ。
そこまで見越していた瓜子は、左でショートアッパーを狙う。
両手を瓜子の肩にあてようとしていた青田ナナは、間一髪のタイミングでスウェーバックした。
そして、瓜子の肩を突き放すのではなく、首裏に手を回そうとする。首相撲に持ち込もうとしているのだ。
そこまでは見越せなかったため、瓜子は首を拘束される前に足を踏み込み、相手の胴体につかみかかる。
そのまま足を掛けようとしたが、さすがにディフェンスが固くて逃げられてしまう。しかし首相撲からは脱せたので、深追いをせずインサイドに回りながら相手から遠ざかった。
そこに、右ストレートが飛ばされてくる。
離れ際を狙った、いい攻撃だ。
瓜子もまた紙一重のタイミングでそれを回避して――左のボディフックを繰り出した。
身長差があるため、顔ではなくボディを狙ったのだ。狙い違わず、瓜子の拳はレバーを撃ち抜くことができた。
さすがの青田ナナも嫌がって、自ら後ずさる。
瓜子がさらに追いかけても、さきほどの武中選手のように荒い攻撃を飛ばしてこようとはしなかった。
そして――赤星弥生子の「待て」という声が響きわたる。
「ナナ、猪狩さん。少しだけ、ギアを落とすように。三分七ラウンドのスパーとしては、ちょっと熱を入れすぎだ」
瓜子は「押忍」、青田ナナは「はい」と返事を返す。
そうしてあらためて向かい合うと、青田ナナはどこかすねているような顔になっていた。
(まあ、あたしも同じ気持ちだけど……この際は、弥生子さんが正しいですよ)
試合と変わらないぐらい熱くなっていた瓜子は、途中で水をかけられたような心地である。
しかし、そんなテンションで挑んでいたならば、数時間の稽古をやりとげることも難しくなってしまうだろう。ここはお行儀よく振る舞うしかなかった。
(でも……さっそく合同稽古の有意義さを実感できたな)
そんな思いでもって、瓜子は残りのスパーに取り組むことに相成ったのだった。




