10 帰還の祝い(下)
「みんな、お待たせー!」
と、灰原選手が元気いっぱいに登場したのは、打ち上げが開始されてから三十分ほどが経過したのちのことであった。
コーチ陣は帰宅したらしく、多賀崎選手だけが後に続いてくる。多賀崎選手も私服に着替えていたが、左腕は三角巾で吊られてしまっていた。
「多賀崎さん、大丈夫でしたかー?」
と、その怪我を負わせたマリア選手が立ち上がり、眉を下げつつ問いかける。多賀崎選手はいつも通りの穏やかな笑顔で「ああ」と応じた。
「あのスープレックスは、強烈だったからね。だけどまあ、全治二週間で済んだから、どうってことないさ。このお返しは、合宿稽古でさせてもらうよ」
「はい! どうぞよろしくお願いします!」
マリア選手も持ち前の朗らかさを復活させて、ぺこりとお辞儀をした。
そんなやりとりを見届けてから、灰原選手はずかずかと入室してくる。その向かう先は、鞠山選手のもとであり――そして、挨拶回りをしていた瓜子とユーリは、ちょうど鞠山選手と語らっているさなかであった。
「あはは! さすがにいい顔になってるねー! 顔だけ見たら、どっちが勝ったかわかんないんじゃない?」
灰原選手が陽気に言いたてると、鞠山選手は「やかましいだわよ」と素っ気なく応じた。鞠山選手は両方のまぶたが腫れあがり、左頬にはくっきりと青痣が残されていたのだ。他にもあちこち赤く打撃の痕が残されていたので、明日は風船のように顔全体が腫れあがってしまうものと思われた。
いっぽう灰原選手のほうは、綺麗なものである。灰原選手が深い痛撃を受けたのはカーフ・キックぐらいであったし、とどめも締め技であったため、外傷はほとんど残されていないのだ。小洒落たトップスとワイドパンツに包まれた豊満なる肢体も、生命力があふれかえっていた。
「今日は後れを取っちゃったけど、これで格付けが済んだと思わないでよー? 次にやったら、絶対あたしが勝ってみせるからねー!」
「ふん。次の試合が決まるまでは、何をどうほざいたってわたいのほうが格上なんだわよ。まあ試合の結果と関わりなく、人間としての格も最初から揺るぎないんだわよ」
「へーんだ! そんな車にひかれたカエルみたいな顔で言ったって、説得力はゼロだよーだ!」
灰原選手はけらけらと笑いながら座り込み、立派な腕で瓜子の肩を抱いてきた。
きっと遺恨を抱いてはいないと伝えるために、すぐさま鞠山選手のもとを訪れたのだろう。灰原選手というのは、そういう性分であるのだ。
そして多賀崎選手は、ユーリのかたわらに膝を折る。瓜子たちのほうを羨ましげに見やっていたユーリは、ふにゃんとした笑顔で多賀崎選手に向きなおった。
「多賀崎選手、お疲れさまですぅ。後にひくようなおケガでなかったのは、不幸中の幸いでありましたねぇ」
「ああ。せっかく桃園が復活したのに、二週間もお相手できないのは残念な限りだけどさ。その間は、灰原だけでもよろしく頼むよ」
「マコっちゃんも、二週間ずーっと寝てるわけじゃないっしょー? ケガに響かないていどに、稽古に顔を出してよねー!」
多賀崎選手も灰原選手も、相変わらずの様子である。
灰原選手の試合の直後は、どちらも常ならぬ姿を見せていたが――この数時間で、完全に復調したのだろう。瓜子はひそかに、安堵の息をつくことになった。
「灰原さんも多賀崎さんも、素晴らしい試合内容だったと思います。これからも、一緒に頑張っていきましょう」
と、同じ輪を囲んでいた小柴選手が、おずおずと発言する。小柴選手も青コーナー陣営であったため、試合の後に四ッ谷ライオットの両名と言葉を交わすのはこれが初めてであったのだ。灰原選手は瓜子の肩を抱いたまま、元気いっぱいに「うん!」と応じた。
「あたしは明日だけゆっくり休んで、すぐに稽古を再開させるからねー! あともうひと月もしない内に、赤星の合宿稽古だしさ! そろそろメンバーは確定したのかなー?」
「はい。武中さんと鬼沢さんは、参加が決定したそうです。昨年までのメンバーは、ほとんど確定で……保留中なのは、香田さんぐらいですね」
「あー。真央っちは、名古屋だもんねー! 猛牛センパイと一緒に参加しちゃえばいいのにさ!」
「あと、雅ちゃんにも声をかけてるだわよ」
「えーっ! 夏の合宿にも雅ねーさんが来ちゃうのー?」
「まだ声かけの段階なんだわよ。あんたの失礼なリアクションは、すぐさま報告させていただくだわよ」
「だ、誰もイヤだなんて言ってないでしょー? バカバカ! スマホをしまえってば!」
灰原選手ばかりでなく、鞠山選手のほうも通常運転である。それを見守っているユーリがとてもやわらかな眼差しであったため、瓜子はいっそう嬉しい心地であった。
「……失礼。夏の合宿のお話かな?」
と、凛々しい声が瓜子の頭上から降ってくる。それは好ましい相手ばかりが集ったこの場所において、ひときわ瓜子にとって好ましく思える相手であった。
「おー、ジュニアっち! あんたは相変わらず、打ち上げの場でもきりっとしてるねー!」
「……ついに私にも、愛称というものをつけてくださったのかな?」
灰原選手の奔放な振る舞いにも動じた顔を見せず、赤星弥生子はふわりと膝を折った。
「今回も鞠山さんが女子選手の代表とうかがったので、いちおうお伝えさせていただきます。人数の変更は一週間前まで受けつけられますので、とりあえずの人数は七月中にご報告ください」
「承知しただわよ。また道場のアドレスに送ればいいんだわよ?」
「はい。個人の端末よりもそちらのほうが確実ですし、他のコーチ陣とも共有しやすいので」
さんざん顔をあわせているのに、赤星弥生子と鞠山選手の会話というのはずいぶん物珍しいように思えてしまう。そして、どちらも独特の貫禄を有しているので、瓜子は何だか背筋がのびてしまった。
「……さきほどのマリアとのやりとりは、私のほうにも聞こえていた。多賀崎さんも予定通り参加してくれるのなら、歓迎します」
赤星弥生子が切れ長の目を向けると、多賀崎選手は「ええ」とゆったり微笑んだ。
「もちろんあたしも、参加させていただきますよ。試合中の怪我で、マリアを恨む理由はないでしょう?」
「うん。私も猪狩さんを恨んだりはしていないからね」
と、赤星弥生子は横目で優しい眼差しを瓜子のほうに向けてくる。
瓜子は温かな心地であったが、ユーリは「にゅー」と口をとがらせていた。
「それよりジュニアっちは、おでこが痛々しいよねー! もう試合からけっこう経ってるのに、まだそいつを外せないのー?」
遠慮という言葉を知らない灰原選手がまぜっかえすと、赤星弥生子は「ああ」と額に巻かれた包帯に指を触れた。
「傷口自体は十針ていどだけれど、ちょっと治癒しにくい状態であるため、こうして固定しておく必要があるんだ」
「治癒しにくいって? 蹴りで額を割られただけでしょー?」
「うん。ただ、蹴り足が額をこするような当たりであったのでね。真皮と筋膜の間にある皮下脂肪が大きく破けてしまったんだ。そちらがきちんと癒着するまで、圧迫固定の必要があるということだね」
「うわー! 聞いてるだけで、ぞくぞくしちゃった! 痛い話は、カンベンしてよー!」
「それは申し訳なかった」と、赤星弥生子は姿勢よく一礼する。
それで瓜子がついくすりと笑ってしまうと、今度は正面から切れ長の目で見つめられた。
「何か可笑しかったかな?」
「あ、すみません。弥生子さんの真面目な対応が、ちょっと微笑ましく思えちゃって……決して悪気はないんです」
「何もそんな、申し訳なさそうな顔をすることはないよ。猪狩さんの感性を刺激できたのなら、むしろ誇らしいぐらいだ」
そのように語る際も、やっぱり優しげな眼差しをする赤星弥生子である。
すると、ユーリが我慢を切らして「むにゃー!」と雄叫びをあげた。
「なにやらムショーに空腹感を刺激されるのです! ユーリはこちらの唐揚げさんをいただくのです!」
「あんたはいきなりナニを騒いでんのさー? うり坊を取られたくなかったら、また怪獣大決戦でも挑んでみたらー?」
「いえいえ! うり坊ちゃんと弥生子殿のすこやかなる交流を邪魔立てすることは許されないのです!」
ユーリは唐揚げの大皿を抱え込み、その中身をもしゃもしゃとむさぼり始めた。
赤星弥生子はゆったり笑って、しなやかに引き締まった身を起こす。
「では、私はひとまず失礼させていただく。桃園さん、食べすぎにはご注意を」
「はいっ! ごちゅーこくいたみいりますのです!」
ユーリはふくれっ面で、唐揚げを食べ続けた。
瓜子はちょっと心配になったので、灰原選手の腕をすりぬけてユーリのほうに膝を進める。
「ユーリさん、大丈夫っすか? 栄養補給は、バランスが大切なんでしょう?」
「ご心配なく! 事前にサラダを山盛りいただいておりますので!」
「それは自分も拝見してましたけど……もう、困ったなぁ」
ユーリが赤星弥生子に対抗心やら何やらを抱くのは珍しい話でもないが、このように子供じみた姿を人前でさらすのは珍しいことである。多賀崎選手や小柴選手は心配そうな面持ちであるし、灰原選手はにまにま笑っているし、すました顔をしているのは鞠山選手ただひとりであった。
「相変わらず、あんたたちは絶妙なトライアングルを描いてるだわね。察するに、ジュニアの忠実なる騎士がいない場では、その傾向が顕著なんだわよ」
「えー? それって六ちゃんのことー? やっぱ六ちゃんって、ジュニアっちとそーゆー関係なのかなー?」
「下世話な表現をするんじゃないだわよ。まったく美意識に欠けたウサ公だわね」
「だってうちらのメンバーって、男っ気が皆無だし! あの二人は、貴重なサンプルなんだよねー!」
そうして灰原選手がけらけら笑ったとき、新たな人影が近づいてきた。
長身の人影と、それを上回る巨大な人影――オリビア選手とエドゥアルド選手である。エドゥアルド選手はただ室内を移動するだけで、山が動いたような迫力であった。
「ちょっと失礼しますねー。ウリコとユーリ、お話をいいですかー?」
「はい。お二人そろって、どうされたんすか?」
エドゥアルド選手も先月の《レッド・キング》の打ち上げでご一緒しているので、瓜子も今さら気後れすることはない。まあ、以前の試合を含めてまだこれが三度目の対面であったため、なかなかその巨体に見慣れることはできないが、彼がどれだけ誠実かつ温厚な人柄であるかは初対面の頃から知れていた。
「エディは、ただ付き添ってもらっただけですー。……実はワタシも、プレスマンで稽古をつけていただきたいんですよねー」
「ふむだわよ」と反応したのは、鞠山選手であった。
「オリビアは長らくプレスマンに出入りしてなかったはずだわし、ここ最近はめっきりこっちのジムにも顔を出してなかったんだわよ。やっぱり今日の敗戦で、心境に変化があったんだわよ?」
「はいー。ワタシはなるべく玄武館の技術でMMAに挑みたかったし、対戦の可能性があるユーリやマコトとはそんなにしょっちゅう稽古をするべきじゃないのかなーって考えてたんですよねー」
オリビア選手は普段通りの和やかな面持ちであったが、その碧眼には真剣な光が宿されていた。
「でもワタシはこの一年、MMAで負け続けちゃいましたー。去年のウリコとの対戦で、何かつかみかけたような気持ちだったんですけど……今はそれも、手の中からするする逃げちゃったような感じなんですよねー」
「ええ。オリビア選手は、尋常でなく強かったっすよ。メイさんも、同じように言っていました」
「はいー。メイとの試合でも、ワタシはココロを満たされていましたー。ゴールデンウイークの合宿稽古も、すごく刺激的だったですー。……だからワタシは、もっと刺激を受けるべきだと考えましたー」
そう言って、オリビア選手は深々と頭を下げてきた。
「だから、お願いしますー。プレスマン道場で、ワタシを鍛えなおしてくれませんかー?」
「それはもちろん、大歓迎ですけど……そういう話は、ジョン先生たちにするべきじゃないっすか?」
「はいー。でもワタシは、まずユーリとウリコにお願いしたいんですー。二人はあのヤヨイコにも負けないぐらい強いですからー」
頭を上げたオリビア選手は、かたわらのエドゥアルド選手に目をやった。
「エディはこの一年ちょっとで鍛えなおしましたけど、それでもヤヨイコにかないませんでしたー。それであらためて、ユーリとウリコの強さを思い知らされたんですー。あのヤヨイコに負けなかったなんて、二人は本当にモンスターですよー」
「あはは! 今さらの話だねー! あたしだって、もちろんうり坊たちのおかげで強くなれたと思ってるよー!」
と、灰原選手がふいに声を張り上げた。
「でもさ! うり坊たちがこんなに強いのも、きっとあたしたちのおかげなんだよ! オリビアだって、そのひとりなんだからね! オリビアともっといっぱい稽古をできたら、あたしだってありがたいさー!」
「ええ。自分もそう思います。自分は試合をするたびに、出稽古や合宿稽古のことを思い出しますからね。頼もしいコーチ陣のもとで、みなさんと一緒に稽古をつけてもらうことができたから、自分もユーリさんも成長できたんだと思いますよ」
「それじゃあ……ワタシもその中に入れていただけますかー?」
「やだなあ。オリビア選手も最初から、そのメンバーのひとりなんですってば」
「そーそー! そんな他人行儀なこと言われるほうが、ちょっとシンガイかなー!」
瓜子や灰原選手がそのように応じると、オリビア選手は強い光を浮かべた青い目に涙をにじませてしまった。
そして、多賀崎選手や小柴選手や――それに、ユーリも唐揚げを食べる手を止めて、オリビア選手に優しい眼差しを向けている。言うまでもなく、オリビア選手は最初からこの一団のメンバーであったのだった。
「ま、オリビアにとっては出稽古を控えることもそれを再開させることも、どっちも一大決心だったわけだわね。人はそうやってもがきながら、強くなっていくんだわよ」
頭部にしこたまダメージをくらった鞠山選手はノンアルコールの炭酸水をすすりながら、ずんぐりとした肩をすくめた。
「プレスマンを頼るならわたいは無関係だわけど、合宿稽古では思うさま可愛がってやるだわよ。せいぜい励むことだわね」
「はいー。よろしくお願いしますー」
オリビア選手は涙をにじませたまま、にこやかに微笑んだ。
やはり人は、敗北から学ぶことも多いのだ。オリビア選手も灰原選手も多賀崎選手も、きっと明日からはこれまで以上の熱意で稽古に取り組むのだろうと思われた。
(あたしやユーリさんは、しばらく負けてないけど……でも、弥生子さんや宇留間選手との試合が、ひとつの分岐点になったんだろうからな)
そんな風に考えると、瓜子は全身がうずうずとしてしまった。
今すぐにでも、稽古をしたいような――いっそ、試合でもしたいような――そんな熱情が、腹の底からわきあがってきたのだ。
きっとオリビア選手たちの抱える熱情が、瓜子を感化したのだろう。それこそが、ともに稽古を積む最大の成果であるのかもしれなかった。
(明日だけはしっかり休んで、明後日からまた頑張ろう。……ユーリさんと一緒に)
そんな風に考えながら、瓜子はユーリのほうを振り返った。
ようやく唐揚げの大皿をテーブルに置いたユーリは、すぐに瓜子の視線に気づき――ほんの一瞬だけすねたような目つきを見せてから、すぐさま幸せそうな笑顔を返してくれたのだった。




