08 ガトリング・ラッシュとアイアン・ファイター
瓜子の陣営が控え室を出ると、廊下の途中で灰原選手の陣営と行きあった。
ブラックアウトする前からスタミナを使い果たしていた灰原選手は、セコンドのコーチに肩を貸されている。そして、頭からかぶったタオルによって、表情が隠されていた。
「灰原選手、お疲れ様でした」
瓜子がそのように呼びかけると、灰原選手はぐったりとうつむいたまま「うん!」と元気な声を張り上げた。
「最後の最後で、油断しちゃったよー! ま、次にやったら、絶対にリベンジしてみせるさ!」
いつも通りの、灰原選手の朗らかな声音である。
しかし灰原選手は深くうつむいて、決して顔を見せようとしなかった。
灰原選手は三月大会で瓜子に敗北したときも、子供のように泣いてしまっていたのだ。
瓜子は深く一礼して、灰原選手の力ない姿を見送ることにした。
そうして歩を進めていくと、廊下の先でサキが扉をくぐろうとしている。瓜子たちがもたもたしている間に、入場の時間となってしまったのだ。
「サキさん! 頑張ってください!」
「サキたん! 頑張ってねー!」
瓜子とユーリが同時に声を張り上げると、サキはうるさそうに左手を振ってから扉をくぐった。笑顔のジョンと苦笑顔の柳原、肉食ウサギの愛音がそれに続いていく。
瓜子の陣営は、立松とサイトーとユーリだ。扉の裏手に到着すると、立松はジョンが残していったキックミットを取り上げる。その姿を横目に、サイトーが「さて」と声をあげた。
「イノシシ様のご機嫌を保つために、誰かがサキの試合を覗き見するべきだろうな。ネエチャンは、どっちをお望みだい?」
「それはもちろん、サキたんの試合を拝見したいのは山々なのですけれども……ここは歯を食いしばって、うり坊ちゃんのウォームアップを見守りたく思うのです!」
「ウォームアップは、立松っつぁんだけで十分だろ。イノシシ様は、どう思うよ」
「押忍。どうぞ自分にはおかまいなく」
瓜子がそのように答えると、ユーリはぶんぶんと首を振り回した。
「いえいえ! ユーリはセコンドとしての本分を全うしたく思うのです! きっとサキたんも、長年の朋友たるダムダムさんに見守られたいとお考えでありましょう!」
「オレとあのクソ生意気な半分赤毛の間に、そんな微笑ましい関係なんざ存在するもんかよ」
サイトーは厳つい顔に苦笑を浮かべつつ、隙間を空けた扉にへばりついた。
その扉の管理を任されている若いスタッフは、ユーリの美貌にうっとりと見とれてしまっている。復帰の挨拶を完了させたユーリは、もちろん純白の素顔をさらしたままであった。
「サキの試合はいいから、気持ちを切り替えろよ? 今日は、タイトルマッチなんだからな」
立松は、気合の入った顔でミットを構える。瓜子は「押忍」と応じてから、そこに左フックを撃ち込ませていただいた。
灰原選手と鞠山選手の試合には心を揺さぶられてしまったが、それを悪い影響として残すことは許されない。瓜子はそのような思いでもって、最後のウォームアップに取り組んだ。
(あれだけのぼり調子だった多賀崎選手や灰原選手でも、この結果なんだ。油断してる余裕なんてないよ)
驚くべきことに、瓜子は二年と十ヶ月にも及ぶ無敗の記録を築いていた。瓜子が敗北したのはただ一度、デビューして二戦目でサキと対戦した折のみであったのだ。あとは、赤星弥生子を相手に引き分けの試合があったのみであった。
そして本日の挑戦者である亜藤選手は、まぎれもなく強敵であったが――ただし、メイや灰原選手には敗れている。それで瓜子はメイにも灰原選手にも連勝しているのだから、世間的には瓜子が圧倒的に有利だと目されているはずであった。
しかしそれでも、瓜子の心は油断と無縁である。亜藤選手は黄金世代の筆頭格であり、この階級で随一のレスラーであるのだ。かつてはイリア選手やラニ・アカカ選手にも勝利しており、サキとも激闘を繰り広げていた。それらの模様を中学生や高校生の時代からリアルタイムで追っていた瓜子に、油断などできるわけもなかった。
(亜藤選手に組みつかれたら、高い確率でテイクダウンを奪われる。それでグラウンドに持ち込まれたら、確実に塩漬けだ。あたしはそこまで組み技が強力な相手と対戦したことはないんだから、油断なんてできるわけがないよな)
しかしその反面、瓜子はさまざまな強豪選手に稽古をつけられている。ユーリや多賀崎選手や鞠山選手であれば、それぞれ亜藤選手を凌駕する組み技や寝技の技術を備えているはずだ。それらの過酷な稽古の記憶が、瓜子に油断ではなく自信を与えてくれていた。
(絶対に組みつかせないで、打撃で倒す。あたしが勝つには、それしかない)
瓜子がそのように考えて、右ミドルをミットに叩きつけたとき――扉の向こうから、歓声が爆発した。
「やれやれ。あっさり終わっちまったよ。心配する甲斐のねえ野郎だな」
扉から身を離したサイトーが、にやにや笑いながら分厚い肩をすくめる。瓜子の挙動をじっと見守っていたユーリは、はちきれそうな肢体をうずうずと揺すった。
「ではでは、サキたんが勝利したのでありますね? ユーリは察しが悪いので、できれば明確に言語化していただきたいのです!」
「さて、どうだかな。あいつが戻ってきたら、そのツラで判断すりゃいいさ」
「にゅわー! ダムダムさんは、焦らし上手なのですぅ!」
ユーリはひとりで惑乱しているが、瓜子がサキの勝利を疑うことはなかった。対戦相手の濱田選手は強敵であったが、サキがこのような短時間で敗北する図はどうしても想像できなかったのだ。
しばらくすると、汗ひとつかいていないサキが悠然と戻ってきた。ジョンはもちろん柳原も表情がゆるんでおり、愛音も気迫を消している。サキはポーカーフェイスであるために、セコンド陣の表情が勝負の結果を物語っていた。
「さ、前座は終わったぜ。さっさと帰りてーから、おめーも秒殺で仕留めてこいや」
「あはは。乱暴な激励っすね」
瓜子が右拳を差し出すと、サキは平手で引っぱたいてきた。
「じゃーな。肉牛コールは控え室で見物させてもらうわ」
「にゅわー! そんなコールは起きないし、そもそもユーリはお牛さんではないのです!」
そんな風にわめいてから、ユーリはおずおずと瓜子に向きなおってくる。
ウォームアップを完了させた瓜子は、心のままに笑顔を返してみせた。
「ユーリさんに注目が集められても、試合内容で挽回しますからご心配なく。なんなら、自分もユーリさんの名前をコールしてあげましょうか?」
「むにゃあ。意地悪なお言葉はともかくとして、うり坊ちゃんの凛々しきお顔にお胸を揺さぶられてしまうのです」
「まったく、呑気な娘どもだな」と、立松はキックミットを床に下ろした。
ユーリは大慌てで、備品の詰め込まれたボックス型のバッグを担ぎあげる。この場においてはサイトーのほうがMMAの素人であったが、名目上はユーリが雑用係であるのだ。そしてサイトーが荷物係を引き受けようとしても、ユーリは頑として譲らなかったのだった。
しばらくして、瓜子の名前がリングアナウンサーにコールされる。
それで瓜子が花道に足を踏み出すと、これまで以上の熱気と歓声が五体を包み込んできた。
瓜子の名を呼ぶ声に、ユーリの名を呼ぶ声も入り混じっている。その比率は――およそ半々だ。瓜子としては、むしろ嬉しいぐらいの結果であった。
ボディチェック係の前に到着したならば、ウェアとシューズを脱ぎ捨てる。
ユーリはあたふたとそれをバッグに仕舞い込みながら、瓜子にふわりと微笑みかけてきた。
大歓声のおかげで、言葉を交わすことはできなかったが――そのふくよかな唇は、「がんばってね」という形に動いていた。
瓜子は笑顔を返しながら、右の拳を捧げてみせる。
ユーリは同じ笑顔のまま、自分の拳をグローブにぎゅっと押しつけてきた。
さらにサイトーや立松とも同じ行為を交わし、マウスピースを口に含んだならば、ボディチェック係に向きなおる。ボディチェック係の男性はユーリに目を奪われないように、懸命に職務に励んでいる様子であった。
そうしてケージに上がったならば、コミッショナーによるタイトルマッチ宣言と、国歌清聴だ。
二年前に戴冠して以来、これが四度目の防衛戦であろう。意外に数が少ないのは、間に《カノン A.G》の騒乱をはさんでいるためである。そもそも瓜子が最初に戴冠したのは暫定王座であり、それはすぐさま《カノン A.G》の運営陣に没収されて、あらためて新たなタイトルの決定戦に挑まされることになったのだ。
なおかつ当時は数多くのトップファイターが長期欠場に追い込まれていたため、防衛戦に相応しい相手を見つくろうことも難しかった。その期間、瓜子はマリア選手やオリビア選手など、上の階級の選手に挑むことになったのだ。その合間に行った防衛戦は、外様たるラウラ選手との一戦のみであった。
さらにその後は、鞠山選手と灰原選手を挑戦者として迎え――これが、四度目の防衛戦となる。相手はそれらの三名よりも古きの時代からトップファイターとして君臨していた亜藤選手であるので、不足どころの話ではなかった。
『それでは、第十試合、メインイベント、ストロー級タイトルマッチ、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
国歌清聴を終えて、観客たちを着席させたのち、リングアナウンサーがそのように宣言した。
いったん歓声がやんだのちは、ユーリの名がコールされることもない。フェンスの向こうに控えたユーリも、さぞかしほっとしていることだろう。瓜子としても、ユーリの心情を思って安らいだ心地であった。
『青コーナー。百五十五センチ。五十一・九キログラム。ガイアMMA所属……亜藤、要!』
亜藤選手はふてぶてしい面持ちで、両腕を振り上げた。
『赤コーナー。百五十二センチ。五十一・八キログラム。新宿プレスマン道場所属……《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』
瓜子は対戦相手の姿を見据えたまま、右腕を上げてみせた。
たちまち、瓜子の名がコールされる。その際も、ユーリの名がコールされることはなかった。
(それだけ今は、あたしに関心が向いてるってことか)
そんな想念を最後に、瓜子はようやく頭を切り替えた。
ユーリの本当の復帰は、復帰試合の当日であるのだ。今はまだ、瓜子がユーリの留守を預かっている身であったのだった。
瓜子は静かな気迫を胸に、レフェリーのもとで亜藤選手と相対する。
亜藤選手も背丈はあまり高くないため、そのぶん肉体の分厚さが際立っていた。細身の瓜子よりも、ひとまわり大きく感じられるぐらいだ。そしてそれは明らかに、組み技に重きを置いてきた人間の体格であった。
首も腰もがっしりしていて、横幅が広く、厚みにも不足していない。この頑強なる肉体が、恐ろしいほどの打たれ強さを生み出すのだ。それは昨年の、灰原選手との一戦でも証明されていた。
(灰原選手はパワーがあるし、メイさんはスピードで圧倒したけど、あたしにそこまでの腕力や瞬発力はない。きちんと動いて、的確に攻撃を当てるんだ)
亜藤選手と向かい合っているだけで、どんどん心が研ぎ澄まされてくる。
今年になって、後藤田選手や灰原選手と相対したときと、同じ感覚である。もっとも威圧感を覚えたのは灰原選手であったが、亜藤選手からはそれとも似て異なる圧力が感じられた。
「では両者、クリーンなファイトを心がけて!」
大歓声に負けないように、レフェリーが声を張り上げる。
瓜子が右拳を差し出すと、あちらも右拳で力強くタッチしてきた。そこから感じられる腕力が、また瓜子の心を引き締めてくれた。
「うり坊ちゃん、頑張ってねー!」
フェンス際に戻ると、ユーリの声が飛ばされてきた。ユーリの声は周波数が高い上に、人並み外れた声量も復活したのだ。それを喜ばしく思いながら、瓜子はサムズアップで応えてみせた。
『ラウンドワン!』のアナウンスとともに、ブザーが鳴らされる。
瓜子が慎重に足を踏み出すと、あちらもじりじりと近づいてきた。
自信と気迫がみなぎっているが、決して昂りすぎてはいない。ベテランファイターとしての経験と、もともと持っている不敵な性格の表れであろう。
そして――その肉厚の身体が、さきほどよりも大きく感じられた。
彼女の気迫が、肉体そのものを膨張させたかのようだ。それがまた、瓜子を限りなく集中させてくれた。
やはり、これまでの選手とは毛色の異なる圧力である。
もっとも近いのは、鞠山選手であったかもしれないが――それでもやっぱり、同一ではない。そもそも鞠山選手はもっとぴょこぴょこ動くため、これほどの重みを感じることはなかった。
(これは、レスラー特有の圧力なのかな)
彼女がもっとも自信を持っているのは、組み技だ。寝技においてはポジションキープの技量に長けているが、サブミッションに関してはユーリや鞠山選手のレベルではなかった。
しかしそれでも、彼女は世界級の実力を持つ柔術の選手とグラップリング・マッチを行っても、見事に勝利を収めることができた。組み技とポジションキープの能力に限って言えば、彼女もまぎれもなく世界級の実力であるのだ。
そして彼女は、異常なまでに打たれ強い。どんな攻撃でも受け止めて、組み技に持ち込んでやろうという気迫がみなぎっている。
そんな気迫に呼応して、瓜子の心はどんどん鋭く研ぎすまされていった。
これこそが、赤星弥生子との一戦以来、瓜子の身に訪れた変化である。
以前は相手の身に触れる前から、これほど心が研がれることはなかった。窮地の状態で訪れるあの不可思議な感覚とは、まったく異なる感覚である。相手の気迫が、目に見えるような――なんとも言葉にし難い感覚であった。
(先に当てて、ペースをつかむ)
瓜子はアウトサイドにステップを踏みながら、さらに接近した。
亜藤選手はサウスポーの構えで、正対してくる。彼女は右利きであったが、レスリングの基本スタイルとして利き腕を前にすることが多かった。
瓜子はステップの途中でスイッチをして、おたがいの間合いに深く踏み込む。
そして、右ジャブを打つと見せかけて、左ローを叩き込んでみせた。
組み技を得意にする相手に、うかうかと蹴り技を使うのは危険な話である。遠い距離から蹴りを出して牽制するのは有効であるが、近距離では組みつかれる危険が生じるためだ。
よって、パンチの当たる距離でローを出してくるとは、相手も予想していなかったのだろう。
なおかつ、亜藤選手は頑丈な肉体で相手の攻撃を受け止めて組み技に持ち込むのが基本スタイルであるため、ディフェンス能力は並であるのだ。
そんな間隙を突くために、瓜子はおもいきり左ローを叩き込んだ。
奥足による重い蹴りであり、なおかつふくらはぎの下部を狙ったカーフ・キックである。亜藤選手に近づくのは危険なことであるため、瓜子は一発ずつの攻撃に最大限の効果を求める心づもりであった。
亜藤選手もサウスポーの構えであるため、右足の外側にカーフ・キックが炸裂する。
不敵な表情を浮かべている亜藤選手が、瓜子の目の前でぴくりと眉を震わせた。
そうして瓜子が身を引くと、胸もとに相手の右手の先がかすめていく。
きっと瓜子の右ジャブを受け止めて、そのまま組みつくつもりであったのだろう。しかし想定外のカーフ・キックをくらって、挙動がひと呼吸遅れたものと思われた。
瓜子はそのままアウトサイドに回り込み、今度は間合いの外から牽制の右ジャブを放つ。
そうして相手が前進の気配を見せたならば、左ローのフェイントを入れてみせた。
亜藤選手は、すぐさま右足のかかとを浮かせる。
その隙に、瓜子は左のレバーブローを繰り出した。
亜藤選手は、右腕でレバーをガードする。
その右腕を殴りつけてから、瓜子は返しの左フックに繋げた。
亜藤選手のこめかみに、瓜子の左拳がクリーンヒットした。
その瞬間――瓜子の背筋に、ちりちりとした気配が生じる。
亜藤選手の気迫が、瓜子の身に触れてきたのだ。
その感覚に従って、瓜子はおもいきりバックステップを踏んだ。
その胸もとに、今度は亜藤選手の左手がかすめていく。
ローのフェイントで反応が遅れて、左フックをクリーンヒットされながら、亜藤選手はなおも攻撃の手をのばしてきたのだ。
(今のは、危なかった。もっと慎重にいかないと駄目だ)
瓜子がさらにアウトサイドに回り込もうとすると、亜藤選手がスイッチをしながら正対してきた。
それで瓜子の位置がインサイドになったため、荒っぽい左のショートフックを振ってくる。そのまま瓜子の身につかみかかろうという気配が濃厚な攻撃だ。
瓜子はそれをガードしながら、左膝を振り上げた。
亜藤選手の土手っ腹に、瓜子の膝が深くめりこむ。
亜藤選手はたまらず前屈みの体勢となったが――そのまま瓜子の左足を抱え込もうとしてきた。
打たれ強い亜藤選手であれば、十分に予測できた動きである。
それを予測していた瓜子は、眼下に存在する亜藤選手の右こめかみに肘打ちを叩きつけた。
さきほどの左フックをクリーンヒットさせたのと、同じ箇所である。
これが異なる箇所であったなら、亜藤選手はビクともしなかっただろう。ダメージを重ねられた亜藤選手はそれでもなお瓜子を組み伏せようと前進してきたが、両腕の拘束がゆるんでいたため、瓜子は難なく脱することができた。
瓜子がサイドに回り込むと、亜藤選手は前進の勢いを止められずにたたらを踏む。
その顔面を目掛けて、瓜子は左足を振り上げた。
足の甲が、亜藤選手の顔面に炸裂する。
前屈みであった亜藤選手は、それで大きくのけぞった。
その横っ面に、今度は右フックを叩き込む。
そして、その反動を利用して、瓜子はバックステップを踏んだ。
その胸もとを、亜藤選手の指先がかすめていく。
これだけの攻撃をくらってもなお、亜藤選手は攻撃の手を出せるのだ。
本当に、呆れ返るぐらいの打たれ強さであった。
(それなら――)
瓜子はオーソドックスにスイッチして、またアウトサイドにステップを踏んだ。
相手もオーソドックスであったため、序盤とは逆回りだ。
さしもの亜藤選手も、動きがいくぶん鈍くなっている。
その顔面目掛けて、瓜子は右足を踏み込みながら、右ストレートを繰り出した。空手流の、追い突きだ。
亜藤選手は、頭を屈めてその攻撃を回避する。
そしてそのまま、瓜子の両脇に腕をのばそうとした。
瓜子は右腕を引きながら、左膝を振り上げる。
可能な限り腰を回して、鋭角な角度で左膝を亜藤選手の右脇腹にめり込ませた。
無防備なレバーに、直撃である。
大歓声の向こう側から、亜藤選手のうめき声が聞こえた気がした。
それでも亜藤選手は倒れようとしないため、瓜子はその分厚い両肩に手を置いて、相手を突き放しつつバックステップを踏む。
亜藤選手はぐらりと倒れかかったが、それでもなお踏み止まり、再び前進の姿勢を見せた。
しかし、レバーへのダメージが深いため、腕は胸の高さに下がってしまっている。
瓜子は一歩だけ下がって間合いを調整したのち、右方向に横回転した。
そして、水平に構えた右肘を旋回させる。
バックハンドエルボーである。
瓜子の右肘は、狙いたがわず亜藤選手の右こめかみに突き刺さった。
左フックと肘打ちに続く、三度目のクリーンヒットである。
瓜子につかみかかろうとしていた亜藤選手は、両腕をのばしながらマットに突っ伏した。
瓜子は用心して、距離を取る。しかしレフェリーは、迷いなく両腕を交差させた。
『一ラウンド、一分三十三秒! バックハンドエルボーにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
前のめりに倒れ込んだ亜藤選手は、ぴくりとも動かない。
その姿を確認してから、瓜子はファイティングポーズを解いて大きく息をついた。
全身が、しとどに汗で濡れている。
なんと濃密な一分三十三秒であったことだろう。瓜子はフルラウンドを戦い抜いたような充足の思いであった。
(やっぱり黄金世代は、凄い。亜藤選手も、後藤田選手に負けないぐらい強かった。……どうもありがとうございました)
無意識の内に、瓜子は動かぬ亜藤選手に一礼していた。
そうして耳をつんざくような大歓声の中、自分のコーナーを振り返ると――フェンスにへばりついたユーリが、色の淡い瞳をきらきらと輝かせていた。その白い頬には、涙も伝っているようである。
数メートルの距離を置いて、瓜子はユーリに笑いかけてみせた。
そうすると、ユーリもいっそう幸せそうに笑ってくれたのだった。




