04 祝福
興行の前半戦が終了したならば、十五分間のインターバルをはさんで、ユーリの復帰の挨拶である。
それに備えて入場口の裏手に控えているのは、ユーリ当人と瓜子と愛音、そして千駄ヶ谷という布陣になる。千駄ヶ谷の要請で、瓜子たちもユーリに付き添うことになったのだ。
「猪狩さんはこれからタイトルマッチに臨むお立場であるのに、このような雑務をお願いしてしまって心より申し訳なく思っております」
「いえいえ。自分もちょっと心配な面はありましたから、ユーリさんにご一緒できるのはありがたいぐらいです。どうぞお気になさらないでください」
これがユーリともども水着で入場せよなどという話であったのなら瓜子も全力で抵抗していたところであるが、そのように無体な指示を送られることもなかった。瓜子たちは三名ともに、《アトミック・ガールズ》の公式ウェアである。そして愛音は万が一の事態に備えて、プロテインのドリンクボトルをホルダーで肩から下げていた。
ニット帽を外して髪を適当に整えたユーリは、のんびりとした面持ちで微笑んでいる。ユーリは客席からブーイングを飛ばされる覚悟を固めているのだが、そうとは思えない穏やかな表情だ。そんな表情にも、以前にはなかった透明感が宿されていた。
『それでは第六試合に先立ちまして、本日の特別イベントを開始させていただきます!』
リングアナウンサーがそのように宣言すると、会場がざわめいた。
期待感を煽るかのようにたっぷりと間を取ってから、リングアナウンサーはその言葉を口にする。
『赤コーナーより、ユーリ・ピーチ=ストーム選手の入場です!』
会場に、『トライ・アングル』のシングル曲である『burst open』が流されて――それがすぐさま、大歓声にかき消された。
ユーリはひとつ息をつき、瓜子と愛音にそれぞれ微笑みかけてから花道に足を踏み出す。
そちらには、開会セレモニーを大きく凌駕するほどの歓声と拍手と熱気が渦巻いていた。
その勢いに、さしものユーリも足を止めそうになってしまったが、すぐさま進軍を再開させる。そうしてユーリがいささかならず変貌した姿をさらすと、会場にはさらなる熱気がうねりをあげた。
ブーイングなどは、ひとつも聞こえてこない。
誰もが、ユーリの元気な姿に喜んでくれていた。
いや、そんな生易しい言葉では表現しきれないほどの熱狂である。それはこの十ヶ月ほどで鬱積されていたものが、一気に解き放たれたかのような様相であった。
ユーリは普段のように手を振ったりすることもなく、ただゆったりとした足取りで花道を踏み越えていく。
その白い横顔は、先刻までと変わらず穏やかなままであったが――ただその瞳には、いくぶん困惑の光がちらついているようであった。
(ユーリさんは、本気でブーイングをあびる覚悟だったんですね)
瓜子がそのように考えていると、ユーリがちらりと視線を向けてきた。
それで瓜子が笑顔を返すと、ユーリも困ったように口もとをほこらばせる。そしてその向こう側では、愛音が肉食ウサギの形相で涙をにじませていた。
ユーリはそのままよどみない足取りで、リングアナウンサーの待ち受けるケージの舞台に上がり込む。
瓜子と愛音がそれに続いても、客席にはまだ同じ勢いで歓声が渦巻いている。ユーリが四方に向かってお辞儀をしていくと、そのたびにまた歓声がうねりをあげてやまなかった。
『一年前の七月大会を最後に《アトミック・ガールズ》から離脱していたユーリ選手が、このたび復帰のご挨拶のために来場してくださいました!』
リングアナウンサーが懸命に声を張り上げると、また歓声が津波のように押し寄せてくる。
ケージを取り囲んだ報道陣は、ものすごい勢いでシャッターを切っていた。これで明朝のネットニュースには、ユーリの元気な姿があふれかえることだろう。それに備えて、千駄ヶ谷は一般人による盗撮をことのほか警戒していたのだ。
リングアナウンサーはしばし迷うような顔を見せたが、この熱狂がおさまることはないと判断を下したらしく、やがてにっこりと笑いながら、ユーリに向きなおった。
『それでは、ユーリ選手よりお言葉を頂戴いたします! ユーリ選手、まずは退院、おめでとうございます! すっかり元気になられたようで、わたしも心より安心いたしました!』
『はぁい。どうもありがとうございまぁす』
ユーリがそのように答えると、わずかばかりに押しひそめられた歓声が、また爆発する。
ユーリはしばしまぶたを閉ざしてその熱気にひたってから、さらに語った。
『まわりの人たちに助けられながら、ユーリもやっと退院することができましたぁ。長い間、なんのご挨拶もできないで、ほんとに申し訳ありませんでしたぁ。ユーリなんかをこんなに温かく迎えてくれて、どうもありがとうございまぁす』
ユーリが口を開くたびに、歓声は波のように引いては押し寄せる。瓜子は存分に心を揺らされていたが、その圧力で身体のほうまで揺らいでしまいそうであった。
『ユーリは入院中もリハビリと称してお稽古を積んでいたので、すっかり元気でぇす。早く試合にも復帰できるように頑張りますので、よかったらまたよろしくお願いしまぁす』
このたびの挨拶では《アクセル・ファイト》について触れる必要もないと、ユーリは千駄ヶ谷に厳命されていた。
きっとその判断は正しかったのだろう。あれはもう、八ヶ月ばかりも前の話であったし――人々はただ、ユーリの元気な姿を求めているだけであるのだ。誰もが血まみれのユーリの思い出ではなく、今のユーリの姿を心に映したいと思ってくれているはずであった。
そして、会場に満ちた声援は、やがてユーリの名を呼ぶ声に統一されていく。
『ミュゼ有明』の会場が、おそらくは二年以上ぶりに『ユーリ!』のコールで満たされた。
ユーリは再びまぶたを閉ざし、ゆっくりと天を仰ぐ。
その頬に涙が伝ったりはしなかったが、ユーリの気持ちに思いを馳せると、瓜子のほうが涙をこぼしてしまいそうであった。
『ユーリ選手は本日、猪狩選手のセコンドも務められるそうですね! この一年、猪狩選手はとてつもないご活躍を見せていたかと思われますが、ユーリ選手はどのようにお考えでしょうか?』
リングアナウンサーがそのように呼びかけると、ユーリはゆっくりと面をおろしながらまぶたを開いた。
その白い面には、雪の妖精めいた微笑がたたえられている。それを間近で見届けたリングアナウンサーは、慌てふためいてマイクを落としそうになってしまっていた。
『《アトミック・ガールズ》や《JUFリターンズ》の試合は、みんな病室で拝見しましたぁ。うり坊ちゃんがすごかったのはもちろんですけれど、他のみなさんもすごかったと思いますぅ』
『ほ、他のみなさんと仰いますと? やはり同門であるサキ選手や邑崎選手などでしょうか?』
『試合に出場していた、すべてのみなさんですぅ。みなさんのおかげで、ユーリはやっぱりMMAが大好きだっていう気持ちを噛みしめることができましたぁ』
そう言って、ユーリはぐるりと客席を見回した。
『ユーリは《アクセル・ファイト》で、MMAを台無しにするような試合を見せてしまいましたけど……もう二度と、あんな姿は見せません。これからも死ぬ気で頑張りますので……みなさんも一緒に楽しんでもらえたら、ユーリは幸せです』
それはおそらく、ユーリの本心からの言葉であった。
ファンの前ではアイドルの仮面をかぶってしまうユーリが、これだけの観客の前で素顔と本音をさらしてみせたのだ。ユーリの名を呼ぶ声が竜巻のように吹き荒れて、このままケージの舞台を浮き上がらせてしまいそうな勢いであった。
『ユーリ選手、ありがとうございました! わたしもユーリ選手の試合を心待ちにさせていただきます! それでは、ユーリ選手の退場です!』
瓜子はユーリを先導する形で、先にケージを下りた。
ユーリは常になくゆったりとした足取りでそれに続き、さらに愛音も追いかけてくる。愛音は当然のように、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまっていた。
花道を戻る間も、会場には歓声が吹き荒れている。
するとユーリはようやく自分の職務を思い出したかのように、笑顔で手を振った。さらにはくるりとターンを切って、投げキッスまで披露する。そうすると、会場にはまた新たな歓声と熱気が爆発したのだった。
「お疲れ様でした、ユーリ選手。復帰の最初のご挨拶としては、まったく不足のない内容であったかと思われます」
入場口の裏手にまで到着すると、千駄ヶ谷が冷徹なる面持ちで待ちかまえていた。
そして、その手のタブレットをカメラとして構えてくる。
「では、そちらにお並びください。ブログ用に、画像を撮影させていただきます」
「はいはぁい。ユーリはどんな表情とポーズをするべきでありましょう?」
そんな風に答えるユーリも、普段通りの無邪気さだ。
入場口の扉は閉められたが、大歓声が壁を震わせている。そちらとは別世界のように、ユーリも千駄ヶ谷も落ち着いていた。
「みなさん、自然体でかまわないでしょう。この際は、作為的な演出も逆効果かと思われますので」
「りょうかいでぇす。……ムラサキちゃん、だいじょうぶ?」
「らいじょうぶなのれす! どうぞ愛音にはおかまいなく!」
そうしてユーリは瓜子と泣きじゃくる愛音とともに、タブレットで撮影されることに相成った。
「はい、オッケーです。……最後の最後で《アクセル・ファイト》の名を出してしまいましたが、まあ問題はないでしょう。《アトミック・ガールズ》におけるユーリ選手の人気には一切の衰えもないようで、私も胸を撫でおろしました」
「あ、どうも申し訳ありませぇん。最後はココロのままにしゃべっちゃいましたぁ」
「問題ありません。それもまた、きっと必要なことであったのでしょう」
千駄ヶ谷はブリーフケースにタブレットを仕舞い込み、一礼した。
「では、私はいったん失礼いたします。興行の終了までは会場のどこかに控えておりますので、何かありましたらいつでもご連絡をお願いいたします」
「はぁい。どうもお疲れさまでしたぁ」
そうしてユーリは千駄ヶ谷の背中にひらひらと手を振ると、穏やかな笑顔で愛音を振り返った。
「ムラサキちゃんも、お疲れさまぁ。……そちらのドリンクボトルをいただけますかしらん?」
愛音はひっくひっくとしゃくりあげながら、肩に掛けていたドリンクボトルを差し出した。
ユーリはボトルを傾けて、くぴくぴとプロテインを摂取していく。そうしてそのままひと息に飲み干してしまったため、瓜子もようやく我に返ることになった。
「だ、大丈夫ですか、ユーリさん? やっぱり平常心ではいられませんよね」
「うん。まさかこんなに温かく迎えてもらえるなんて、夢にも思ってなかったからねぇ」
そう言って、ユーリはにこりと微笑んだ。
あどけない、透き通るような笑顔である。瓜子が思わず息を呑むほど、その笑顔は魅力的であった。
「ユーリは、幸せいっぱいだよぉ。おかげさまで、おなかが空いてしまったのです」
「……プロテインも非常食も、どっさり準備してますからね。思うぞんぶん、幸せ気分を堪能してください」
「ありがとぉ」と、ユーリは目を細める。
すると、ひと筋だけ涙がこぼれ落ちた。
きっと涙の量だけが、心の動きを示すわけではないのだろう。その証拠に、涙をこぼしていない瓜子も尋常でなく情動を揺さぶられているさなかであった。
千六百名からの人々が、あれだけの勢いでユーリの復帰を祝福してくれたのだ。それがたとえ見ず知らずの相手ばかりであったとしても――いや、そうであるからこそ、よくよく見知っている人々とはまた別種の感慨が生まれてやまなかったのだった。
「……こんなに大勢の人たちが喜んでくれたんですから、自分までプレ撮影会に参加する必要はないと思いません?」
瓜子がおどけた調子でそのように言いたてると、ユーリはひと筋の涙をぬぐいながら「にゃはは」と笑った。
「うり坊ちゃんは、往生際が悪いのう。どのようにあがいても、千さんの決断は何者にもくつがえせまいよ」
「そうなのです! 猪狩センパイは、士道不覚後なのです!」
「武士になった覚えはありませんからね。撮影の当日まで、すきあらば愚痴らせていただくつもりっすよ」
そうして瓜子たちは壁ごしの大歓声にひたりながら、次の出番である多賀崎選手の陣営がやってくるまで、しばし充足の思いを噛みしめることになったのだった。




