02 開会セレモニー
「よう、白ブタはん。噂通り、ぞんぶんに肥え太ったみたいやなぁ」
しばらくして試合場のほうに出向いてみると、そちらにはマキ・フレッシャー選手のセコンドとしてドッグ・ジムの面々が待ちかまえていた。顔をあわせるなり皮肉っぽい笑顔と言葉を届けてきたのは、もちろん沙羅選手である。
「にしても、その帽子とマスクは何やねん? この期に及んで、まだ人様の目をはばかっとるんかいな?」
「はいぃ。スターゲイトのマネージャー様から、くれぐれも盗撮に気をつけるように、と……せっかくお会いできたのに、こんな姿で申し訳ありませぬ」
再び人相を隠したユーリは、ぺこぺこと頭を下げる。ただし、沙羅選手を見返す瞳にはとてもやわらかな輝きが灯されていた。
「沙羅選手とお会いしたら、またあの日の幸福な記憶が蘇ってきちゃいましたぁ。機会があったら、またよろしくお願いいたしますねぇ」
「せやったら、そのぶくぶくのカラダを何とかせえよ。バンタム級でやってく気まんまんやんか。まったく、小憎たらしい白ブタはんやで」
沙羅選手の毒舌は本日も健在であったが、その遠慮のなさこそが親愛の表れであるように思えるのはサキと同様である。それで瓜子も、微笑ましい気持ちで両者の再会を見守ることができた。
「この前はお見舞いに誘ってくれたのに断っちまって、申し訳なかったな。うちのボスは湿っぽいのが苦手なんで、泣き顔なんかを見られたくなかったみてえでな」
「な、なんであたしがこんなやつのために泣かないといけないのさ!」
と、顔を真っ赤にした犬飼京菜が大和源五郎のごつい腕をぴしゃぴしゃと叩く。これが本日ドッグ・ジムから選抜された、マキ・フレッシャー選手のセコンド陣であった。
「そうでなくっても、往復二時間のお見舞いなんざ尻込みしてまうやろ。ウチらはそうまで白ブタはんと親睦を深めた覚えもあらへんしなぁ」
「そんなことはないっすよ。でもまあ友達関係というよりは、やっぱりライバル関係なんでしょうね」
「せやせや。敵に塩を送っとるヒマなんざあらへんわ」
沙羅選手がどれだけ悪態をついても、ユーリはにこにこと目を細めるばかりである。『アクセル・ロード』において熾烈な一戦を繰り広げたことで、ユーリはいっそう沙羅選手に深い思い入れを抱いたようであった。
「あたしなんざは、それこそ挨拶をしたていどの間柄だしね。だけどまあ、元気になったんなら何よりだよ」
と、金色の頭で力士のような風貌をしたマキ・フレッシャー選手は、豪快に笑いながらそう言った。プロレスの世界においては沙羅選手の先輩格にあたり、MMAにおいてはドッグ・ジムの後輩門下生にあたる、無差別級の猛者だ。ただし、小笠原選手やオルガ選手という屈指の強豪選手とばかり対戦させられていたため、戦績のほうはふるわなかった。
「で、そっちのちっこいのが今日のあたしの相手かい。間近で見ると、いっそうちっこいねぇ。あたしも試合で相手を殺したくはないから、せいぜい全力で逃げ回りな」
そんな言葉を投げつけられて、メイは静かな視線だけを返す。マキ・フレッシャー選手はにやりと笑ってから、きびすを返した。
「じゃ、対戦前に馴れあうのは性分じゃないんで、あたしは失礼させていただくよ。あんたたちは、せいぜい再会の喜びってやつを噛みしめりゃあいいさ」
「そんなもん、とっくに食い飽きたわ。ほんなら、お疲れさん」
と、沙羅選手たちもマキ・フレッシャー選手を追いかけていった。
それと入れ替わりで、のほほんと微笑んだ女子選手がひょこひょこと近づいてくる。長めの黒髪を無造作に後ろで束ねて、とても温和そうな面長の顔をした女性――本日オリビア選手と対戦する、時任選手である。
「どうも、お疲れさまぁ。今日は陣営が分かれちゃったねぇ。まあ、相手がオリビアじゃあ赤コーナーを譲るしかないけどさぁ」
「時任選手も、お疲れ様です。ほら、ユーリさん。こちらが時任選手ですよ」
「どうもどうも、初めましてですぅ。うり坊ちゃんから、かねがねお噂は聞いておりますぅ」
「あはは。以前にも、何度か控え室でご一緒してるはずだけどねぇ。まああの頃は、あなたに甘い顔を見せるなって戒厳令が敷かれてたからなぁ」
時任選手も《アトミック・ガールズ》における第二世代であるので、瓜子がプレスマン道場に入門する以前は何度となくユーリと顔をあわせていたのだろう。そして昨年復帰してからも、ユーリが渡米するまでなかなか交流を結ぶ機会にも恵まれなかったのだった。
「『アクセル・ロード』は、がっつり拝見させていただいたよぉ。血みどろの決勝戦まで含めて、あなたの試合はみんな凄かったなぁ。あたしなんかは地味の筆頭だから、羨ましい限りだよぉ」
「いえいえ、とんでもありませぬ。せっかくの大舞台で不甲斐ない姿をさらすことになってしまい……お恥ずかしい限りなのですぅ」
「いやいや、立派なもんだったよぉ。もうあなたたちと仲良くすることも解禁されたから、よかったら打ち上げなんかでもよろしくねぇ」
時任選手はちょっと飄々としていて、つかみどころのない人物である。ただ、きわめて善良そうな人柄であるため、瓜子たちも親睦を深めるのに時間はかからなかった。
そんな時任選手も立ち去ると、ユーリは「ふいー」と息をつく。楽しげな様子に変わりはなかったが、いくぶんくたびれてしまったようだ。
「誰も彼もユーリなんぞに温かいお言葉をかけてくださり、ありがたい限りなのです。うり坊ちゃんからあれこれお話を聞いてなかったら、ユーリもあたふたしちゃってただろうなぁ」
「ユーリさんは、時間をかけて親睦を深めるタイプですもんね。でも、きちんとご挨拶できていたと思いますよ」
ユーリを励ますために、瓜子は心よりの笑顔を届けてみせた。
「それに、ユーリさんがおでかけしている間に仲良くさせていただいたのは、武中選手と時任選手ぐらいですからね。あとはのんびりおすごしください」
「いえいえ! ご挨拶が完了したならば、うり坊ちゃんのセコンドとして死力を尽くす所存であるのですっ!」
そう言って、ユーリは幸せそうに目を細めた。
きっと目の前に立ちはだかるケージの試合場や設営が進められている観客席などにも、心を躍らされているのだろう。ユーリにとってはそれらも数ヶ月ぶりの光景であるし、《アトミック・ガールズ》に限定すればきっかり一年ぶりであるわけであった。
「そんでもって、物販ブースではうり坊ちゃんの新作グッズが山のように並べられてるわけだよね! セコンドのお仕事の合間には、それらもしっかりチェックしておかねば!」
「そんな隙を与えないように、ばんばん仕事を押しつけてあげますよ」
そんな感じに、瓜子とユーリは一年ぶりに興行前のひとときを楽しく過ごすことになったのだった。
◇
ルールミーティングにメディカルチェックにマットの確認、さらにバンデージのチェックも完了したならば、いよいよ開演も目前である。
その段階に至ると、誰もが《アトミック・ガールズ》の公式ウェアに着替えている。ユーリもそれは同様であったのだが――着替えを完了させてから、ユーリはしきりに「うーん」と悩ましげな声をあげていた。
「上も下も、ウェアがぱっつんぱっつんだにゃあ。ウェアが弾けとんだときに備えて、水着でも着込んでおくべきかしらん」
「そう簡単に破れる素材ではないはずですけど、ほんとに窮屈そうですね。ロゴマークもぺっちゃんこじゃないっすか」
とりわけユーリは胸と尻が肥大してしまったため、胸もとのロゴマークが横にのびてしまっている。かといって、これ以上のサイズを準備してもらっても袖や丈が余りまくってしまうだろうし、まったく困った話であった。
「今日はセコンドだからかまいやしねえけど、試合の日にはストレスになっちまいそうだな。こいつは試合衣装ともども、また特注品をオーダーするしかないんじゃねえか?」
そんな風に語る立松も、苦笑を浮かべている。ユーリはもともとバストサイズだけが尋常でなかったため、ウェアも試合衣装も特注品であったのだ。その特注品でさえこのありさまであるのだから、呆れた話であった。
「でもたぶん、ウェアがそこまで窮屈になっちまったのは……背中が大きくなったせいでもあるんだろうな。骨格なんかは変わってないはずなのに、日本人とは思えないボリュームになってるからよ。それが全部筋肉だとしたら、稽古で見せるあの怪力も納得だ。何も嘆く必要はないから、ファイターとしての地力が向上したことを喜びな」
「えへへ。立松コーチにそのように言っていただけると、肥え太ってしまった悲しみもやわらぐのですぅ」
「ああ。桃園さんは今こそがベストコンディションみたいだし、やっぱりバンタム級でやっていくべきなんだろうな。俺も復帰の日が楽しみだよ」
そんな風に言ってから、立松は「さて」と表情をあらためた。
「それじゃあ、そろそろ開会セレモニーだな。こっちはチーフの三人が付き添うから、桃園さんは大人しくしてるんだぞ?」
「はいぃ。モニターでうり坊ちゃんたちの勇姿を見守っているのです!」
ユーリの復帰の挨拶は、中盤のインターバルの後にお披露目されることになったのだ。ぶんぶんと手を振るユーリに笑顔を返してから、瓜子はサキたちとともに控え室を出た。
瓜子のチーフセコンドは立松、サキはジョン、メイはリューク氏だ。どうせ入場口までの送迎に過ぎないので、普段は一名ずつのセコンドが同行する機会もなかったが、本日はリューク氏たちのおかげで人手が余りまくっているのだった。
「さー、いよいよだねー! どんどんテンション上がってきたなー!」
灰原選手は、ご満悦の表情だ。本日は鞠山選手という難敵が相手であるのに、緊張感とは無縁の様子である。まあ彼女は瓜子とタイトルマッチを行う際にも、ずっと無邪気な笑顔をさらしていたものであった。
入場口の裏手に到着したならば、試合の順番で整列する。その中でまったく交流がないのは、小柴選手と対戦する若手の実力選手のみとなる。小柴選手は天覇ZEROの関係者にセコンドをお願いしている都合上、鞠山選手ともども青コーナー陣営に割り振られていた。
(あっちの陣営は天覇ZEROと武魂会、それに赤星道場とドッグ・ジムか……あとは鬼沢選手もいるし、あっちはあっちで賑やかなんだろうな)
瓜子もまた試合前の緊張とは無縁な気質であるため、ついそんな想念にふけってしまう。
もちろん本日はタイトルマッチであり、相手は黄金世代の筆頭格たる亜藤選手であるのだから、瓜子もおもいきり集中しているつもりであるのだが――ユーリの存在もあって、普段以上になごやかな心地であった。
ただし、そのなごやかな気持ちの下には、熱い闘志が渦巻いている。
それもまた、ユーリに恥ずかしい試合を見せてなるものかという思いである。今日ばかりは、どうしたってユーリの存在が心の真ん中に居座ってしまうのだった。
そんな中、ついに入場が始められる。
ご縁のない若手の選手に武中選手、沖選手、オリビア選手が続き、さらに、メイ、多賀崎選手、高橋選手、灰原選手と、ひとりずつ花道へと踏み出していく。セミファイナルの出番であるサキは意味もなく瓜子の頭を小突いてから、それに続いた。
そうして最後が、瓜子の出番だ。
リングアナウンサーの呼び声に従って扉をくぐると、本日も割れんばかりの歓声と拍手が届けられてきた。
今回は六月に《NEXT》の試合をはさんでいたが、人々が瓜子に見飽きた様子はない。それをありがたく思いながら、瓜子はスポットに照らされる花道を踏み越えた。
本日の開会の挨拶は、最終試合で赤コーナー陣営に割り振られた瓜子の役目である。
しかしまた――瓜子はちょうど昨年の今ぐらいの時期から、しょっちゅうこの役目を担わされていた。ユーリが渡米する直前ぐらいから、瓜子は最終試合にあてがわれる割合が格段に増えていたのだ。瓜子がこの役目を免除されるのは、他の興行との兼ね合いでエキシビションマッチに臨んだ日ぐらいなのではないかと思われた。
(ストロー級王者のあたしは、アトミックを代表するひとりなんだからな)
瓜子がそんな思いを噛みしめていると、ハンドマイクを握ったリングアナウンサーがさっそく笑顔で振り返ってきた。
『では、開会の挨拶は――この七月大会で《アトミック・ガールズ》のデビュー三周年となる、猪狩瓜子選手にお願いいたします!』
本日の瓜子には、そんな肩書きまでくっついていた。
もちろん瓜子も、その事実は嫌というほどわきまえている。先月の終わりには三周年グッズのために、またトシ先生の手でおびただしい量の写真を撮影されることになったのだ。
まあ、そんな忌まわしい記憶は脇に置いておくとして――瓜子は小柴選手と対戦したMMAのデビュー戦から、すでに三年が経過してしまったわけであった。
デビューして一年目には、四大タイトルマッチでメイと初めて対戦することになった。
二年目には、フライ級にチャレンジしてオリビア選手と対戦することになった。
そして三年目の本日は、亜藤選手を相手にしたタイトルの防衛戦である。
(ユーリさんのデビュー三周年は《カノン A.G》の時代だったから、うやむやにされちゃったんだっけ。……あたしもあの頃のユーリさんぐらい、強くなれたのかな)
そんな思いにひたりながら、瓜子はリングアナウンサーから渡されたハンドマイクでもって挨拶の言葉を申し述べてみせた。
客席からは、熱い歓声が届けられてくる。
そして、瓜子がマイクを返そうとすると――客席のどこかから、「ユーリは!?」という声が聞こえてきた。
ユーリは盗撮に用心しているので、いまだSNS等でも騒がれたりはしていないのだと聞いている。
ただやはり、ユーリの目撃談が皆無なわけではないらしい。ユーリはこの三日間、プレスマン道場に通うだけの日々であったが、それでも電車や道端でユーリらしき人物を見かけたという話がぽつぽつ出回り始めたようであるのだ。それにやっぱり道場の一般門下生たちも、全員が全員口をつぐんでいるわけではないようであった。
そういう話が変に盛り上がる前にという目論見で、ユーリはこの後に復帰の挨拶をする予定でいる。ただそれは、サプライズのイベントであるのだ。
よって、瓜子がこの場で余計な情報をもらすことはできない。
しかし、客席の誰かが放ったひと言が、ざわざわと波紋を広げていくように感じられたので――瓜子は、マイクを握りなおすことにした。
『ユーリさんは、お元気です!』
瓜子がそれだけ伝えると、熱狂していた会場に一瞬だけ静寂のとばりが降りて――そののちに、歓声が爆発した。
『み、みなさん、どうかお静かに! それでは、選手退場です!』
瓜子たちが花道を引き返す間も、客席には歓声が吹き荒れていた。
やはり数多くの人々が、ユーリの復活を心待ちにしていたのだ。それを実感できた瓜子は、ともに花道を進むサキに頭を小突かれながら、幸福な思いにひたることができたのだった。




