06 一日の終わり
午後の十時――その日の稽古は、すべて終了した。
間に軽い食事の時間をはさみつつ、およそ七時間に及ぶ稽古に取り組んだのだ。純白の髪を汗でしとどに濡らしたユーリは、幸せいっぱいの恍惚とした面持ちであった。
「ああ、ユーリは幸せだにゃあ……こんな幸せな人生を送ってしまって、バチがあたらないかしらん……」
「何を言ってるんすか。七ヶ月も不自由な生活を送ってきたんだから、それぐらいの幸せ気分は当然っすよ」
「それより、こんな地獄の稽古をシアワセだとかぬかしてることにツッコめや」
ユーリと瓜子とサキは、仲良く並んで壁にもたれかかっていた。
他の面々も、それぞれへたばりながら水分や栄養の補給に励んでいる。ユーリでなくとも、この時間はリカバリーに励むのが通例であった。
ユーリはすでに大量のプロテインを摂取していたが、深刻な飢餓感に見舞われている様子はない。その白い面は、ひたすら幸福そうである。そして、ユーリのそんな姿を見守っているだけで、瓜子も同じ気持ちであった。
「おら、いつまでもへたばってんなよ。リカバリーが済んだら、帰り支度を始めろや」
そんな言葉を告げてくる立松も、満足そうな笑顔である。ユーリの稽古再開に立ちあえた面々は、多かれ少なかれ満足げな面持ちであった。
本日はキック部門の門下生が清掃を受け持つ日取りであったため、女子選手は蝉川日和だけがそちらに参加している。それを横目に更衣室に向かい、みんなでシャワーと着替えに取りかかっていると、灰原選手が下着姿をさらしながら「ふんふん」と声をあげた。
「今のところ、SNSでピンク頭の復活が騒がれてる様子はないねー。やっぱ盗撮を厳しく取り締まった効果かなー」
「ああ。さすがプレスマンのコーチ陣は、手慣れたもんだよね」
一般の門下生たちは、やはりユーリの姿に気づくと大層な騒ぎようであったのだ。その場で立松たちが道場内における撮影を厳しく取り締まっていなかったら、今頃はインターネット上のあちこちでユーリの勇姿が拡散されていたのかもしれなかった。
「あんたは知らないだろうけど、あの決勝戦の直後なんかはマスコミが道場まで押しかけてきて大変だったんだから! 感謝しないと、バチが当たるよー?」
灰原選手がそのように呼びかけると、ユーリは「うにゃあ」と純白の肢体をよじった。
「ユーリはそんなところでもご迷惑をおかけしていたのですねぇ。お着換えを済ませたら、さっそく謝罪巡礼を開始させていただくのですぅ」
「あのなー。そんな大昔の話を引っ張りだしたって、よけーに迷惑がられるだけだろーよ。色ボケウサ公も、いらねー話をふきこむんじゃねーよ」
「色ボケじゃないし! なんだかんだ、サキもピンク頭に甘いよねー! きつい言葉を並べながら、ほんとはピンク頭のことが大好きなんでしょー?」
「あんたがそれを言うかね」と、多賀崎選手は苦笑しながら灰原選手の頭を小突く。
斯様にして、本日はどのように話題が転んでも、最後には瓜子の胸を温かくさせることが多かった。それもまた、誰もがユーリの復帰を喜んでいる証なのだろう。
「で、今日はやっぱり真っ直ぐ帰っちゃうのかなー? 復帰祝いは、三日後の打ち上げにかぶせる感じ?」
「そうっすね。ユーリさんも復帰初日ぐらいはゆっくりしたほうがいいでしょうし、今日だと参加できない人たちに申し訳ないっすから。そうするのが無難だと思います」
「オッケーオッケー! 打ち上げの会場は、またあたしが押さえておくからねー! タツヤくんたちも参加するかどうか、今の内に聞いておこーっと!」
と、根っこが素直な灰原選手は、誰よりもはしゃいでしまっている。そんな姿も、瓜子の胸を温かくするばかりであった。
そうして着替えを終えたならば、全員でぞろぞろと更衣室を出る。コーチ陣と蝉川日和に挨拶をして道場を出ると、七月の夜は存分に蒸し暑かった。
シャワーをあびたばかりの身体にすぐさま新たな汗が浮いてしまうが、それでも充足した思いに変わりはない。ニット帽と白いマスクで人相を隠したユーリも、その足取りは軽かった。
「じゃ、また明後日ねー! なんかあったら、すぐに連絡をよこしてよー?」
新宿駅に到着したならば、それぞれ目当ての電車に向かう。そうして最終的に三鷹駅で降り立ったならば、そこに残るのは瓜子とユーリとメイの三名だ。あらためてマンションに向かいながら、ユーリはしみじみと息をついた。
「こうやって三人で歩くのも、十ヶ月ぶりなんだねぇ。ユーリはなんだか、ずっと懐かしき思い出の中をさまよっているような心地だよぉ」
「あはは。これはまぎれもなく現実ですからね。羽目を外さないようにお気をつけください」
「うんうん。うかうかすると、感極まってオタケビをあげてしまいそうだよぉ」
ニット帽のつばの陰で、ユーリの瞳はきらきらと輝いている。もしかしたら、涙のきらめきがそこに上乗せされているのかもしれなかった。
メイはずっと静かであるが、その眼差しはとても穏やかだ。そうしてマンションに到着し、五階まで上がったならば、メイは迷うことなく自分の部屋のドアまで歩を進めていった。
「あ、メイさん。やっぱり、その……今日は自宅にお戻りですか?」
瓜子が慌てて声をかけると、メイは不思議そうに小首を傾げた。
「何故? 質問の意図、わからない」
「だ、だってほら、この七ヶ月間は、ずっとメイさんをお招きしてたわけですから……ユーリさんが戻るなりそれを取りやめるっていうのは、なんだか申し訳ないっていうか……」
瓜子のしどろもどろの返答に、メイは珍しくくすりと笑った。
「僕、ウリコ、心配だったから、一緒にいたい、思っただけ。もう心配なくなったから、押しかける理由、ない。……僕のほうが、論理的」
「ひ、人の気持ちは理屈だけで割り切れるものではないでしょう?」
「ウリコ、ユーリと二人で過ごすべき。理屈でも感情でも、僕、そう思う」
そう言って、メイは優しく瓜子を見つめてきた。
「ユーリ、戻ってきて、僕も嬉しい。ウリコ、幸せそうなのも、嬉しい。だから、気遣い、いらない。……また明日、会えること、楽しみにしてる」
「……わかりました。おやすみなさい、メイさん」
「メイちゃま、おやすみなさいですぅ」
「うん。おやすみ」
メイはひとつうなずいて、ドアの向こうに消えていった。
瓜子はメイの優しさを噛みしめつつ、こちらのドアを開錠する。瓜子に続いて玄関口に踏み込んだユーリは、マスクを外しつつしみじみと息をついた。
「メイちゃまって、うり坊ちゃんに対する愛があふれまくってるよねぇ。それでいて、うり坊ちゃんを独り占めしようなんてお気持ちはさらさらないようですし……独占欲の権化たるユーリは、おのれの浅ましさに恥じ入るばかりであるのです」
「ええまあ、そうっすね。自分なんかはお世話になるばっかりで、申し訳ない限りです。……どうして自分みたいにつまんない人間に、メイさんはあそこまで気をかけてくれるんすかね」
「それはねぇ、うり坊ちゃんがこれっぽっちもつまんなくない至高の存在であらせられるからだよぉ。だからこそ、これだけたくさんの人々がうり坊ちゃんにミリョーされてしまうのです」
シューズをぬいで廊下に上がりながら、ユーリは天使のような顔でくすくすと笑った。
「その中でもメイちゃまは献身の権化であらせられるので、ユーリもお胸を揺さぶられてならないのです。弥生子殿には一抹の嫉妬心をかきたてられてならないのですが、メイちゃまにはそのように浅ましき思いを抱くこともないのです」
「な、なんでユーリさんが弥生子さんに嫉妬しないといけないんですか? 弥生子さんなんて、今年はまだ二回しか顔をあわせてないんすよ?」
「それはお二人が王子様とお姫様のようにお似合いであらせられるからなのです。かつての格闘技マガジン特集号の撮影現場の模様は、今でもユーリのお胸にくっきりと焼きつけられているのです」
「そんな、一年も前の話を引っ張り出さないでくださいよ。こっちまで照れ臭くなっちゃうじゃないっすか」
かつてそちらの現場では、ユーリと赤星弥生子が瓜子を奪い合っているかのような写真を撮影されることになったのだ。しかも全員がビキニ姿であったものだから、実に錯綜していたものであった。
ともあれ、こんな会話もじゃれあいの延長上である。自宅でユーリと二人きりで会話をしているというだけで、瓜子は幸福な心地であった。
汗を吸ったトレーニングウェアを洗濯機に放り込んだならば、申し合わせたようにリビング兼トレーニングルームに向かう。これもまた、十ヶ月前までと同じ光景である。壁にもたれて座り込んだ瓜子は、隣のユーリに笑いかけた。
「さて、これからどうします? 《フィスト》の試合でも観賞しますか?」
「うーん。今はちょっぴり、静かに幸せ気分を噛みしめたい気分かにゃあ」
「奇遇っすね。自分もっすよ」
瓜子がそのように答えると、ユーリはじっと見つめ返してきた。
その色の淡い瞳には、これ以上ないぐらい幸福そうな光が渦巻いている。瓜子は、その輝きに溺れてしまいそうな心地であった。
「ユーリは本当に、おうちに帰ってこられたんだねぇ。道場ではみなさんと楽しい稽古に打ち込んで、おうちではうり坊ちゃんと二人きりで……なんだか幸福すぎて、こわいぐらいなのです」
「それは自分も、同じことっすよ。何せ、十ヶ月ぶりですからね。十ヶ月なんて、あまりに長すぎますよ」
「うん……ユーリがいたらないばっかりに……」
「おっと、おわびのお言葉はもう聞き飽きましたよ。こうやってもとの生活に戻れたんだから、過去のことはもういいじゃないっすか。そんなことより、今の喜びを噛みしめましょうよ」
「うん……これで三日後は《アトミック・ガールズ》で、一週間後にはうり坊ちゃんと一緒に撮影会だなんて……ほんとに夢みたいだにゃあ」
「後半部分は、聞かなかったことにします」
瓜子が笑うと、ユーリも楽しそうに「あはは」と笑った。
「でも……ユーリが試合をできるのは、早くても二ヶ月後だもんねぇ。入院中は、それが待ち遠しくてたまらなかったけど……今にして思えば、ちょうどよかったのかもにゃあ」
「ちょうどいい? 何がです?」
「うん。これで三日後に試合とかだったら、幸せすぎて爆散してしまいそうだもにょ」
「さすがは、ユーリさんっすね。でも千駄ヶ谷さんは八月中に『トライ・アングル』のライブを計画してるみたいだから、爆散しないようにお気をつけくださいね」
「うにゃあ。それは確かに、爆散案件でありますにゃあ」
ユーリは幸せそうに微笑みながら、白い指先で瓜子の髪をひとふさつまんできた。
これもまた、以前からよく見られた行いである。ただ瓜子は、小さからぬ疑問を抱くことになった。
「あの、自分に対するアレルギーが解除されたのに、どうして髪をさわってるんすか?」
「にゃっはっは。いくらさわり放題でも、そんなべたべたさわっていたらありがたみも半減ではありませぬか」
そんな風に言ってから、ユーリは微睡む子犬のように目を細めた。
「というのは、タテマエで……幸せすぎて爆散してしまわないように、おのれを律しているのでぃす」
「なるほど。そのお気持ちは、わからなくもありません」
瓜子もまた、ユーリの純白の髪をひとふさつまんでみせた。
たとえ色が変わっても、そのやわらかさに変わりはない。髪の色が抜け落ちて、五キロばかりもウェイトアップして、以前とはまた異なる魅力が生まれていても、ユーリは瓜子が知っている通りのユーリであった。
そうして二人はおたがいの姿を見つめながら静かに語り合い、心のもっとも奥深いところでこの夜の喜びを分かち合い――そしていつしか、そのままリビングで寄り添いながら眠りに落ちてしまったのだった。




