05 ストライキング・スパー
「なんだよ。死屍累々じゃねーか」
そんな声が響きわたったのは、女子選手総当たりのグラップリング・スパーを開始して三十分ていどが経過したのちのことであった。
その間ひたすら取っ組み合っていた瓜子たちは、おおよそマットにへたり込んでいる。それを冷ややかに見下ろすのはサキであり、その背後には小笠原選手と小柴選手が顔をそろえていた。
「よう。サキたちも早かったな。やっぱり桃園さんが復帰するとなると、のんびりしてられねえか」
「へん。仕事がたまたま早く終わっただけのこったよ。……で、どいつもこいつも肉牛様に蹂躙されたあとってことか?」
「総当たりのスパーだったから、べつだん桃園さんだけのせいってわけじゃねえが……しかしまあ、まったく無関係ってことはねえんだろうな」
立松は感心の度が過ぎて、溜息をついてしまっている。
瓜子たちは文字通り、ユーリに蹂躙されていたのだ。ビビアナでさえ五分であるのだから、瓜子たちがユーリにかなう道理はなかったのだった。
なおかつ、同じだけの稽古を積んでいるのに、ユーリだけはけろっとした顔である。まあ、上になっている時間が長いのでスタミナの消耗も抑えられているのであろうが――ユーリはスタミナに関しても、すでに全盛期の化け物っぷりを復活させつつあったのだった。
「わぁい。サキたんも小笠原選手も小柴選手も、お疲れ様でぇす。ウォームアップが終わったら、みなさまもお願いいたしまぁす」
「ふん。肉牛様の生贄なんざ、ぞっとしねーなー」
サキは知らん顔でウォームアップを開始したが、残る両名は驚嘆の面持ちであった。
「いやあ、驚いた。桃園は本当に、すっかり回復してるんだね。……多賀崎さんでも、太刀打ちできなかったのかな?」
「見ての通りだよ……もともとの技術にパワーまで上乗せされてるんだから……太刀打ちのしようがないさ」
息も切れ切れに、多賀崎選手はそのように答えた。この中ではもっとも寝技の巧みな多賀崎選手でも、ユーリに手も足も出なかったのだ。
「ていうか、こっちもブランクがあるんだろうね……もうちょいスパーを重ねたら、少しはいい勝負ができると思うよ」
「ブランク? 多賀崎さんは、怪我とも無縁でしょ?」
「そうじゃなくって、桃園に対するブランクさ……あたしなんかは合宿所でお相手してたけど、それでも八ヶ月ぐらいは経ってるんだろうからね……桃園の化け物っぷりに慣れるのに、ちょっとばっかり時間が必要ってことさ」
そのように語りながら、多賀崎選手は汗だくの顔で雄々しく微笑んだ。
小笠原選手は「そっか」と破顔する。
「アタシたちも、たっぷり桃園の化け物っぷりを味わわさせていただかないとね。やっぱりこのまま、八月まで居残らせていただこうかな」
「はい。八月には、赤星道場の合宿稽古もありますもんね」
小柴選手は、笑顔でそのように答える。先週からまた小笠原選手が都内で過ごすようになったため、小柴選手も上機嫌であるのだろう。ぱたぱたと尻尾を振る子犬のようで、微笑ましい限りであった。
「ちょうどいいから、小笠原さんたちのウォームアップが完了するまで、インターバルってことにするか。俺は、ジョンと交代してくるよ」
そうして立松は立ち去って、瓜子たちは体力の回復に努めることになった。
ひとり元気なユーリは、くぴくぴとドリンクボトルを傾けている。それがスポーツドリンクではなくプロテインのボトルであることに気づいた瓜子は、慌てて身を起こした。
「ユ、ユーリさん。もうお腹が空いちゃったんすか?」
「うん。これはきっと、ココロのヨロコビが作用しているのだろうねぇ」
ユーリは入院中から、トレーニング中の空腹感に備えて大量のプロテインを常備していたのだ。稽古を開始して三十分ていどで最初のボトルに手をつけるというのは、いささか心配なところであったが――しかし、ユーリの笑顔は無邪気そのものであった。
「それにしても、次から次へとお稽古のメンバー様が増えて、ユーリは幸せいっぱいなのですぅ。最近も、みなさんは同じ日取りでプレスマンにいらっしゃっているのですかぁ?」
「そりゃあまあ、スパーの相手は多いに越したことはないからね。なるべく同じ曜日に集まるようにしてるよ」
自らもドリンクボトルを傾けつつ、多賀崎選手がそのように応じた。いくばくかのインターバルで、ようやく呼吸も整ったようだ。
「あたしと灰原はここ最近、週三でお世話になってるしね。三日後の試合が終わるまで、天覇ZEROには近づけないからさ」
「ああ、灰原選手とまりりん殿が、ついに雌雄を決するのですよねぇ。ユーリもドキドキワクワクしておりましたぁ」
「ふーん! 魔法老女になんか、ぜーったい負けないからねー!」
マットで大の字にひっくり返ったまま、灰原選手は元気にわめきたてる。
そちらにふにゃんとした笑顔を届けてから、ユーリは他なる面々を見回した。
「えーと、三日後の七月大会には、みなさん出場されるのでしたっけぇ?」
「いや。アタシと邑崎だけ、お休みだね。で、高橋は鬼沢と対戦だから、出稽古の日程をずらしてるわけさ」
「ふふん。いきなり天覇同士でぶつくるなんじゃ、なかなか気んきいた運営陣やなあ」
鬼沢選手はスポーツタオルで頭をかき回しながら、ふてぶてしく笑った。
「なおかつそりゃ、あんたに負けたもん同士ん対戦てわけやなあ。これで格付けしゃるーっちゃけん、なおさら負けられんばい」
「うん。バンタム級も、充実してきたよ。ここで桃園にも加わってもらえたら、もう言うことなしだね」
そう言って、小笠原選手はユーリに笑いかけた。
「今の体重は、六十五キロだったっけ? それでフライ級まで落とすのはしんどいだろうから、何とぞバンタム級にお迎えしたいところだね」
「うにゃあ。ユーリの肥大化した数値を公衆の面前で語られるのは、羞恥のキワミであるのですぅ」
「公衆の面前って、ここにいるメンバーはみんなアンタのウェイトアップを承知してるでしょうよ」
そうして小笠原選手が声をたてて笑ったとき、ジョンがひょこひょこと近づいてきた。そのかたわらに、蝉川日和もひっついてきている。
「みんな、おツカれさまー。ヒヨリもイッショに、タちワザのスパーにマぜてもらえるかなー?」
「お、立ち技のスパーに移行ですか。これはいいタイミングでしたね」
ウォームアップを終えた小笠原選手が、いっそうの笑顔で身を起こす。
そちらに笑いかけてから、ジョンは女子選手の面々を見回した。
「ボクもユーリのチョウシをタシかめておきたいんだけど、どうしようかなー? ビビアナは、ネワザセンモンなんだよねー?」
「ええ。軽いスパーなら可能ですが、ユーリさんがお相手だとそういうわけにもいきませんからね」
端のほうでビビアナと語らっていたリューク氏が、愛想よく応じる。
すると、鬼沢選手が勢いよく立ち上がった。
「やったら、うちがお相手するばい! こん中では、うちが一番体格も見合うやろうしね!」
ジョンは「んー?」と考え込んでから、やがて朗らかに微笑んだ。
「イツキは『アクセル・ロード』のガッシュクジョでも、ユーリとスパーしてたんだよねー? それじゃあ、イツキにおネガいしようかなー」
「さすがジョン親分は、話が早かね! うちも本気でプレスマンに移籍しとうなってきたばい!」
そんな風に言ってから、鬼沢選手は力のある眼差しをユーリに送った。
「ばってん、同じ道場になると対戦の機会も減るけんね。うちはこれからも天覇ん人間として、あんたば追いかけさせてもらうばい」
「追いかけるだなんて、恐縮ですぅ。でも、こうして出稽古でお相手できるだけでも、ユーリは嬉しさいっぱいですぅ」
というわけで、今度はユーリと鬼沢選手のスパーをみんなで見守ることになった。
ヘッドガードとレガースパッドとニーパッドの三点セットを着用し、ボクシンググローブは8オンスだ。さらにリューク氏が、ボディプロテクターの装着を提案した。
「鬼沢さんは、三日後に試合なのですよね? 万が一に備えて、ボディプロテクターを装着するべきではないでしょうか?」
鬼沢選手は反発するかと思われたが、意外な素直さで了承した。
「こんアイドルちゃんな、手加減がきかんもんね。ボディプロテクターなんてしゃらくさかばってん、ここは大事ば取らせてもらうばい」
瓜子が感心するのは、彼女のこういう一面であった。彼女は豪放なばかりでなく、しっかり先の見通せる人間であるのだ。
そうして両名は、胴体を守るボディプロテクターをも装着する。言っては悪いが、ユーリはずいぶん胸もとが窮屈そうだ。そして、鬼沢選手は試合に備えてウェイト調整をしているためか、ユーリのほうが大きく見えるぐらいであった。
「それじゃあ、サンプンイチラウンドねー。ダメージがタまりそうだったら、トチュウでトめるよー」
ジョンのそんな宣言とともに、立ち技のスパーが開始された。
ユーリは右目を閉ざしつつ、ちょこちょことステップを踏む。もともとステップワークは苦手であったので、それは相変わらずであるのだ。
そして鬼沢選手も、むやみに突っかかろうとはしない。彼女は豪快なインファイトを得意にしているが、それ一辺倒の選手ではないのだ。そういう意味では、いつも全力であるユーリのほうが危なっかしい存在であった。
鬼沢選手は前後のステップで、跳び込む隙をうかがう。
そして、ユーリの足取りが重いと見て取ると、一気に懐に跳び込もうとした。
そのタイミングで、ユーリは右ミドルを射出する。
これはおそらく、たまたまタイミングが合ってしまったのだろう。絶妙なるカウンターとして、ユーリの肉感的な右足が鬼沢選手に襲いかかった。
鬼沢選手は、左腕でそれをブロックするかと思われたが――ユーリの右足が衝突する寸前、不可解な挙動で左腕を振り上げた。
そうして強引に身をよじり、腹の正面でユーリのミドルキックを受け止める。
結果、鬼沢選手はユーリの怪力で吹っ飛ばされることになった。ユーリのミドルキックをまともにくらえば、それが当然の結末なのである。
背中からマットに倒れ込んだ鬼沢選手は、うつ伏せになって激しく咳き込む。ジョンはスパーをストップして、そちらに屈み込んだ。
「イツキは、どうしたのかなー? イマのは、ブロックできたよねー?」
「げほっ、げほっ……ジョン親分やったら、察せるやろ?」
ジョンはつるつるに剃った頭を傾げてから、にわかにやわらかく微笑んだ。
「もしかして、ヒダリウデにもらうのはまずいとオモったのかなー?」
「あげんドンピシャんタイミングでくらったら、腕んほうがこっぱげるばい。あんアイドルちゃんな、バケモンやけんね」
だから左腕をかばいつつ、ついでに脇腹を守るために正面から受け止めた、ということなのだろうか。だとしたら、彼女の反射神経も尋常ではなかった。
「ばってん今んな、出会い頭やけんね! ちょっと休んだら、もうひと勝負ばい!」
「はぁい。よくわかんないけど、どうぞよろしくお願いしまぁす」
ユーリはグローブの手で合掌しつつ、ぺこりと頭を下げた。
その姿に、小笠原選手は力強く笑う。
「桃園の化け物っぷりは、立ち技でも健在だね。……ジョン先生、試合を控えてる面々はスパーを避けたほうがいいんじゃないのかな。ウェイトの軽い面々は、なおさらにさ」
「ウン、そうだねー。キョウのところは、イツキとトキコだけユーリのおアイテをおネガいできるかなー? あとは、ダンシセンシュにおネガいするからさー」
「うん。試合がないのは、ラッキーだったよ。鬼沢は、試合に支障のないていどにね」
小笠原選手のそんな言葉に、異を唱える人間はいなかった。灰原選手ですら、文句をつけようとしなかったのだ。それぐらい、今のユーリからは危険なにおいがたちのぼっているのだろうと思われた。
やっぱりユーリは、れっきとしたモンスターであるのだ。
きっと今なら、宇留間選手に後れを取ることもないだろう。皮肉なことに、ユーリは長きの入院を経ることで、これまで以上のウェイトとパワーを授かり――モンスターとして、これまで以上に磨きをかけられたのだった。




