03 復活計画
それから数分後、瓜子たちはアキくんと一緒にマンションを出ることになった。
アキくんは出勤で、瓜子たちはプレスマン道場だ。午後の三時という中途半端な時間であったためか、電車はそれなりに空いている。そしてユーリはニット帽にサングラスにガーゼのマスクの三点セットで人相を隠し、本日はボディラインの出にくい衣服であったため、それほど人目をひかずに済んだ。
しかしそれでも、ちらちらと目をやってくる人間はいなくもない。どれだけオーバーサイズのゆったりした衣服であってもユーリは頭身の高いモデル体型であったし、肘から先の色の白さも尋常でなかったし、それに何よりフェロモンが垂れ流しなのである。瓜子はあまりフェロモンの何たるかも理解できていない身であるが、とにかくユーリは顔やボディラインを隠しても人目をひきつけてしまう何らかの力を有しているのだった。
(輸液に頼ってた頃は、そのフェロモンもほとんど感じなかったんだけど……これも、ユーリさんが元気になった証拠だよな)
瓜子はそんな気持ちを噛みしめながら、プレスマン道場を目指すことになった。
アキくんとは新宿駅でお別れして、五名連れで街路を進む。そうしていざプレスマン道場に到着すると――思わぬ大人数で出迎えられることになった。
「桃園さん、おかえり! みんな、首を長くして待ってたよ!」
そんな声をあげたのは、柳原である。
まだ一般門下生のレッスンが開始される時間ではないため、その場に集まっているのはプロ選手かプロを目指す門下生か、試合を控えて稽古に熱を入れているアマチュア門下生のみだ。それでも、二十名近い人数であった。
そういった人々は、ユーリと個人的な交流を持っていない。昔のユーリは腫れ物あつかいであったし、正式な入門を経て悪しき関係が是正されたのちも、稽古仲間として節度ある距離が保たれていたのだ。それは迂闊に近づくとユーリの色香に魅了されてしまうという警戒心もあってのことなのだろうと思われた。
然して、本日の彼らは――誰もが、好意的な面持ちであった。
柳原のように熱情をあらわにしている者もいれば、懸命に顔を引き締めている者もいる。ただ、ユーリを思いやっていることに変わりはないように感じられた。
「桃園さんをお迎えしたくて、こんな人数になっちまったよ。まるで、卯月さんをお迎えしてる時期みたいだよな」
柳原がそのように語ると、他にも数名の門下生が声をあげてきた。
「桃園さん、本当に元気になったんだな。ようやく稽古に復帰できるって聞いて、ほっとしたよ」
「『アクセル・ロード』は、お疲れ様でした。桃園さんは立派に戦ったんだから、どうか胸を張ってください」
「初日から、あまり無理はしないようにな。何か手伝えることがあったら、遠慮なく声をかけてくれよ」
すると、まだ人相を隠したままであったユーリはサングラスの下から涙をこぼし、マスクを濡らすことになった。
「みなしゃん……ユーリなんかに温かいお言葉をかけてくださり、ありがとうございましゅ……」
「なに言ってるんだよ。盛大に見送ったんだから、盛大に出迎えてやらないとな」
柳原の言葉に、何名かの門下生が笑顔でうなずいた。
そういえば、ユーリが北米に出立する寸前にも、彼らは口々に温かい言葉をかけてくれたのだ。この場でもまた、離別していた十ヶ月の空白が急速に埋められたわけであった。
「さ、それじゃあ稽古の準備をしてくれよ。コーチ陣も、奥でお待ちかねだからさ。猪狩、後のことはよろしくな」
「押忍。……それじゃあ、行きましょう」
瓜子がうながすと、ユーリは最後に深々とお辞儀をしてから道場に上がり込んだ。
そうして更衣室を目指す道中で、多賀崎選手が灰原選手の頭を小突く。
「邑崎はともかく、なんであんたまで泣いてるのさ。もう桃園のことが大好きだって白状しちゃえば?」
「うっさいなー! そんなんじゃないったら!」
瓜子がびっくりして振り返ると、愛音と灰原選手がそれぞれ涙をこぼしてしまっている。そして瓜子の視線に気づいた灰原選手は、顔を赤くして背中を小突いてきた。
「なんだよー! こーゆーのは、うり坊の役目でしょー? なんで今日に限って、ヘーゼンとしてるのさ!」
「なんでって言われても、困っちゃいますけどね。……ユーリさんのために、ありがとうございます」
「だから、そんなんじゃないってばー!」
灰原選手はいっそう赤くなりながら、瓜子の背中をどすどすと殴打してくる。それは拳の側面を使った鉄槌であったが、何せ灰原選手の腕力だ。瓜子は笑いながら、「痛い痛い」と逃げ惑うことになった。
瓜子が涙を流さないのは、退院が決定した昨日からすでに何度となく涙をこぼしていたためであろうか。
もちろん瓜子の胸中にも、涙をこぼしたいぐらいの喜びがあふれかえっている。ただそれ以上に、瓜子はぐしぐしと涙をこぼすユーリを温かく見守ってあげたい気持ちであったのだった。
(きっとユーリさんはこの先も、あちこちで心をかき乱されちゃうんだろうからな。あたしも泣いてばっかりいないで、しっかり支えてあげないと)
そんな思いを新たにしながら、瓜子は更衣室のドアを開き――そして、「うわっ」とのけぞることになった。
「せ、千駄ヶ谷さん? こんなところで、何をやってるんすか?」
「失礼。雑務が溜まっていましたもので」
千駄ヶ谷は真っ直ぐに背筋をのばしてパイプ椅子に座し、タブレットを操作していた。
「あ、いや、だからその、どうしてこんなところでお仕事をされているのかってお尋ねしているのですけれども……」
「稽古場は賑やかですし、事務室はジョン氏が使用されていたため、もっとも静かなこちらの更衣室をお借りした次第です」
「……そもそもどうして、千駄ヶ谷さんがプレスマン道場にいらっしゃるんですか? ユーリさんに、何かご用事でも?」
「はい。可及的速やかに確認すべき案件が持ち上がりましたため、取り急ぎ参上した次第です」
千駄ヶ谷はようやく手を止めて、タブレットをブリーフケースに仕舞い込んだ。
そして、縁なし眼鏡の向こう側から、絶対零度の眼差しを突けつけてくる。
「ユーリ選手、退院おめでとうございます。何点か、お話しさせていただきたい案件があるのですが……まずは、お召し替えのほうをどうぞ。私は、こちらで見守らせていただきます」
「はあ……それでは少々お待ちくださいませ」
人相を隠す三点セットを外しつつ、ユーリは瓜子の耳もとに肉感的な唇を寄せてきた。
「千さんに出くわしたら、涙もひっこんじゃったよぅ。何かお説教の類いだったら、うり坊ちゃんが守ってね?」
「退院早々、お説教される理由はないっすよ。自分もちょっとおっかないっすけど、とにかくまずは着替えましょう」
ということで、瓜子たちはそれぞれ着替えを開始することにした。
愛音や灰原選手や多賀崎選手も、千駄ヶ谷のほうをちらちらとうかがっている。『トライ・アングル』の打ち上げなどですっかり見知った間柄であるのだが、それ以上に密接な関係であるユーリや瓜子でさえ緊張を解けないのだから、彼女たちはそれ以上に気を張っているはずであった。
が――やがて待つほどもなく、彼女たちの注目は千駄ヶ谷からユーリに切り替えられた。ユーリが衣服を脱ぎ捨てて、その肢体をあらわにしたのである。
「うわー! やっぱり、すっげー破壊力だー! そんなのもう、反則としか言いようがないじゃん!」
灰原選手のそんな雄叫びに、女子選手一同の思いは集約されていた。
そして瓜子もまた、例外ではない。毎日顔をあわせていた瓜子でも、ユーリの裸身を目にする機会などはそうそうなかったのだ。
院内のリハビリにおいてもユーリはラッシュガードにロングスパッツという格好であったので、そのプロポーションが以前よりも破壊力を増していることは明かされている。しかしそれが下着姿となると――やはり、目を剥くようなインパクトであった。
これから稽古であるので、ユーリが身につけているのは色気も何もないスポーティーな下着である。が、色気などはその肢体だけで十分であった。五キロ以上も平常体重が増したユーリは、もともと規格外であった色気がさらにブーストされたのである。
きっと下着は、ワンサイズ大きなものを着用しているのだろう。そうでないと収まりきらないぐらい、ユーリは胸と尻が肥大していた。
さらに、背中も大きくなっている。筋肉が筋肉に見えない特異体質であるため、まったくごつい印象はないのだが、なめらかな曲線を描く背中も明らかにボリュームを増しているのだ。そしてそれが、腰のくびれをいっそう強調しているのだった。
もともと肉感の極致であった太腿もさらに大きく張り詰めて、それが膝ですぼまってから、またふくらはぎで膨張する。その脚線美も、上半身に負けていなかった。百六十七センチで六十五キロのウェイトというのは、なかなか逞しい部類であるはずであったが――やはりユーリの場合は、それがすべて色香に転化されてしまうのだった。
さらにユーリは、肌の白さまで増している。もともと日本人離れして白かった肌が、文字通り雪のような白さであるのだ。
きわめつけには髪まで白いものだから、雪の精霊のように見えてしまう。もはやユーリの肉体で白くないのは、瞳と唇だけなのではないかと思えるほどであった。
「……猪狩さん。こちらをお向きください」
ユーリの美しさに見とれていた瓜子は、千駄ヶ谷のそんな言葉で我に返ることになった。
「え? じ、自分が何すか?」
「こちらをお向きくださいとお願いしています。ああ、どうかウェアは着ずに、そのままで」
瓜子もまた、下着姿になったところであったのだ。瓜子が脱いだばかりのTシャツを胸もとにあてがいながら千駄ヶ谷のほうを振り返ると、たちまち冷徹な声が飛ばされてきた。
「そちらの手をお下げください。これでは、確認もままなりません」
「か、確認って何のお話っすか? まずは、説明をお願いします」
「これは、ユーリ選手のモデル活動にまつわる重要な案件であるのです。事情はのちほどご説明しますので、まずは確認作業を遂行させていただきたく思います」
それだけ言って、千駄ヶ谷は薄い唇をぴたりと閉ざしてしまう。
瓜子は半ばやけくそで、Tシャツを握った手をおろす。すると、すぐ隣にたたずむ下着姿のユーリが「うわあ」とはしゃいだ声をあげた。
「かわゆいかわゆい。水着姿のお写真はいくつも拝見しましたけれども、やっぱり肉眼で見るかわゆさは絶大だねぇ。この何ヶ月かで、うり坊ちゃんはいっそう魅惑的なプロポーションを完成させているのです」
「ユ、ユーリさんに言われたって、嫌味にしか聞こえないっすよ。なんなんすか、そのけしからんプロポーションは?」
「ユーリはすっかり肥え太ってしまったので、お恥ずかしい限りでありますぅ」
ユーリが恥ずかしそうに肢体をくねらせると、いっそうの色香が匂いたつ。同性愛と無縁の瓜子でも、目が眩んでしまいそうだった。
「……ありがとうございます。もうけっこうですので、お召し替えをお続けください」
千駄ヶ谷の言葉に従って、瓜子は大急ぎでトレーニング用のTシャツとハーフパンツを着込んだ。
ユーリは山科医院で新調した、ラッシュガードとロングスパッツだ。白い裸身が隠されてもボディラインの強調される装いであるため、また趣の異なる色香が匂いたつばかりであった。
「……それで、今のはどういう悪ふざけだったんすか?」
「悪ふざけではありません。ユーリ選手のモデル活動にまつわる、重要な確認作業です」
真っ直ぐに背筋をのばしたまま、千駄ヶ谷はすっくと立ち上がった。
「ユーリ選手が本日退院するとうかがった私は、いくつかの出版社にご連絡を差し上げました。すると……何社もの編集部の方々が、モデル活動の再開に対して意欲的な姿勢を示してくださったのです」
「ええ? ほんとですかぁ?」と、ユーリは瞳をきらめかせる。ユーリは選手活動と音楽活動の次に、モデル活動の再開も熱望していたのである。
「でもでも、ユーリはこのように肥え太ってしまいましたし、髪の色も変わってしまいましたし……いざユーリが現場に出向いたら、みなさまを失望させてしまうのでは……?」
「その恐れがないことを、ただいま確認させていただきました。ユーリ選手はむしろモデルとしての魅力が飛躍的に向上していますので、各関係者の方々を失望させる事態には至らないでしょう。その事実を広く知らしめるために、まずはプレ撮影会を実施したく思います」
「ふみゅみゅ? プレ撮影会とは……アトミックのプレマッチと同じようなものでありましょうか?」
「左様です。プレとはプレリミナリーの略でありますね。ユーリ選手のモデルとしての価値を再確認したいと願う編集部の方々にご足労いただき、簡易的な撮影会を開催するのです。期日は、一週間後の木曜日で如何でしょう?」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」と、瓜子は慌てて声をあげることになった。
「ユーリさんは、今日退院したばかりなんすよ? それで一週間後にそんな仕事を開始するのは……いくらなんでも、性急すぎないっすか?」
「ユーリ選手は本日から稽古を再開し、三日後の《アトミック・ガールズ》においても試合会場まで出向かれるのでしょう? であれば、ユーリ選手が元気になられたことは、SNS等によってたちまち拡散されることでしょう。それでモデル活動の再開が遅延すれば、アピールのチャンスを逸します。ユーリ選手復活のムーブメントを盛り上げるには、多面的に計画を進めていく必要があるのです」
千駄ヶ谷は、吹きすさぶ氷雪のごとき言葉を瓜子に叩きつけてきた。
「ユーリ選手は《アトミック・ガールズ》においても、九月大会からの復帰を希望されているのですよね? であれば、モデル活動も音楽活動も九月にピークを迎えられるように、今から入念に準備を進めておく必要がありましょう」
「えーっ! それじゃーもしかして、『トライ・アングル』もソッコーで活動再開するってことー?」
灰原選手が期待に満ちみちた面持ちで身を乗り出すと、千駄ヶ谷は冷たい横目でそちらを見やった。
「それは、部外秘の案件となりますが……灰原選手は今日という日まで、ユーリ選手にまつわるすべての秘密を厳守してくださったようですね」
「あったりまえじゃーん! ピンク頭はともかく、うり坊にはキラわれたくないからねー!」
「では、こちらの案件も口外法度ということでお願いいたします。……音楽活動におけるピークというのは、やはり新曲のリリースということになるでしょう。であれば、八月中に何らかのライブ活動を行ってユーリ選手の活動再開をアピールしつつ、九月に新曲のリリースというのが理想的であるかと思われます。そして、それらの活動を補強するためにも、モデル活動を一刻も早く再開させなければならないのです」
「あー、撮影してから雑誌が発売されるまで、けっこータイムラグがあるもんねー。八月から九月にかけて盛り上げたいなら、そりゃーのんびりしてられないかー」
すっかりモデル活動が板についてきた灰原選手は、納得顔でうんうんとうなずく。
しかし瓜子は、まったく納得がいっていなかった。
「で、でも、それじゃあなおさら大変じゃないですか。ユーリさんはまだ定期健診も続けなきゃいけない状態なのに、選手活動と音楽活動とモデル活動を同時に再開させるだなんて……あまりに過酷じゃないっすか?」
「先刻も申し上げました通り、それらを同時に進行させることで、最大限の効果をあげたく願っています。逆説的に申し上げますと……個々の活動を順番に再開させるのではインパクトが足らず、話題性の獲得に失敗する恐れがあるかと思われます」
「ど、どうしてですか? ユーリさんが復帰するだけで、インパクトは絶大だと思いますけど……」
「それは、選手活動においてもモデル活動においても、きわめて強力なライバルが存在するためとなります。それが何者であるかは、ご説明の必要もありませんでしょう?」
瓜子が思わず口ごもると、千駄ヶ谷はさらにたたみかけてきた。
「そう。その強力なライバルとは、猪狩さんご自身に他なりません。ファイターとしてもモデルとしても絶大な支持を得た猪狩さんこそが、ユーリ選手にとって最大のライバルとなってしまうのです。現在の猪狩さんに対抗して、ユーリ選手の復帰をアピールするには、選手活動と音楽活動とモデル活動の再開を同時に進める必要がある――私はそのように愚考いたしました」
「それじゃあ、もしかして……さっきのは、猪狩と桃園のどっちがモデルとして魅力的かを確認してたわけですか?」
多賀崎選手が厳しい面持ちで声をあげると、千駄ヶ谷は「いえ」と鋭く応じた。
「猪狩さんとユーリ選手の対立構造は、可及的速やかに粉砕しなければなりません。ご両名は顧客を奪い合うことなく、共存し、扶助し合い、最大限の相乗効果を得られるように努めるべきであるかと思われます」
「それを聞いて、安心しました。競い合いがファイターの基本だとしても、お客の奪い合いなんて馬鹿げてますからね」
そう言って、多賀崎選手は表情をやわらげた。
「じゃ、さっきの一幕は何だったんです? 二人の下着姿をじっくり検分してたみたいですけど」
「はい。私はお二人のモデルとしての相性に変化がないかを確認しておりました。お二人がおたがいの魅力を引き立て合う関係にあることは『トライ・アングル』における撮影の現場で立証されておりましたため、そこに変わりがないかどうかを確認しておく必要があったのです。……一週間後のプレ撮影会には、猪狩さんもご参加をお願いしたく思います」
「な、なんでそういう話になるんすか!」
「お二人の共存を目指すためです。私はプレ撮影会の場で、ユーリ選手と猪狩さんのペア撮影を推奨しようと考えております。お二人がご一緒に雑誌の表紙等を飾ることで、お二人の対立構造に大きな穴を穿つことがかなうことでしょう」
立ち眩みを起こした瓜子は、背後のロッカーにもたれかかってしまった。
すると、愛音が肉食ウサギの形相で進み出る。
「であれば! 愛音もユーリ様のご復帰に助力させていただきたいのです! そのプレ撮影会というものに、愛音も参戦を希望するのです!」
「……ユーリ選手と猪狩さんと邑崎さんのトリオ撮影というのは、『トライ・アングル』にまつわる案件においてのみ実現されておりました。それを他なる現場でお披露目するというのは、『トライ・アングル』の特典グッズの希少性を損なう結果を招くことでしょう」
千駄ヶ谷は、絶対零度の眼差しを愛音に突きつけた。
「――ただしそれは、昨年までのお話です。今この時点においては、そちらのトリオ撮影の成果を事前に公表することで、『トライ・アングル』の活動再開に対する期待感の呼び水になり得ます。私も邑崎さんにご連絡を差し上げようと思案しておりましたので、こちらでお会いできたのは思わぬ僥倖でありました」
「光栄であるのです! ユーリ様のご復帰を盛り上げるためでしたら、愛音はどのような苦難も厭わないのです!」
「えー! だったらあたしも、まぜてほしいなー! 今ならあたしだって、そこそこ話題を呼べるだろうしさ!」
灰原選手が笑顔で言いたてると、千駄ヶ谷は初めて思案顔になった。
「そうですね……灰原選手もこの短期間で、小さからぬ評判を呼んでおりますし……私としては邑崎さんとのトリオ撮影で『トライ・アングル』の存在を強調したいという思いもあるのですが……それとは別枠で、女子ファイターのイメージアップ戦略として組み込めば……また異なる効果を期待できるやもしれません」
「やったー! あたしだって、イネ公には負ける気がしないもんねー!」
と、二羽の凶悪なウサギたちが熾烈な視殺戦を展開することに相成った。
それを横目に、瓜子は最後の抵抗をさせていただく。
「でもやっぱり、自分はユーリさんの体調が心配っすよ。そんな大がかりな計画の最中に体調が悪くなったりしたら、それこそ大ごとでしょう?」
「むろん、復帰計画の頓挫こそが、もっとも警戒すべき事態です。ユーリ選手の体調不良で試合やライブや撮影の仕事をキャンセルする事態に至れば、何もかもが水泡に帰してしまうのですからね。そこは最大限に考慮しつつ、慎重かつアクティブに計画を進めたく思っています」
そんな風に言ってから、千駄ヶ谷はいっそう凍てついた目つきになった。
「ただし……復帰ムーブメントの最初のピークが九月というのは、かなり際どいラインではないかと思われます。もしもユーリ選手の選手活動の復帰が十一月大会までもつれこんでしまったならば、すべては遅きに失してしまうやもしれません」
「お、遅きに失してしまう、ですか……?」
「はい。ユーリ選手が渡米したのは、昨年の九月となります。つまり、『アクセル・ロード』の放映を目にしていなかった方々にしてみれば、それ以降ユーリ選手の存在を身近に感ずる機会がなかったということです。まあ、八月中にこなした撮影の成果は、九月中にも披露されていたわけですが……それも、誤差の範疇でしょう。世間から一年にわたって姿を隠すというのは、トレンドの移行が加速化された昨今において致命的な停滞であるのです」
瓜子はぐっと言葉に詰まることになった。
ユーリが最後に出場した《アトミック・ガールズ》は去年の七月大会であり、しかもそれは鞠山選手を相手にしたエキシビションのグラップリング・マッチであったのだ。公式試合に関しては、五月大会のジーナ・ラフ選手との再戦にまでさかのぼるのだった。
そしてユーリは、三日後に開催される七月大会にも復帰が間に合わなかった。この時点でもう、《アトミック・ガールズ》に一年以上出場できないことが確定しているのだ。この上、九月大会の出場まで逃してしまったら――それこそ、宇留間選手と対戦した十一月まで、まるまる一年も休業することになるわけであった。
さらに瓜子は、千駄ヶ谷がまだ知り得ない情報を握っている。
瓜子は十月に開催される《アクセル・ジャパン》に出場することが、ついに決定されたのである。それは先月の中頃に連絡が入り、まだプレスマン道場のコーチ陣とユーリにしか明かされていない事実であった。
ユーリが復帰する前に、瓜子が《アクセル・ジャパン》に出場してしまったら――ユーリの存在をいっそうかき消すことになってしまうのではないだろうか?
瓜子がもっとも恐れているのは、その一点であった。
「『トライ・アングル』は八月中にシークレットライブを行い、九月中にニューシングルをリリースできるように調整しています。無論、ユーリ選手の体調に支障があれば、延期せざるを得ませんが……私はまず、最善を尽くすべきだと考えています。モデル活動の速やかな再開も、その計画の一環であるのです。ユーリ選手の復帰を最大限に盛り上げるには、それが最善の手立てであるはずです。……猪狩さんにも、ご賛同をいただけますでしょうか?」
千駄ヶ谷にとどめの一撃をくらった瓜子は、両足を踏まえながらユーリのほうを振り返った。
そこに待ち受けていたのは――子供のように無邪気な笑顔である。
「むずかしいことはよくわかんないけど、うり坊ちゃんと一緒に撮影のお仕事ができたら、嬉しいなぁ。想像しただけで、おなかが空いちゃいそうだよぉ」
瓜子はさまざまな感情に心をかき乱されながら、綺麗にカットされたユーリの髪を引っ張ることにした。
そうすると、ユーリはいっそう嬉しそうに微笑んだのだった。




