02 下準備
瓜子とユーリが帰りついてから三十分ていどが経過すると、来客を告げるチャイムが鳴らされた。
これは、予定されていた来客である。インターホンのモニターでそれを確認した瓜子がオートロックを解除すると、やがてその人物が玄関口にやってきた。
「どうも、お邪魔します。……おひさしぶりですね、瓜子ちゃん」
当世風の容姿端麗な青年が、にこりとやわらかく微笑みかけてくる。身長は百七十センチていどで、モデルのようにすらりとしていて、黒を基調にしたシックでお洒落な装いをした、線の細い美青年――ユーリの数少ない友人、アキくんこと清寺彰人である。
「どうも、おひさしぶりです。今日はわざわざ、ありがとうございます」
「いえ。ユーリちゃんの力になれるなら、すごく嬉しいです。ユーリちゃんは、大丈夫ですか?」
「はい。ただちょっと、大事なご友人とお会いするのに尻込みしちゃってる部分があるんで……どうかお気を悪くしないでくださいね」
「あはは。ユーリちゃんは、デリケートですからね」
アキくんとお会いするのは一年以上ぶりであったが、その優しい笑顔が瓜子を安心させてくれた。
そうしてアキくんをともなってダイニングに向かってみると――ユーリは再びニット帽をかぶり、冷蔵庫の脇で小さくなっていた。
「ユーリちゃん、ひさしぶり。もう身体のほうは大丈夫なの?」
ユーリのありさまに驚いた様子もなく、アキくんはやわらかい微笑を投げかける。
ユーリは「あうう」と頭を抱え込みながら身をよじった。
「ど、どうもおひさしぶりなのです……アキくんもお元気そうで、何よりなのです……」
「うん。無事に退院できて、よかったね。僕もトシ先生も、ずっと心配してたんだよ」
そのように応じながら、アキくんはメッセンジャーバッグとともに携えていた紙袋を差し出した。
「これ、お見舞いに行けなかったから、今日わたすね。ユーリちゃんの大好きな、『フロマージュ』のチーズケーキだよ」
「わあ、ありがとー!」と冷蔵庫の脇から飛び出しつつ、ユーリはさらに激しく身をよじった。
「あ、実はその……ユーリは入院中に、ずいぶんと肥え太ってしまいまして……」
「あ、そうなの? 全然わからなかったよ。ユーリちゃんが痩せちゃうほうが、トシ先生はガッカリするだろうしね」
ユーリがどのような姿を見せても、アキくんのやわらかな笑顔と物腰に変化はない。それでユーリも、すみやかに落ち着きを取り戻すことができた。
「やっぱり、アキくんは優しいにゃあ。そのかわゆらしい笑顔が、ユーリのココロをとろけさせるのです」
「あはは。ユーリちゃんに可愛いなんて言われたら、どんな顔をしていいのかわかんなくなっちゃうね」
そんな風に答えてから、アキくんは携帯端末で時間を確認した。
「あ、ごめん。今日も夕方から仕事だから、さっそく始めさせてもらってもいいかな?」
「うん! だけど、その……ココにもユーリの秘密が隠されているので、あんまりびっくりしないでね?」
ユーリはもじもじとしながら、ニット帽を取り去った。
そこから現れた純白の髪に、アキくんは「わあ」と瞳を輝かせる。
「すごく綺麗な色だね。どうやって染めたの?」
「それがその……気づいたら、このようなありさまに成り果てておりまして……」
「そうなんだ。ユーリちゃんには、すごく似合ってるね。そんな綺麗な髪にさわらせてもらえるなんて、嬉しいな」
「にゅわー! アキくんの果てしなき優しさに、ユーリは悶死してしまいそうなのです!」
ユーリの白い面にも、じわじわと幸福そうな表情が広がっていく。それにつれて、瓜子の胸にも同じ感情が広がっていった。
「それじゃあこっちも、準備しちゃうね。……あ、場所はここでいいのかな?」
「あ、いえ。バスルームのほうでお願いします」
瓜子が先頭に立って、バスルームまで案内することにした。
アキくんの本職はバーテンダーであるが、前職は美容師なのである。それでユーリは入院以来のばしっぱなしであった頭を散髪してもらうために、アキくんを招待することに相成ったのだった。
ユーリはこれからプレスマン道場で、不特定多数の門下生たちと対面する。そのためには、可能な限り身なりを整えなければならない。――それが、外見を重んずるユーリの信念なのである。瓜子には今ひとつ理解し難い信念であったが、もちろんユーリの意向は最大限に尊重するべきだと考えていた。
そうしてバスルームに到着したならば、ユーリはテルテル坊主のようなケープを掛けられる。そして、純白の髪を適度に湿らせたならば、いざ作業開始だ。散髪に必要な道具は、すべてアキくんのメッセンジャーバッグに準備されていた。
「それで、基本的な仕上がりは以前の通りでいいのかな?」
「うん。ユーリはそのようにお願いしたいのですけれども……この髪の色でも、マッチするかしらん?」
「きっと大丈夫だと思うよ。ユーリちゃんぐらい美人だったら、どんなスタイルでも似合っちゃうしね」
「にゃはは。アキくんったら、相変わらずお上手なのですぅ」
時間を重ねると、ユーリもどんどん本来の朗らかさを取り戻していく。ユーリとアキくんは、五年来のつきあい――それこそ、ユーリがアイドル時代からのつきあいなのである。やがてアキくんが退職するまで、ユーリはずっと彼の働く美容室でお世話になっていたのだという話であった。
「でもユーリちゃんは、本当に大変だったね。頭蓋骨の陥没骨折って話を聞いたときには、倒れそうになっちゃったよ。……申し訳ないけど、僕はやっぱり格闘技は好きになれそうにないや」
「いいのですいいのです! ユーリだって、お酒やサボテンやクラブミュージックにはまったく理解が及ばないのでありますから!」
「あ、あんまり動かないでね。……それにしても、本当に綺麗な髪だなぁ」
アキくんの繊細な指先が、ユーリの純白の髪を綺麗に切りそろえていく。その光景と二人の和やかな語らいに、瓜子は何だかうっとりしてしまった。
すると再び、来客を告げるチャイムが鳴る。
瓜子が小首を傾げつつ確認に出向くと、モニターには意想外の面々が立ち並んでいた。愛音と灰原選手と多賀崎選手の三名である。
「みなさん、どうしたんすか? ユーリさんに、何かご用事でも?」
『灰原のやつが待ちきれなくって、マンションまで押しかけようとか言いだしたんだよ。そうしたら、邑崎のやつまで食いついてきちまったのさ』
多賀崎選手は苦笑しながら、インターホンでそのように告げてきた。
灰原選手は満面の笑みで、愛音は気合の入った形相だ。門前払いをくらうなどとは、夢想だにしていないことだろう。瓜子はいくぶんひやひやしながら、バスルームに引き返すことになった。
「あの、邑崎さんと多賀崎選手と灰原選手が押しかけてきちゃったんすけど……中に入ってもらっても、大丈夫っすか?」
「むにゃ? ユーリはかまいませんけれども……アキくんは、だいじょぶ?」
「うん。こっちももうそんなにかからないからね。ユーリちゃんのお友達なら、是非あがってもらってよ」
瓜子はほっと安堵の息をつきつつ、廊下に戻ってオートロックを解除した。
そうして三名の客人が突撃してくる前に、アキくんの仕事は完了したようである。切った髪をブラシで払われて、ケープを外されたユーリは、ちょっと気恥ずかしそうに瓜子を見つめ返してきた。
「どうだろー? おかしくないかにゃあ? ……あ、アキくんの腕に間違いなどはあろうはずもないけれど、ユーリの側に問題はないかという意味でね!」
「問題なんて、どこにもありませんよ。すっかり見違えました」
ユーリの髪は瓜子と大差のないショートヘアーであったので、本当に毛先を切りそろえたぐらいであるのだろう。しかしそれでも、今からすぐに撮影の仕事があっても問題なさそうな仕上がりである。もとよりユーリはボリュームがある上にふわふわとウェーブした髪質であるので、ヘアセットをせずとも観賞に耐え得る美しさであるのだ。それがアキくんの手腕によって、完璧に整えられた格好であった。
そうしてアキくんが後片付けを完了させたところで、ドアのチャイムが鳴らされる。
新たな客人たちをダイニングに呼び寄せてアキくんに引きあわせると、まずは旧知の仲である愛音が驚きの声をあげた。
「アキくんさんなのです! どうしてアキくんさんが、こちらにいらっしゃるのです?」
「おひさしぶりです、愛音ちゃん。ユーリちゃんに頼まれて、髪をカットしていたんですよ」
瓜子と愛音がアキくんと初めて出会ったのは、今からおよそ二年半前――愛音がプレスマン道場に入門してすぐの頃となる。ユーリの数少ない友人であるアキくんに対して強い不信感を抱いた愛音が、瓜子を道連れにして二人の後を追いかけることになったのだ。その末にアキくんがトシ先生の恋人であることを知り、愛音が目を白黒させていたのも、今となっては懐かしい思い出であった。
「うわー! すっげーイケメンじゃん! ピンク頭って、こんなイケメンのトモダチがいたのー? てゆーか、あいつにトモダチがいる時点でビックリなんだけど!」
灰原選手が呆れ返った様子で声を張り上げると、多賀崎選手はすぐさま「馬鹿」とその頭を小突いた。
「初対面のお人に、失礼だろ。それに、いつまでその呼び方を続けるつもりだい?」
「だって、シロ頭じゃしっくりこないじゃん! 他に呼び方なんて思いつかないしさー!」
仲良しコンビの騒がしいやりとりを横目に、瓜子が紹介役を務めることにした。
「こちらは格闘技の関係で仲良くさせていただいている、灰原選手と多賀崎選手です。トシ先生はお二人をご存じなんですけど、アキくんは聞いてますか?」
「あ、もしかして、久子ちゃんですか? 最近あちこちで、一緒に仕事をされているそうですね」
アキくんがそのように答えると、灰原選手は「んー?」と小首を傾げた。
「そのコ、トシ先生の知り合いなのー? もしかして、モデルさんとか?」
「あ、いえ……僕はその、トシ先生とおつきあいをさせてもらっています」
アキくんがはにかみながら答えると、灰原選手は一瞬きょとんとしてから、「へー!」と満面に笑みをたたえた。
「まさか、トシ先生のイイヒトだとは思わなかったなー! こんなイケメンをゲットするなんて、トシ先生もなかなかやるねー!」
「は、灰原選手の順応力は、空前絶後であるのです」
「えー? 何がー? いまどきゲイのカップルなんて、珍しくないっしょ! トシ先生が女の尻を追っかけてたら、そっちのほうがショックだよー!」
灰原選手はけらけらと笑ってから、あらためてアキくんに向きなおった。
「トシ先生には、あたしもお世話になってるからさ! てゆーか、他のカメラマンとトシ先生じゃ、ぜーんぜん仕上がりが違うんだもん! 本音を言えば、全部の仕事をトシ先生にお願いしたいぐらいだよー!」
「トシ先生も、久子ちゃんのプロ根性に感心してましたよ。また一緒に仕事をするのが楽しみだって仰ってました」
そんな風に言ってから、アキくんは灰原選手と多賀崎選手の姿を見比べた。
「もしかして……お二人も交際されているんですか?」
「えーっ! 違う違う! うり坊とピンク頭じゃあるまいし!」
「ご、誤解を招くようなこと言わないでください。邑崎さんも、にらまないでくださいよ」
「で? そのピンク頭は、どこに行ったのさ? そろそろ出発の時間っしょ?」
「……ユーリは、ここなのです」と、ユーリは廊下に通じるドアの向こうからおずおずと顔を覗かせた。
「おーっ、きれーにカットされてるじゃん! アキくんって、そんなワザを持ってるんだー? あたしもお願いしたいぐらいだなー!」
灰原選手がそのように言いたてると、ユーリもほっとした様子で全身をあらわにした。
すると、愛音がぽろぽろと落涙してしまう。
「ユーリ様、お美しいのです……先日までのワイルドなヘアースタイルも、決してユーリ様の美貌を損なってはおりませんでしたけれど……やっぱりユーリ様には、洗練されたヘアースタイルこそがもっともお似合いであるのです」
「いちいち泣くなってばー! それより、そいつを渡してあげたらー?」
愛音はその手に、カスミソウの花束を抱えていたのである。愛音はぐしぐしと涙をこぼしながら、それをユーリに差し出した。
「こちらは……退院のお祝いであるのです……退院、おめでとうございますなのです……」
「ありがとぉ。ユーリばっかりプレゼントされちゃって、ごめんねぇ」
ユーリはたいそう恐縮しながら、その花束を受け取った。
その姿に、瓜子は思わず嘆息をこぼしてしまう。
「そういえば、自分は退院のお祝いも準備してませんでした。気がつかなくって、すみません」
「いいんだよぉ。うり坊ちゃんからは、それ以上のものをプレゼントされてるからさぁ」
ユーリは、透き通った微笑をたたえる。その手に抱えた七色のカスミソウの花束と相まって、天使や妖精のような美しさである。その姿に、その場にいる全員が目を奪われたようであった。
「こんなに優しい友達に囲まれて、ユーリちゃんは幸せだね。なんだか、羨ましくなっちゃうな」
やがてアキくんがやわらかい笑顔でそのように言いたてると、ユーリは「うにゃあ」と気恥ずかしそうに切りたての頭をひっかき回した。
「ユーリのお粗末な人生など、羨むに値しないよぉ。それに、ユーリのトモダチ扱いされたら、みなさまもシンガイのキョクチでありましょうし……」
「お、また水臭い性格が炸裂したね。今さらそんな物言いに、腹を立てるつもりはないけどさ」
と、多賀崎選手はゆったりと笑いながら声をあげた。
「それにまあ、トモダチ呼ばわりが小っ恥ずかしいってのは、こっちも同様だしね。これまで通り、気楽におつきあいさせていただくよ」
「はいぃ。多賀崎選手のカンダイなおココロには、ユーリも助けられっぱなしなのですぅ」
ユーリはカスミソウで口もとを隠しながら、にこりとあどけなく微笑む。
すると、灰原選手が「むわー!」とおかしな声をあげながら頭を抱え込んだ。
「マコっちゃん、どうしよー! この前から、ときどきこいつが可愛く見えてしかたないんだけど!」
「あんたは何を騒いでるのさ。桃園が美人なのは、昔っからだろ」
「美人だとか、そーゆー話じゃなくってさ! ほら、わかるでしょ?」
「わかるようなわからんようなって感じかな」
取り乱す灰原選手に、多賀崎選手は苦笑を返す。
きっとユーリは入院中に魅力が増幅してしまったので、時おり相手を惑乱させてしまうのだ。毎日顔をあわせていた瓜子でさえそれは同様であるのだから、他の人々はなおさらであるはずであった。
それに対して、ユーリはきょとんと小首を傾げている。
そして、そんな何気ないたたずまいでも、やはり以前よりもいっそう魅力的な姿であるのだ。
ユーリがファイターやシンガーとして復活したならば、世間の人々はどれだけの驚嘆に見舞われるのか――そんなことを想像すると、瓜子は胸が熱くなってやまなかったのだった。




