03 交流
「……あらためまして、本日お越しくださったみなさまには深く深く謝罪と感謝のお言葉を捧げたてまつりたく存じあげますのです」
愛音がようやく泣きやんだ後、稽古用のマットに膝をそろえたユーリはそんな言葉を申し述べながら、三つ指をついて純白の頭を垂れた。
実にふざけた物言いであるが、もちろん当人は大真面目である。ユーリはかしこまればかしこまるほど、独特の言語感覚が炸裂してしまうのだった。
そんなユーリを取り囲むようにして、十四名の見舞い客も扇状に座している。その中から、サキがぶっきらぼうに声をあげた。
「ちっとは人間様にも理解できる言葉を吐きやがれ、この脱色肉牛野郎。……謝罪と感謝が何だって?」
「あうう……ですからそれは、ユーリが《アクセル・ファイト》で不甲斐ない姿をお見せしてしまった一件と……ユーリなんぞのために足を運んでくださった一件についてでござそうろう……」
「あんたひとりがどれだけぶざまな姿をさらしたって、格闘技界は揺るぎだにしないんだわよ。女子選手の代表みたいな態度で謝罪の言葉を口にするほうが、よっぽど不遜なんだわよ」
鞠山選手が追撃すると、ユーリはまた「あうう……」と頭を抱え込んでしまう。その姿に、小笠原選手が苦笑を浮かべた。
「しかしまあ、サキやら花さんやらはよくもまあそんなポンポンときつい言葉をぶつけられるもんだね。そのハートの頑丈さには、感心させられちゃうよ」
「ふん。アタシらは、普段通りにしてろって話だっただろーがよ? 文句をつけられるいわれはねーな」
「だったらアタシもいつも通り、フォローさせていただくよ。……桃園、そんな小さくなることはないさ。宇留間が相手じゃ誰も無事では済まないってのは、他の試合でも証明されてるんだからね。無効試合まで持ち込んだアンタは、よくやったほうさ」
「そうなのです! あの暴虐なる輩の優勝を防いだユーリ様は、むしろ賞賛されるべきであるのです!」
ようやく涙の止まった愛音は、泣き腫らした目に気迫の炎を燃えあがらせながら加勢した。
すると、立松も和んだ面持ちで声をあげる。
「そんなことより、俺たちは桃園さんが元気になったことを喜んでるんだよ。さっきサキのやつも言ってたが、《アクセル・ファイト》なんざもう去年の話なんだ。そんな話は脇に置いて、もっと建設的な話をしようじゃねえか」
「はあ……建設的な話と申しますと……?」
「だから、これからのことだよ。桃園さんが選手としての復帰を目指してることはもう聞いてるけど、もちろんプレスマン道場に戻ってきてくれるんだろ?」
ユーリはたちまち惑乱して、肉感的な肢体をよじらせてしまった。
「そ、それはもちろん、そうさせていただきたいのは山々なのですけれども……ただ、ユーリのような不心得者にそのような所業が許されますのかどうか……」
「って、そんな頓珍漢な不安を抱えてるって話を、猪狩に聞いてたからさ。まずはそいつを解消しておこうと思ってね」
そう言って、立松は力強く笑った。
「もちろん俺たちだって、桃園さんの帰りを待ちわびてるよ。篠江会長だって、そう言ってる。お前さんがたも、異存はねえだろ? ジョン、ヤナ、サイトー」
「モチロン」「当然です!」「そりゃそうだ」という声が、同時に響きわたった。
それでユーリは、さっそくぽろぽろと涙をこぼしてしまう。
「本当に……ユーリはまたプレスマンのお世話になることを許していただけるのでしょうか……?」
「そんなことを不安に思う心境ってのが、俺たちにはさっぱりわからねえんだよな。ま、桃園さんのメンタルが不可解だってのは、百も承知してるけどよ」
「ありがとうございましゅ……」と、ユーリが深くうつむくと、マットにぽたぽたと涙のしみができてしまう。愛音は呆気なくもらい泣きしていたし、瓜子も全力で涙腺を引き締めることになった。
「あんたは繊細な部分と図太い部分が複雑に入り乱れてるよね。あたしだって、あんたがそんな不安を抱え込んでるなんて、夢にも思ってなかったよ」
そのように声をあげたのは、多賀崎選手であった。
「猪狩から聞いてるだろうけど、あたしらもまた出稽古でお世話になってるからさ。あんたが戻ってくる日を、首を長くして待ってるよ」
「ありがとうございましゅ……あっ、多賀崎選手! 遅くなってしまいましたけれど、《フィスト》の王座防衛おめでとうございます! 《フィスト》の映像はまだ目にしていないのですけれど、うり坊ちゃんからかねがねお話はうかがっておりました!」
ユーリは勢いよく頭を下げてから、今度は小笠原選手に向きなおった。
「それに、小笠原選手も! バンタム級王座の獲得、おめでとうございます! そちらの模様もまだ拝見していないのですけれども、血沸き肉躍る熱戦の連続であられたのだとうかがっておりますです!」
「あ、昨日の帰りにやっとDVDを買えたんすよ。あとでお渡ししますんで、ゆっくり楽しんでくださいね」
「わっ、ほんとにー? うり坊ちゃん、ありがとー!」
頬の涙をぬぐいもせずに、ユーリはにぱっと笑う。
その姿に、何名かの人々が感嘆の息をついた。この場でユーリが朗らかな笑顔を見せるのは初めてであったし――ユーリはそういう表情も、これまでと趣が異なっていたのだった。
(これって、何なんだろうな。ユーリさんは昔っから無邪気だったけど……それがいっそう無邪気になって、本当に天使や妖精さんみたいだ)
それでいて、ユーリは匂いたつような色香とフェロモンを復活させている。それは無垢なる聖女が魔性の色香を纏っているかのようで、ユーリをいっそう非凡な存在に思わせてやまなかったのだった。
「あっ、サキたんも王座統一おめでとーなのです! ダムダムさんも《G・フォース》のアトム級王座戴冠おめでとうございます! 小柴選手と灰原選手も『NEXT・ROCK FESTIVAL』で華麗な勝利を収められたそうですね! ムラサキちゃんも、連勝おめでとー! まりりん選手も、秒殺おめでとうございます! メイちゃまはフライ級へのチャレンジ成功、おめでとーなのです! オリビア選手は……どうかめげずに頑張っておくんなまし!」
「あははー。ワタシはユーリとお別れしてから、負けっぱなしなんですよねー」
オリビア選手は大らかに笑いながら、そのように答えた。
「でも、ユーリはすごいですねー。そんなに詳しくみんなの戦績を覚えてるんですかー?」
「はいっ! 試合の内容はずっとうり坊ちゃんにうかがっておりましたし……この二週間ほどで、数々の試合を見届けることもできましたので」
と、ユーリはまたあどけなく微笑む。
その色の淡い瞳には、心から幸福そうな光が浮かべられていた。
「みなさん、素晴らしい試合だったのです。ユーリも血肉がわきわきしてしまって、破裂寸前であったのです」
「ほー。確かにぶくぶく肥え太ったカラダは、今にもはちきれんばかりだなー」
「いやーん! ユーリも気にしているのだから、ウェイトに関してはあまり触れないでほしいのです!」
そんな風に言いながら、ユーリは甘えるようにサキを見つめた。
サキは溜息をつきながら、ポケットから取り出したハンカチをユーリの顔に投げつける。
「泣くんだか笑うんだか、はっきりしろや。……相変わらず、おめーの頭は暴力沙汰でいっぱいみてーだな」
「MMAとは、暴力にあらず! 清く正しい究極のスポーツなのです!」
「その清く正しいスポーツの場で、おめーはシリアルキラーみてーなツラをさらしてたけどなー」
その言葉に、瓜子のほうがギクリとしてしまう。
しかしサキの切れ長の目には、きわめて真剣な光がたたえられていた。
「アレはどう見ても、スポーツを楽しんでるツラじゃなかったよなー。それでもおめーは、本気で復帰してーと思ってんのか?」
「……うん。ユーリは今度こそ、邪念なくMMAの道を邁進するつもりであるのです」
サキのハンカチで涙をぬぐったユーリは、また無垢なる微笑を覗かせた。
いかなる不安も迷いも存在しない、澄みわたった笑顔である。その姿に、また何名かが息をついていた。
「だったら、何も問題はねえな。俺たちは、ただ桃園さんの帰りを待つだけだよ」
立松は、ゆっくりと噛みしめるようにそう言った。
「もういっぺん《アクセル・ファイト》を目指すんでも、ひたすら《アトミック・ガールズ》で踏ん張るんでも、何でもいい。とにかく俺たちは、桃園さんの帰りを待ってるよ。一日も早く戻れるように、桃園さんも頑張ってくれ」
「ありがとうございます。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたしますです」
ユーリは再び三つ指をついて、立松たちコーチ陣に頭を下げた。
そうして面を上げると、今度はふにゃんとした笑みが浮かべられている。ユーリとしては、もっともスタンダードな――そして、心を開いた相手にしか見せない笑顔だ。
「見る限り、熱を出しそうな気配は皆無だわね。これでもわたいたちが帰ったら、バタンキューする可能性があるんだわよ?」
鞠山選手がそのように声をあげると、車座の外に待機していた山科院長が「いやいや」と手を振った。
「発熱は、栄養の欠乏あるいは過剰摂取の先にある症状だからねぇ。最初の兆候は、栄養の欠乏による飢餓感だけれども……今のところ、心配はないようだよ」
「はぁい。お稽古のあとに、しっかりリカバリーしておりますからねぇ。今はお昼のごはんに向けて、順調に消化活動が進められている気配を感じるのみでございまする」
そのように答えるユーリも、無邪気そのものである。
山科院長は柔和な笑顔で「うんうん」とうなずいた。
「その調子で、心のリハビリに励んでくれたまえ。世間話でも何でもかまわないので、とにかくコミュニケーションを重ねることが肝要だよ」
「世間話でありますか……ですがここ最近のユーリにとっては、うり坊ちゃんの存在こそが世間様の窓口でありましたため……いったい何を語ればいいのやら……」
すると、小笠原選手が「はは」と笑い声をあげた。
「猪狩だけが相手だと、格闘技関連の話題しか出なそうだね。まあそれは、入院前から同じことなのかもしれないけどさ」
「そんなことはないのです! ユーリ様はファッションやコスメにも甚大なるご興味を寄せておられるのです!」
と、愛音が胸もとにかき抱いていたトートバッグから何冊かのファッション雑誌を取り出した。
「さしあたって、『ミリアム』と『ジュピター』の最新号と先月号をお持ちしたのです!」
「わぁい、ありがとぉ。ユーリはちょっぴりウェイトが増えちゃったから、手持ちのお洋服もどれだけ着られるかわかんなかったんだよねぇ」
貯蓄をのきなみ失いながら、呑気な言いようである。しかし、ユーリの嬉しそうな顔を見ると、瓜子も目頭が熱くなってやまなかった。
「ありがとうございます、邑崎さん。服の話なんて、自分は思いつきもしなかったっすよ」
「だろうと思って、愛音がこうして持参したのです。そもそも猪狩センパイは、女性のたしなみが欠落しているのです」
「だったらイノシシに助言してやりゃいいのによー。おめーの点数かせぎのために、ずっと口をつぐんでたってわけだなー」
「サ、サキセンパイは、やかましいのです! これは純然たる思いやりにもとづく行動であるのです!」
すると、しばらく静かであった灰原選手が「そーだ!」と声を張り上げた。
「あたしも、みやげを持参してたんだったー! うっかりこのまま持ち帰るところだったよー!」
灰原選手は、レザーのショルダーバッグを携えていた。そこから引っ張り出されたのは――漫画雑誌と情報誌である。
「ちょ、ちょっと! 灰原選手! 病院に、ナニを持ち込んでるんすか!」
「ナニって、ただの雑誌じゃん。こーゆーのも、うり坊はぜーったい見せてないだろうと思ってさー!」
それらの雑誌の表紙では、すべて瓜子の水着姿がさらされていたのだ。それに気づいたユーリが、「うわぁ」と瞳を輝かせた。
「かわゆいかわゆい! うり坊ちゃん、こんなに頑張ってたんだねー!」
「こんなの、ほんの一部だよー! 去年の秋口から、本屋やコンビニはうり坊まみれなんだから! この水着なんて、めっちゃキワドいっしょー?」
「そ、そんなもん燃やしてください! 院長先生、刺激が強すぎるんで没収をお願いします!」
「いやいや。これは桃園さんがどれだけの外的刺激に耐えられるかを確認するためのリハビリだからねぇ。刺激物、大いにけっこうじゃないか」
「あ……言われてみると、ほのかにおなかが空いてきたように思うのです」
「おっと、それは用心しておかないとね。今の内に、食事の準備を整えておこうか」
「はぁい。みなさんに囲まれながらうり坊ちゃんのグラビアを手にランチをいただけるなんて、幸福のイタリなのですぅ」
「だ、だから、そのグラビアだけが余計ですってば!」
瓜子が騒げば騒ぐほどに、他の面々は楽しげになっていく。そして、それに囲まれるユーリもまた幸福そのものの表情であった。
瓜子は掛け値なしに取り乱していたのだが――心の奥深い部分では、そんなユーリの姿に涙をこぼしたいほどの喜びを感じている。渡米してからは十ヶ月、入院してからは七ヶ月、帰国してからは半年余り――その期間、さまざまな不安や孤独に苛まれていたユーリに、ついに救いの時間がもたらされたのだった。
(……だから、心配なんていらないって言ったじゃないですか)
瓜子はそんな思いを噛みしめながら、はしゃぐユーリと雑誌の引っ張り合いに興じることに相成ったのだった。
 




