06 終幕
鈍い衝撃が、弥生子の五体に駆け巡った。
弥生子の身が、マットに倒れ伏したのである。
上段蹴りを額にくらった弥生子が、血飛沫をあげながら倒れ込んだ。世界には、そのような姿がさらされているはずであった。
弥生子の視界は、ぐにゃぐにゃと歪んでいる。
その光景が、さらに赤く染まっていった。
弥生子が、父親から受け継いだ忌まわしき力を発動させたためである。
全身が、熱い。
そして、大きく脈打っている。
心臓は早鐘のように胸郭を叩き、血液がありえないスピードで全身を駆け巡っている。この血流の暴走こそが、弥生子に人外の怪力を与えるのだ。今頃は、毛細血管の破裂した白目が真紅に染まっているはずであった。
赤の濃淡で構成された世界の中で、何か巨大な柱のようなものが見えた。
おそらくは、エドゥアルドの足である。それ以外に、このような異物が存在するいわれはなかった。
脳震盪を起こしている弥生子は、泥沼をかきわけるような心地でそちらに手をのばす。
相手が逃げようとする前に、その足首らしき箇所をつかむことができた。
弥生子の手では半分も回りきらないような、骨太の足首である。
弥生子は天から垂らされた蜘蛛の糸をつかむような心地で、その足首を握りしめた。
この状態にある弥生子は、聴覚が遮断されてしまう。頭の中に渦巻くのは、ごうごうと血が駆け巡る轟音だけだ。
よって、世界がどのような状況であるのかもわからない。もしもすでにエドゥアルドのKO勝利が宣告されているのなら、レフェリーが弥生子の身をタップしてくるはずであった。
しかしそのような感触はやってこないので、弥生子はただ彼の足首を握りしめる。
エドゥアルドは、びくりと身を震わせて――勢いよく足を引いてきた。
それでも弥生子は手を離さなかったので、マットの上を引きずられる。
その過程で弥生子は膝を立て、左手をマットに着き、引きずられる勢いをも利用して半身を起こした。
ただし、脳震盪を起こしているために、立ち上がることはままならない。
しかしまた、立ち上がる必要はなかった。彼が片足を引いたため、もう一本の足が鼻先に迫っていた。
弥生子は相手の右足首に手をかけたまま、左膝の裏に手を回す。
二十年以上にわたって磨き抜いてきたテイクダウンの技術――そして、呪われた血筋による人外の怪力によって、エドゥアルドはその場に尻もちをついた。
(貴様は、選択を誤ったのだ)
脳を巡る血液が沸騰し、弥生子を狂暴な人格に変貌させている。
その破壊衝動に従って、弥生子はエドゥアルドの上にのしかかった。
弥生子に足首をつかまれたとき、彼はもう一本の足で弥生子の背中を踏み潰すべきだった。そうすれば、そこで試合は終わっていたはずであるのだ。
(空手家としての誇りが、道を誤らせたのか? 頭から血を流した女の背中を踏みにじるのは、卑劣な行いか? しかし、背骨への攻撃さえ避けておけば、それは反則行為にあたらない。MMAの勉強と精神の修練が足りていなかったな、でかぶつめ)
大木のごときエドゥアルドの腹にまたがった弥生子は、ほとんど倒れ込むようにして右肘を振り下ろした。
いまだに平衡感覚は戻らないが、真っ直ぐ体重を乗せることはできた。頭を守ろうとする相手の左前腕に、弥生子の右肘がめりこんだ。
エドゥアルドは、瀕死のセイウチのように巨体をバウンドさせる。
しかし弥生子は腰を浮かせて、その衝撃を逃がした。
どれだけ頭を沸騰させても、MMAの技術とルールだけは忘れない。そうして理性のリソースをすべてそちらに注いでいるため、弥生子の精神は一秒ごとに狂暴さを増していった。
(二代続いて玄武館の世界王者とは、さぞかし誇らしいことだろう。貴様に相応しいのは、清く正しい武道の世界だ。こんな浅ましい残酷ショーの見世物に、貴様の居場所はない。これに懲りたら、楽しい楽しい押しくら空手に励むことだ)
弥生子は拳を使わずに、左右の肘だけを振るい続けた。
大怪獣の膂力で振るわれる、肘打ちの乱打である。その一撃ごとにエドゥアルドの腕の骨はきしみ、赤い世界に赤い血が舞った。
そうしてその丸太のごとき腕のガードがゆるんだならば、大きく旋回させた右肘を振り下ろす。肘を垂直に落とすのは反則となるので、脇を限界まで開くことで、逆方向の縦の角度でエドゥアルドの額にとどめの一撃を叩きつけることができた。
赤い世界に、また赤い血飛沫が飛散する。
それでようやく、レフェリーが弥生子の肩をつかんできた。
(ふん。これがもしもラウンド終了のストップだったら、大怪獣ジュニアもついに《レッド・キング》で初の敗北だな)
弥生子はレフェリーの腕を振り払い、エドゥアルドの上から身を起こそうとした。
しかし脳震盪を起こしているため、そのままエドゥアルドの横合いに倒れ込んでしまう。そうして弥生子が仰向けになって、天井を見上げると――真紅の世界が、黄金色の世界に塗り潰された。
照明の眩しさに顔をしかめながら、弥生子は大きく息をつく。
それと同時に、逃げようのない虚脱感が五体を包み込んできた。忌まわしき力の発動時間が終わりを迎えたのだ。
耳鳴りがおさまると、その代わりに大歓声が耳をふさいでくる。その向こう側から、かすかにリングアナウンサーの声が聞こえてきた。
『一ラウンド、三分四十三秒! グラウンド・エルボーにより、赤星弥生子選手のKO勝利です!』
そんな言葉が、弥生子の空虚な心にじっとりとしみこんでくる。
勝利の喜びなど、わきかえるわけもない。醜い本性を引きずり出された反動で、弥生子は自分をくびり殺したいぐらいの自己嫌悪に見舞われるのが常であった。
(……すまない、エドゥアルド。私はまた、君のことを侮辱してしまった)
弥生子がそんな思いに沈んでいると、力強い腕でマットの上に起こされてしまった。
そうして弥生子の身を起こしたレフェリーが、弥生子の右腕を高々と持ち上げる。羞恥と自己嫌悪と虚脱感の渦中にある弥生子は、とうてい誰にも顔向けできない心境であったが――この見世物を締めくくるために、毅然と頭をもたげてみせた。
その後はほとんど担がれるようにしてフェンス際まで運ばれて、額の負傷に応急手当を施される。そしてリングドクターの向こう側から、チーフセコンドの大江山軍造が笑顔を覗かせた。
「お疲れさん! そんな大流血は、ひさびさだったな! まあそのおかげで、この盛り上がりだ! 見事な復帰試合だったよ!」
もちろん弥生子には、返す言葉もない。
無事に役目を果たせたのは喜ばしい限りであったが――それを誇る気持ちにはなれないのだ。
(桃園さんや猪狩さんとの試合では……たとえ勝てなくても、あんなに誇らしい気持ちだったのにな)
それはむしろ、勝てなかったからこその気持ちであったのだろうか。
しかし、弥生子にとっては些末な話である。弥生子は自分の心情など関係なく、ただ赤星道場と《レッド・キング》の繁栄を願うばかりであった。
しばらくすると、閉会式を行うために他の出場選手たちもケージに上がってくる。
誰もが、満ち足りた面持ちである。たとえ勝とうが負けようが、彼らはまたとない充足感を得ることができるのだろう。
そんな彼らを眺めていると、空虚な気持ちにわずかな温もりが宿される。
この場を守るためにこそ、弥生子は大怪獣を演じているのである。虚しい思いも自己嫌悪も、この輝ける光景を守るためであれば――決して耐えられないわけがなかった。
試合後の弥生子が役立たずであるのは周知の事実であるため、他の面々によって閉会式は進められていく。閉会の挨拶は、セミファイナルで勝利をおさめた晴輝が担ってくれた。
『今年は遅い開幕になっちまったけど、そのぶん盛り上がったろ? このまま年の終わりまで突っ走るんで、応援よろしくな!』
晴輝の威勢のいい言葉に、観客たちもいっそうの歓声を張り上げる。
弥生子は、砂場で遊ぶ我が子を見守っているような――あるいは、彼岸から現世の営みを見守っているような心地である。幻影の大怪獣を演じている弥生子は、まさしく彼岸の住人のようなものなのかもしれなかった。
そんなさなか、現世の住人がひたひたと弥生子のほうに近づいてくる。
それは弥生子と同じように額に止血のガーゼを張られた、エドゥアルドであった。
「ヤヨイコサン。キョウモ、カンパイデス。……マタイツカ、サイセン、オネガイシマス」
「……機会があれば、こちらこそお願いしたい」
曇りのない眼差しをしたエドゥアルドに、弥生子はそのように答えるしかなかった。
すると次には、ナナがやってくる。ナナも右目の上にガーゼを張られていたが、それ以外に目立った外傷はなく――そして、いつになく頼りなげな表情をしていた。
「師範、大丈夫かい? ほとんどかするような当たりだったけど、相手はエドゥアルドなんだからね。道場に帰る前に、きっちり病院で検査してもらうんだよ?」
弥生子は、「ああ」とだけ答えた。
すると――弥生子の前にひざまずいたナナの目に、うっすらと涙がにじんでくる。そしてその精悍に引き締まった顔が、見る見る泣き顔に変じてしまった。
「あんまり心配させないでよ。弥生子ちゃんが、死んじゃったかと思っちゃったじゃん」
「……ナナがそんな風に私を呼ぶのは……いったい、いつ以来だろうな……」
「うるさいよ、もう!」
ナナは深くうつむいて、弥生子の力ない右拳を両手で包み込んできた。
弥生子は鉛のように重い左手を持ち上げて、ナナの肩を叩いてみせた。
「その点、ナナは頑張ったな……明日はじっくり、ナナの試合を映像で確認させてもらうぞ……」
「だから、うるさいってば!」
ナナは荒っぽく涙をぬぐうと、怒った顔で弥生子の脇に腕を差し入れてきた。
そして、いつの間にか近づいてきていたマリアが、逆側から弥生子の身を支えてくれる。そうして弥生子が立ち上がると、大歓声がうなりをあげた。
観客たちは、今日の見世物にも満足してくれたようである。
それを誇らしく思えたならば、どれほど幸福な心地であるのだろう。
いつの日か、自分が消え去った後の《レッド・キング》でも、これだけの熱狂が生まれますように――弥生子は、そんな風に願うことしかできなかった。
◇
「……あ、目が覚めましたか?」
六丸の声が、ぼんやりと聞こえてくる。
弥生子が眼球にはりつくまぶたを無理やり開くと、かすむ視界の中で六丸が笑っていた。
「ここは……どこだ……?」
「軍造さんの、車の中です。弥生子さんは、控え室に戻る途中で意識を失ってしまったんですよ」
子犬のような顔で微笑みながら、六丸はそのように言いつのった。
「リングドクターとぜーさんが二人がかりで診察してくれましたけど、ただ疲労の限界で眠ってしまっただけだろうというお話でした。だけどもちろん病院でも診てもらう必要があるので、取り急ぎこちらで休んでもらうことになったんです。搬出の作業が完了したら、すぐ病院に向かいますからね」
「だったら……お前も、そちらの手伝いを……」
「やだなぁ。弥生子さんをひとりで残していけるわけないじゃないですか。そんな真似をしたら僕がみなさんに殺されちゃいますし、そうでなくったって動くつもりはありませんよ」
そんな風に語りながら、六丸はすべてを包み込むように弥生子を見つめてきた。
「自己犠牲の時間は、もうおしまいです。弥生子さんはしっかり役目を果たしたんですから、あとは僕たちを頼ってください。診察を受けて、何事もなかったら、楽しい打ち上げが待ってますよ。もちろん、猪狩さんたちも合流してくれますからね」
「…………」
「だからそんな、つらそうな目をしないでください。弥生子さんを嫌っている人なんて、どこにも存在しません。みんな、弥生子さんのことが大好きなんですよ」
この時間の弥生子がぬぐい難い自己嫌悪にまみれていることは、六丸にだけ打ち明けている。同じ道場の人間には、決して打ち明けることができなかったので――六丸にだけ、この苦痛を知ってもらうことになったのだ。
「……私はまた、醜い自分と向き合うことになってしまった……」
「ええ。誰だって、聖人君子ではいられません。みんなは醜い自分に蓋をしているだけのことですよ」
「……私は、エドゥアルドを侮辱した……私は彼の輝かしい人生に、羨望し、嫉妬しているのだ……私は自らの意志で、こんな場所に居座っている立場であるのに……内心では、醜い嫉妬にまみれているのだ……」
「それだって、何もおかしなことはありません。人間は、理性でそういう感情を抑制しているだけなのですよ。弥生子さんはそんな自分の醜さと向き合うことも恐れずに道場と《レッド・キング》を守っているのだから、立派です」
六丸の声は、限りなく優しい。
そんな優しい言葉を求めて、弥生子は六丸に真実を打ち明けることになったのだろう。それもまた、弥生子の浅ましさの証であった。
「……私はかつて……桃園さんと猪狩さんのことをも侮辱したのだ……」
浅ましい自分を八つ裂きにしてやりたくて、弥生子はそんな言葉を口にすることになった。
「彼女たちも、エドゥアルドに負けないぐらい輝かしい人生を送っている……私はきっと、心から格闘技を楽しんでいる人間に嫉妬を覚えずにはいられないのだ……私がどれだけ汚い言葉で彼女たちを侮辱していたかを知れば……さすがにお前も、笑ってはいられないだろうな……」
「そんなことはないですよ。猪狩さんたちがどれだけ魅力的な人間でも、僕にとって一番大切なのは弥生子さんなんですからね」
六丸の手が、弥生子の手にそっと触れてくる。
彼が自ら弥生子に触れてくるのは、きわめて珍しいことであった。
「それに、桃園さんと猪狩さんは弥生子さんに負けませんでした。弥生子さんの醜い部分ごと、大怪獣の幻影を打ち砕いてくれたんです。だからきっと弥生子さんにとっても、彼女たちは特別な存在なんでしょうね」
「…………」
「いや、それは順番が逆なのかな? 弥生子さんは桃園さんに負けることで、とても安らかな心地を抱くことができたから……それで、猪狩さんとも試合をしたいと考えるようになったんですか?」
「…………」
「もう、危ない賭けだなぁ。もしも弥生子さんが勝っちゃってたら、猪狩さんと素直な気持ちで向き合うこともできなくなっちゃってたかもしれませんよ? 道場の外で初めて出来た大事なお友達なんだから、そんな危ない真似はもうしないでください」
そうして六丸は、弥生子の手をつかんだ指先にぎゅっと力を込めてきた。
「まあ何にせよ、猪狩さんと桃園さんに負い目を持つ理由はないということです。これからも、心置きなく仲良くしてください」
「しかし、お前は……私に勝てたことがないのだぞ……? つまり……お前は私に侮辱されたままであるということだ……」
弥生子のそんな言葉にも、六丸の笑顔が曇ることはなかった。
「僕なんかは本当に不出来な人間なんですから、どれだけ侮辱されたってしかたありません。それでも嫌われないように頑張るだけです」
「お前を嫌う人間など……この世に存在するものか……」
弥生子は放埓な気分で、そのように言い放った。
「お前が望めば、どんな相手とでも結ばれることがきるだろう……お前には、もっと相応しい相手がいるはずだ……」
「そんなことはありませんよ。何にせよ、僕は弥生子さんひと筋です」
「だが……お前はもう、数年にわたって勝負を挑んでいない……それは、私との結婚をあきらめたということではないのか……?」
「まさか。それはただ、弥生子さんの負担になりたくないだけですよ。弥生子さんは道場の再興にすべての力を振り絞りたいと考えているんですから、僕なんかのために無駄な力を使ってほしくないだけです」
「ならば……やはり結婚をあきらめたのと同じことではないか……?」
六丸は「まさか」と繰り返した。
その顔は、子犬のように微笑んだままである。
「僕は、時期を待っているだけです。弥生子さんの肉体が限界を迎えて、例の力を使えなくなったら、もう僕の楽勝じゃないですか。そうしたら、結婚なんてし放題です」
「お前は……見下げ果てたやつだな……」
弥生子が思わず笑ってしまうと、六丸もいっそう嬉しそうに口もとをほころばせた。
「僕はいつまでも待っていますから、弥生子さんは納得がいくまで頑張ってください。大怪獣としての役目を果たしたら、楽しい第二の人生が待っていますからね」
「わかった、もういい……それ以上、浮ついた言葉を口にするな……やっぱりお前がそばにいると、私の闘志が鈍ってしまいそうだ……」
「そんなものは、次の興行まで眠らせておけばいいんですよ」
六丸の優しい笑顔を赤い目に焼きつけてから、弥生子はまぶたを閉ざすことになった。
五体は鉛のように重く、心の奥底にはどす黒い自己嫌悪がぐつぐつと煮えたっている。しかしそれでも六丸のもたらした温もりが、じわじわと端のほうから弥生子の身と心を浄化していくような心地であった。
(そして、この後は……猪狩さんにも会えるのか……)
そんな風に考えると、六丸によって浄化された心がいっそう人間らしい温もりを帯びていく。
そうして弥生子は六丸に手を握られながら、再び深い眠りに落ち――次に目覚めたときには、澄みわたった気持ちで大切な人々と向き合うことがかなったのだった。




