03 執念
赤星道場の門下生を詰め込んだ六台もの車両は、事故を起こすことなく目的地に到着した。
本日の会場は『恵比寿AHEAD』で、収容人数は千三百名ていどだ。半年以上もの期間を空けて、それほどの集客が望めるかどうかは半分がたギャンブルであったのだが――幸いなことに、今回も入場チケットはソールドアウトとなっていた。
かつては二百名ていどの集客しか望めなかったことを思えば、大きな躍進であろう。弥生子はたった二回だけ外の世界に飛び出して、桃園由宇莉や猪狩瓜子というモンスターを相手取ることによって、《レッド・キング》にこれだけの繁栄をもたらすことがかなったのだった。
「そういえば、ユーリさんもいよいよ退院が近いみたいですね!」
駐車場から会場に向かう道行きでそのように言いたてたのは、マリアであった。
弥生子がそれを掣肘するより早く、すみれが「マリアちゃん」と声をあげる。
「いちおうそれは部外秘のお話です。世間にもれてしまったら、猪狩さんに顔向けできなくなってしまいますよ」
「あー、そうでした! 弥生子さんも、ごめんなさい!」
素直なマリアは、眉を下げながら頭も下げる。
すみれはうっすらと微笑みながら、さらに言葉を重ねた。
「それに、退院が決まったわけではありません。あくまで、退院に向けて最後のステップに進むというお話だったでしょう? ぬか喜びをすると、あとでガッカリすることになりますよ」
「うん、そうですねー。でも、どうしても期待がふくらんじゃいます! 夏の合宿ではご一緒できるといいですね!」
「だから、もう少し声量を落としましょう」
すみれがそのように言ったとき、背後から二階堂ルミが駆けつけてきた。彼女もキックのアマチュア選手として、《レッド・キング》で初めての試合を行うことになったのだ。
「なになにー? ユーリちゃんがどうしたのー? うちもナイショ話に入れてほしいなー!」
「なんでもありませんよ。もしもユーリさんの退院が間に合うようだったら、合宿稽古にお誘いしたいと話していただけです」
「おー! ユーリちゃんが参加してくれるなら、うちもぜーったい参加するよー! また『トライ・アングル』のシークレットライブとかあったら、泣くに泣けないもんねー!」
「まだ退院も決まっていないんだから、はしゃぐ必要はありませんよ。それより、試合に集中しましょう」
すみれは今年で十九歳という若年であったが、赤星道場に所属する女子選手の中ではもっとも沈着である。ナナでさえ、すみれに比べれば血気盛んの一面が存在した。
しかしすみれも、ただ沈着なだけの人間ではない。幼い頃から赤星家の確執と道場の低迷っぷりを見守ってきたせいか、本来の繊細な気性を押し隠す人間に育ってしまったのだ。彼女はいつでも微笑をたたえていたが、心からの笑顔を見せるのは年に数回ていどであった。
(……まあそれでも、私よりはよっぽど素直なのだろうがな)
弥生子がそのように考えたとき、関係者用の出入り口に到着した。
いきなり三十名近い来客を迎えて、守衛の人間は慌てた顔をしている。ひとつの道場からこれだけの人間が押し寄せるのは、他の興行ではありえない事態であるのだろう。
そちらでひとりずつ素性を確認されて、全員が無事に入館を果たすと、先に入場していた初老の人物が笑顔で近づいてくる。赤星道場の経理や雑務を一身に担ってくれている人物であった。
「みなさん、お疲れ様です。手続きは済ませていますので、控え室のほうにどうぞ」
「おう! 爺さんには、いつも世話をかけちまうな!」
大江山軍造が陽気な笑顔でねぎらうと、その人物は「いえいえ」と手を振った。
「これがわたしの職務であり、生き甲斐ですからね。半年以上も生き甲斐を奪われて、ますます老け込んでしまいました」
彼は大吾が現役の時代から、興行にまつわる面倒ごとも引き受けてくれているのだ。それもまた、当時の大吾が有していたカリスマ性の恩恵であるのだが――十六歳という若年ですべてを受け継いだ弥生子にとっては、決して足を向けて寝られない存在であった。
そうして門下生の一行は、列をなして控え室を目指す。
赤星道場の選手は、全員が赤コーナー陣営だ。広々とした控え室も、すぐさま人の熱気で埋め尽くされることになった。
弥生子がいち早く試合場に足を向けると、大勢の人間が追従してくる。六丸、すみれ、マリア、ルミ、ナナ――本日出場する女子選手に、六丸が加えられた格好だ。しかし、ルミを除くメンバーは幼い頃から六丸を見知っているため、家族のように馴染んで見えた。
まだまだ時間が早かったため、ケージの試合場が業者たちの手で設営されているさなかである。
通路からそのさまを眺めつつ、ルミが「そーだ!」とはしゃいだ声をあげた。
「今日はうり坊ちゃんたちも観にきてくれるんだよねー! うり坊ちゃんとひよりちゃんと愛音ちゃんと、あとは誰が来てくれるんだろー?」
「わたしが聞いているのは、メイさんと灰原さんと多賀崎さん、それに鞠山さんと小柴さんぐらいですね。オリビアさんは、エドゥアルドさんのセコンドだそうですし」
「あと、天覇の人たちも来てくれるみたいですよー! 来栖さんに高橋さんに魅々香さん、それに鬼沢さんも!」
マリアがそのように補足すると、ルミは「んー?」と小首を傾げた。
「鬼沢さんって、誰だっけ? なーんか聞き覚えがあるような気がするんだけど」
「ルミちゃんも、『アクセル・ロード』は観てたんですよねー? あの金色の短い髪をした、タトゥーの人ですよ!」
「あー、あのコワそうな人かー! あの人も、プレスマン軍団なの?」
「はい! 最近はプレスマンで出稽古してるって話だし、こっちの合宿稽古にも参加したいって言ってるみたいですよー!」
「へー! だったら、仲良くしないとねー! ルミってあーゆー人にキラわれがちだから、すみれちゃんフォローをよろしくー!」
「どんな人でも、プレスマンでしごかれたら丸くなっていると思いますよ」
試合の前だというのに、女子選手の一行はみんな緊張と無縁の様子である。
しかしもちろん、弥生子が文句をつけるいわれはない。どのように心を整えるかは、選手それぞれであるのだ。弥生子はずっと口をつぐんだまま、ひたすら闘志を練りあげていた。
弥生子は毎回、試合の前には死の覚悟を固めている。
まったく大げさな話ではなく、男子選手を相手取るというのはそういうことであるのだ。本日対戦するエドゥアルド・パチュリアなどは二メートルを超える大男であり、体重などは弥生子の倍以上であるのだから、正拳突きの一発で生命を落とす危険すら存在するのだった。
弥生子が《レッド・キング》で披露しているのは、スポーツではなく見世物である。
周囲の評価がどうあれ、弥生子はそのように自認している。素手で猛獣に立ち向かう残酷ショー――あるいは、コロッセオで戦う剣闘士のようなものであろう。そこに存在するのはただひとつ、人間が生命をかけることで生まれる刹那的な熱情のみであった。
弥生子はすでに十三年ばかりも《レッド・キング》で試合をしているが、外部の女子選手との対戦などは数えるほどの経験しかなかった。大吾がさまざまな団体やジムと対立していたため、女子選手を招聘することすら難しかったのだ。
それで弥生子は十六歳のデビュー当時から、男子選手を相手取ることになった。
もちろんその時代は男子選手を招聘することさえ難しかったので、同門の選手と試合を行うしかなかった。大江山軍造も青田芳治もアギラ・アスール・ジュニアも、弥生子と三回以上は対戦しているはずであった。
それらの選手にも、弥生子はすべて勝利している。
当然のように、世間は八百長だと騒ぎたてた。というよりも、赤星大吾を失った《レッド・キング》は総合格闘技からプロレスに回帰したのだというレッテルを張られていた。
弥生子は、プロレスというものをよく知らない。大吾は純然たるプロレスラーとしてデビューした身であったが、その時代の試合は見るに値しないという話であったので、一度として目にしたことがなかったのだ。
ただどうやら世間の言うプロレスというのは、「筋書きのある勝負」という意味合いであるようであった。
それが事実であるのかも、弥生子は知らない。ただ弥生子は筋書きなど仕立てることもなく、父親から受け継いだ忌まわしい力を駆使して目の前の相手を打ち倒してきたのみであった。
その後は何とか伝手を辿って、空手やムエタイの男子選手を招聘することがかなった。それらの選手にも勝利したことで、ようやく世間の風向きが変わってきたのだ。
そうして二十歳になった年に、弥生子はベリーニャ・ジルベルトと対戦し――かろうじて、勝利することができた。その一戦が、また大きく世間を騒がせたようであった。当時のベリーニャ・ジルベルトはまだ無名の若手選手に過ぎなかったが、MMAの世界で脚光を浴びたジルベルト柔術の直系である選手が八百長の試合などに臨むはずがない――という論調であるようであった。
その後は、道場破りのような勢いで参戦を希望する選手が相次いだ。
ベリーニャ・ジルベルトを倒したことで、弥生子に何らかの価値が生じたのだ。たとえ女子選手とはいえ、ジルベルト柔術の選手を下した赤星弥生子を倒せば、話題性は十分である――そういう話であるようであった。
(つまりは、あの徳久という悪党の悪だくみが赤星道場を経営の危機から救ったようなものだな。まさしく、人を呪わば穴二つというわけか)
ともあれ――そういった選手たちにも打ち勝つことで、弥生子にはさらなる価値や意味というものが生まれた。男子選手を相手に全戦無敗である、規格外のモンスター――『第二の大怪獣ジュニア』としてのブランドが確立されたのだった。
折しも時代は、格闘技ブーム終焉の直後である。地上波テレビから格闘技の番組が消え、《フィスト》や《パルテノン》や《アトミック・ガールズ》は細々と興行を行い――その中に、《レッド・キング》もひっそりとまぎれこむことがかなったのだった。
その後、世間には格闘技というものが根付いた感がある。
ブームは去ってしまったが、その代わりにひとつの文化として社会に居場所を見いだせたようであるのだ。町にはMMAや柔術の道場が当たり前のように立ち並び、空手や柔道やボクシングと同じように、ひとつの競技として認められたようであった。
そうして競技人口が増加すれば、業界は勢いづくものである。
明らかに、ブーム終焉直後よりは、現在のほうが活性化しているだろう。《JUFリターンズ》が時おり地上波で放映されるのも、その証である。
それは、喜ばしい話であるに違いない。
しかし――そうすると、また《レッド・キング》の低迷っぷりが浮き彫りにされた。他の興行が地道に成績を上げていくことで、《レッド・キング》との差が開いたのだ。
《フィスト》や《パルテノン》や《NEXT》などは、毎月のように興行を開いている。女子選手限定の《アトミック・ガールズ》でさえ、隔月ペースだ。そんな中、《レッド・キング》は年に四、五回というペースで、会場の規模もどの団体より小さかった。他団体の中堅以上の選手が出場することはほとんどなく、自前の門下生と地下格闘技団体の協力でもってようよう食いつないでいるというのが現状であった。
そして――そこに毎回メインイベントとして据えられているのが、弥生子と男子選手による一戦である。
男女間の試合であるために公式試合としてもカウントされない、生命をかけた残酷ショー――それこそが、《レッド・キング》の看板であるのだった。
(こんな形で十三年も継続できたことが、むしろ不思議なぐらいだろう。そして……それもあと数年限りのことだ)
弥生子は父親から受け継いだ忌まわしい力によって、数々の男子選手をマットに沈めてきた。
しかしその代償として、弥生子の肉体は尋常ならざるスピードで摩耗しているのだ。
肉体の負担を減らすために、弥生子は六丸から古武術の技を習い覚えた。
しかしそれも、しょせんは悪あがきである。弥生子は近い将来、肉体のどこかが破綻することが決定されていた。現在の大吾が、特別なニーブレスなしには一歩も歩けないように――弥生子も、何かしらの代償を支払う運命であったのだった。
「それでも大吾さんは四十路を過ぎるまで現役だったんすから、やっぱり大怪獣っすよ。でも……弥生子ちゃんや卯月くんは、大吾さんほど頑丈じゃないっすからね。三十までに引退しないと、大吾さんよりひどい後遺症を抱え込むことになっちゃうかもしれないっすよ?」
大吾の代からメディカルトレーナーを務めている是々柄は、そのように語っていた。
弥生子は今年で二十九歳、卯月に至っては三十三歳となる年代である。
卯月がいまだに現役の選手であるのは、弥生子にとってひそかな希望の光であったが――しかし卯月も、限界が目前に迫っているのだろう。だからこそ、減量を取りやめて階級をミドル級に移し、昨年のジョアン・ジルベルトとの一戦では忌まわしい力を使うことを控えたのだ。
(あいつはきっとあの一戦で、今のジョアン・ジルベルトの力量を分析し……次の機会でリベンジを果たしたならば、選手を引退するつもりであるのだろう)
卯月はおそらく、現代MMAというものに深い愛憎を抱いている。
総合格闘技からさらなる進化を遂げた現代MMAを深く愛すると同時に、赤星大吾や赤星道場や《レッド・キング》を過去の遺物へと追いやった現代MMAを深く憎悪しているのだ。それで卯月は赤星道場を捨て、現代MMAの総本山たる《JUF》に乗り込んだのだった。
(そして今度は、《アクセル・ファイト》の絶対王者にして現代MMAの申し子であるジョアン・ジルベルトと刺し違えようというつもりであるのだ。あいつは、何も……何も変わっていない)
もちろん弥生子も、かつては魂の奥底に同じ妄執が刻みつけられていた。
しかし弥生子は、その妄執を打ち捨てた。愛憎を司る感情ごと、消えない傷口を体外に捨て去ったのだ。
よって、現在の弥生子が妄執にとらわれることはない。
そうして弥生子は、すべての執念を赤星道場と《レッド・キング》の再興に捧げたのだった。
弥生子の選手生命は、あと数年である。下手をすれば、一年を切っている恐れすらあった。
そうしたら、《レッド・キング》は『大怪獣ジュニアの残酷ショー』を失うことになる。
しかし――この十三年間で、新たな道筋はできていた。
赤星道場には、数多くの有望な選手が育っているのだ。その筆頭格は、辻晴輝であり――《フィスト》の世界王座を戴冠した彼は、十月に開催される《アクセル・ジャパン》の出場が内定していた。そちらの結果次第では、《アクセル・ファイト》と正式契約を結ぶ目も存在するはずであった。
さらに、ナナやマリアはそれよりも早く『アクセル・ロード』に招聘されており、若年のすみれも驚くほどの飛躍を遂げている。また、男子選手にもそれに匹敵する選手が育ちつつあった。
きっと彼らであれば、《レッド・キング》に新たな価値や意味を生み出してくれることだろう。
その地盤を少しでも固められるように、弥生子は一日でも長く、一試合でも多く、大怪獣ジュニアとして残酷ショーの見世物を継続させる。それが弥生子の、たったひとつの生きる目的であった。
(それで、もし許されるなら……引退後もコーチ役を続けられるぐらいの力が残されてほしいものだ)
そんな風に考えたとき、弥生子は右頬のあたりにむずがゆい感触を覚えた。
そちらに目をやると、六丸が子犬のような目で弥生子を見つめている。弥生子が眉をひそめると、六丸はすべてを包み込むように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。弥生子さんは、絶対に大丈夫です」
「……見透かしたようなことを言うな」
すみれたちの目があったので、弥生子は六丸の頭ではなく脇腹を小突くことにした。
六丸は、やっぱり同じ表情で笑い続けていた。




