02 出陣
そうして時間は流れ過ぎ――六月の第三日曜日がやってきた。
《レッド・キング》の興行の当日である。その日は昼から赤星道場の主要メンバーが集結し、決起集会さながらの様相を呈することになった。
「一年の半分が終わりを迎えようとしているこの時期に、ようやく今年初めての《レッド・キング》を開催することができる。せっかく軌道にのりかけていた《レッド・キング》を半年以上も停滞させることになり……皆には、心から申し訳なく思っている」
弥生子がそのように挨拶をしながら頭を下げると、師範代の大江山軍造が「何を言ってやがる!」と陽気な声を張り上げた。
「師範は足の骨をへし折られながら、これ以上もなく道場の名前を世間に轟かせてくれたんだからな! おかげさまで、今日も千人規模の会場がソールドアウトだ! これで文句をつけるような不心得者はいやしねえよ!」
「そうだな。それに、負傷欠場に追い込まれたのも師範ひとりではあるまい」
青田芳治が冷徹な声音でそのように言い添えると、その娘たるナナが「そうだよ」と底ごもる声を重ねた。
「そんな話は言葉で詫びたって、どうしようもないだろうさ。不甲斐ない姿をさらした分は、試合で結果を出すしかないんじゃないの?」
彼女もまた『アクセル・ロード』の舞台で肋骨を折り、本日が復帰試合となるのだ。その気迫のみなぎる顔を見返しながら、弥生子は「そうだな」とうなずいてみせた。
「ナナの言う通り、必ず試合で結果を出してみせよう。門下生一同、全員が力を尽くしてもらいたい」
三十名近くに及ぼうかという面々が、「押忍!」と力強く答えてくれた。
本日は、弥生子も含めて十二名もの門下生が出場する。女子のプロ選手が四名、アマ選手が一名、男子のプロ選手が三名、アマ選手が二名、キッズクラスの門下生が二名という内訳だ。それ以外のメンバーは、誰もが複数の試合のセコンド役を果たしてくれるのだった。
キッズクラスの門下生のセコンドには、雑用係として親まで駆けつけてくれている。赤星道場は、そういうさまざまな人間の手によって支えられているのだ。弥生子がそのありがたさを忘れたことは一度としてなかった。
「それでは、出発するとしよう。皆、くれぐれも交通事故やスピード超過などには気をつけるように」
弥生子の言葉に従って、人々は稽古場の出口へと向かっていく。そのさまを見守りながら、弥生子は壁際にたたずんでいた六丸と是々柄のもとを目指した。
「六丸、ぜーさん。今日は二人にも世話をかけてしまうが、どうかよろしくお願いする」
「あたしはこれが仕事なんすから、おわびやお礼を言われる筋合いはないっすよ。でも、六ちゃんまでセコンドに引っ張り出されるのはひさびさっすね」
「はい。MMAの基礎も知らない僕には、雑用係しか務まらないですけどね」
六丸は、普段通りの子犬めいた微笑を浮かべる。
もともと六丸がセコンド役を務めるのは、古武術の応用技を体得した弥生子とすみれの試合のみであったのだ。しかし本日は人手が足りなかったため、別の試合でも雑用係として働いてもらうことになったのだった。
いっぽう是々柄は、赤星道場かかりつけのメディカルトレーナーである。試合数が増えれば増えるほど、彼女の負担も増加するのだ。一回の興行で十二試合というのは、《レッド・キング》の上限に他ならなかった。
「今回は半年以上ぶりの開催なんで、参加希望者が山盛りだったっすもんね。余所のジムから対戦相手を見つくろうのもひと苦労だったんじゃないっすか?」
「そうだな。しかしそういう面倒は青田コーチらが中心に担ってくれるので、私の苦労など微々たるものだ」
「弥生子ちゃんには、自分の試合に集中してもらわないといけないっすからね。エドゥアルドさんの攻撃を一発でもくらったら生命の危機なんすから、油断したら駄目っすよ?」
「私は誰が相手でも、油断するほど慢心はしていないつもりだ」
「弥生子ちゃんは、真面目っすもんね。不真面目な六ちゃんとはお似合いっすよ」
「ええ? 僕って、そんなに不真面目ですか?」
「一見は真面目そうなのに社会常識や倫理観がすっぽり抜け落ちることがあるから、ただ不真面目なお人よりいっそう厄介なんすよ」
是々柄が肩をすくめながらそのように言いたてると、六丸は楽しそうに「あはは」と笑った。
確かに六丸は変人の部類であろうが、それは是々柄も負けていない。それで二人は気が合うらしく、こうして行動をともにすることが多いのだった。
(……いっそぜーさんと結ばれれば、六丸だって苦労の少ない人生を送れるだろうにな)
弥生子がそのように思案していると、是々柄は遠視用の眼鏡で巨大化した目を「んー?」と細めた。
「なんでそんな嫉妬の炎のちらつく目であたしを見てるんすか? 弥生子ちゃんに恨まれるぐらいなら、六ちゃんなんてのしをつけてお返しするっすよ?」
「私がそのような妄念にとらわれる筋合いはない。……さあ、二人も出発の準備をするといい」
是々柄は「はいはい」と、けだるげな足取りで出口に向かう。
いっぽう六丸はいくぶん心配げな面持ちで動こうとしなかったので、弥生子は溜息を噛み殺しながらその頭を小突くことになった。
「ぜーさんの軽口など真に受けるな。動く気がないなら、置いていくぞ」
「あ、待ってください。僕を置いていったら、セコンドの人員が足りなくなっちゃいますよ?」
弥生子がさっさと出口に足を向けると、六丸もちょこちょことついてくる。そんな挙動も、どこか子犬を思わせる六丸である。弥生子のほうが七センチばかりも長身であるため、いっそうそんな印象が強まるのかもしれなかった。
そうして稽古場を出てみると、まだ玄関先に大勢の門下生が溜まっている。三十名近い人間がいっせいに移動しようとすれば、それが必然であろう。そしてそこには、門下生ならぬ大柄な人影もあった。
「よう。ちょうどランチタイムもひと区切りついたんで、見送りに来てやったぞ」
それは弥生子の父親たる、大吾であった。
弥生子が返事の手間をはぶいてにらみ返すと、大吾は髭に覆われた熊のような顔で陽気に笑う。
「半年ぶりの試合だってのに、相変わらずの仏頂面だな。今日はひさびさに、猪狩さんたちも観にきてくれるんだろ? そんな顔をさらしてたら、心配をかけちまうぞ」
「……お前のいない場では表情もゆるむので、誰に心配をかける恐れもあるまい」
「ふふん。猪狩さんたちとお近づきになるまでは、誰にもゆるんだ顔なんて見せなかったくせによ」
弥生子は父親のせり出た腹に拳を撃ち込むべきかどうか、半ば本気で思案した。
しかし弥生子が動く前に、六丸がのんびりとした声を大吾に返す。
「試合会場の規模が大きくなっていくのはおめでたいことですけど、そういう会場に限って屋台を出せないのは残念ですね。大吾さんも、ちょっと物足りない気持ちなんじゃないですか?」
「ははは。屋台の売り上げなんざに頼らずに済むなら、それが一番さ。弥生子だって、心から清々してるだろうよ」
それはまったくその通りであったので、弥生子はやはり口を開く必要を感じなかった。
もっと小規模な会場であった頃は、大吾が出す屋台の売り上げも運営資金に回されていたのだ。弥生子としても大吾などを頼るのは不本意の極みであったのだが、興行の運営はまごうことなき自転車操業であったため、背に腹は代えられなかったのだった。
しかしまた、大吾が赤星道場や《レッド・キング》に関わるのは、料理にまつわる部分のみとなる。会場内における屋台の運営と、打ち上げや合宿などにおける食事の準備――それ以外に関しては、稽古にも試合にも一切関与していないのだ。
大吾は選手を引退すると同時に、格闘技そのものから離別した。たとえ会場で屋台を出しても試合を見ようとはせず、助言はおろか感想さえ口にしなかった。大吾は十三年前に道場と興行の権利をすべて弥生子に譲渡して、メキシコ料理店の店主として生きることになったのである。
それはきっと、大吾なりのけじめであったのだろう。
もとより両膝に重篤な故障を抱えている大吾は、コーチやセコンドの役目を果たすこともままならない。それに大吾は、バーリトゥードをルーツにする新時代のMMAにチャレンジすることなく、ファイターとしての生涯を終えたのだ。金網に囲まれたケージの試合場で戦ったことも、オープンフィンガーグローブをはめたこともない大吾に、指導役が務まるわけもなかった。
だから大吾は一切の手出しと口出しをつつしみ、ただ弥生子や赤星道場の行く末を見守っている。
それはひとつの、正しい決断であったことだろう。
だが――赤星大吾というのは、ただのファイターではない。新時代のMMAが普及されるまでは、赤星大吾こそが総合格闘技の創始者であり、代名詞であったのだ。
なおかつ、現役時代の大吾は爆弾のごとき存在であった。余所の団体やテレビ局や出版社などの関係者とも悶着を起こし、数々の遺恨を残していたのである。
弥生子の目から見ても、当時の大吾は荒ぶっていた。
世界最強の人間であるのは自分だと信じ、総合格闘技こそがもっとも素晴らしい競技であるという信念を掲げた大吾は、その巨体に渦巻く生命力のすべてを燃やして、世界そのものに喧嘩を売っていたようなものであった。
その結果――大吾は数多くの信奉者と、それと同じだけの敵を抱え込むことになった。
弥生子は、その光と影をまとめて受け継いだようなものであった。
最強神話の栄光と、時代の波に呑まれた敗残者の恥辱。それが、大吾の遺産であった。
(そんなことは百も承知で、私は道場と《レッド・キング》を受け継いだ。だが……)
どうしても、割り切れない気持ちは残されてしまう。
さっさと引退して隠居生活を楽しんでいる父親も、すべてを弥生子に押しつけて逃げ去ってしまった兄も――弥生子にとっては、鬱屈の種である。自らの意志で選んだ道とはいえ、彼らと家族らしい関係を続ける気持ちには一切なれなかった。
「……何だか本当に、今日は機嫌が悪いみたいだな」
豊かな下顎をしごきながら、大吾がそのように言い放った。
「まあ、俺なんかがかまってたら、弥生子の機嫌は悪くなるいっぽうだ。世話をかけるが、この強情娘をよろしく頼むよ、六丸くん。手に余るようだったら、猪狩さんたちを頼るがいいさ」
「はあ……そういう言葉を口にするから、大吾さんはいっそう疎まれてしまうんじゃないですか?」
「あはは。こいつは一本取られたな」
やはり本日も、大吾は呑気に笑っている。
大事な試合を控えている弥生子は精神の安定を保つために、さっさと道場を出ることにした。
道場を出た他の門下生たちは、わいわい騒ぎながら駐車場を目指している。
弥生子がその人混みにまぎれこむと、忠犬さながらの六丸が追いかけてきた。
「待ってください、弥生子さん。僕も同じ車に乗せてください」
「……あいつの指示通り、私の世話を焼いてやろうという思惑か?」
「やだなぁ。大吾さんは、関係ありませんよ」
六丸は、ふにゃふにゃとした顔で微笑んでいる。
さすがに十二年来のつきあいであるので、弥生子も今さら六丸の真情を疑うことはない。彼は彼自身の意思で、弥生子のそばにいてくれているのだった。
「……みんな、楽しそうですね」
と、弥生子のかたわらを歩きながら、六丸がそんなつぶやきをもらした。
確かに周囲の門下生たちは、遠足に出向く小学生のようにはしゃいでいる。興行の前には士気が高まるのが通例であるが、やはり今回は長きの休業期間が小さからぬ影響を及ぼしているようであった。
「これこそが、弥生子さんの守りたかったものなんですよね。この大事な空間を捨てろなんて言われたら、弥生子さんが怒るのも当然です」
「……ずいぶんと、懐かしい話を引っ張りだすのだな」
「だって最近は、弥生子さんも思い出にひたることが多いみたいじゃないですか」
そう言って、六丸はいっそうあどけなく微笑んだ。
「そんな弥生子さんのそばにいたから、僕もついつい思い出にひたっちゃうんです。……あの頃は、色々ありましたよね」
「ふん。そんな感傷にひたるのは、足腰が立たなくなってからで十分だ」
「はい。今はとにかく、《レッド・キング》を成功させることに集中しないといけませんからね。今日はセコンドとしてお手伝いをできるので、とても嬉しいです」
六丸のかもしだすやわらかな空気が、弥生子のささくれた心をそっと包み込んでくる。
弥生子は顔がゆるんでしまわないように気をつけながら、六丸の頭を小突くことにした。




