ACT.10 Yayoiko Akaboshi' s June 01 二人の時間
赤星弥生子は、自室でくつろいでいた。
なんの飾り気もない、殺風景な部屋である。弥生子に与えられた2LDKの空間の中ではリビングに該当する部屋であったが、そこに設置されているのは大きなテーブルとソファセット、テレビと映像再生機材、そして各種のソフトや書籍が詰め込まれた本棚ぐらいのもので、生活感は皆無であった。
本棚に詰め込まれているのは、いずれも格闘技関連の資料となる。
さまざまな競技の試合映像、教則本に教則映像、あるいは格闘技マガジンなどといった専門誌ばかりで、それ以外には何ひとつ存在しない。殺風景な部屋模様も含めて、それは弥生子の人生をそのまま体現しているような様相であった。
そんな中、テーブルにぽつんと置かれた花瓶に小さな花が活けられている。
これは、同じフロアの隣室で暮らす明王六丸が持ち込んだものだ。あまりに場違いであるその存在もまた、弥生子の人生に割り込んできた六丸の存在そのものであった。
「……弥生子さんがそんなぼんやりしてるなんて、ちょっと珍しいですね」
と、廊下に通ずるドアから六丸本人が姿を現した。
弥生子は正面の虚空を見据えたまま、苦笑する。
「気配を殺して入ってくるな。……私の寝首をかこうという魂胆か?」
「やだなぁ。弥生子さんを闇討ちしたことなんてないでしょう? 勝負は正々堂々とつけないと、意味がありません」
笑いを含んだ声で語りながら、六丸が近づいてくる。
それでも弥生子が頑なに正面を見据えていると、六丸の呑気な笑顔がひょいっと視界に割り込んできた。
「本当にどうしたんですか? 何か悩みでもあるなら、なんでも隠さずに打ち明けてください」
「私に、悩みなど存在しない。それはお前が、一番よく知っているはずだ」
「ええ。弥生子さんは十年以上も前に、悩むことをやめてしまいましたもんね。でも……人っていうのは、変わるものですから」
「……私が、変わったと?」
「はい。まさか、自覚してないわけはないですよね?」
その言い草が腹立しかったので、弥生子は手の甲で六丸の頭を小突いてみせた。
六丸はどこか楽しそうな顔で笑いながら、「すみません」と告げてくる。
「猪狩さんの話になると、弥生子さんはすぐムキになりますよね。ちょっとだけ、猪狩さんを羨ましく感じちゃいます」
「……私たちが、いつ猪狩さんについて語らったのだ?」
「だって、弥生子さんを変えたのは猪狩さんじゃないですか。もちろん、桃園さんもでしょうけれど……ファイターとしてではなく人間として弥生子さんに影響を与えたのは、猪狩さんだけだと思います」
そんな風に語りながら、六丸は弥生子の隣に腰を下ろした。
肌は触れていないが、おたがいの温もりが伝わるぐらいの間合いだ。それが、二人がこれまで育んできた距離感であった。
「やっぱり弥生子さんは、復帰試合が心配なんですか? 半年も期間が空くなんて、初めての体験ですもんね」
「……相変わらず、話に脈絡のないやつだな」
「そうですか? でも、弥生子さんを長期欠場に追い込んだのは、猪狩さんじゃないですか」
弥生子は大晦日における猪狩瓜子との対戦によって、左の中足骨を骨折することになったのだ。それで半年ばかりも試合を行うことがかなわず、ようやく復帰試合を目前に控えた時期であった。
「相手の肘先を蹴っただけで中足の骨が折れちゃうなんて、なかなか普通の話じゃありませんよね。まあ、猪狩さんの骨密度と弥生子さんの怪力が合わさった結果なのでしょうけれど」
「……妙齢の女人を怪力よばわりとは、存外にデリカシーのないやつだな」
弥生子がそのように答えると、六丸は「あは」と笑い声をあげた。
「思ったより、弥生子さんは元気そうですね。それとも、猪狩さんの話題で心が和んだんでしょうか?」
「くどいやつだな」と、弥生子は六丸のほうを振り返った。
六丸は、子犬のような顔で笑っている。彼と出会ってから、すでに十年以上の歳月が流れていたが――彼は相変わらず子供のように無邪気で、その笑顔にも変わりはなかった。
六丸は、さる古武術道場の家に生まれついた人間である。
その名の通り六番目の子供で、幼い頃から五人の兄たちと殺人的な稽古を積まされてきた。その衣服の下にどれだけひどい古傷が刻まれているか、弥生子だけは知っていた。
その古武術は一子相伝であり、もっとも優れたひとりの子供だけにすべての秘伝が伝えられるのだという。それで六丸と五人の兄たちは、幼い頃から殺し合いのような稽古を積まされてきたのだ。
六丸は、その環境から逃げ出した。
稽古のさなか、ひとつ上の兄の右目をえぐりぬくことになり――それで、すべてが嫌になってしまったのだ。
それでも弥生子と出会った当時から、六丸は無邪気に笑う少年であった。
その子犬のような黒い瞳には、どうしようもないほどの孤独感が渦巻いていたが――それでもこの世に絶望することなく、六丸はいつもにこにこと笑っていたのだ。
「どうしてあなたたちは、自ら格闘技なんて学んでいるのですか? 人を傷つける技術なんて、この社会には必要ないでしょう?」
出会った当時、六丸はそんな風に語っており――弥生子を、激しく苛立たせてやまなかった。
「どうしても何もない。私には、この道しか残されていないんだ」
「そうですか。僕もそんな風に思っていましたけれど、今はこうして自由の身です。案外、人生には逃げ道が残されているようですよ」
そうして六丸は、弥生子に勝負を挑んできた。
六丸が勝ったら、弥生子は格闘技をやめるべし――一方的に、そんな要求を突きつけてきたのである。
「だってあなたは、すごく苦しそうです。すべてを捨てて、僕とのんびり暮らしませんか?」
弥生子は「ふざけるな!」と一喝し――そして、六丸を叩きのめしてみせた。確かに六丸は奇妙な体術を操る手練れであったが、それでも弥生子の敵ではなかったのだ。
「すごいですね……まさか、同い年の女の子に負けるとは思っていませんでした……」
道場のマットに這いつくばった六丸は、それでも無邪気に笑っていた。
それを見返す弥生子もまた、マットに横たわった姿である。六丸を倒すには、父親から受け継いだ忌まわしい体質を発露させるしかなかったのだ。そうすると、しばらくは五体の自由がきかなくなってしまうのだった。
「次は必ず、勝ってみせます……そうしたら、格闘技をやめて僕と結婚してくれませんか……?」
「いい加減に口を閉じろ……もうお前のような人間の相手をするのは、こりごりだ……」
弥生子は本心から、そのように答えた。
しかしおかしなことに、六丸はその日から道場に住みついてしまった。赤星道場の主要メンバーが、この奇妙な少年にすっかり心を奪われてしまったのである。
「うちの師範と結婚したくて、勝負を挑んだんだって? そんな酔狂者がこの世に存在するとは、夢にも思わなかったよ!」
「まったくもって、無謀の極みっすね。そんなの、ヒグマに求婚するようなもんっすよ」
「……弥生子師範に比べたら、ヒグマのほうが手なずけやすいかもしれんがな」
豪放な気性をした大江山軍造や浮世離れした是々柄日見子はまだしも、冷徹なる青田芳治までもがそのような冗談口を叩くのは驚くばかりであった。
それに――当時は小学生であったすみれや中学生になりたてであったマリアも、妙に六丸に懐いてしまっていた。少しでも弥生子に共感してくれたのは、やはり小学生であった青田ナナひとりであった。
「なんか、うさんくさいやつだね。弥生子ちゃん、あんなやつと結婚したら駄目だよ?」
ナナはマリアよりも年少であったが、幼い頃から大人びていた。それで、弥生子の抱えていた鬱憤を察してくれたようであった。
当時の弥生子は、十七歳。父親の大吾が引退し、兄の卯月が家を出て、一年前から赤星道場と《レッド・キング》の全責任を負った立場となる。その重圧で、弥生子はいっそう神経がささくれていたのだ。
そんな弥生子の心を動かしたのは、やはりマリアやすみれの存在であった。当時の赤星道場は沈没寸前であったので、重苦しい空気が蔓延していたのだ。それが六丸の能天気な振る舞いによってそれなり以上に緩和され、すみれたちに笑顔が戻ったのである。それで弥生子も、六丸を道場から追い出そうという気持ちになれなかったのだった。
そして――半月も経たない内に、また状況が一変した。
弥生子と二人きりになった折に、六丸が床に手をついて詫びてきたのである。
「弥生子さん。僕は考えをあらためました。もう弥生子さんに格闘技をやめろだなんて言いませんので……どうかこれからも、僕をおそばに置いてくれませんか?」
「……ふん。ようやく私に勝てる見込みはないと悟ったのか?」
「いえ、違います。弥生子さんは、みんなのために道場を守ろうとしているのでしょう? そんな弥生子さんに、すべてを捨てて僕と結婚してほしいだなんて……僕は、自分が恥ずかしいです。もう二度とそんな言葉は口にしませんので、どうか僕にも道場再興のお手伝いをさせてください」
子供のように無邪気な六丸にそんな真っ直ぐな言葉をぶつけられると、弥生子も怒るに怒れなかった。
「……わかった。もういい。マリアやすみれは、すっかりお前に懐いてしまったようだからな。あの子たちの面倒を見てもらうだけでも、お前を道場に住まわせる甲斐はあるだろう。道場再興の手伝いなどいらないから、これまで通りに遊んでいろ」
「ありがとうございます! ……でも僕は、ますます弥生子さんに心を奪われてしまいました。格闘技をやめろとは言いませんので、僕が勝ったら結婚してくれませんか?」
「ふざけるな! お前などは、やっぱり出ていけ!」
そうして弥生子と六丸は再び勝負をして、また二人で仲良くマットに横たわることになったのだった。
それからしばらくは、なし崩し的に六丸との共同生活が続いた。
当時の六丸は道場の片隅で、寝袋にくるまって寝ていたのだ。そうして道場の掃除やトレーニング用具の手入れをして、子供たちや門下生のために食事を作り、時には大吾のメキシコ料理店まで手伝って、食事や寝る場所を与えられることになったのだった。
その段に至っても、六丸の素性を知るのは弥生子ただひとりである。他の人々は、「おかしな体術を身につけた風来坊」としか認識していなかった。何せ六丸はおかしな因習にとらわれた古武術道場から逃げ出してきた身であったため、人前では苗字を名乗ることもはばかられる身であったのだった。
それから、転機となったのは――やはり、兄の卯月と《JUF》の存在であった。
当時は格闘技ブームの最盛期であり、《JUF》で活躍した卯月は世間で知らぬ者もないほど名を売っていたのだ。
そして、卯月の行状に腹を立てた青田芳治が《JUF》に参戦したが、あえなく玉砕した。バーリトゥードをルーツにするMMAで勝利するには、これまでの総合格闘技とまったく異なるノウハウが必要であったのだ。すでに三十代の半ばであった青田芳治はMMAの新たなルールに順応することがかなわず、卯月との対戦にこぎつけることもできなかったのだった。
「あの卯月さんという人が裏切ったから、赤星道場はこんな目にあってしまったのですよね。僕は、あの人が許せません」
六丸はそのように言い出して、《JUF》への参戦を表明した。
「馬鹿を言うな。お前は家から逃げ出してきた身なのだろうが? 《JUF》の試合は地上波で放映されるのだから、素性を隠したまま試合をすることなどはできない」
「それなら、変装します。マリアちゃんのお兄さんみたいにメキシコ帰りの覆面レスラーということにしておけば、正体は隠せると思います」
そうして六丸は、謎の覆面MMAファイター『レイ=アルバ』としてデビューすることになってしまった。覆面と全身タイツで素顔と五体の古傷を隠し、見様見真似の空中殺法に古武術の技術をこっそりまぎれこませて、《JUF》の舞台に殴り込んだのである。
しかし普通であれば、こんな輩の参戦など認められるわけはない。そもそも六丸は百六十五センチという背丈で、体重も六十キロていどであったのだ。いくら無差別級に体重制限がないとはいえ、こんな軽量の選手をリングに上げられるはずがなかった。
そこで暗躍したのは、《JUF》の影の立役者――徳久一成なる悪党である。舞台裏から《JUF》を操っていたその悪党が、レイ=アルバの参戦を快諾してしまったのだ。
表向きは、興行を盛り立てるためとなる。《JUF》と赤星道場の確執は周知の事実であったため、卯月に裏切られた赤星道場の復讐物語としてスポットを当てることが可能であったのだ。青田芳治やマリアの兄たるアギラ・アスール・ジュニアの参戦が認められたのも、そういった思惑があってのことであった。
そして、その裏に隠された真なる目的は――徹底的に、赤星道場を叩き潰すためである。
赤星道場は、かつて総合格闘技の先駆者として名を馳せていた。日本国内で最初に格闘技ブームを巻き起こしたのは、大怪獣・赤星大吾と《レッド・キング》の存在であったのだ。
徳久一成という悪党は、そういう輝ける存在を泥沼に沈めることにすべての熱情を注いでいたのである。そのためにこそ、彼は卯月を赤星道場から離反させ、《JUF》で栄光をつかむ道筋を立てたのだった。
しかし、レイ=アルバこと六丸は、そんな徳久を歯噛みさせるほどの活躍を見せた。ゴードン・ロックハートやマテュー・ドゥ・ブロイやキリル・イグナーチェフなど、《JUF》のトップファイターたちを次々と撃破してみせたのだ。
そうしてレイ=アルバは、一年足らずで卯月との対戦にまでこぎつけることがかなった。
それと同時に、《レッド・キング》にも刺客が送られてきた。
《JUF》で活躍していたジョアン・ジルベルトの妹、ベリーニャ・ジルベルトである。若年ながらも柔術の世界大会で優勝を果たしていたベリーニャ・ジルベルトが、自ら《レッド・キング》に参戦の名乗りをあげてきたのだ。
もちろん彼女は、徳久の思惑など知らなかったことだろう。きっと彼女はMMAにチャレンジする場と、好敵手を求めていたに過ぎないのだ。そんな彼女に弥生子と《レッド・キング》の存在を吹き込んだのが、徳久に他ならなかったのだった。
その頃には弥生子も二十歳になっており、《レッド・キング》における活動も四年に及んでいた。その期間、呼べるだけの強敵を呼びつけて、ようよう『第二の大怪獣ジュニア』として注目され始めた時分であったのだ。徳久は、そんな弥生子の未来を閉ざすために、ベリーニャ・ジルベルトという難敵を差し向けてきたのだった。
奇しくも、《レッド・キング》と《JUF》は同じ日に興行を行うことになった。弥生子は百名ていどの観客の前で、レイ=アルバは数万人の観客とテレビカメラの前で、それぞれ試合を行うことになったのだ。
その結果――弥生子はベリーニャ・ジルベルトに勝利して、レイ=アルバは卯月に勝利した。
それから数日と待たずに《JUF》運営陣と反社会的勢力の癒着が露見して、格闘技ブームが終焉を迎え――弥生子と六丸は、それなりに平穏な日常に回帰することになったのである。
それからすでに、十年近い歳月が過ぎ去っていた。
弥生子も六丸も、本年で二十九歳となる。十七歳の頃に出会った両名は、この空間で十二年ばかりの歳月を過ごしているのだった。
《JUF》の終焉とともにレイ=アルバの存在を消し去った六丸は、整体師として身を立てた。あちらの試合で得たファイトマネーできちんと資格を取得して、ビルのオーナーである大吾にテナント料を払った上で、整体院をオープンさせたのだ。現在の彼は、自らの器量で弥生子のそばにいてくれているのだった。
「でもやっぱり……僕は不安です」
六丸のそんなつぶやきで、弥生子は物思いから覚めることになった。
ソファにちょこんと座った六丸は、子犬のような瞳で弥生子を見つめている。確かにその瞳には、ほんの少しだけ不安そうな光が瞬いていた。
「……いったい何が不安だというのだ?」
「もちろん、復帰試合についてですよ。半年ぶりの試合だったら、もうちょっと手頃な相手を選ぶべきじゃないですか?」
「馬鹿なことを」と、弥生子は苦笑した。
「私はこれまで手頃な相手など選んだことはないし、観客だってそんな試合は望んでいない。勝って当たり前の相手とやりあうぐらいなら、試合などしないほうがましだ」
「それにしたって、限度というものがあるでしょう。よりにもよって、エドゥアルドさんとやりあうなんて……体重差なんて、倍以上じゃないですか」
「そういう相手とやりあうために、私は《レッド・キング》の舞台に立っているんだ。格闘技界の復興に寄与できないのなら……せめて、赤星道場の復興に全力を注がなければな」
「やっぱりそれで、無茶なマッチメイクを組んだんですね」
と、六丸は珍しく、すねたような顔をした。
「それは、外の世界で頑張っている猪狩さんたちに対する後ろめたさなんですか? それとも……卯月さんに対する意地なんですか?」
「そんなもの、どっちでも同じことだろう」
「同じじゃありませんよ。猪狩さんたちに文句を言うことはできませんけど、卯月さんなら遠慮をする筋合いはありません」
「あいつに文句でも言うつもりか? 飛行機代だけでも、馬鹿にならない金額だぞ」
「必要があれば、アメリカでもどこでも乗り込みますよ。何だったら、十年以上ぶりにレイ=アルバの衣装を引っ張り出しましょうか?」
「馬鹿を言うな」と、弥生子は六丸の頭を小突いた。
そしてそのまま、手の甲を六丸の頭に押し当てる。空気をはさまずに、そこから六丸の温もりが弥生子の内に流れ込んできた。
「お前が手をくだすまでもなく、あいつの肉体はもう限界が近いだろう。あんなやつに、かまうことはない。お前は……これまで通り、私だけを見守ってくれ」
「それはもちろん、弥生子さんから目を離したりはしませんけどね」
弥生子に頭をふれられたまま、六丸はあどけなく微笑んだ。
「でも……それなら絶対、負けないでくださいね。弥生子さんが僕以外の男性に負ける姿は、絶対に見たくありません」
「ふん。女性相手なら、かまわないというのか?」
「ええ。それはむしろ、弥生子さんの心を軽くしてくれるみたいですからね。……まあ、桃園さんと猪狩さんの他に、弥生子さんに勝てる見込みのある女性はいないでしょうけれど」
「やかましいぞ」と、弥生子は六丸の頭をじゃけんに押しやった。
それでも六丸は、幸せそうな笑顔のままであった。




