ACT.9 Akari Koshiba's June 01 NEXT・ROCK FESTIVAL
六月の第二日曜日――小柴あかりは武魂会および天覇ZEROの面々とともに、日本国技会館を目指した。
本日は音楽と格闘技の合同イベント、『NEXT・ROCK FESTIVAL』の開催日である。あかりは試合に出場するため、鞠山花子は『モンキーワンダー』のライブに出演するため、それぞれこの場に馳せ参じたのだった。
「あかりんも、ついに念願の初出場だわね。でもどうせだったら、こっちのステージにお招きしたかっただわよ」
「な、何を言ってるんですか。わたしみたいな素人が、みなさんと同じステージに立てるわけないじゃないですか」
「冗談だわよ。あかりんの困ったお顔を堪能したかっただけだわよ」
べっこうぶちの巨大なサングラスをかけた花子は、カエルのように大きな口でにんまりと笑った。
「まあ、こっちのステージとあかりんの出順が離れてたのは、幸いだわよ。わたいたちの華麗なステージで、あかりんのマジカルゲージをフル充電させるといいだわよ」
言葉の内容はいまひとつ理解できなかったが、あかりは「はい」と返事をしておくことにした。
花子というのは、きわめて奇矯な人物である。しかしあかりは、その奇矯さに強く心をひかれていた。自分でもうんざりするぐらい凡庸な人間であるあかりは、彼女の強烈な個性が眩しく思えてならないのだ。世間では、彼女をユーモラスな存在ととらえる向きが多いように思えたが――あかりとしては、名だたるアーティストやファイターと遜色のない、光り輝く存在のひとりであった。
そうして関係者用の出入り口から入場すると、また輝かしい面々が輪を作っている。
猪狩瓜子、サキ、邑崎愛音、メイ、灰原久子、多賀崎真実――それに、『ワンド・ペイジ』と『ベイビー・アピール』のメンバーたちである。あかりがその眩さに言葉を失っていると、花子が「おやおやだわよ」と肩をすくめた。
「ずいぶんとまた賑やかだわね。うり坊を愛でる会でも開催してるんだわよ?」
「やだなあ。そんなんじゃないっすよ」と、瓜子は気恥ずかしそうに笑う。すると、仏頂面のサキがその頭を小突いた。
「他の連中はともかく、アタシはイノシシハーレムに仲間入りした覚えはねーよ。せっかくの日曜日に面倒な仕事を押しつけられて、迷惑なこったぜ」
「愛音は無料でみなさんのステージを拝見できるので、ありがたい限りなのです。それでもなお、猪狩センパイを愛でる筋合いはないのです」
相変わらず、サキや愛音は瓜子に対して素っ気ない。しかしそれは、素直でないだけなのだろう。もっとも瓜子のそばにいる彼女たちもしっかり心をつかまれているのだろうと、あかりは信じて疑わなかった。
瓜子というのは、それぐらい魅力的な人間であるのだ。かくいうあかりも、彼女にはしっかり心をつかまれてしまっている。最近ではすっかり花子と親睦の深まったあかりであるが、そもそも最初に魅了されたのは瓜子の存在に他ならなかった。
瓜子は、不思議な存在だ。ただ容姿が可愛らしいというだけでなく、いつも剥き出しである感情の温かさが余人の心をつかんで離さないのだ。だからこうして、いつも彼女の周囲には人が集まってやまないのだった。
「ふむだわよ。そういえば、うり坊ひとりに対して、セコンドの人数が多いだわね。もしかしたら、今日はトレーナー陣が参上してないんだわよ?」
「ええ。実はそうなんすよ。キック部門の男子門下生が関西のイベントに出場するんで、ジョン先生やサイトー選手はそっちに同行してるんすよね。あと、立松コーチは――プライベートのご用事だそうです」
「ほうほうだわよ。うり坊を猫っ可愛がりしてる立松コーチにしては、珍しいことだわね」
「だって今日はエキシビションですし、おまけにキックルールですからね。しかも予定外のオファーだったから、自分からも無理はしないようにお伝えさせてもらったんです」
そんな風に答えながら、瓜子は申し訳なさそうにサキのほうを見た。
「まあその代わりに、サキさんたちを頼ることになっちゃったわけですけど……ご面倒をおかけしてしまって、本当にすみません」
「へん。そんな言葉を聞かされても、こっちの腹はふくれねーな。申し訳ねーと思うなら、気持ちを現金で表せや」
サキは意地の悪いことを言いながら、また瓜子の頭を小突く。
それもまた、愛情表現の表れであるのだろう。瓜子自身が嬉しそうに笑っているのが、その証であった。
「ま、いーじゃん! 運営陣は大変だっただろうけど、そのおかげであたしやうり坊も出場できたんだからねー! あたしなんかは五月にも試合がなかったから、超ラッキーだったよー!」
と、灰原久子がサキを押しのけるようにして、瓜子の肩を抱いた。
つい先週、某ジムの門下生が打ち上げか何かで集団食中毒に見舞われ、二名の女子選手が本日の出場を辞退することになってしまったのだ。それで、瓜子と久子の両名に白羽の矢が立てられたのだった。
ただし瓜子は来月の《アトミック・ガールズ》でタイトルマッチが控えているため、キックルールのエキシビションマッチという形に落ち着いた。それでサキたち現役の女子選手だけでセコンドの布陣が形成されたということであるようだった。
「今回はコッシーしかお呼びがかかってなかったから、さびしかったっしょー? みんなで勝って、今日も打ち上げを楽しもーね!」
「は、はい。どうぞよろしくお願いします」
そうしてあかりが頭を下げると、これまで静観の構えであった『ベイビー・アピール』の面々がはやしたててきた。
「あかりちゃんは、けっこう名のある相手とやりあうんだってな! 俺たちも応援してるから、頑張ってくれよ!」
「あかりちゃんだったら、心配いらねえだろ! 試合の合間には、俺たちのステージも楽しんでくれよな!」
そのように率先して声をあげるのは、ベースのタツヤとドラムのダイの役割だ。有名なミュージシャンに対してなかなか気後れの抜けないあかりは、「は、はい」と頭を下げることしかできなかった。
「それじゃあわたいは、『モンキーワンダー』のメンバーと合流するだわよ。あかりんは、どうするだわよ?」
「あ、はい。わたしはまず、荷物を片付けないといけませんので……」
「それじゃあ途中までご一緒するだわよ。ワンドにベイビーのお歴々は、またのちほどだわよ」
ということで、こちらの一行は控え室を目指すことになった。
その道行きで、花子があかりに語りかけてくる。
「あちらのお歴々とはあちこちの打ち上げでご一緒してるのに、あかりんはまだ人見知りさんなんだわよ?」
「あ、はい……打ち上げの席なら、お酒の力も借りられますけど……こういう場では、ちょっと……」
「まったく、つつましいことだわね。まあ、無遠慮が服を着て歩いてるようなウサ公やサキよりは、よっぽど愛くるしいんだわよ」
きっと花子はあかりの心情を慮って、あの場を離れることにしたのだろう。
これだから、あかりは花子に心をひかれてやまないのだった。
(……つくづくわたしって、後輩根性がしみついちゃってるんだな)
あかりには、主体性というものが欠けてしまっている。だからいつも、自分を引っ張ってくれるような存在を求めてしまうのだ。頼もしい先輩である小笠原朱鷺子が地元の小田原へと凱旋してしまった現在、あかりにとっては花子こそが心の拠り所であった。
あかりは昔から、流されるように人生を生きている。
そもそもあかりが格闘技を始めたのも、友人に誘われたためであった。幼稚園時代からの幼馴染であった友人に、一緒に入門してほしいと懇願されたのである。
それであかりは中学二年生の夏休みから、武魂会船橋支部道場に通うことになった。が――あかりを誘った友人のほうは、夏休みを終えると同時に退門してしまった。彼女はそちらの門下生に恋心を抱いていたが、その人物に恋人がいると知って、道場通いの意欲を失ってしまったのだ。
いっぽうあかりは親に無理を言って入門した手前、そう簡単に辞めることはできなかった。それで友人が去った後も、惰性で稽古を続けることになってしまったのである。
それ以来、その友人とは疎遠になった。あかりの側から距離を取ったのではなく、道場通いのおかげで遊ぶ時間が減り、自然に縁が切れたのだ。そんな際にも、あかりは流されるままであった。
(まあいいや。どうせ受験シーズンになったら、わたしも辞めることになるんだろうし)
あかりはそのように考えていたが、予想外の事態が生じた。あかりではなく、父親のほうが格闘技に興味を抱くことになったのである。
「あかりが通ってる武魂会っていう道場は、キックボクシングやMMAっていう競技にも進出してるみたいだな。以前にテレビでやってた格闘技のイベントなんかにも、門下生が出場してたらしいぞ」
かつて世間に一大ブームを巻き起こした《JUF》や《トップ・ワン》といったイベントに、娘の通っている道場の門下生が出場していた。その事実が、父親を発奮させたようであった。
「格闘技なんてすっかり廃れたと思ってたけど、今でも色んなイベントが開かれてるみたいだな。CS放送では、格闘技チャンネルなんてものもあるらしいぞ。試しに、うちでも加入してみるかな」
そのように語る父親は、とても楽しそうだった。
そうしてあかりの家では、格闘技チャンネルを視聴する環境が整えられて――あかりは、《アトミック・ガールズ》の試合を目にする事態に至ったのである。
「このイベントは、女の子しか出ていないのか! この選手なんて、下手な女優より色っぽいじゃないか!」
父親がそのように評したのは、当時のアトム級王者であった雅であった。
「こっちの二人は、男みたいな迫力だな! それにこっちは、魔法少女だってさ! ずいぶんバラエティにとんでるなぁ」
当時の《アトミック・ガールズ》を支えていた来栖舞に兵藤アケミ、それに花子も、あかりの父親にかかってはそんな扱いであった。
いっぽうあかりは、父親のつきあいで視聴していたに過ぎない。自分が通っているのはグローブ空手の道場で、《アトミック・ガールズ》はMMAなのだから、父親が何と言おうとも他人事だとしか思えなかったのだ。その後に、武魂会の選手が出場する《G・フォース》の試合を見ても、さして印象は変わらなかった。
(なんだか、余計に辞めにくくなっちゃったな……まあ、受験が終わる頃には、パパの熱も冷めてるか)
中学三年生の夏から次の春までは、道場通いも免除されることになった。
ただし、受験勉強のおかげで遊ぶ時間はない。それで旧友との仲が復活することもなく、あかりは漫然と地元の公立高校に進学することに相成った。
その段に至っても父親の熱は冷めず、あかりはけっきょく道場通いを再開することにした。あかりはそうまで熱心に稽古をしていたわけではないが、父親を落胆させてまで退門を願い出る理由も持ち合わせていなかったのだ。それに、いざ道場通いを再開させてみると、そちらの関係者は誰もが笑顔で迎えてくれたために、あかりもそこはかとなく嬉しかったのだった。
道場の稽古がつらいかどうかは、自分次第である。疲れが溜まればいつでも休むことができたので、生活の負担になることはなかった。
それにあかりは、昇段試験というものにいくばくかのやりがいを感じていた。白から黄色、黄色からオレンジ色、オレンジ色から青色と、どんどん帯の色が変わっていくのは、ゲーム感覚で楽しかった。
そもそもあかりは、道場通いの他に趣味らしい趣味も持っていなかったのだ。
唯一の趣味は、漫画やアニメを楽しむことであったが――そちらの趣味はひた隠しにしていたので、余人と共有することができない。それに、高校ではあまり新しい友達もできなかったので、道場のほうがよっぽど心安らかに過ごせるぐらいであった。
今にして思えば、当時のあかりは新しい友人を作ることに消極的であったのかもしれない。入門をきっかけに旧友との仲が破綻してしまったのが、あかりにとって小さからぬ傷になっていたのかもしれなかった。
しかし、道場においては気を張る理由もない。その場にいるのは友人ではなく、先輩や後輩や稽古仲間であったからだ。何か確固たる目的を持つでもなく、ただ同じ場所で同じ行為に励むという距離感が、その頃のあかりにはちょうどよかったのかもしれなかった。
そうしてあかりは高校の在学中も、流されるままに道場通いを継続し――進学先をどうしようかと思い悩む高校三年生の春先に、ひとつの変転を迎えることになった。
武魂会の小田原支部に所属する小笠原朱鷺子が、《アトミック・ガールズ》においてプロデビューを飾ったのである。
「ついにアトミックにも、武魂会の有望な選手が出てきたな! この小笠原ってのは、なかなか期待できるんじゃないか?」
父親は、我がことのようにはしゃいでいた。それまでにも武魂会の選手はいなくもなかったが、さして名をあげることもないまま消えていったのだ。
しかし、小笠原朱鷺子は父親の期待に応えてくれた。デビュー戦もその次の試合も、一ラウンドKO勝利という見事な戦績をおさめて――なんと三戦目では、無差別級の双璧たる兵藤アケミからも判定勝利をもぎ取ってみせたのである。
その試合には、さしものあかりも心を震わせることになった。デビュー三戦目で歴戦のトップファイターから数多くのダウンを奪った小笠原朱鷺子も、そんな苦境を跳ね返して猛牛のごとき突進を見せる兵藤アケミも、同じ人間とは思えないような迫力であったのだ。
ただ、それがあまりにレベルの違う戦いであったため、あかりは自分の存在に重ねることはできなかった。ああいう人々はもともと持っている才能が違うのだと、ファン目線で見守ることしかできなかったのだ。
しかしそれでも、あかりの胸にはこれまで以上の熱が宿された。
道場の稽古や試合に、これまで以上のやりがいを覚えるようになったのである。
同時にあかりは、受験勉強をする意欲をすっかり失ってしまった。それよりも、道場通いの時間を増やしたくなってしまったのだ。それであかりはさして興味もないコンピュータ関係の専門学校を進学先に選び、道場通いに今まで以上の熱量を捧げることにした。
武魂会の公式大会にも積極的に参加して、時には入賞することもできた。それで道場のみんなが喜んでくれると、あかりも嬉しかった。もちろん父親も、大喜びであかりをほめてくれた。
そうして高校を卒業する頃には、ついに黒帯を授かることができた。
それがまた、あかりをいっそう楽しい心地にさせてくれた。
ただ――それがあかりに、目先の目標を見失わせた。いざ有段者となったならば、次は何を目標にするべきか、それがわからなくなってしまったのだ。
(まあ……それなら、有段者の部の大会でいい成績を目指すしかないのかな)
あかりはそのように考えて、ただ道場通いを継続した。
そんな中、小笠原朱鷺子は躍進を続けている。兵藤アケミを下したのちには『女帝』たる来栖舞に敗北してしまったが、その後はまた連勝記録を更新し、しかも翌年には見事にリベンジしてみせたのだ。
しかしそのいっぽうで、小笠原朱鷺子は兵藤アケミとのリベンジマッチで敗れてしまった。それでも彼女の強さに疑いはなかったので、来栖舞や兵藤アケミと並んで無差別級のトップスリーという称号を授かったのだった。
あかりは小笠原朱鷺子の躍進に胸を高鳴らせると同時に、自らの身を顧みることになった。
小笠原朱鷺子は高校を卒業すると同時に武魂会の指導員となり、同時進行でMMAの稽古を積み、《G・フォース》の試合にも出て、二十一歳の年に《アトミック・ガールズ》でのプロデビューを果たしたのだ。面白くもない専門学校に通いながら、漫然と道場に通う自分が、あまりにつまらない存在であるように思えてならなかった。
(まあ、わたしがつまらない人間なのは確かだし……あんな人たちと比べるのが間違ってるよなぁ)
あかりがそんな思いを抱え込んでいた、十九歳の秋の終わり頃――またひとつの変転が訪れた。
アイドルファイター、ユーリ・ピーチ=ストームが誕生したのである。
彼女はたった一年の稽古期間で、プロデビューした。彼女は《アトミック・ガールズ》の運営団体とCS放送局のタッグ企画で生み落とされたアイドルファイターであったのだ。
しかし彼女は、デビュー戦で勝利した。それはいかにも素人くさい、見るべきものもない喧嘩じみた試合であったが――それでも根性で、勝利をおさめてみせたのである。
当時の彼女は、十八歳。あかりよりも、一歳年少である。
その事実が、あかりの胸をざわつかせた。
彼女がその後の試合で連敗を喫すると、あかりの胸のざわめきはいっそう強まっていった。
「やっぱりアイドルなんかじゃ、プロの世界では通用しないか。……でもまあこれだけ可愛かったら、許せちゃうな」
父親のそんな言葉が、あかりをいっそう苛立たせた。
(あんな人より、わたしのほうが絶対に強い。それなのに……どうしてわたしが、こんな風にくすぶっていないといけないの?)
そうしてあかりは、決断することになった。
MMAのプロ選手を目指そうと、決意したのである。
それは、主体性を持たないあかりにとって、一世一代の決断であったのだった。




