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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
23th Bout ~Our life~
613/955

インターバル 境の日

 五月の第三月曜日――瓜子はその日も、ひとり山科医院を目指していた。

《アトミック・ガールズ》五月大会の翌日である。瓜子の胸には、まだその余韻が熱く残されていた。


 瓜子は、後藤田選手に勝利することができた。

 それも、秒殺のKO勝利だ。瓜子は一発の攻撃をもらうこともなく、三十秒足らずで後藤田選手を打ち倒すことができた。


 しかし、瓜子の内に物足りないなどという思いはない。

 試合が長引けばどのような結果になるかもわからなかったので、瓜子は短期決着を狙った。その作戦がうまくいっただけの話であり、後藤田選手を侮る気持ちなどにはとうていなれなかった。


 後藤田選手は、黄金世代のひとりである。瓜子は試合場で向かい合うだけで、その実力を肌で感じ取っていた。瓜子がベストの動きをできたのは、彼女の静かな気迫に呼応した結果であった。


 瓜子は自分の意思で集中力をコントロールできるようになったのではないか――道場のコーチ陣や鞠山選手には、そんな疑問をぶつけられることになった。今年に入ってから三戦連続で、ほとんど攻撃ももらわないまま初回でKO勝利をおさめたためである。

 しかしもちろん、そのような事実はなかった。瓜子は酸欠状態に陥ると尋常でなく五感が冴えわたるという、不可思議な感覚に見舞われるが――今年に入ってからの三戦において、そんな感覚には見舞われていなかった。


 ただ、試合になるとこれまで以上に神経が研ぎ澄まされるのを実感している。

 その結果として、三戦連続一ラウンドKO勝利という戦績を積むことがかなったのだ。


(そういう意味では、集中力が増したんだろう。でも別に、時間をゆっくり感じるような感覚はなかったから、あのおかしな現象とは別物だ)


 何にせよ、瓜子は全力で試合に取り組むのみである。

 次回の興行では、亜藤選手か山垣選手のどちらかとタイトルマッチを行うことが内定している。それに向けて、たゆまず稽古を重ねるばかりであった。


(それに昨日は、タイトルマッチがふたつもあったからな。ユーリさんも、きっと結果を知りたくてうずうずしてるだろう)


 バンタム級の王座決定トーナメントは、小笠原選手の優勝で幕を閉じた。終わってみれば大本命の勝利であったが、しかしどの試合も素晴らしい内容であったのだ。高橋選手も香田選手も鬼沢選手も尋常でなく力をつけていたので、小笠原選手の王座がいつ脅かされても不思議はなかった。


 そしてフライ級のタイトルマッチにおいては、魅々香選手が沙羅選手を下して新たな王者に輝いたのだ。

 そちらもまた、身の震えるような熱戦であった。沙羅選手は半年間のブランクを感じさせない動きを見せていたが、魅々香選手は執念で勝利をもぎとったのだ。かつてはジジ選手やマーゴット選手をも打ち倒した魅々香選手の底力が、ついに爆発したような様相であった。


 あとは、愛音や犬飼京菜もベテランファイターを相手にKO勝利をおさめている。

 きっといずれの結果においても、ユーリは胸を震わせるはずであった。


(ユーリさん自身は、元気かな。熱なんて出していないといいんだけど……)


 そんな思いを抱えながら、瓜子は山科医院の入り口をくぐった。

 本日も、無機的な表情をした女子事務員が受付カウンターに控えている。そしてその目がいくぶん緊迫した気配を漂わせつつ、瓜子を見返してきた。


「どうも、お疲れ様です。……桃園さんは発熱してしまったため、病室で休まれています」


「えっ! ユ、ユーリさんは大丈夫っすか?」


「詳細は、院長先生にお聞きください。猪狩さんがこの時間に来院することはお伝えしていますので、二階の待合ロビーでお待ちしているかと思われます」


 瓜子は半ば駆け足で、二階を目指すことになった。

 がらんとした待合ロビーの座席に、三名の人間が腰かけている。山科院長、リューク・プレスマン、ビビアナ・アルバの三名だ。瓜子の接近にいち早く気づいた山科院長が「やあやあ」と笑いかけてきた。


「猪狩さん、お疲れ様。実は、桃園さんは――」


「また熱を出しちゃったんすよね? 容態はどうなんすか?」


「相変わらずと言えば、相変わらずだよ。どうも昨晩の運動量が過剰であったようで、夜遅くに昏睡状態に陥ってしまったんだ。それから点滴を打ったので、このように朝から熱を出すことになってしまったわけだね」


 すると、リューク・プレスマンが申し訳なさそうに頭を下げた。


「すべてはトレーニングのプランを決めている、ぼくの責任です。ここ数日はうまくいっていたのに、また目測を誤ってしまいました。ユーリさんには、申し訳ない限りです」


「いやいや。熱を出すのは栄養過多が原因であるのだから、輸液の量を調整している僕の責任だよ」


「でも、運動量が過剰にならなければ、そもそも輸液も必要ないわけですし……」


「いやいや。きっと桃園さんは精神状態によって心拍数が変動して、それがカロリー消費の数値も変えてしまうのさ。そこまで計算してトレーニングの内容を設定するのは至難の業だろうから、やっぱり飢餓状態に陥るのは大前提として、輸液の量でバランスを取るしかないのだよ」


「いえ。選手の精神状態を見極めるのも、トレーナーの仕事です。ぼくはもう二ヶ月もつきっきりでユーリさんの面倒を見ているのですから、それぐらいは計算できないと……」


「どっちの責任とか、どうでもいいっすよ!」


 思わず大声をあげてしまった瓜子は、唇を噛みながら頭を下げた。


「……すみません。みなさんは全力でユーリさんの面倒を見てくださってるんですよね。自分なんかに文句をつける資格はないのに……」


「いやいや。桃園さんの精神状態が安定しているのは、みんな猪狩さんのおかげだからねぇ。君だって、我々と同じぐらい桃園さんの力になっているはずだよ」


 山科院長は柔和な笑顔のまま、そのように言ってくれた。


「それに、桃園さんが熱を出すのは三日にいっぺんぐらいの割合に落ち着いていたし、今回なんかは五日ぶりの発熱だ。毎日熱を出していた頃に比べれば、着実に快方に向かっている。あともう少しで、桃園さんは安定期に入るんじゃないかと……僕は、そんな予感を覚えているんだよねぇ」


「ほ、本当っすか?」


「うん。それに、臓器の機能も完全に回復した。これからは、可能な限り食事の量を増やしていこうかと思うよ。そうして食事だけですべてのカロリーをまかなえれば、輸液を打つ必要もなくなるわけだからね。輸液を打たなければ熱を出す理由もなくなるのだから、そのときこそがゴールだろう」


 そう言って、山科院長は通路のほうを指し示した。


「それじゃあ、お見舞いのほうをよろしくお願いするよ。だいぶん熱も下がってきたみたいだから、もう間もなく目覚めるはずだ。今日のトレーニングは面会の後から開始するので、そのように伝えてくれたまえ」


 瓜子は「はい」とうなずいて、通路に向かおうとした。

 すると、ビビアナ・アルバが仏頂面で何事かをつぶやく。英語で放たれたその言葉を、リューク・プレスマンが通訳してくれた。


「どうか猪狩さんも、力を落とさないように。……ビビアナは、そう言っています」


「……ありがとうございます。ビビアナさんにも、心から感謝しています」


 瓜子が精一杯の気持ちを込めて頭を下げると、ビビアナ・アルバは迷惑そうに眉をひそめて「さっさと行け」とばかりに手を振った。


 瓜子はあらためて、通路を進む。その間も、収拾のつかない気持ちが全身を駆け巡っていた。


(あたしが焦ったって、なんにもならない。どんなに心配でも、笑顔でユーリさんを支えるんだ)


 そうして病室まで辿り着いた瓜子がドアをノックすると、ユーリ専属の看護師が顔を覗かせた。


「お疲れ様です、猪狩さん。ちょうどついさっき、桃園さんが目を覚ましたところです」


「ありがとうございます」とまた頭を下げてから、瓜子は入室する。看護師は優しげな微笑を残して、退室していった。


 ベッドは四十五度の角度で起こされており、ユーリはそこでぐったりと身をもたれている。ただその瞳は瓜子を見るなり、星のようにきらめいた。


「わぁい、うり坊ちゃんだぁ……目が覚めるなりうり坊ちゃんのかわゆいお顔を見られるなんて、幸福の極致であるのです……」


 相変わらず、ユーリの声はかすれてしまっている。ずいぶん体重は増えてきたのに、なかなか咽喉は復調しないのだ。

 それに、運動量が過剰になって飢餓状態に陥ると、せっかくついた肉もごっそりと削げ落ちてしまう。昨日の体重は五十七キロであったはずであるが、それよりは五キロもしぼんでしまったように見えた。


「おはようございます。また熱が出ちゃったって聞いて心配してたんすけど、すごく元気そうっすね」


 瓜子が力ずくで笑ってみせると、ユーリも「うん……」と幸せそうに微笑んだ。


「点滴を打った後はおカラダのほうがアンニュイで、なかなか身動きが取れないのですけれど……うり坊ちゃんのおかげで、ココロは元気いっぱいなのです……」


「昨日なんかは、ビビアナさんと五分の勝負をしてましたもんね。自分が帰ったら、今日のトレーニングを開始するそうですよ」


「わぁい……うり坊ちゃんがたった二時間で帰ってしまうのは、寂しさの極致でありますけれど……ビビアナ先生とのトレーニングは、それに次ぐ幸福なひとときであるのです……」


 瓜子は涙をこらえながら、可能な限りベッドに近づけた椅子に着席した。

 ユーリの純白に輝く髪は、もう七センチぐらいの長さにのびている。額の生え際に刻みつけられた手術の痕も、それですっかり隠されていた。

 その顔もまだいくぶんほっそりしているが、病的な陰りはいっさい感じられない。転院当初とは、もはや比較にもならないだろう。ただし、毛布に半ば隠されたその肢体は、まだまだまったく以前のプロポーションを取り戻していなかった。やつれてこそいないものの、スリムなモデル体型といった風情である。


 よくよく見れば、ユーリは睫毛も眉毛も純白にきらめいている。ユーリはもともと色素が薄くて睫毛や眉毛も亜麻色であったので、瓜子もなかなか変化に気づくことができなかったのだ。そして、健康のために日光浴も欠かしていないという話であったが、ユーリの肌は以前よりも遥かに白く――やっぱり、雪の精霊さながらであった。


「今回は、熱を出すまで五日間も空きましたもんね。きっとこれがどんどん間遠になって、いずれは完全回復っすよ」


「うん……その日が待ち遠しいのです……うかうかしてると、みんなにユーリの存在を忘れられちゃうかもだもんねぇ……」


「あはは。天地がひっくり返ったって、そんな事態にはならないっすけどね。いっぺんでもユーリさんと顔をあわせたことがあったら、なかなか忘れられるもんじゃないっすよ」


「えへへ……でもきっと、ファンのみなさまはすっかりボーキャクのカナタだろうねぇ……イキウマの目をぬくグラビア界では、それが自然の摂理であるのです……」


「そんなことないっすよ」と、瓜子は思わず身を乗り出した。


「たとえ写真でも、ユーリさんの存在感は絶大です。それに、試合やライブの映像なんかは、それ以上ですからね。誰だって、じりじりしながらユーリさんの復帰を待ち焦がれてるはずっすよ」


「いいんだよぉ……たとえファンのみなさまに忘れられたって……またゼロから頑張るだけだからさぁ……」


 そう言って、ユーリは天使のように微笑んだ。


「だからうり坊ちゃんは心置きなく、選手活動とモデル活動に励んでいただきたいのです……ユーリもいつか、絶対に追いついてみせるからさぁ……」


「……選手としては、頑張りますよ。でも、ユーリさんが復帰してくれたら、モデル活動は即廃業っすね」


「いやーん……うり坊ちゃんと一緒にグラビア撮影するのも、ユーリの遠大な目標のひとつなのですから……どうかその楽しみを奪わないでおくんなまし……」


 ユーリがくすくすと笑うので、瓜子も思わず笑ってしまった。

 ただ、涙までこぼれてしまったため、それはすぐさま手の甲でぬぐう。すると、ユーリが「あ……」と純白の眉をひそめた。


「これは……度し難い感覚が、おなかの底からせりあがってきたのです……」


「え? 点滴を打ったばかりなのに、もうあの飢餓感ってやつがやってきちゃったんすか?」


 瓜子はすかさず、ナースコールをプッシュした。

 一分と待たせず、看護師がやってくる。その顔は凛然と引き締まっており、手には赤黒い輸液のパックが携えられていた。


「どうしました? こちらが必要でしょうか?」


 瓜子が「はい」と答えると、ユーリが同時に「いえ……」と答えた。


「点滴ではなく、お食事を……ユーリはおなかが空いているだけですので……普通のお食事でも、きっと乗り切れるはずなのです……」


「え? ですが……普通の食事ですと、消化活動が始まる前に、昏睡状態に陥ってしまう恐れが……」


「そこはユーリが、根性で消化してみせるのです……ユーリの意識が失われる前に、どうかお食事を……」


「……少々お待ちください。院長先生にご指示を仰ぎます」


 看護師は、ほとんど駆け足で立ち去っていった。

 瓜子は思わず、ベッドに身を乗り出してしまう。


「大丈夫っすか、ユーリさん? 無理をせずに、点滴を打ったほうが……」


「でも……点滴を打ったら、またねむねむになってしまうのです……そうしたら、うり坊ちゃんとの甘いひとときも台無しなのです……」


「じ、自分だったら、ユーリさんが起きるまで待ってますよ。そんなことで、無理をしないでください」


「それではあまりに、うり坊ちゃんに申し訳ないのです……うり坊ちゃんは、ただでさえ貴重な時間をユーリのために使ってくれているのですから……」


 そんな風に語りながら、ユーリは赤ん坊のように微笑んだ。


「それに……うり坊ちゃんのためだったら、ユーリはいくらでも頑張れるのです……こんな空腹感ごときに、ユーリは決して屈さないのです……」


 瓜子は言葉を失いながら、ユーリの純白の髪をひとふさつかんでみせた。

 ユーリは「えへへ……」と幸福そうに笑う。

 そのとき、看護師が舞い戻ってきた。


「院長先生に許可をいただきました。すぐに食事を準備しますので、それまではこれを」


 看護師が、その手に抱えていたものを瓜子に差し出してくる。それはどこにでも売っていそうな、栄養補助食品の束であった。


「それだけで満腹にならないようにお気をつけください。栄養の摂取は、バランスが重要ですので」


「今だったら、どれだけ食べても満腹になる気がしないのです……でもでも、ユーリもほかほかの白米が待ち遠しいのです……」


「はい。すぐに準備します」


 看護師は、再び駆け去っていく。

 瓜子が取り急ぎパッケージのひとつを開封すると、ユーリはだいぶんふくらみの戻ってきた唇でそれをついばんだ。


「うみゅう……この味も嫌いじゃないけれど、口の水分をごっそり持っていかれちゃうよねぇ……できれば、ミルクも持ってきてほしかったにゃあ……」


「もう……ユーリさんも、ずいぶん調子を取り戻してきたみたいっすね」


 瓜子はどうしても、泣き笑いのような表情になってしまった。

 いっぽうユーリは、幸福そうに微笑んでいる。


 そして――

 ユーリはこの日を境に、いっさい発熱することがなくなったのだった。

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