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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
23th Bout ~Our life~
612/955

06 決着

 美香は、ステップを踏むことをやめた。

 クラウチングのスタイルでどっしりと足を踏まえながら、相手が接近するのを待つ。露骨なまでの、カウンターを狙う構えであった。


 鴨之橋沙羅は皮肉っぽく笑いながら、前後と左右のステップで美香を攪乱しようとする。

 しかし美香は、ただ待った。自分の思惑を実現させるまで、一歩も動くつもりはなかった。


 相手が左右に動けば、サイドを取られないように正対する。ただ決して、自分からは間合いを詰めない。残る神経は、すべてカウンターに集中させた。


 鴨之橋沙羅はいよいよ軽やかにステップを踏みながら、思わぬタイミングで関節蹴りを狙ってくる。

 相手は足が長いため、この距離では美香の拳も届かない。美香は左膝を突き上げることで、相手の蹴りを押し返した。


 すると、次に狙われたのは、サイドキックだ。これは犬飼京菜の得意技であるので、きっとドッグ・ジムで習得した技であるのだろう。

 それをすかして踏み込めば、拳をかすらせることぐらいはできるかもしれない。

 しかし美香は左腕でボディを守って、その場に踏み止まってみせた。


 やはり用心深い彼女は、もっとも遠い間合いから出せる攻撃を狙ってきた。

 次に狙ってくるのは、前蹴りかローキックか――前蹴りであればサイドキックと同じようにブロックして、ローキックであればカウンターのパンチを合わせる。ローは射程が短いために、その位置であれば美香も長いリーチで効果的な攻撃を当てられるのだ。ならば――そこでは手を出さなければ、美香の本当の狙いを悟られてしまう恐れがあった。


 鴨之橋沙羅はアウトサイドに回ってから、再びの関節蹴りを放ってくる。

 ならば美香も、同じように左膝を突き出すだけだ。


 すると、そちらの蹴り足を戻すなり、相手は左ミドルを狙ってきた。

 それこそが、美香が待望していた動きである。


 美香は胸中の不安や恐怖を押し殺し、右肘を横合いに突き出した。

 爆弾を抱えた美香の右肘が、相手の左足首と激突する。


 嫌な衝撃が、美香の右肘に走り抜けた。

 しかしあくまで、肘の先端を蹴られたのみである。たとえ爆弾を抱えていようとも、このていどの衝撃で靭帯が壊れるわけもない。肘の側面を蹴られるより、よほどダメージは小さいはずであった。


 なおかつ、硬い肘の先端部を蹴りつけた相手のほうが、ダメージは深いことだろう。それは言わば、足首に肘打ちをくらったようなものであるのだ。


 美香は右肘の衝撃に耐えながら足を踏み込み、左拳を繰り出した。

 蹴り足の戻りきっていない相手は身をのけぞらせつつ、右足一本で後方に逃げる。


 美香は深追いをせず、その場に留まった。

 鴨之橋沙羅は不敵に笑いながら、左足の先をぷらぷらと振る。致命的なダメージにまでは至らなかったが、それ相応の痛みは与えられたはずであった。


(あなたが右肘を狙うなら、わたしはその蹴り足を狙います)


 相手が正確に右肘を狙っていたからこそ、美香も肘打ちで迎撃できたのだ。そうでなければ、相手の蹴り足に肘打ちをヒットさせることなど、そうそうできるわけもなかった。


(まあ……猪狩さんは、それを成功させていましたけれど)


 美香の脳裏に、大晦日の鮮烈な記憶が蘇る。

 猪狩瓜子は赤星弥生子の放ったミドルキックを、肘打ちで迎撃してみせたのだ。それで赤星弥生子は中足骨を骨折し、長期欠場を余儀なくされたのだった。


 そして、心に焼きつけられたその記憶が、美香にこのような反撃の機会を与えてくれたのである。

 一縷の思いで反撃に成功できた美香は、昂る気持ちをなだめながら足を踏み込んだ。


 勝負はここから、仕切り直しである。

 これでもなお相手が右肘を狙ってくるならば、同じ動きで迎撃する。成功しようが失敗しようが、相手にプレッシャーは与えられたはずだ。美香には、それで十分であった。


 美香はタックルのフェイントを入れてから、右フックを振り回す。

 相手は軽妙なるステップで、アウトサイドに逃げた。

 足運びに異常は見られない。足を庇うほどのダメージではなかったのだろう。

 だが、動き続けていれば、足首に負担がかかるかもしれない。それを期待する意味もあって、ここからは攻勢に出る覚悟であった。


 すると――その出鼻をくじくかのように、鴨之橋沙羅がぐんと接近してきた。

 繰り出されたのは、右ジャブだ。彼女はひっきりなしにスイッチするので、今はサウスポーになっていた。


 美香は左腕で、頭部をガードする。

 すると、鴨之橋沙羅はさらに接近して、組みついてきた。彼女は華麗な立ち技を注目されることが多いが、名うてのオールラウンダーなのである。


 しかし美香も、そちらに対する警戒はできていた。よって、すぐさま腰を落として、五分の条件で組み合うことができた。

 それを有利な組手にできるように、差し手争いの攻防が繰り広げられる。もとより本業はプロレスラーであり、実戦的なキャッチ・レスリングを磨いてきた彼女は、組み合いの攻防にも長けていた。


 しかし美香も、いちおうはオールラウンダーと呼ばれる身である。

 幼少時から柔道を基盤にした組み技を学んでいたし、のちにはアマレスのコーチや出稽古で修練を積んだ男子選手からMMAのレスリングを学ぶことができた。天覇館においては、どのような技術でも学ぶことができるのだから、あとは自分の選択次第であった。


 美香は差し手争いに励みながら、ここぞというタイミングで足技を仕掛けてみせる。これは柔道の技術であるため、MMAファイターには不慣れな人間が多いのだ。

 さすがの反応速度でそれをかわした鴨之橋沙羅は、美香の身を突き放して距離を取る。組み合いの実力は五分であったので、スタミナを消費するばかりだと判断したのだろう。


 あらためて、美香は前進する。

 すると、前蹴りを飛ばされてきた。

 今回は身をひねって攻撃を受け流し、大きく踏み込んで、拳を振るう。顔面を守った相手の右腕に、美香の左拳がヒットした。


 さらに美香が右拳を振るうと、鴨之橋沙羅はするりとアウトサイドに回り込もうとする。

 美香は愚直に、それを追いかけた。間もなく一ラウンド目が終了するはずなので、それまでは攻勢を維持してポイントを手にするつもりであった。


 鴨之橋沙羅は、優雅なダンスを思わせるステップで後方に逃げていく。

 その過程で、左ミドルが射出された。

 美香はすかさず、右肘を横に突き出す。


 その右肘をすりぬけて、鋭い左ミドルが脇腹に突き刺さった。

 それは、これまでよりも低い軌道の蹴りであったのだ。美香の右肘を避けて、脇腹を狙う軌道である。

 いくぶん背中寄りにヒットしたため、レバー直撃はまぬがれた。それでも手足から力が抜けていくようなダメージが、レバーにじんわりとしみこんでくる。


 そうして美香と相手が同時に距離を取ったところで、ラウンド終了のブザーが鳴らされた。

 鴨之橋沙羅は両腕を上げて観客たちを煽りながら、意気揚々と自分のコーナーに戻っていく。美香は重たい虚脱感をこらえながら、自分のコーナーを目指した。


「リズムをつかみかけたところで、ひっくり返されたな。おそらくポイントは、向こうについただろう」


 美香の右脇腹に氷嚢をあてながら、師範代は厳格なる声音でそのように告げてきた。


「ただし、相手も左足首にそれなりのダメージを負ったはずだ。相手がオーソになったら、カーフを狙ってみろ。きっと相手は嫌がって、また一段階、動きが鈍るはずだ」


 美香は大きく呼吸をしながら、「はい」と応じてみせる。

 対角線上に座っている鴨之橋沙羅の姿は、あちらのセコンドの大きな背中に隠されている。あの体格のよさは、キャッチ・レスリングの名手と名高い大和源五郎だ。


「きっとあちらは、足首を冷やしているだろう。足首を痛めたからには、組み技や寝技を積極的に狙ってくるかもしれん。それも十分に警戒しながら、スタンドでリズムをつかむんだ。隙があったら、こちらからタックルを狙え」


 美香が「はい」と答えたところで、『セコンドアウト』のアナウンスが流された。

 美香は水で洗われたマウスピースをくわえなおし、重たい身体を椅子から引き上げる。スタミナにはゆとりがあったはずであるのに、最後のミドルキックで一気に削られた心地であった。


 いっぽう鴨之橋沙羅は、涼しい顔で笑っている。プロレスラーである彼女は、内心を隠すのが巧みであるようなのだ。それに美香は、彼女が足首を痛めたという確証も持てていなかった。


(でも、師範代の目に間違いがあるわけはありません。彼女は、痛みをこらえるのも得意ということなのでしょう)


 第二ラウンド開始のブザーが鳴らされて、美香は臆せず前進した。

 鴨之橋沙羅もまたクラウチングのスタイルで、じりじりと前進してくる。最初から組み合いを狙っているのかと思いきや、美香が近づこうとすると鋭い前蹴りが飛ばされてきた。


 美香が左腕でボディを守ると、鴨之橋沙羅はアップスタイルの姿勢に戻ってステップを踏み始める。今の攻撃も、彼女らしい攪乱の一手であったのだ。


 あらためて、美香は前進する。

 真っ直ぐに進むのではなく、インやアウトにもステップを踏みながら、頭を動かすことも忘れない。無策で突っ込めば、痛い目を見るのは美香のほうであるはずであった。


 相手がオーソドックスの構えになったならば、師範代の指示通りにカーフキックを狙う。

 すると相手は大きく左足を持ち上げて、カーフキックを回避した。MMAではかかとを浮かせて衝撃を逃がすのがセオリーであるが、それでは足りないと判じたのだろう。その手法では、ふくらはぎの下部の代わりに足首を蹴られることになるのだった。


 しかしそうして片足を持ち上げれば、組み技のディフェンスが甘くなるし、反撃の手も一瞬遅れる。美香にひとつ、有利なポイントが生じるということだ。

 MMAとは、詰め将棋のような一面も持っている。こういう攻防の果てに手詰まりとなった側が、敗北を喫するのだ。


 頭の切れる彼女であれば、そういう攻防を得意にしているに違いない。

 しかし美香には、頼もしいセコンド陣がついている。そちらの指示もしっかり聞きながら、自分なりに勝利を目指すしかなかった。


(まずは、相手に足を使わせるのです)


 そのように判じた美香は、再び接近しようとした。

 その視界から、鴨之橋沙羅の姿が消え失せる。


 美香がその理由を悟る前に、足をすくわれた。

 鴨之橋沙羅はその場に身を沈め、前に踏み出しかけていた美香の足を横合いから薙ぎ払ってきたのだ。


 これは、犬飼京菜が得意にする水面蹴りである。

 美香はマットに倒れ込んでから、その事実を認識するに至った。


 そして気づけば、鴨之橋沙羅が美香の上にのしかかっている。

 左手の側からのしかかられた、サイドポジションだ。嘘のように呆気なく、美香はグラウンドで上を取られてしまった。


 鴨之橋沙羅は体勢を横にして、右のパウンドを美香の顔面に飛ばしてくる。

 美香が両腕でそれを防ぐと、右の手首をつかまれた。


 右肘に爆弾を抱えている美香には、それだけで脅威である。美香がその手を振りほどこうと試みると、すかさず逆の手で顔面を叩かれた。

 相手は両手で、攻撃を仕掛けてくる。つまり、腕の補助なしにポジションをキープしているのだ。美香がブリッジで返そうとしても、相手の重心はまったく揺らがなかった。


(沙羅さんは……本当に、なんて強いのでしょう)


 彼女がいつから格闘技のトレーニングを開始したのか、美香は知らない。ただ知っているのは、彼女が美香よりも五歳年少であるということだけであった。


 もちろんトレーニングの期間だけが、重要なわけではない。その生きた証拠が、桃園由宇莉だ。彼女が美香に勝利したとき、格闘技のキャリアはまだ三年ていどであったはずであった。


(わたしは不器用で才能もないから、二十年かけても未熟者なのですね)


 しかしそれでも、人はその身に備わった力で戦うしかない。

 美香は相手の背中に膝蹴りを叩きつけ、左拳の側面を顔面に叩きつけた。

 不自由な体勢であるため、さしたるダメージは与えられない。しかし相手は攻撃を嫌がって、べったり身を伏せてきた。


 そうして美香の身を圧迫しながら、右腕に両手をかけてくる。

 執拗に、右腕へのサブミッションを狙っているのだ。


 美香は懸命に身体をずらしながら、相手の足を自分の足ではさみこもうとした。

 そうはさせじと、相手も身体をずらしていく。不毛な追いかけっこであるが、その間は右腕へのプレッシャーが弱まった。


(やっぱり沙羅さんは、寝技にも隙がありません。でも……)


 これは、知らない技術ではない。

 そんな思いが、美香に勇気を与えてくれた。


 鴨之橋沙羅が習得しているのは、空手とキャッチ・レスリング――そして、ジークンドーと古式ムエタイである。後者の二点に関してはドッグ・ジムならではの技術であるため、誰にとっても未知なる領域であった。


 しかしそれらは、どちらも立ち技の技術となる。ドッグ・ジムにおいても寝技のコーチである大和源五郎はキャッチ・レスリングの名手であるため、それが基盤になっているのだろうと思われた。


 キャッチ・レスリングというのもまた、日本においては習得の難しい技術である。それを体得しているのは、おそらく格闘系プロレス団体の末裔たち――赤星道場を筆頭とする、いくつかの流派のみであるのだろう。

 さまざまな競技のコーチを招聘している天覇館東京本部道場においても、キャッチ・レスリングの使い手までは縁を持てていない。ただその代わりに、男子選手の多くは《パルテノン》や《レッド・キング》に出場することでキャッチ・レスリングの手ごわさを学んでいる。そして、それを攻略するための技術が、熱心に研究されていたのだった。


(わたしは十キロや二十キロも重い男性の先輩がたに稽古をつけてもらっているんです。ここで後れを取ってしまったら……道場のみなさんにあわせる顔がありません)


 美香は相手の足をとらえようという動きを取りやめて、呼吸を整えた。

 たちまち鴨之橋沙羅は、美香の右腕にからめた手に力を込めてくる。故障を抱えた右腕を圧迫されて、美香は背筋が粟立つ思いであった。

 しかし、胸中に渦巻く恐怖や不安の思いをぐっとねじ伏せて、美香は相手のアクションを待つ。

 サイドポジションのまま狙える関節技というのは、ごく限られている。チキンウィングアームロックか、V1アームロックか、はたまたVクロスアームロックか、ストレートアームバーか――それらの技の対処法は、美香の身に刻みつけられていた。


 美香の右腕を圧迫しながら、鴨之橋沙羅はじりじりと重心を動かしていく。

 それにつれて、美香の右腕はじわじわと頭の方向にねじあげられていった。

 この腕の角度と、重心の移動は――V1アームロックである。


 それを察知した美香は腰を切りつつ、左腕を相手の股座に差し込んでみせた。

 ブリッジで体勢を入れ替えるための、前段階の動きである。

 そうはさせじと、相手は美香の左腕を両足ではさみこんでくる。

 そして、鉤状に折り曲げようとしていた右腕を、真っ直ぐにのばすべく移行しようとした。


 この体勢であれば、V1アームロックよりもストレートアームバーのほうが狙いやすいはずであるのだ。

 そうして相手が右腕にかけていた圧力を変化させようとした瞬間――美香はすべての力を振り絞って、ブリッジしてみせた。


 美香の左腕をホールドしたために、重心はそちらにも分散されている。

 そして、右腕に仕掛ける技を変更するには、そこでも力のベクトルの変化が生じる。その双方から生まれる間隙を突いての、ブリッジであった。


 美香は、道場の面々が感心するほどに広背筋が発達している。そこに蓄えられたパワーもすべて振り絞り、美香は全力のブリッジを試みたのだ。

 その結果として、鴨之橋沙羅の身は大きくバウンドした。

 美香はすかさず身をよじり、相手の身をマットにねじ伏せる。その際にも、左腕に絡んだ両足と右腕に絡んだ両手が、いい支えになってくれた。


 上下が逆転して、美香が上となるサイドポジションである。

 相変わらず両腕を拘束された不自由な体勢であったが、自身の体重を利用できないこのポジションであれば、ストレートアームバーを狙うのは困難であるはずであった。


 すると相手は、真っ直ぐにのばそうとしていた美香の右腕を、下方向にねじろうとする。下のポジションから、チキンウィングアームロックを狙おうとしているのだ。


 その拘束が固められる前に、美香は右肩を相手の顔面にぶつけてみせた。

 そしてそのまま、右肩を相手の咽喉もとにねじこむ。気管を圧迫された相手は、美香の右腕を解放して右肩に両手をかけてきた。

 そのタイミングで、美香は横四方から上四方のポジションに移行する。そうして相手の身に深くのしかかり、その首を両足ではさみこんだ。


 足は真っ直ぐのばしたまま、ただ足首のあたりで交差させる。

 そうして相手の両足から左腕を引き抜いたのちに、横合いに倒れ込んだ。

 美香が体勢を入れ替えたことで、膝裏が相手の咽喉もとにねじこまれる。


 柔術で言う、足挟み――ヘッドシザースや「洗濯挟み」という名でも呼ばれる、古典的な技である。ただ足の力だけで相手の首を圧迫するという、きわめてシンプルな技であった。


 かつては柔道においても決まり手のひとつであったが、古い時代にルールで禁止されたという。それで新たに生まれたのが首と片腕を両足で拘束する三角締めであるのだと、美香はそのように聞いていた。


 いっぽう柔術においては現在でも禁止されていないが、滅多に決まることはない。

 そういう技は、習得しようと考える人間も少なくなっていき――試合の場で使用される機会が減れば、防御の技術を学ぼうとする人間も減っていく。ヘッドシザースであればキャッチ・レスリングの技術体系に存在する可能性もなくはなかったが、少なくとも鴨之橋沙羅は何の対応もできていなかった。


 美香は体勢を変えられないように相手の左腕をつかみつつ、すべての力を両足に注ぎ込む。

 これでタップを奪えなかったら、しばらくは立ち上がる力も残されないかもしれない――そんな不安が脳裏をかすめたが、美香はかまわずに全力を振り絞った。


 自分のこめかみに血管がふくれあがっていくのを、まざまざと感じる。

 美香は呼吸をすることも忘れていたので、視界が見る見る白く染まっていった。

 そうして鼓膜を震わせていた大歓声までもが、遠くかすんでいったとき――ふいに、肩を二回ほど叩かれた。


 その身に刻まれた習性で、美香はすぐさま技を解除する。

 目も耳もかすんでいたので、何が起きたのか認識できない。ただ、両足を荒っぽくはねのけられる感触が伝えられてきた。


 美香はマットに背中をつけて、忘れていた呼吸を繰り返す。

 そうして世界に色彩が蘇り、鼓膜がびりびりと震え始めると――その向こう側から、リングアナウンサーの声が響きわたってきた。


『二ラウンド、三分五十二秒! ヘッドシザースにより、魅々香選手の一本勝ちです!』


 美香は思考もまとまらないまま、ただ酸素をむさぼった。

 そうして首を横にねじ曲げると、ぐったり横たわった鴨之橋沙羅の姿が見える。ちょうどリングドクターが駆けつけて、彼女の咽喉もとに手をあてがったところであった。


 リングドクターに鴨之橋沙羅の身を託したレフェリーは、厳粛な面持ちで身を起こして美香のほうに近づいてくる。


「魅々香選手、立てるかね?」


 美香は「はい」と答えたつもりであったが、大歓声のおかげで自分の声が聞こえなかった。

 美香は弛緩していた腕に力を込めて、半身を起こす。しかし、両足は痙攣するように震えており、立ち上がることもままならなかった。


 レフェリーは同じ面持ちのまま片膝をつき、美香の背中を片手で支えながら、美香の右腕を持ち上げる。そうすると、さらなる歓声がうねりをあげた。


 美香が、勝ったのだ。

 しかし美香には、まったく現実感がなかった。

 やがてセコンド陣に抱え起こされて、コミッショナーの手でチャンピオンベルトが腰に巻かれても、美香は夢の中をさまよっているような心地であった。リングアナウンサーにマイクをつきつけられて、それに何か答えたような気がしたが、それも記憶の外であった。


「……魅々香選手、おめでとうございます!」


 と――ふいにそんな言葉を投げつけられて、美香はぎょっとした。

 半ば無意識で振り返ると、天使のような笑顔が待ち受けている。それは、猪狩瓜子に他ならなかった。


「猪狩……さん……どうして……?」


 美香がそのように反問すると、猪狩瓜子はいくぶん心配げな表情になった。


「これから、閉会式です。魅々香選手は、大丈夫っすか? 頭にはダメージをもらってないはずですけど……酸欠になると、意識が朦朧としますよね」


「なんね、立派なもんば腰に巻きながら、情けなかことやなあ。チャンピオン様はチャンピオン様らしゅう、堂々と胸ば張りな!」


 猪狩瓜子の肩越しに、鬼沢いつきの笑顔がにゅっと覗く。

 さらに、見知った顔がいくつか現れた。高橋道子、邑崎愛音――そして、小笠原朱鷺子である。小笠原朱鷺子は顔中にガーゼを張られており、その肩に銀色のチャンピオンベルトを抱えていた。


「御堂さん、おめでとう。ついに、やってくれたね」


「心からお祝いを申し上げるのです。きっと客席では、鞠山選手も感涙にむせんでいるのです」


「御堂さんと同じ日に王座をつかむなんて、光栄な話だね。おたがい、ぎりぎりの勝負だったけど……これからは、王者に相応しい活躍を見せないとね」


 ほんのつい先刻まで死闘を繰り広げていたはずの小笠原朱鷺子と高橋道子が、仲良く並びながら傷だらけの顔で笑っている。

 そして――そんな二人を押しのけながら、鴨之橋沙羅がふらつく足取りで近づいてきた。


「魅々香はん、ようもやってくれたなぁ。ヘッドシザースなんざ、立派なプロレス技やんか。そんな技でブラックアウトするなんざ、末代までの恥やで」


 皮肉っぽい笑顔で言いながら、鴨之橋沙羅が美香の肩を抱いてくる。そうして全体重をかけられたものだから、美香は危うくひっくり返りそうになってしまった。


「ブラックアウトしたのは、自分の責任でしょ。逃げられないなら、潔くタップしなよ」


 と、不機嫌そうな声が下から突き上げられてくる。それは誰よりも小柄な、犬飼京菜であった。

 少し離れた場所では、香田真央がひっそりと立ち尽くしている。その幼げな顔に浮かべられているのは、おずおずとした微笑であった。


「しかもこれで、対戦成績はウチの一勝二敗かいな。こらあますます、のっぴきならん事態やなぁ。次にウチとやりあうまで、誰にも負けたら許さへんで?」


「あはは。そんなこと言うんだったら、沙羅選手ももっとアトミックに出場してくださいよ。プロレスにばっかりかまけてたら、タイトルマッチなんて組んでもらえないっすよ?」


「おー、さすがにチャンピオン様となると、でかい口を叩けるもんやなぁ。ほんなら、うり坊とはグラビア撮影で勝負したろか」


「こ、こんな場所でそんな話を持ち出さないでくださいよ。せっかくのお祝い気分が台無しじゃないっすか」


「ウチの負けを祝う気分なんざ、知ったことかいな。撮影の現場で行きおうたら、ご自慢のビキニをひっぺがしたるからな」


 鴨之橋沙羅と猪狩瓜子が、楽しそうに言葉をぶつけあっている。それだけで、ここ最近の控え室の賑やかさが蘇ったかのようであった。

 美香がそんな感慨を噛みしめていると、鴨之橋沙羅とは逆の側から高橋道子が身を寄せてくる。試合からしばしの時間が経過して、彼女の精悍な顔もすっかり腫れあがってしまっていた。


「とにかく、おめでとうございます。控え室では、来栖さんもこっそり涙をぬぐってましたよ。……それだけが、悔しいです」


 そんな風に言いながら、高橋道子は満面の笑みである。

 そして、彼女の言葉と笑顔が、美香の胸に深く食い入って――その圧力に負けたかのように、いきなり涙がふきこぼれた。


 美香は涙でかすむ目で、我が身を見下ろす。

 その腰には、フライ級のチャンピオンベルトが燦然と輝いていた。


 かつて来栖舞が巻いていたベルトが、いま自分の腰に巻かれているのだ。

 その重さが、美香の両膝をいっそう震わせてやまなかった。


 自分のように不甲斐ない人間が、このように大されたものを手にしていいのか――そんな不安が、全身にのしかかってくる。

 しかしそれこそが、来栖舞の抱いていた重圧であった。彼女はこのようなものを抱えながら、十数年にわたって『女帝』として君臨していたのである。


 美香にはとても、そのような役など務まりそうもない。

 しかしそれでも、美香は死力を尽くすしかなかった。一分一秒でも長く、自らの役目を務められるように――来栖舞の背中を追いかけるしかなかった。


(それなら……これまでと何も変わらないってことですよね)


 美香は、どこにいるとも知れない来栖舞に向かって、微笑みかけてみせた。

 その間も、美香の目からは滂沱たる涙がこぼれ続けていたのだった。

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