04 ガトリング・ラッシュと天覇のグラップラー
「いやー、負けた負けた! 言い訳んしようもなか完敗やったばい!」
控え室に戻った後も、鬼沢いつきは豪快な笑顔であった。
その左腕には、テーピングで氷嚢が巻きつけられている。そして全身が汗だくであったが、彼女の笑顔には屈託がなかった。
「途中まではよか調子やったとに、最後ん最後でひっくり返されてしもうたばい! まあ、一本負けじゃ言い訳んしようがなかね!」
「は、はい。本当に、惜しい勝負でしたね。……あの、左肘は大丈夫ですか……?」
美香がそのように声をかけると、鬼沢いつきはいっそう景気よく笑いながら氷嚢を巻かれた左腕を持ち上げた。
「そりゃあ痛かばってん、靭帯に問題はなかって話やったばい! うちは靭帯も頑丈やけんね!」
「そ、そうですか。それならよかったです」
美香が安堵の息をつくと、鬼沢いつきは「んー?」と厳つい顔を近づけてきた。
「あー、あんたは肘ば痛めて長期欠場しとったんやったね! うちは心配いらんばい! ……あんた、ほんなこつ優しかばいなあ」
「い、いえ。とんでもないです……」
鬼沢いつきは笑顔で美香の背中を叩いてから、ベンチシートにどかりと座り込んだ。
そうしてセコンド陣にバンデージをほどかれている間も、鬼沢いつきは満足そうな笑顔である。『アクセル・ロード』の敗戦においては子供のように涙をこぼしていたものであったが――今日は、完全燃焼できたのだろう。それでまた、美香はひそかに安堵の息をつくことになった。
そうしてトーナメントの一回戦目が終了したのちは、通常の試合が進行される。
最初の二試合で勝利を収めたのは、プレスマン道場の邑崎愛音と横浜ドッグ・ジムの犬飼京菜であった。彼女たちはそれぞれベテラン格のトップファイターと対戦し、どちらも初回でKOしてみせたのだった。
「やっぱりプレスマン道場とドッグ・ジムは波に乗っているな。……お前たちは、それを覆せるように励むことだ」
東京本部の師範代は、そのように語っていた。美香はドッグ・ジムの鴨之橋沙羅と、後藤田成美はプレスマン道場の猪狩瓜子と対戦するのだ。これ以上もない重圧を感じながら、美香は「は、はい……」と応じるしかなかった。
そこまで試合が進んだならば、美香も二度目のウォームアップを開始する。
モニター上では、トップファイターの絡まない試合がいくつか続けられた。この後にはフライ級のタイトルマッチにトーナメントの決勝戦、そして猪狩瓜子と後藤田成美の一戦が控えているため、他の主力選手には休息が与えられたのだろう。なおかつ、赤星道場は来月に今年初めての《レッド・キング》を開催するので、羽田真里亜や大江山すみれはこちらの出場を辞退したのだという噂が流れていた。
そうしてじわじわと時間が進んでいき――第六試合が終了したところで、後藤田成美の陣営が控え室を出ていった。
美香は、最後のウォームアップだ。それでも未練がましくモニターが目に入る場所で身体を動かしていると、シャワーを済ませてさっぱりした顔の鬼沢いつきが近づいてきた。
「そろそろアイドル二号ちゃんの出番やなあ。あんたはあん娘っ子ともつきあいがあると?」
「え? あ、はい……ゴ、ゴールデンウイークや夏の合宿でご一緒するぐらいですけれど……」
「あー、合宿稽古! うちも参加したかったとに、今日んトーナメントでぶつかる可能性があるけんってお断りされたっちゃん! 夏ん合宿とかいうやつには、うちもかててくれん?」
「か、かてて……?」と美香が口ごもると、鬼沢いつきはいっそう陽気に笑った。
「うちも仲間に入れてって意味ばい。どげんね?」
「あ、いえ……そ、そちらは赤星道場の主催ですので、わたしには何とも……が、合宿稽古に関しては、いつも鞠山さんが窓口になってくれるのですが……」
「鞠山って、あんカエルんごたー魔法少女ね? うちはつきあいがなかけん、あんたが紹介してくれん?」
「は、はい……鞠山さんでしたら今日も客席にいらしていて、試合の後は打ち上げにいらっしゃるかと思いますが……」
「おー、それならちょうどよかね! うちもあんたんオマケとしてご一緒させてもらうわ!」
「わ、わたしのですか? わ、わたしのほうこそ、オマケのような存在なのですが……」
「メインイベントでタイトルマッチに挑むくせに、何ばみみっちかことば言いよーっちゃん! 魅々香ちゃんがみみっちかって、下手な洒落にもならんばい! なんかなし、よろしゅうね! ……ばってんそれより、今はあのちびっこやなあ」
と、鬼沢いつきはふいに鋭い目つきでモニターを見据えた。
「大晦日ん試合は、うちも仰天させられたばい。今でもCGか何かやったんやなかかって考えば捨てきれんぐらいやけんね」
「し、CGですか? いくら地上波放送でも、そんな手間をかけて試合内容を捏造することは……」
「それぐらい仰天させられたっちゃ話ばい。今日こそこん目で、あん化け物っぷりが本当かどうか見届けちゃるん」
やはり彼女も、猪狩瓜子と赤星弥生子の一戦には度肝を抜かれることになったのだ。
まあ、そうでない人間を探すほうが難しいぐらいであるのだろう。格闘技に携わる人間もそうでない人間も、あの現実離れした試合内容には心を震わされたはずであった。
(桃園さんの試合だってそれと同じぐらい凄い内容でしたし、しかも彼女は赤星さんに勝ってるのに……なんだか、悔しいですね)
美香がそんな感慨を噛みしめている間に、第七試合も終了した。
ついに、猪狩瓜子と後藤田成美の一戦である。その二試合後が出番である美香も、この試合だけは見届けたいと願っていた。
「それじゃあ、行ってくる」
と、来栖舞が美香に声をかけてきた。
高橋道子は、この次が出番であるのだ。美香は慌てて、頭を下げることになった。
「い、いってらっしゃい。た、高橋さん、どうか頑張って……」
「押忍。とにかく後悔のないように、力を尽くしてきます」
赤く腫れあがった顔が痛々しかったが、高橋道子の表情はとても澄みわたっていた。
そうして高橋道子たちが控え室を出ていくと、モニター上では第八試合の開始がコールされる。それだけで、とてつもない歓声がふくれあがった。
青コーナーからは、後藤田成美の陣営が登場する。
これから小さな怪物と対峙する後藤田成美は、静謐な表情で内心を包み隠していた。
赤コーナーからは、猪狩瓜子の陣営が登場する。
そちらはもう、いつも通りの気迫であった。とても引き締まったいい表情であるが、むやみに昂ったりはしていない。彼女はどのような試合の前でも、平常心であるようなのだ。
控え室の面々も、これまで以上に熱心な目を向けている。誰もが猪狩瓜子という小さな怪物に注目しているのだ。それもまた、かつての桃園由宇莉を上回る勢いであった。
『第八試合! ストロー級、五十二キロ以下契約! 五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーが、朗々たる声を響かせた。
『青コーナー。百五十三センチ。五十一・九キログラム。天覇館竜ヶ崎支部所属……後藤田、成美!』
後藤田成美は静かな面持ちで、深く一礼する。
『赤コーナー。百五十二センチ。五十一・九キログラム。新宿プレスマン道場所属……《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』
猪狩瓜子は、小さく右腕をあげて大歓声に応えた。
そうして両名は、レフェリーのもとで向かい合う。身長差はわずか一センチであったが、そのぶん体格差があらわになった。後藤田成美のほうが、ひと回りも分厚いように思えるのだ。
猪狩瓜子は骨が重いために、実際のウェイトよりも細く見えるのだという。ただし、骨格そのものはきわめて細いため、筋肉量にも不足はないのだという話であった。
(後藤田さんが勝つとしたら……やっぱり、グラウンド戦なのでしょうね。猪狩さんもずいぶん寝技の稽古を積んでいるようですから、一本を狙うのは難しいでしょうけれど……グラウンド戦を有利に進めることができれば、判定勝利を狙えるはずです)
しかしそうなると、三ラウンド中の二ラウンドで、寝技で圧倒する必要があるということだ。
猪狩瓜子はグラウンド戦そのものよりも、テイクダウンのディフェンスに力を入れている。彼女はすでに二十戦近くの試合経験を積んでいるが、寝技に持ち込まれた試合は数えるほどしか存在しなかったのだった。
(でも少なくとも、後藤田さんが寝技で後れを取ることはないはずですから……どんなに難しくても、テイクダウンに命運をかけるしかないのでしょうね)
ルール確認が終了し、両名は力強く握手を交わしてから、それぞれのコーナーに引き下がった。
『ラウンドワン!』というコールとともに、ブザーが鳴らされる。
すると――猪狩瓜子が、勢いよく前進した。
序盤は慎重に試合を進める彼女としては、珍しい動きだ。彼女は鞠山花子の助言で、試合を長引かせないという作戦を立てていたのだった。
後藤田成美がグラップラーであることは、周知の事実である。なおかつ彼女は、試合巧者だ。試合をゆったりとしたペースで進めて、判定勝利を手にする技量に長けている。その展開に持ち込ませないように、猪狩瓜子は序盤から攻勢を仕掛けたのだった。
後藤田成美は動揺した様子も見せず、膝を狙った関節蹴りでそれを迎え撃つ。
猪狩瓜子は鋭いステップでインサイドに踏み込み、右ジャブを繰り出した。最後の踏み込みで、スイッチをしたのだ。
利き手による強烈な右ジャブが、後藤田成美の顔面に突き刺さる。
後藤田成美はそれでも惑乱することなく、自らも足を使いつつ頭部をガードした。
しかし猪狩瓜子はそれよりも鋭く動き、再びの右ジャブから左のレバーブローに繋げる。右ジャブはガードできたが、レバーブローはクリーンヒットした。
その一撃で、後藤田成美の膝がかくんと砕ける。
猪狩瓜子の拳は、石のように硬いのである。
そして――返しの右フックが、後藤田成美のこめかみに突き刺さった。
後藤田成美は力なくよろめき、横合いのフェンスに激突する。
そこに猪狩瓜子が、さらなる攻撃を叩きつけた。
スイッチをしてオーソドックスに戻り、二発の左ジャブから右フック、さらには左のボディアッパーだ。
それらのすべてをクリーンヒットされた後藤田成美は、ほとんど倒れかかるようにして猪狩瓜子につかみかかろうとした。
そのがら空きの下顎に、右のアッパーが叩きつけられる。
猪狩瓜子が身を引くと、後藤田成美はまず両膝をつき、それから横倒しになった。
レフェリーは、厳粛なる面持ちで両腕を交差させる。
『一ラウンド、二十三秒! 右アッパーにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
客席の大歓声が、控え室の壁を震わせた。
美香はもう、言葉も出ない。その代わりに、鬼沢いつきが発言した。
「ちびっこの化け物っぷりば確認する前に、終わってしもうた。あん後藤田って、雑魚やなかよね?」
「鬼沢、口には気をつけろ。後藤田さんは天覇の全国大会でも優勝経験があるし、《アトミック・ガールズ》でも屈指のトップファイターという扱いだ」
柏支部のコーチが厳しい面持ちでたしなめると、鬼沢いつきは「ふふん」と鼻を鳴らした。
「それじゃあやっぱり、ちびっこんほうが怪物ってことやなあ。初代アイドルちゃんも大した怪物やったし、プレスマン道場ってんなどうなっとーとかね」
「……サキ選手は雅選手を下してアトム級の王座を統一したし、新人の邑崎選手も大した活躍だからな。道場ごと、波に乗っているということだろう」
「それならうちも、波遊びにまぜてほしかところやなあ」
そうして鬼沢いつきが不敵に微笑んだとき、東京本部の師範が美香に声をかけてきた。
「では、行こう。お前も、悔いのないようにな」
「は、はい……」と美香が控え室を出ていこうとすると、鬼沢いつきが陽気な笑顔を向けてきた。
「お、魅々香ちゃんもいよいよ出陣やなあ。応援しとーけん、頑張ってな!」
「は、はい。ありがとうございます」
美香はセコンド陣とともに、控え室を後にした。
そうして入場口を目指すと、そちらにはまだ高橋道子の陣営が控えている。高橋道子は軽く身体をほぐしており、来栖舞が鋭い視線を向けてきた。
「成美は、敗れてしまったようだな。美香は、自分の試合に集中するように」
「は、はい。そちらも、頑張ってください」
「道子なら、大丈夫だ。王座決定戦に相応しい試合を見せてくれることだろう」
ゆっくりと身を起こした高橋道子は、澄んだ面持ちで「押忍」と応じた。
そこに、後藤田成美の陣営が戻ってくる。後藤田成美はセコンドに肩を借りており、右のまぶたと左の目の下が青黒く腫れあがっていた。
「下顎を割られた可能性があるので、このまま病院に向かいます。……高橋さんと御堂さんは、どうか頑張って」
竜ヶ崎支部の師範がそのように告げて、控え室ではなく駐車場のほうに足を向ける。雑用係の人間だけが、荷物を運ぶために控え室まで走った。
「やっぱり試合になると、猪狩は怪物だね。普段はただの、可愛らしい女の子なのにさ」
と――高橋道子がふいにやわらかい笑みをこぼした。
彼女はこのトーナメントの開催が決定されるまでプレスマン道場で出稽古に励んでいたし、去年の夏などは長野のライブイベントまで同行していたのだ。美香よりも遥かに、プレスマン道場の面々と親睦が深まっているのだった。
「でも、あたしらの相手は怪物じゃない。天覇の意地を見せてやりましょうね、御堂さん」
「は、はい……小笠原さんは強敵ですけれど、どうか頑張ってください」
「押忍」と最後にもういっぺん笑ってから、高橋道子は表情を引き締めて入場口の扉に向きなおった。
しばらくして、その名前がコールされる。高橋道子は来栖舞たちとともに、歓声の渦巻く花道へと出陣していった。
美香は身体を冷やさないように、軽くミットを叩き続ける。
それからどれだけの時間が過ぎても、なかなか歓声はやまなかった。
五分が過ぎ、十分が過ぎ、ついに十五分が過ぎる。
それでようやく、ひときわ大きな歓声が響きわたった。
師範代に命じられた雑用係――《フィスト》でも戴冠の経験がある男子の門下生が、扉の隙間から試合場を盗み見る。そののちに、彼は重々しい口調で試合の結果を告げた。
「タイムアウトで、小笠原選手の判定勝利です。2対1の、スプリットであったようですね」
「そうか。高橋も、頑張ったな」
師範代の重々しい声を聞きながら、美香はこぼれそうになる嘆息をぐっと吞み込んだ。
試合の結果は、厳粛に受け止めなければならないのだ。ましてや試合の当事者でもない美香が、悲嘆に暮れるわけにはいかなかった。
やがて、高橋道子の陣営が戻ってくる。
先刻の後藤田成美と同じように、高橋道子は満身創痍でセコンドに肩を借りていたが――しかし、傷だらけの顔で明るく笑っていた。
「天覇の意地は、見せてきましたよ。まあ、試合の結果には結びつきませんでしたけど……あっちのほうがボロボロのはずなんで、まあ満足です」
「……お疲れ様でした。どうかゆっくり休んでください」
「押忍。控え室で、御堂さんの戴冠を見届けさせてもらいます」
試合が終わり、高橋道子は本来の大らかさを取り戻していた。
その笑顔は、鬼沢いつきに負けないぐらい屈託がない。
自分がこちらに戻ってくるときは、果たしてどのような表情をしているのだろう。
そんな風に考えながら、美香は入場口の扉と向かい合うことになったのだった。
 




