03 鍔迫り合い
「一ラウンドは、すっかりいいようにやられちまったな」
第一ラウンド終了後のインターバルにおいて、立松はそのように言いたてていた。
「後半はまともに攻撃をもらうこともなかったが、攻め込まれたことに変わりはない。お前さんも、いい加減にエンジンはあったまったんだろうな?」
「押忍。相手のリズムはつかめたと思います。次から、巻き返してみせますよ」
立松は瓜子の頭を氷嚢で冷やしながら、うろんげな眼光を突きつけてきた。
「ずいぶん自信ありげだな。相手のリズムをつかむために、五分間まるまる防御に徹したとでも言うつもりか?」
「いえ。結果論です。反撃してもカウンターをくらいそうだったんで、せめてリズムだけでもつかんでおこうと集中してました」
「それで手応えがあったんなら、何よりだがな。相手はずっと自分のリズムで動いてたから、あれだけ攻め込んでも大して疲れちゃいねえぞ。次のラウンドも、同じ勢いで攻め込んでくるだろう」
「それなら、望むところです」
立松はひとつ溜息をついてから、水で洗ったマウスピースを差し出してきた。
「自信があるなら、それでいい。フィジカル以外は、負けてないからな。相手の勢いに呑まれるなよ」
瓜子が「押忍」と応じてマウスピースをくわえたとき、『セコンドアウト』のアナウンスが響いた。
「考えるより、手を出せよ。おめーのおっかなさを思い知らせてやれ」
「……ウリコ、勝利、信じている」
フェンスの向こうから呼びかけてくるサキとメイにも、瓜子は「押忍」と答えてみせた。
セコンド陣とカメラクルーがケージから退去して、扉にロックが掛けられる。
瓜子は呼吸を整えながら、自らの肉体をチェックした。
何発もの攻撃をガードした両腕は、じんじんと熱く疼いていた。
ラウンドの終盤ではローももらってしまったため、左足もわずかに痛んでいる。
頭のダメージは感じなかったが、次にクリーンヒットされたらダウンはまぬがれないだろう。頭のダメージは、そうして自分の知覚できないところで蓄積されていくものであるのだ。
いっぽうカン・ハウン選手のほうは、静かに闘志を燃やしながらファイティングポーズを取っている。
それなりに汗はかいているが、まだまだ余力も十分であるようだ。必ず時間内に仕留めてやろうという決意と熱意が、ひしひしと感じられてならなかった。
(それは、あたしも同じことだよ)
瓜子はぐっとクラウチングの構えを取って、カン・ハウン選手と相対した。
そこでレフェリーが「ファイト!」と声をあげ、ゴングが打ち鳴らされる。
瓜子は今度こそ、カン・ハウン選手よりも勢いよく前進してみせた。
相手も同じ階級であるが、小回りがきくのは瓜子のほうだ。このラウンドでは、それを証明してみせる所存であった。
カン・ハウン選手もまた、これまでと変わらぬ勢いで突進してくる。
そうして間合いが詰まりきる前に、瓜子はインサイドに踏み込んだ。
そして、相手よりも早く左ジャブを打つ。
瓜子の拳は、相手の右腕にヒットした。
これでは、まだ遠いのだ。
そして、身長でまさる相手のほうは、この距離でも瓜子の顔に触れることができるだろう。
カン・ハウン選手は、左のショートフックを返してくる。
それをダッキングでかわしてから、瓜子は右のボディフックを叩きつけた。
まだ間合いが遠いので、浅い当たりだ。
そしてカン・ハウン選手は、その場で右膝を振り上げてきた。
組み技も得意であるという彼女は、テイクダウンも恐れていない様子だ。
ならば――と、瓜子はその膝蹴りを横合いにすかしつつ、両手で膝裏を抱え込もうと試みた。
カン・ハウン選手はすかさず瓜子の身を突き放し、後方に逃げていく。
そこを、瓜子は追いかけた。
カン・ハウン選手は驚いた様子もなく、左のジャブで迎撃してくる。
瓜子のボディフックをくらい、テイクダウンを狙われても、まだまだ余裕であるらしい。
であれば、その余裕や自信を突き崩すのが、瓜子の最初の命題であった。
ユーリが当たり損ないのバックハンドブローで、エイミー選手を警戒させたように――カン・ハウン選手に、瓜子の怖さというものを刻みつけるのだ。
瓜子はアウトサイドに踏み込んで、右のローを繰り出した。
ふくらはぎの下部を狙った、カーフキックである。
カン・ハウン選手はわずかに足を浮かせて、それをチェックする。
足の角度を外側にずらして、硬い脛で蹴りを受け止めようという、理想的なディフェンスだ。
カン・ハウン選手の望む通り――そして、瓜子も望む通りに、おたがいの脛が激突した。
あちらが足を浮かせているために、さほどの衝撃ではない。
しかしそれでも、カン・ハウン選手がぴくりと身をすくませるのを、瓜子は見逃さなかった。
瓜子の骨は、尋常でなく硬いのだ。
身近な選手であれば知り尽くしているその事実を、瓜子はカン・ハウン選手の身にも刻みつけてみせた。
そして瓜子はカーフキックの流れでスイッチをして、そのまま相手の背中側に回り込んでいく。
カン・ハウン選手も素早く対応したので正対のポジションに変わりはないが、その代わりに相手の突進を封じることはできている。その間隙に、瓜子のほうから踏み込んで、鼻っ柱に右ジャブを当ててみせた。
カン・ハウン選手の顔に触れたのは、これでようやく二回目だ。
彼女はまだまだ、瓜子の拳の硬さを思い知っていないはずであった。
カン・ハウン選手がぐっと近づこうとしてきたので、瓜子はそれを受け流しつつ、さらにアウトサイドへと回り込む。
そして踏み込み、もう一発の右ジャブを当ててみせた。
利き手による、強いジャブだ。
カン・ハウン選手はわずかに顔をしかめて――後方に退いた。
ついに、瓜子の打撃に嫌気を覚えたのだ。
しかし、まだまだ足りていない。彼女がどれだけタフであるかは、瓜子もこれまでの時間で思い知らされていた。
瓜子はサウスポーのまま、相手に追いすがる。
すると相手もすぐに足を止め、反撃の気配をたちのぼらせた。
その前に出された左足に、瓜子は両手でつかみかかる。
すると相手は反撃の手を止めて、さらに後退した。瓜子が本気でテイクダウンを狙っていることを気配で察したのだろう。
瓜子はまぎれもなく、本気でテイクダウンを狙っていた。
最後は打撃で仕留めると心に決めながら、本気でテイクダウンを狙っているのだ。瓜子が本気で仕掛けない限り、相手の警戒心をかきたてることはできないと見越しての行動であった。
「いいぞ! 攻撃を散らしていけ!」
立松も、そのように言ってくれている。
瓜子は一ラウンド目でつかんだリズムと距離感を頼りに、さらなる攻撃を仕掛けてみせた。
サウスポーのまま相手のアウトサイドに回り込み、右ジャブで牽制しながら相手を追い詰める。その際に右ローのフェイントを織り込むと、相手の気勢を削ぐことができた。
利き手による強いジャブと、カーフキックと、テイクダウンのプレッシャー――それだけの攻撃を積み重ねることで、瓜子はようやく相手を受け身に回らせることがかなったのだった。
(ここで相手も、流れを変えたくなるだろう)
そのために、相手が仕掛けてきたのは――逆襲の、片足タックルであった。
瓜子が想定していた内の、ひとつである。
よって瓜子は、左の膝蹴りでそれを迎え撃つことができた。
相手もかなりの勢いであったため、膝蹴りはわずかばかりにタイミングが遅れて、腿の前面が相手の胸もとを叩く格好になる。
ダメージは与えられなかったが、相手の突進を止めることはできた。
そうして身を起こした相手の顔に、右のジャブを打つ。
それがクリーンヒットして、相手の鼻から血がこぼれた。
すると――危険な気配が、下から迫った。
ほとんど反射的に、瓜子は身をのけぞらせる。その鼻先を、カン・ハウン選手の右拳が通りすぎていった。右ジャブをくらったカン・ハウン選手は、その場で右アッパーを返してきたのだ。
そうしてスウェーバックしたために、瓜子も足を使うのが遅れた。
おたがいの手が届く、危険な距離である。
その距離から、カン・ハウン選手は左フックを飛ばしてきた。
瓜子が右腕でブロックすると、すぐさま右フックに繋げてくる。
その右フックもブロックすると、相手はそのまま瓜子の首裏を抱え込んできた。
瓜子はすかさず、顔の前で両腕をクロスする。
そのど真ん中に、カン・ハウン選手の右膝が突き上げられてきた。
骨の芯まで痺れるような衝撃が、瓜子の両腕に走り抜ける。
その衝撃に耐えながら、瓜子は相手の右膝を抱え込もうとした。
相手は瓜子を突き放して、後方に逃げようとする。
それを追おうとした瓜子の顔に、左ジャブを当てられた。
さらに、危険な気配が近づいてくる。
これだけせわしなく動きながら、カン・ハウン選手は右フックまで繰り出してきたのだ。
なんと素晴らしい反応速度だろうか。
カン・ハウン選手はパワフルだが、決して勢いまかせではない。アグレッシブだが、無謀ではない。引くべきときには引き、出るべきときには出る。その判断力にも、隙はなかった。
(だけどもう、今はあんたの流れじゃない)
瓜子には、その右フックがよく見えていた。
素晴らしい反応速度だが、パンチの軌道がやや大振りだ。これがメイならば、もっと鋭い攻撃になっているはずだった。
瓜子は頭を沈めながら、相手のレバーに左ボディフックを叩き込む。
相手は不屈の闘志でもって、再び右膝を振り上げてきた。
だが、右フックの直後であったため、重心が乱れている。瓜子が顔を背けることで、難なく回避することができた。
すると目の端に、別なる影が迫ってくる。
カン・ハウン選手の、左肘である。
まだ右膝を振り上げているさなかに、彼女はそんな攻撃まで繰り出してきたのだ。
ただ――その動きが、ひどく緩慢に感じられた。
瓜子の神経が、静かに鋭く冴えわたっていく。あの、集中力の限界突破とも言うべき感覚が、瓜子の総身に宿り始めていた。
(意識をそらすな。きちんと考えて、動くんだ)
ともすれば、意識が肉体に置いていかれそうになる。
肉体が先に動いて、意識が後から追いかけてくるような――瓜子はそんな感覚の中で、これまで何人もの強敵を退けることになったのだ。
しかし瓜子はオリビア選手や鞠山選手との対戦で、その先に踏み込むことができていた。
ほとんど脊髄反射で動いているような肉体に、きちんと意識を重ね合わせる。そのときこそ、瓜子はもっとも正しく動けるはずであった。
右のこめかみを狙う左肘を目の端でとらえながら、瓜子はさらに前進する。
こうすれば、頭に当たるのは肘ではなく前腕になるはずだった。
そして前進しながら、瓜子は右腕を振りかぶる。
今度は相手の左脇腹に、右拳を当てるのだ。
瓜子の側頭部に相手の前腕がぶつかり、相手の脇腹に瓜子の拳がめりこんだ。
どちらも、さしたるダメージではない。
間合いが詰まりすぎているためである。
その間合いを活かして、瓜子は左手を相手の右足にのばした。
この段階で、相手の右足はまだ膝蹴りから戻るさなかであったのだ。
相手がなおも踏み止まろうというのなら、この足をとらえてテイクダウンを狙う。
相手がテイクダウンを嫌って下がるようなら、打撃技で追撃する。
果たして――相手はのろのろと右足を引き始めた。
であれば、打撃技で追撃だ。
瓜子は屈めていた身を起こしつつ、何が最適な攻撃であるかを模索した。
その過程で、すでに瓜子の右足がマットから離れようとしている。
(ちょっと待てってば!)
瓜子は大急ぎで、意識を巡らせた。
相手は右足を引いていたが、左足はその場に残されている。
なおかつ、右足を引くために左足に重心がかけられており――そこに、カーフキックを打ち込むべきであった。
(それで、その次は――)
このタイミングでカーフキックを打ち込めば、相手は前のめりに重心を崩すだろう。
そこでもっとも効果的なのは、左のアッパーであるはずだった。
(それでもきっと、この人は倒れない)
瓜子の右のカーフキックが、相手の左足を薙ぎ払うように蹴りつけた。
それで重心を崩した相手の下顎に、左アッパーを叩きつける。
しかし相手は顎を引いて、その衝撃に耐えてみせた。
やっぱりカン・ハウン選手は反応速度が素晴らしく、そして恐ろしいほどに頑丈であった。
瓜子は心から感服しつつ、右の拳を振りかざす。
カン・ハウン選手もガードの腕を上げようとしているが、この際は瓜子のほうが先手を取っていた。
瓜子の右フックが、カン・ハウン選手のテンプルをとらえる。
グローブのクッションを通過して、骨が骨を打つ確かな感触が伝わってきた。
だが――カン・ハウン選手の右拳が、瓜子の腹に迫っている。
彼女はこめかみを打たれる前から、ボディアッパーを繰り出していたのだ。
瓜子の右フックはクリーンヒットしたが、意識までは飛ばせていない。脳震盪を起こしても、せいぜい平衡感覚が乱されるぐらいのダメージであるのだろう。
よって瓜子は、腹部を左肘で守ってみせた。
こちらがダメージを負わないように、肘の先端で相手の右拳を受け止めてみせたのだ。
今度は相手のグローブのクッションを通して、骨と骨のぶつかる感触が伝わってくる。
それと同時に、薄気味の悪い感触が弾け散った。
瓜子の肘をまともに殴ってしまったため、カン・ハウン選手の右拳が砕けてしまったのだ。
だが、瓜子はその感触に頓着しているいとまもなかった。
逆の側から、カン・ハウン選手の左拳が振るわれてきたのだ。
鋭い、左のフックである。
これは明らかに、瓜子の右フックをくらった後のアクションだ。
いったい彼女はどれだけ頑丈であるのかと、瓜子は舌を巻く思いであった。
そして瓜子は、すでにそれを回避する時間を失ってしまっている。
ならば、相手よりも先に攻撃を当てるしかない。
そこで瓜子が射出したのは、左拳であった。
相手のボディアッパーを肘で受け止めた左腕を、そのまま上に突き上げるのだ。
それ以外に、相手よりも先に攻撃を当てるすべは存在しなかった。
ひとたびはアッパーに耐えた相手の下顎も、今はわずかに浮いている。
そのわずかな間隙にねじこむようにして、瓜子は左アッパーを叩きつけた。
相手の身体がゆっくりとのけぞっていき、それにつれて右の拳も上方にそれていく。
そのグローブの先端が、瓜子の前髪をふわりとそよがせて――そんなやわらかい感触を最後に、瓜子の五感が正常な感覚を取り戻した。
瓜子の左アッパーをくらったカン・ハウン選手は、背中からマットに倒れ込む。
瓜子は左拳を突き上げた体勢で、全身の皮膚が大歓声に波打つのを知覚した。
そして瓜子は、マットにへたりこむ。
頭ががんがんと割れるように痛み、目の奥に白い星が瞬いた。完全に、酸欠の症状である。そういえば、瓜子はすべてがゆっくりと鮮明に感じられる不可思議な感覚の中にいる間、ひとたびも呼吸をしていないはずであったのだった。
『二ラウンド、三分十八秒! 左アッパーにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
そんなアナウンスが、耳鳴りの向こうからかすかに聞こえてくる。
そして、カン・ハウン選手の身をリングドクターに託したレフェリーが、瓜子のもとに駆けつけてきた。
「猪狩選手、立てるかね?」
瓜子はかすれた声で「押忍」と応じつつ、気力を振り絞って立ち上がってみせた。
まだ目の奥には星が瞬いていたし、耳鳴りはひどいし、両膝が笑っている。
しかし、ダメージらしいダメージはない。そう何回も、へたりこんだまま勝利者コールを受けたくはなかった。
瓜子はまがりなりにも、《フィスト》と《アトミック・ガールズ》の二冠王であるのだ。
そしてユーリはどのような死闘を終えた後も、へろへろの状態で立っていた。それで心を打ち震わせた瓜子は、少しでもユーリを見習いたかった。
(この映像だって、いつかユーリさんに観てもらうんだからな)
そんな動機は、あまりに不純であっただろうか。
しかし瓜子は自らの心に従って、なんとか背筋をのばしてみせた。
レフェリーの力強い指先が、瓜子の右腕を高々と吊り上げる。
世界が白く輝いているのは、照明のせいなのか酸欠のせいなのか――そんなことも判然としないまま、瓜子は左腕も振り上げてみせた。
世界は地鳴りのような振動に包まれており、それもまた、耳鳴りなのか歓声なのかも判然としなかったのだった。




