02 未知なる強豪
その後、ルールミーティングやメディカルチェックを経て、《フィスト》の十一月大会は粛然と開始された。
本日は、赤星道場の面々とラウラ選手の陣営ぐらいしか、見知った姿もない。このような環境で試合を行うのも、実にひさかたぶりのことであった。
(何せ今回は、女子の試合もふたつしか組まれてないんだもんな)
しかしそれも男女の競技人口の差を考えれば、致し方のないことなのだろう。瓜子としては邪念なく、自分の試合に集中するばかりであった。
男子選手のあふれかえる控え室はあまり居心地がよろしくないため、おもに通路でウォームアップに励む。
第三試合では柳原の登場であったので、そちらは客席の最後方から拝見することになったが――今日の柳原はアクティブで、序盤から果敢に攻め込んでおり、ついには最終ラウンドでパウンドによるTKO勝利をもぎ取ってみせたのだった。
「俺だって、後輩門下生に後れを取ってられないからな。来年には、王座に挑戦してみせるよ」
苛烈な打撃戦で顔を腫らした柳原は、笑顔でそのように語っていた。
それからひとつ置いて第五試合では、ラウラ選手の登場である。瓜子の出番は第八試合であったので、そちらも観戦させていただくことにした。
ラウラ選手の対戦相手は、三十歳を超えるベテラン選手だ。なおかつ彼女は、初代のフライ級王者であるとのことであった。この一戦は、フライ級とストロー級の元王者対決であったのだ。
その結果は――二ラウンド、三分二十三秒、チョークスリーパーによってラウラ選手の一本勝ちである。この階級でも決して小柄ではないラウラ選手は得意のアウトスタイルで相手選手を翻弄し、最後はグラップラーの本領である寝技で勝負を決めてみせたのだった。
ただ瓜子は、若干の物足りなさを感じてしまっていた。
ここ最近は『アクセル・ロード』でトップファイター同士の対戦ばかりを見せつけられていたせいか、そちらとの差異を感じてやまなかったのだ。
もちろんラウラ選手も対戦相手も、日本国内のトップファイターであるのだろう。
ただ、本日の対戦相手はラウラ選手に手も足も出ず、呆気なく敗退してしまったように見受けられる。彼女はかつての王者であったが、広島のジムの所属であったため《アトミック・ガールズ》に参戦することもなく、《フィスト》での試合も一年ぶりで――それでずいぶんと試合勘が鈍ってしまったのではないかと思われた。
(でも……ヌール選手やシンイー選手やユーシー選手だって、本来の階級はフライ級だったんだ。それとはあまりに、レベルが違いすぎるよな)
もちろん、そのように見込まれたからこそ、彼女は『アクセル・ロード』に選出されなかったのだろう。そして、見事に出場権をもぎ取った沖選手や魅々香選手やマリア選手でも、勝ち残ることはできなかったのだ。
瓜子はこれまで、北米進出などいっさい考えたことがなかった。
それに現在もなお、北米進出がすべての選手にとってのゴール地点だと考えているわけではない。瓜子が魅了されたのは《アトミック・ガールズ》の舞台であり、そこで活躍している選手が《アクセル・ファイト》の選手よりも格下であるという考えには、どうしても得心できないのだ。
(まあ、きっとこんなのは雑念なんだろうな)
きっとユーリや多賀崎選手や沙羅選手たちは、こんな雑念にとらわれることもなく、目の前の試合に集中しているのだろう。
瓜子も、それを見習わなければならなかった。
「さあ、もうじき出番だ。そろそろギアを上げていくぞ」
立松の言葉に「押忍」と応じながら、瓜子はウォームアップを再開した。
そうして第六試合も終了したならば、入場口の裏手で待機である。
身体は、ほどよく温められている。さまざまな雑念にとらわれてしまったが、心のほうも平静だ。試合の刻限が近づけば、瓜子の心身は自然に研ぎ澄まされていった。
「今日の相手はストライカーだが、組み技や寝技も苦手なわけじゃない。それに何より、フィジカルがケタ違いだ。相手の組み技を警戒しながら、しっかり攻撃を当てていけよ」
このひと月あまり、なんべんも聞かされてきた言葉を繰り返される。
それに「押忍」と答えながら、瓜子は立松の構えたミットにミドルキックを叩き込んだ。
ほどなくして、扉の向こうから大歓声が響きわたる。
どうやら判定までもつれこむことなく、決着が着いたようである。
そして入場口からは、担架に乗せられた男子選手が運ばれてきた。頭にひどいダメージを負ってしまったようで、タオルでもおさえきれない血が担架にまで滴っていた。
MMAとは、これほど危険な競技であるのだ。
そんな思いも、瓜子は闘争心にかえてみせた。
勝利者インタビューと、選手の退場、そして対戦相手の入場に、数分ばかりの時間がかけられて――やがて、『赤コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』というアナウンスが響きわたった。
『ワンド・ペイジ』の『Rush』とともに、瓜子は花道に足を踏み出す。
開会式でも味わわされた大歓声が、さらなる熱量を込めて降り注がれてきた。
瓜子は今日もアウェイの場に挑む心づもりであったのだが、《アトミック・ガールズ》の際にも負けない大歓声である。
あるいは瓜子も、《フィスト》の新たな王者として認めてもらえることができたのか――あるいは、ここ最近の草の根活動が効果を表しているのか――何にせよ、数多くの人々が瓜子を歓迎してくれていた。
本日は、蝉川日和や灰原選手、鞠山選手や小柴選手などが客席で観戦してくれている。
それに、『ワンド・ペイジ』の面々はライブの真っ只中であるはずだが、『ベイビー・アピール』のリュウとタツヤとダイも駆けつけてくれているはずであった。
この大歓声ではそれらの声を聞き分けることもかなわなかったものの、ありがたく思う気持ちに変わりはなかった。
ボディチェック係の前まで到着したならば、保温をしていた長袖のウェアを脱ぎ捨てる。本日も、瓜子は《アトミック・ガールズ》の試合衣装だ。
立松やメイとは拳をタッチさせ、サキには頭を小突かれてから、瓜子はボディチェック係に向きなおる。ワセリンを顔に塗られて、手足の状態やマウスピースの有無を確認され――ひと月半ぶりのそういった行いが、瓜子の気持ちを高めると同時に落ち着かせてくれた。
身体は熱くたぎっているものの、頭の中身は静かに凪いでいる。
いつも通りの、ベストコンディションである。
たとえユーリがいなくとも、万全の態勢で試合に臨むことができる。瓜子には、それが何より誇らしかった。
ユーリの不在を、決してマイナスの要因にしてはいけないのだ。
異郷の地で輝かしい勝利を飾ったユーリに負けないように、瓜子も死力を尽くす所存であった。
『第八試合! 女子ストロー級、五十二キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
リングアナウンサーが、朗々たる声を響かせる。
『青コーナー、百五十八センチ、五十二キログラム、チーム・イーグルアウル所属……カン・ハウン!』
黒髪をひっつめたカン・ハウン選手は、逞しい右腕を振り上げる。
彼女もまたブーイングを受けたりはせず、大きな歓声を浴びていた。
『赤コーナー、百五十二センチ、五十一・九キログラム、新宿プレスマン道場所属……《フィスト》ストロー級第四代王者、《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者……猪狩、瓜子!』
さらなる歓声が吹き荒れて、瓜子の五体を包み込む。
瓜子はすべての人々に向けて、一礼してみせた。
そうして大歓声の中、レフェリーのもとに招かれる。
ケージの中央で向かい合ってみると、やはりカン・ハウン選手は瓜子よりもひと回りは大きいように感じられた。
カン・ハウン選手は韓国の出身で、母国のプロモーションでも確かな実績を積んでいる強豪選手である。
年齢は二十六歳で、かつてはキックボクシングと散打でキャリアを積んでいたという。赤いハーフトップとファイトショーツに身を包んでおり、その胸もとには所属ジム名の由来であるワシミミズクのイラストがプリントされていた。
筋肉質で、肩幅が広く、足腰もがっしりとしていて力強い。中国や韓国には日本よりも体格に恵まれた人間が多いようだと、メイはかつてそのように語っていたが――まさしく彼女は、瓜子と同じ階級とは思えないほど骨格がしっかりしているように思えてならなかった。
欧米圏の選手のように、そうまで分厚い体格をしているわけではない。日本人と同じように、どちらかといえば平たい骨格をしていながら、ただサイズ感だけが異なっているような印象であった。
いったい何キロぐらいリカバリーしているのか。身長は六センチほどしか変わらないというのに、多賀崎選手や魅々香選手を前にしたときのような圧迫感であった。
しかし最近の瓜子は、無差別級である高橋選手やオルガ選手ともスパーをしている。また、同じ階級であっても体格で負けるのは常であったため、今さら気後れすることはない。
ただ、この圧迫感は看過できなかった。顔だけ見ていれば同じアジア人なれども、やはり相手は海外の強豪選手であるのだ。この圧力は、ラニ・アカカ選手やオリビア選手と同一のものであった。
(……きっとユーリさんたちも、こんな気持ちでシンガポールの選手と向かい合ったんだろうな)
そのように考えると、瓜子はますます血が熱くなってくる。
そして正面に立つカン・ハウン選手も、鋭く切れあがった目に静かな闘志を宿らせていた。
レフェリーにうながされて両手を差し出すと、カン・ハウン選手も両手の拳をタッチさせてくる。その一瞬の触れあいからも、彼女の力強さが感じ取れた。
「よし、落ち着いていけよ。まずは足を使って、距離を測れ。組みだけじゃなく、蹴り技にも用心しろ」
フェンス際まで下がると、立松がそのような言葉を飛ばしてくる。
瓜子が「押忍」と答えると同時に、試合開始のゴングが鳴らされた。
瓜子は慎重に、ケージの中央に進み出る。
すると相手は、それよりも勢いよく進み出てきた。
遠い距離から、鋭い左ジャブを飛ばしてくる。
瓜子が距離を取ろうとすると、すぐさま相手も追いかけてきた。彼女はインファイトを得意にするストライカーであるのだ。
瓜子とてそれは同様であるのだが、このような序盤から真っ向勝負は避けるべきであろう。何せフィジカルでは、大きな差があるはずなのだ。
それで瓜子は、アウトサイドに逃れようとステップを踏んだが――相手との距離は変わらない。いや、むしろ距離を詰められて、腕のガードにジャブを当てられてきた。
「ギアを上げてけ! つかまるぞ!」
立松がそのような声をあげた瞬間――重い衝撃が、瓜子のこめかみに叩きこまれた。
右のフックが、ヒットしたのだ。
いつの間に、これほど近づかれてしまったのか。
瓜子は目のくらみそうなダメージに耐えながら、何とか足を使おうとした。
しかし、瓜子がどれだけ距離を取ろうとしても、相手との距離は変わらない。
左ジャブが、これまでよりも深く腕にヒットしていた。
ここ最近の対戦相手で、序盤からこうまで攻め込んでくる選手はいなかった。
それで瓜子も、リズムを狂わされてしまったのだろうか。何も焦っているつもりはないのに、どんどん鼓動が速くなっていった。
(このままだと、押し潰される! 逃げるんじゃなく、手を返すんだ!)
瓜子は再び繰り出された右フックをブロックして、自らも右ストレートを繰り出した。
相手の左頬に、瓜子の右拳がクリーンヒットする。
それと同時に、思わぬ衝撃が右の側頭部に炸裂した。
相手がカウンターで、左フックを返してきたのだ。
それはクロスカウンターの形となって、瓜子のこめかみにクリーンヒットして――今度こそ、視界がぐらりと傾いた。
「バービー!」と、サキが鋭く叫ぶ。
軽い脳震盪の状態にあった瓜子は、ほとんど条件反射で両足を背後にステップさせた。
前のめりの体勢になった瓜子の腹を、カン・ハウン選手の後頭部がかすめていく。
そうして気づくと、瓜子は相手の背中にのしかかる格好になっていた。相手の仕掛けた両足タックルをすかした状態であったのだ。
カン・ハウン選手は背中に瓜子を乗せたまま、恐ろしい圧力でぐいぐいと前進してくる。
瓜子はほとんど横合いに飛び跳ねるようにして、その突進から逃げることになった。
カン・ハウン選手は身を起こし、あらためて瓜子のほうに詰め寄ってくる。
そちらから振るわれる左ジャブが、これまで通りの勢いで瓜子の腕を叩いてきた。
(なんて勢いだよ! こんなに序盤から攻め込まれるのは……いったい、いつ以来だろう?)
相手の攻撃を懸命にしのぎながら、瓜子は頭の片隅でそのように考える。
前回対戦したのはアウトファイターの鞠山選手であったため、このように至近距離で打ち合うことにもならなかった。
その前に対戦したのはオリビア選手で、中盤に至るまでは静かで張り詰めた攻防であったはずだ。
その前は――ラウラ選手との連戦となる。彼女もまたアウトファイターであったので、インファイトを望むのは瓜子の側であった。
さらにその前はマリア選手で、これまたアウトファイターだ。
どれだけさかのぼっても、瓜子はなかなかこのような状況を思い出すことができない。
《カノン A.G》の時代などは、一色選手やイリア選手が相手であったのだから、やはりアウトファイターばかりだし――メイも二戦目では、慎重に試合を運んでいた。そうだとすると、瓜子が序盤からインファイトを仕掛けられたのは、去年の七月のメイとの初対戦までさかのぼるのかもしれなかった。
(だから、いきなりのインファイトに面食らってるってこと? でもあたしだって、スパーではメイさんとさんざんやりあってるし――)
瓜子はそこまで考えてから、メイとのスパーとの相違に思い至った。
最近は瓜子もメイもおたがいに手の内を知り尽くしているため、たとえ本気のスパーであろうとも、序盤から乱打戦になだれこむことはそうそうなかったのだった。
(そうだとしても、あたしの本領はインファイトだ! ここで打ち負けて、どうするんだよ!)
瓜子は相手の右フックを受け止めてから、右ストレートを返そうとした。
しかし、さきほどのクロスカウンターが脳裏をよぎる。
同じリズムで打ち返せば、同じ攻撃を返されるかもしれない。右ストレートを出すならば、相手の左フックを回避する動きまで織り込まなければならなかった。
結果、瓜子は手を出すことができず、ただ引き下がる。
すると、何かが横殴りで追いかけてきた。
カン・ハウン選手が、左ミドルを繰り出してきたのだ。
慌ててボディをガードした瓜子の右腕に、重い衝撃が走り抜ける。
そして間を置かず、瓜子の顔面に拳が飛ばされてきた。左ミドルから、さらに右ストレートまで繋げてきたのだ。
瓜子は首をねじり、危ういところでそれを回避する。
そうして後ろに下がろうとしたが、カン・ハウン選手は飽くなき執念で追ってきた。
いったいどれだけの時間、こうして一方的に追い込まれてしまっているのか。
瓜子の胸には、どこか懐かしさにも似たものが入り混じる切迫感があふれかえっていた。
これはまさしく、メイとの初対戦で味わわされたような切迫感だ。
そしてその前には、ラニ・アカカ選手にも同じような感覚を味わわされていたはずであった。
メイもラニ・アカカ選手も、瓜子とは比較にならないフィジカルを有している。
そして――彼女たちは、決して瓜子を恐れていなかった。格上であるのは自分だと判じ、さしたる警戒心もなくインファイトを仕掛けてきたのである。
それで瓜子は、ようやく理解できたような気がした。
このカン・ハウン選手も、瓜子のことをまったく恐れていないのだ。
彼女はかつてラウラ選手にも勝利しているのだから、《フィスト》の王者という肩書きにも怯むことはないのだろう。そして、体格でまさる自分が後手に回る必要はないとばかりに、確固たる自信をもって攻め込んできているのだ。
ならば、それは――ユーリを相手取ったエイミー選手と同じことなのではないだろうか?
そんな風に考えると、瓜子の心にはこれまでと異なる熱いものが燃えさかったのだった。




