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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
21th Bout ~Separation autumn -November-~

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04 episode7-4 シュート・レスラーと静かなる虎

 マリア選手のインタビューを終えて、画面には沙羅選手とヌール選手のプロフィール画像が表示された。

 それからカメラが試合場に戻されると、見物人たちはまだどよめいている。解説席のアダム氏も、興奮を隠しきれていなかった。


『チハナ・ウルマはとんでもないパフォーマンスで、MMAの常識を覆してくれました! 次の試合では、いったいどのようなストーリーが生まれることでしょう! それでは、選手入場です!』


 勇壮なる入場曲とともに、沙羅選手が登場する。

 青のカラーリングで、ハーフトップとファイトショーツだ。マリア選手と宇留間選手の一戦を見届けたのかどうか、その端麗なる面に浮かぶのはいつも通りの不敵な笑みであった。


 そして赤コーナー陣営から、ヌール選手も入場する。

 赤のカラーリングで、ハーフトップとショートスパッツ。その浅黒い身体はしなやかに引き締まり、静謐な眼差しにも変わりはなかった。


 やがてレフェリーの前で向かい合うと、計量の際と同じだけの体格差があらわにされる。身長は六センチ、体重は二キロだけ、沙羅選手が上回っているのだ。ただし、沙羅選手は手足の長いモデル体形であるため、リーチ差は十センチに及んでいた。


「さあ、こいつはどう転ぶかな。ドッグ・ジムの連中も、柔術の対策は練りぬいてるはずだが……コーチ陣に、柔術のスペシャリストはいねー。立ち技やレスリングに比べりゃあ、小さいながらも穴になってるはずだ」


 気を取りなおした様子で、サキがそのように言いたてた。

 すると灰原選手も、いくぶんやけくそめいた元気さで反応する。


「そーいえば沙羅ってプロレス最強とかいうお題目を掲げてるし、柔術のことを敵視してるんじゃなかったっけ? そう考えると、因縁の対決だね!」


「ふん。柔術に文句をつけるのは、プロレス最強ってお題目のスパイスにすぎねーって印象だけどなー。ま、お手並み拝見だ」


 両手を差し出すヌール選手に片手でタッチをして、沙羅選手はフェンス際に引き下がる。

 そうして試合が開始されると――ヌール選手が、思わぬ動きを見せた。前回はアップライトのすり足であったのに、今回はクラウチングで軽快にステップを踏み始めたのだ。


「わー、前回とぜんぜん違うスタイルじゃん! やっぱサキの言う通り、奥の手を隠してたのかなー?」


「こいつの普段を知らねーんだから、どれが正攻法でどれが奥の手なのかも、こっちは判断がつかねーけどな。ま、プロレス女にはこっちのほうが有効だと踏んだってこった」


 前回、鬼沢選手と対戦したヌール選手は、サキいわく昔日のジルベルト柔術の選手めいたスタイルであったのだ。自分からは大きく動かず、前蹴りや関節蹴りで相手を牽制し、慎重に間合いとタイミングを測った上で、ここぞというときにタックルを決める――あれは実に、洗練されたスタイルだと思えたものであった。


 しかし本日のヌール選手は、小気味よくステップを踏んでいる。アウトファイターさながらのステップワークだ。このようにさまざまなスタイルを使い分けられるだけで、彼女が非凡なるファイターであることは明白であった。


 それでも沙羅選手は動揺した様子も見せず、自らも軽妙にステップを踏んでいる。頻繁にスイッチを織り込んでいるし、重心も前足に移したり後ろ足に移したりで、まったく一定に留まらない。非凡の度合いでは、まったく負けていなかった。


 沙羅選手は、左右のジャブで相手を翻弄しようとする。

 それに対するヌール選手も左ジャブを適度に出しつつ、しきりにテイクダウンのフェイントをかけていた。


「そういえば今回は、個別のトレーニング風景ってやつがお披露目されてなかったッスよねー。お二人とも、どういう作戦を立ててきてるんスかねー」


「そんなもん、試合で確認するしかねーだろ。マレー女がこうまでスタイルを変えてきたら、事前の作戦なんざ役立たずだろーしな」


 そうしてしばらくは、接触もないままに時間が過ぎ去り――時計が一分を過ぎたあたりで、ヌール選手のほうが動きを見せた。これまでよりも数多くのパンチを見せるや、一気に距離を詰めて組みついたのだ。


 さすがに、上手いタイミングである。

 しかし沙羅選手も、容易くテイクダウンを取られる選手ではない。相手の組みつきをしっかり受け止めて、すぐさま四ツのポジションを取った。


 ヌール選手は足技を仕掛けて、沙羅選手を下がらせる。

 すると、沙羅選手がフェンスに押し込まれた。これまでの試合ではあまり見る機会のなかった、壁レスリングの攻防だ。


 もとより重心の低いヌール選手はさらにしっかりと腰を落として、沙羅選手をフェンスに押しつける。頭を相手の下顎に当てて、胴体のほうは膝蹴りの隙間を作らない、壁レスのお手本のようなポジション取りだ。


 沙羅選手は何とか圧迫から逃れようとするが、なかなか簡単にはいかない。相手もあまり大きく動かないため、反撃のチャンスが生まれないのだ。

 それで三十秒ほども静かな攻防が続けられたため、レフェリーがブレイクを命じることになった。


 ケージの中央で、試合が再開される。

 すると――またしばらくステップの踏み合いが続けられてから、ヌール選手が組みつきを仕掛けた。

 今回は沙羅選手も膝蹴りで待ちかまえていたが、勢いに乗る前に密着されて、再びフェンスに押し込まれてしまう。


「ふん。こいつはどうやら、長期戦の構えだな。派手好きのプロレス女を焦らそうって作戦か?」


 ヌール選手の真意は不明であったが、ただこの組みつきを軸にしていることに疑いはなかった。沙羅選手が遠い間合いからミドルやハイを打ってもタックルを狙おうとはせず、ひたすら胴体に組みついてくるのだ。そうして最後にはフェンスに押しつけ、しばらくしてからブレイクを命じられるという、その繰り返しであった。


「地味ッスねー。これ、ポイントはどんな風につけられるんスかねー?」


「いちおうフェンスに押し込んでるほうが優勢ってことになるはずだが、ジャッジによっては逃げの姿勢って判断するヤツもいるだろうからなー。ま、『アクセル・ロード』だったらドローが濃厚だろ」


「へー。そんな作戦に、なんの意味があるんだろ? けっきょくドローなら、意味ないじゃん」


「相手のスタミナを削ってリズムも乱せるなら、効果は十分だろーよ。そら、プロレス女は早くも息があがってるじゃねーか」


 サキの言う通り、沙羅選手の顔から余裕の色が消えていた。

 その小麦色の肌には汗がしたたり、早くも口が開きかけている。自分のリズムを乱されたにせよ、ずいぶん消耗が激しいようであった。


「このプロレス女は、前の試合でもスタミナを切らせてたよなー。あっちの気候が、肌に合ってねーんじゃねーのか? そーゆーのは、わりあい個人差が出るもんだろーしよ」


「そうっすね。本来は沙羅選手だって、人並み以上にスタミナがあるはずっすよ」


 瓜子も画面を注視しつつ、そんな言葉を返すことになった。

 沙羅選手の常ならぬ姿が、瓜子を不安な心地にさせていたのだ。


 何度目かのブレイクの後、両者はケージの中央で相対する。

 すると――ヌール選手がクラウチングからアップライトのスタイルに切り替え、すり足で距離を測り始めた。

 一ラウンド目の残り時間は、ちょうど一分ジャストである。それをセコンドから知らされて、スタイルをチェンジしたようであった。


「ふん。ここで攻勢に出て、しっかりポイントもぶん取ってやろうって算段か?」


 ヌール選手は、すり足でじりじりと間合いを詰めていく。

 沙羅選手はステップワークでそれに対抗しようとしていたが、明らかにその足取りは重かった。


 沙羅選手はぜいぜいと息をつきながら、じょじょに下がらされていく。

 このままでは、フェンス際まで追い込まれてしまいそうだ。


 そこで沙羅選手は遠い間合いから、左のハイキックを繰り出した。

 いかにも相手の接近を嫌がっての、大雑把な攻撃だ。


 沙羅選手の長い足をダッキングでかわしたヌール選手は、鋭い踏み込みで懐に跳び込む。

 蹴り足の戻りきっていない状態で、沙羅選手は腰のあたりに組みつかれてしまった。


 あとはもう、マットに倒されるばかりであろう。

 瓜子はほとんどそのように確信していたのだが――そこで、思わぬ光景が繰り広げられた。

 身体をくの字にした沙羅選手が相手の背中に覆いかぶさるような体勢で、腰に両腕を回したのだ。

 そうして沙羅選手が上体をのけぞらせると、ヌール選手の身が半回転して背中からマットに叩きつけられた。


 柔道で言う、俵返しである。

 そうして両者はマットの上でもつれ合い――上を取ったのは、沙羅選手のほうであった。

 ヌール選手は、沙羅選手の右足を両足でからめ取っている。かろうじて、ハーフガードのポジションだ。

 そのポジションのまま、沙羅選手は何発ものパウンドをヌール選手の身に叩きつけた。

 すべて両腕でガードされていたが、先刻までの弱々しい挙動が嘘のような、苛烈なる猛攻である。そうしてヌール選手が何とかスイープを仕掛けようと腰を切ったとき、ラウンド終了のホーンが鳴らされたのだった。


 ヌール選手の足を振り払って身を起こした沙羅選手は、汗だくの顔で不敵に笑いながら、咽喉をかき切る不穏なジェスチャーを見せる。

 沙羅選手のそんな勇ましい姿に、灰原選手や蝉川日和が歓声をあげていた。


「沙羅のやつ、まだまだ元気じゃん! 疲れてたら、あんな投げ技はできないっしょ!」


「ほんとッスねー! タイミングもバッチリだったし、柔道だったらきっと一本ッスよ!」


「ふん。演技で汗は出せねーだろうが、くたびれたツラや呼吸は芝居だったのかもなー。プロレスを盛り上げるには、そういう芝居も必要ってことか」


 自分のコーナーに戻った沙羅選手はドリンクボトルの水を頭からかぶりつつ、ついでのように咽喉を潤す。

 疲れているのか元気であるのか、外面からはまったく判然としない。それこそが、沙羅選手のしたたかさであるのだろう。


 ただ――対角線で椅子に座したヌール選手もまた、まったく内心が知れなかった。

 投げ技を成功させてパウンドまで繋げたのだから、おそらくこのラウンドでポイントを取ったのは沙羅選手のほうだ。しかしそれでも、ヌール選手の沈着さにはヒビひとつ入っていないようであった。


『ガスアウトしかけているように見えたシャラが、最後に怒涛の反撃を見せました! ウヅキ! シャラというのは、スタミナに難があるのでしょうか?』


 解説席のアダム氏がそのように問いかけると、卯月選手が英語でそれに答えた。瓜子は目を凝らして、画面下部の字幕を読む。


『いえ。そのようなことはないと思います。ただし彼女は苦しいときでもそれを表に出さない強靭さを持っていますので、試合中の表情はまったくあてにならないかと思います』


『ではやはり、さきほどまでの疲れた表情はフェイクであったのですね! ジョアン! ヌールはピンチなのではないでしょうか?』


『ポイントは先行されてしまったようです。ですが彼女も、まだまだ余力を残しています』


 ヘッドコーチたる両名もまた内心が知れないため、けっきょく瓜子にはどちらが優勢であるのかも判然としなかった。

 しかし何にせよ、ポイントは沙羅選手が奪取できたようだ。まだスタミナに心配がないようであれば、次のラウンドでも期待できるはずであった。


 そうして、第二ラウンドが開始される。

 ヌール選手はクラウチングに戻り、また軽妙なるステップワークを見せた。

 それに対する沙羅選手は――アップライトでゆったりと構えて、得意のステップを踏もうとしなかった。


(……やっぱり、スタミナが残ってないの?)


 沙羅選手は余裕の表情を取り戻し、口もぴったりとふさいでいる。

 ただ、胸や肩の動きから、呼吸が大きくなっていることは明白である。それでけっきょく、余力はどのていどであるのか――やはり瓜子には、さっぱり見当もつかなかった。


 ヌール選手は左ジャブを振りながら、じりじりと間合いを詰めていく。

 沙羅選手はすり足で前後に動き、攻撃の手を出そうとしない。スタミナ切れで動きを抑えているのか、あるいはカウンターを狙っているのか、どちらとも取れる挙動だ。もとより空手をルーツにしている沙羅選手は、アップライトもすり足の動きも得意にしているはずであった。


 ヌール選手はアウトサイドに踏み込んで、前手のショートフックを放つ。

 沙羅選手が右腕でそれをブロックすると、ヌール選手はまた機敏な動きで胴体に組みついた。

 沙羅選手は無理にあらがおうとせず、そのままフェンスに押し込まれてしまう。またもや、壁レスリングの攻防である。


『一ラウンド目の再来です! シャラはやはり、スタミナの回復をはかっているのでしょうか? ですがこのポジションは、危ういように思います!』


 アダム氏の解説通り、壁レスリングで守りに入ってもスタミナを回復できるとは思えない。ヌール選手は細かに動きながら確かなプレッシャーを与えてくるため、それを受けている人間はまったく気が抜けないはずであるのだ。


 すると――沙羅選手がぐっと腰を落として、ヌール選手の圧迫に抵抗し始めた。

 下顎に当てられていた頭を脇に外し、ヌール選手よりも腰を落として、なんとか相手を押しのけようとする。いかにも力ずくで、沙羅選手らしからぬ強引な動きであるように思えた。


 両者の間にわずかばかりの隙間が生まれたが、沙羅選手はずいぶん前屈の姿勢になっているため、これでは膝蹴りも出せないだろう。むしろ、押し込んでいるヌール選手のほうに膝蹴りのチャンスが生まれてしまいそうだった。


「うん? まさか、この女……」


 と、サキが何かつぶやきかけたとき――ふいに、両者が密着した。沙羅選手が、強引に押しのけようという動きを取りやめたようだ。


 そうしてべったりと密着するなり、何故だかヌール選手のほうが引き下がった。

 なおかつ、その足取りに乱れが見られる。ただ下がったのではなく、慌てて身を離したかのような挙動だ。


 沙羅選手はひとつ大きく息をついてから、それを追った。

 その顔に、不敵な笑みが浮かべられている。そして、そのステップにかつての躍動感が蘇った。


 ヌール選手は足をもつらせながら、それから逃げようとする。

 その顔は沈着なままであったが、どこかにダメージを負ったかのように前屈みの姿勢になっていた。


「もしかして……ワンインチパンチ?」


 メイが鋭く声をあげると、サキは「さてな」と気安く応じた。


「ただ、プロレス女の左拳が、相手のレバーを叩いたように見えたなー。ワンインチじゃなく、十センチぐらいは隙間もあっただろーよ」


「たった十センチの隙間じゃ、ダメージなんて与えられないっしょ! ……あ、だけど、あの犬っころも赤鬼相手に、なんかおかしな攻撃をしたんだっけ?」


 灰原選手の言葉に、瓜子は息を呑むことになった。

 今年の一月、《アトミック・ガールズ》と《レッド・キング》の団体対抗戦において、大江山すみれと対戦した犬飼京菜はフェンス際で奇妙な動きを見せて、ダウンを奪ってみせたのである。その際に、解説の雅選手が『ワンインチパンチ』という言葉を使っていたのだった。


 ワンインチパンチというのは中国拳法をルーツにしたジークンドーの技で、わずかな間合いからダメージを与えることのできる打撃技であるという。まったく眉唾な話であるが、ドッグ・ジムのダニー・リーはジークンドーの使い手であるというのだから、絵空事だと切り捨てるわけにもいかなかった。


「ま、何にせよ、マレー女がダメージを負ったことは確かだなー。プロレス女も、最後のスタミナを振り絞ってるみてーじゃねーか」


 沙羅選手はドッグ・ジムにて体得した玄妙なるステップワークで、ヌール選手を追い詰めようとしていた。

 緩急の激しいステップで間合いを詰め、思わぬタイミングで左右のパンチを叩き込んでいく。ヌール選手は防戦一方で、反撃することもできていなかった。


 ただ、沙羅選手も蹴り技は出せずにいる。

 やはり、ヌール選手の組みつきを警戒しているのだろうか。ヌール選手の挙動はいかにも弱々しかったが、ガードの隙間から覗くその顔は静謐そのものであった。


 試合時間は、ようやく二分が経過したところだ。

 このまま一気に押し切るか、いったん息をつくかは、難しいところだろう。もしも沙羅選手がスタミナに不安を抱えているならば、いっそう悩ましいはずであった。


 そして、瓜子が息を詰めて見守る中――沙羅選手が、ふっと後方に引き下がった。

 すると、防戦一方であったヌール選手が、思わぬ鋭さで前進した。

 足を踏み込むと同時に、頭が下げられている。足もとを狙ったタックルだ。


 ぞっとするような鋭さとタイミングである。

 ヌール選手はここ一番で、最高の動きを見せたのだ。


 だが――ヌール選手の両腕がのばされると同時に、沙羅選手も左膝を振り上げていた。

 カウンターの、膝蹴りである。

 これもまた、背筋の寒くなるような鋭さとタイミングであった。


 しかし、それでもなお、この攻防は終わらなかった。

 タックルの勢いを減じないまま、ヌール選手が首をねじってその膝蹴りをかわしてみせたのだ。


 沙羅選手の左膝は、ヌール選手の右肩にめりこんだ。

 その間に、ヌール選手の両腕が沙羅選手の軸足を抱え込もうとした。


 沙羅選手は相手の背中にのしかかりつつ、マットを踏みしめていた右足を後方にはねあげようとする。

 片足一本でバービーの動きを見せて、タックルをかわそうと試みたのだ。


 ヌール選手の両腕は、すでに沙羅選手の右膝を抱え込もうとしている。

 その手のクラッチを弾き返すようにして、沙羅選手の右足が後方に逃げた。

 そして――両足を大きく前後に広げる格好になった沙羅選手は、その体勢のまま再び相手の腰に両腕を回した。


 再びの、俵投げである。

 自らの突進力に流されるようにして、ヌール選手の下半身が持ち上げられた。

 沙羅選手は決死の形相でヌール選手の腰を抱え込み、上体を反りながら相手の身をマットに叩きつける。そうしてすぐさま相手にのしかかり、サイドポジションを奪取した。


 ヌール選手の身に横合いから覆いかぶさりつつ、沙羅選手は背中を大きく上下させる。ここはすぐさま攻勢に出るべき場面であったが、さすがに息が続かなかったのだろう。


 だが何故か、ヌール選手のほうも動こうとしない。

 そしてレフェリーが、にわかに沙羅選手の背中をタップしたのだった。


 沙羅選手はぜいぜいと息をつきながら、身を起こす。

 マットに横たわったヌール選手は――とても静謐な表情のまま、安らかにまぶたを閉ざしていた。

 ヌール選手は受け身も取れずに、頭をマットで強打してしまったようであった。


 二ラウンド、二分三十五秒、サイドスープレックスによるKOで、シャラ・カモノハシの勝利――そんなアダム氏によるアナウンスを耳にして、瓜子はようやく脱力することができた。


 レフェリーに右腕を掲げられた沙羅選手は汗だくの顔でふてぶてしく笑いつつ、左腕も頭上に振り上げる。ただ両方の膝が笑っており、もはや一滴のスタミナも残されていないことは明白であった。


 そして画面は、トレーニングルームに切り替えられる。

 右肩をテーピングで固定されたヌール選手は、敗北してもなお静謐な面持ちであった。


『最後の膝蹴りで肩にダメージを負ったため、タックルを完遂することができませんでした。わたしも持てる力をすべて振り絞ったつもりですが……シャラ・カモノハシには、一歩およばなかったようです。彼女の強さに敬服し、心からの祝福を捧げたいと思います』


 ヌール選手は、沈着そのものの声音でそのように語った。


『もちろん悔しさはありますが、あれほどの強者と対戦できたのは光栄の限りです。……応援くださったみなさん、ありがとうございました』


 マリア選手と同様に、ヌール選手の顔にも涙はない。

 そうして彼女の静謐な姿に番組スタッフのクレジットが重ねられて、その日の番組は終了を迎えることに相成ったのだった。


「うーん! やっぱり沙羅は、強敵だね! 日本陣営が勝ったのはよかったけど、マコっちゃんもうかうかしてられないなー!」


「そんな心配は、次の試合に勝ってからだろ。……ま、それはうちの乳牛もおんなじこったけどよ」


 そう言って、サキは早々に帰り支度を始めた。

 そして、瓜子の顔を横目でねめつけてくる。


「おめーも四日後には試合なんだからなー。それまでに、気持ちを切り替えとけよ?」


「押忍。沙羅選手の勝利はおめでたいし、ユーリさんの試合も気がかりっすけど……そこは、なんとかしてみせます」


「ああ、そーかよ」と、サキは少しだけ口の端を上げた。


「ところで、大和のジジイは女相手のスパーでスープレックスは使わねーはずだったな。あんな体重差で投げられたら、こっちがぶっ壊されちまうからよ」


「はい? 確かに大和さんとのスパーで、投げられた覚えはありませんね」


「だったら、教えといてやらあ。ジジイの現役時代の得意技は、首投げと俵返しだったんだよ」


「えーっ! それじゃああの投げ技も、ドッグ・ジムで磨いてきたってことー? おかしなステップといいワンインチパンチといい、やっぱドッグ・ジムってのは厄介だなー!」


 灰原選手はそのように騒いでいたが、瓜子は別なる感慨に胸を満たされることになってしまった。

 ドッグ・ジムの看板を背負った沙羅選手は、そちらで培った技術でもってヌール選手という難敵を下してみせたのだ。今頃、ドッグ・ジムではどれほどの騒ぎになっているのか――それを想像するだけで、瓜子は何だか目もとまで熱くなってしまいそうだった。

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