06 episode6-3 八人目の勝者
第一ラウンドが終了して、一分間のインターバルである。
椅子に座したユーリはセコンドによって顔に氷嚢をあてられながら、ドリンクボトルの水でくぴくぴと水分補給している。たった一発の攻撃しか当てることができなかったのに、表情は元気いっぱいだ。
いっぽうエイミー選手は前屈みの姿勢で椅子に座し、頭の上に氷嚢を乗せられている。そしてその目は熾火のように燃えながら、対角線上のユーリを鋭く見据えていた。
「最後のダウンは当たりぞこないだからスリップと見なされかねねーし、それまでは完封されてるからなー。よくてドロー、普通ならポイントを取られてるところだろーぜ」
「ピンク頭の試合が判定までもつれこんだことなんて、ほとんどないっしょ? だったらきっと、大丈夫さ!」
「でもこの試合は、二ラウンド制ですからね。うかうかしてると、時間切れもありえますよ。延長ラウンドを狙うにしても、次のラウンドは確実に取らないとまずいってことです」
「とりあえず、もっと攻撃を当てたいッスよねー。それに、グラウンドで勝負をかけるっていう作戦じゃありませんでしたっけー?」
「ユーリから、組み技を仕掛ける、難しい。テイクダウンを取られてから、スイープで返すほうが、現実的かもしれない」
瓜子以外の五名は、熱意を隠しきれない様子で語らっている。
しかし瓜子は、心中で祈るのが精一杯であった。
(ユーリさんなら、絶対に大丈夫です。なんとか、勝利をもぎ取ってください)
すると、灰原選手とは逆の側から、瓜子の手をぎゅっとつかんでくる者があった。
瓜子が振り返ると、そこにはメイの真剣な顔が待ちかまえている。
「……ユーリの爆発力、最後に見せることができた。きっと、流れ、変わると思う」
「はい。自分もそう信じてます」
瓜子は気力を振り絞って、笑顔を返してみせる。
そこで、インターバルが終了した。
セコンド陣やカメラクルーがケージの外に出ていき、フェンスの扉がロックされるのを確認してから、レフェリーが右手を振り下ろし、試合再開のホーンが鳴らされる。
すると――ユーリが、エイミー選手のもとに突進した。
まるで、犬飼京菜や宇留間選手のごとき、ロケットスタートである。
エイミー選手は一瞬だけびくんと身を震わせてから、フェンスに沿って横移動した。
ユーリはそちらに軌道修正しつつ、ぴょんっと跳躍する。
右足で踏み切って、右拳を突き出す。いわゆる、スーパーマンパンチであった。
そののびやかなる跳躍に、アダム氏はまた『ワオ!』と声をあげる。
ただやっぱりヒットさせることは難しく、ユーリはエイミー選手の横合いに着地する。
そして、着地すると同時にバックスピンキックのモーションを見せた。ユーリは動きが丁寧すぎて、簡単に予見できてしまうのだ。
ただ、エイミー選手はカウンターを狙うこともなく、ただユーリから遠ざかった。
誰もいなくなった空間に、ユーリの右足が旋回する。その優美さと迫力に、会場内の見物人たちがどよめいたようだった。
そうして空振りを果たしたユーリは、あらためてエイミー選手に向きなおる。
その背中が、真っ直ぐにのびていた。クラウチングから、アップライトに切り替えたのだ。
そしてユーリは当たるはずもない距離で、今度は右のハイキックを繰り出したのだった。
「わー、何これ! 犬っころの真似でもしてんの?」
「馬鹿げてんなー。こいつが乳牛の作戦なのか卯月の作戦なのか、気になるところだぜ」
そんなサキたちの感慨も知らぬげに、ユーリはぶんぶんと手足を振り回した。コンビネーションの乱発ではなく、単発の大技の繰り返しだ。ただし、ユーリの持ち技は、左右のハイキック、左右のミドルキック、右のバックスピンハイキック、右のバックハンドブロー、そしてスーパーマンパンチのみであった。
なおかつユーリは一発の技を出すたびに動きを止めて、相手のほうに近づきつつ、「せーの」とばかりに次の技を出す。これがコンビネーションと単発の差である。しかもユーリはいちいち動きが丁寧すぎるため、このような大技は誰でも簡単に回避できるはずであった。
だが――エイミー選手は距離を取るばかりで、ユーリに近づけずにいる。コンビネーションの隙間に踏み込むより、よっぽど簡単に反撃できそうなところであるのに、まったく手を出そうとしないのだ。
「ふん。さっきのダウンで、ようやく乳牛の馬鹿力を思い知ったか? ……そんでも、さっきのラウンドはどんな判定に落ち着くのか微妙なところだからな。敵さんも、ただ逃げ回るわけにはいかねーだろうよ」
一分ほどが経過したところで、サキの言う通りに反撃が始まった。エイミー選手は遠い距離を保ったまま、技の打ち終わりに関節蹴りを出してきたのだ。
膝を蹴られたユーリは、痛そうな顔をして後ずさる。
そうしてエイミー選手が自分から近づこうとすると――その鼻先に、ユーリの右拳が飛ばされた。右ストレートから始まる逆ワンツーで、次に繋げるのは右ミドルだ。
危ういところでそれを回避したエイミー選手は、ぐっと前進の構えを取る。
またバックハンドブローが出されるなら、それを回避してから近づこうというのだろう。
しかしユーリはバックハンドブローを出さないまま、右足を大きく踏み出した。そうしてスイッチしての、左ミドルだ。
前進の構えであったエイミー選手は後方に逃げることもできず、右腕でユーリの左ミドルをブロックする。
そして――そこに、ユーリの右拳が飛ばされた。
これは、左ミドルから右ストレートに繋げるコンビネーションであったのだ。
ユーリの白い右腕が真っ直ぐにのばされて、エイミー選手の左頬に突き刺さる。
この試合において初めての、クリーンヒットである。
さらにユーリは、そこから両足タックルのモーションを見せた。
エイミー選手はふらつきながらも、バービーの動きで何とかタックルを回避する。
するとユーリはすかさず仰向けの体勢となって、寝技で迎え撃つ準備を見せた。
エイミー選手はその足を蹴ろうともしないまま、距離を取る。ユーリの右ストレートをくらった左頬は、その一撃で赤くなっていた。
「よーしよし! ピンク頭のペースになってきたじゃん!」
瓜子の首を抱きすくめた灰原選手が、頭に頬ずりをしてくる。
しかし瓜子は、一瞬たりとも画面から目を離すことができなかった。
立ち上がったユーリは、再びアップライトの姿勢を取る。
それと相対するエイミー選手はクラウチングで、これまで以上に腰を落としている。いかにもテイクダウンを狙っていそうな重心の低さだ。
しかしユーリはおかまいなしで、遠距離から右ハイを繰り出した。
それをやりすごしたエイミー選手は、また遠距離から関節蹴りを放つ。
遠距離なので浅い当たりだが、膝を正面から蹴る危険な技だ。ユーリは顔をしかめつつ、遠い距離から三度目のスーパーマンパンチを繰り出した。
エイミー選手はアウトサイドに回ってその攻撃を受け流し、横からユーリに組みついた。
初めての、立った状態での組み合いである。双手を差されたユーリはすぐさま右腕を差し返して、四ツの状態となる。五分の条件の組み合いだ。
それでしばらくは、おたがいに相手をマットに組み伏せようという攻防が続けられたが――やがてエイミー選手がユーリの身を突き放して、距離を取った。
しぶしぶあきらめた――という感じではない。
ここに活路があるかどうかチャレンジして、ユーリの組み力を確認した上で、潔く身を引いたという印象である。
言うまでもなく、エイミー選手もあらゆる方面から勝利への道を探っているのだ。
そしてそれは、ユーリも同様であるのだろう。ウインクをするように右目を閉ざしたユーリは、残された左目をきらきらと輝かせていた。
試合時間は、残り半分である。
ユーリは二発のジャブを出し、右ストレートから左のボディブローに繋げ、そして最後にタックルのモーションを見せた。
深く腰を落としていたエイミー選手は、弾かれたような勢いで後ずさる。やはり、ユーリのタックルを警戒しているようだ。
ユーリは力強く前進しながら、ワンツーから左ミドルのコンビネーションを出す。
さらにユーリがバックハンドブローにまで繋げると、エイミー選手はそこまで見届けたのちに右ストレートを繰り出した。
エイミー選手の右拳はユーリの左腕をこすりつつ、顔面にヒットする。ここでは、エイミー選手に優勢を取られてしまった。
しかしユーリはめげた様子もなく、右のバックスピンハイキックを射出する。
エイミー選手はそれを頭上にやりすごしつつ、ユーリの懐に飛び込んだ。
いい判断だが、ユーリの反撃を警戒しているためか、一ラウンド目よりも出足が鈍っている。それで、自らもタックルに繋げようと考えていたらしいユーリと、正面からがっぷり組み合う結果になった。
するとエイミー選手はすぐにユーリを突き放して、また距離を取る。
この期に及んでも、エイミー選手は沈着で的確だ。瓜子はその精神力にこそ、感服したいような心地であった。
二ラウンド目は完全に混戦模様で、どちらにポイントがつくかもわからない。
そして一ラウンド目も判定の難しい結果であったため、ユーリもエイミー選手もKOか一本の完全決着を目指しているはずであった。
そこでユーリが次に選んだのは――コンビネーションの乱発だ。
第二ラウンドも三分が過ぎて、もっとも苦しい時間であろうに、ユーリはスタミナ切れを恐れない。それを相手取るほうは、心からげんなりさせられることだろう。
しかしエイミー選手も不屈の闘志で、それを迎え撃っていた。
隙があれば攻撃を撃ち込み、時にはユーリの強烈な攻撃を腕でブロックする。もはやユーリの破壊力を恐れていては勝ち目がないと、覚悟を固めた様子である。
彼女はまぎれもなく、強敵であった。
力も技も精神力も、すべてが高い水準に達している。ユーリがこれまで相手取ってきた中でも、指折りの実力者であろう。そして彼女はユーリの邪道なスタイルに心を乱されることなく、王道のスタイルでそれを突き崩そうとしているようであった。
(これが、世界クラスのトップファイターなんだ。でも、ユーリさんなら……きっと何とかしてくれるはずだ)
瓜子は痛いぐらいに歯を食いしばり、ユーリとエイミー選手の死闘を見守る。
その途中でユーリはコンビネーションの乱発を取りやめると、ガードを固めて間合いを詰めようと試みた。
しかしそうすると、エイミー選手が的確な左ジャブを当ててくる。
ユーリはすぐさま前進を取りやめて、新たなコンビネーションを繰り出した。ユーリも不器用ながらも、何とか打開の道を探っているのだ。
そうして一進一退の攻防の中、ついに残り時間は一分となる。
このままでは、どちらが勝つかもわからない。ドローとなって延長ラウンドにもつれこむことも、十分にありえた。
そこで新たな手を打ったのは、エイミー選手だ。
エイミー選手はこれまでの慎重さを忘れたかのように、左右のフックを繰り出した。
左のフックはブロックできたが、右のフックにはこめかみを叩かれてしまう。それでユーリが後ずさると、エイミー選手はさらに乱打でたたみかけた。
息を詰めてそのさまを見守りながら、瓜子は記憶巣を刺激される。
さまざまな攻防を繰り広げたあげく、乱打戦に移行するというのは――かつての沙羅選手と青田ナナの一戦を想起させてやまなかった。どれだけの技術と戦略を駆使しても決着が着かないならば、最後には気力と勢いで相手をねじ伏せるしかない――ということなのだろうか。
エイミー選手は決死の形相で、拳を振るっている。
凄まじい勢いだが、決して力まかせではない。その証拠に、ユーリの組みつきを警戒して、ボディブローとアッパーを織り交ぜることも忘れていなかった。
いきなりの猛打に襲われたユーリは、亀のように縮こまってしまっている。
ユーリは咄嗟の判断力に難があるため、乱打戦には弱いのだ。相手の動きに合わせて的確な攻撃を返すというのは、ユーリがもっとも苦手とするところであった。
「まずいぞ。最後に押しきられたら、ポイントを持っていかれるかもしれねー。《アクセル・ファイト》のジャッジどもは、ラウンド終盤の攻防を重んじる傾向にあるんだよ」
「えーっ! 今さらそんなこと言わないでよ! ピンク頭、打ち返せー!」
しかし、ユーリは動かない。頭と腹を守るために前屈みとなって、両腕をしっかり固めるばかりである。
ただ――ユーリはガードの隙間から、右目でしっかりとエイミー選手の姿を見据えているようであった。
一秒に二発のペースでパンチを繰り出したエイミー選手は、十五秒ていどを数えたところでようやく手をゆるめる。
そして、エイミー選手がいったん下がろうという動きを見せたとき――自分の頭を抱えていたユーリの右腕が、無造作にも思える挙動で前にのばされた。
ユーリの拳が、エイミー選手の眉間にこつんとヒットする。
後ろに下がろうとしていたエイミー選手は、その軽妙なる攻撃で上体をのけぞらした。
すると、重心を乱したその身体に、ユーリが低い体勢で組みついた。
相手の胴体を両腕で抱え込み、右足を内側からひっかける。エイミー選手は、それであえなく倒れ込むことになった。
エイミー選手は、ユーリの右足を両足ではさみこもうとする。
しかしユーリはそれよりも早く右足を引き抜いて、相手の腰にまたがった。
あっという間に、マウントポジションである。
エイミー選手は、ブリッジでユーリの体勢を崩そうとする。
ユーリはそれよりも早く腰を浮かせて、ブリッジの勢いを受け流した。
エイミー選手は、両腕でユーリの身を押しのけようとする。
ユーリはその右腕をつかみ取り、右足で左腕をまたぎ越した。
すべての場面で、ユーリの動きが一手先を行っている。
まるで大怪獣タイムでも発動されたかのようだ。
ただし、ユーリの動きの俊敏さとなめらかさは、瓜子の記憶にある通りのものである。ユーリはいつも通りに動いているだけで、ただラッシュを仕掛けた直後であるエイミー選手の動きが鈍っているだけのことであった。これは、第二ラウンドの終盤でベストの動きを見せることができる、ユーリの怪物じみたスタミナが発揮されているだけのことなのだ。
そうして右足をエイミー選手の首裏にねじ込んだユーリは、上のポジションのまま三角締めの形を完成させた。
エイミー選手の右腕を内側に流しつつ、真っ白で豊満なる両足で相手の首と右腕を締めあげる。
エイミー選手はもうひとたび、痙攣するような激しさでブリッジをした。
その勢いに押されるようにして、ユーリの身は横合いに倒れ込む。そうして空間にゆとりができたため、ユーリの両足はより深くロックされることになった。
そこでぴたりと、両者の動きが静止して――
数秒後、ユーリは自ら技を解除した。
その直後に、ラウンド終了のホーンが鳴らされる。
汗だくのユーリはマットに寝そべり、レフェリーはエイミー選手の腕をつかみ取った。
そうしてレフェリーが腕を揺さぶっても、エイミー選手の手首から先はぷらぷらと揺れ動くばかりだ。エイミー選手がブラックアウトしたために、ユーリは技を解除したのだった。
レフェリーが頭上で腕を交差させると、立て続けにホーンが鳴らされる。ラウンド終了ではなく、試合終了の合図である。
二ラウンド、四分五十九秒、三角締めによりユーリ・モモゾノの一本勝ち――その試合結果が告知されると、灰原選手が「やったー!」と瓜子の身を抱きすくめてきた。
「もー! ヒヤヒヤしちゃったじゃん! 寝技で圧倒できるなら、さっさと仕留めろって話だよねー!」
「ターコ。こいつは相手がガスアウトした結果だろ」
「うん。まさかあそこから反撃できるなんてね。あれだけパンチをくらってたのに、ダメージはなかったのかなぁ」
「アレはきっと、防御に徹してスキができるのを狙ってたんスよ。あたしもジョンコーチに習いましたもん」
「うん。あのスタイル、オランダ式。ユーリ、乱打戦、苦手だから、あのスタイル、習ってたんだと思う」
そんな風に言ってから、メイが心配そうに瓜子の顔を覗き込んできた。
「……ウリコ、大丈夫?」
「いえ、あんまり」と、瓜子は涙声を返すことになった。
涙で曇った画面では、へろへろの笑顔であるユーリがレフェリーに右腕を上げられている。そしてまるで瓜子を見つめているかのように、真っ直ぐカメラを見つめていた。
ユーリは右の目尻と口の端を切り、顔や前腕のあちこちを赤くしている。
しかし、勝利することがかなったのだ。
たとえこれが、ひと月以上も前の映像だとしても――瓜子は(おめでとうございます)という言葉を心の中で繰り返すばかりであった。




