03 episode5-3 不屈の努力家とセレブファイター
多賀崎選手とロレッタ選手が、それぞれケージの中央に進み出る。
多賀崎選手はオーソドックス、ロレッタ選手はサウスポーで、どちらもクラウチングのスタイルだ。
ただ、立松たちの見立てによると、彼女は右利きのサウスポーであった。
「おそらくサウスポーの優位性を重視して、このスタイルを選んだんだろう。警戒すべきは、右の強いジャブとフックだな」
かつて立松たちは、ユーリにそのように言い聞かせていたのだった。
なおかつ、それについては多賀崎選手のいる場でも話題に出している。まずは一回戦目の突破を目指して、シンガポール陣営の情報は共有することに相成ったのだ。
相手の右ジャブを警戒する多賀崎選手は、いつも以上の慎重さで距離を測っている。
いっぽうロレッタ選手は、余裕の表情で軽快にジャブを振るっていた。
余裕はあっても、油断している気配はない。
きっと彼女は、自信を力にかえているのだろう。彼女は大富豪の娘であり、潤沢な資金でトレーニングの環境を整えて――それらの環境に裏打ちされた実力と自信を備え持っているのだった。
多賀崎選手は小刻みにステップを踏み、自らも牽制のジャブを振るいながら、慎重に距離を測っている。
ロレッタ選手はどっしりと構えて、そんな多賀崎選手の挙動を見守っている格好だ。体格でも実績でもまさっている相手にそうまでじっくり見られたら、嫌気がさすぐらいやりにくいはずであった。
「呑まれるな。マコっちゃんなら、大丈夫だよ」
瓜子の肩を抱いたまま、灰原選手が低くつぶやく。
すると――多賀崎選手が、大きく踏み込んだ。
相手のアウトサイドに回り込んでの、豪快な右ローだ。
パンチャーである多賀崎選手が蹴りから入るというのは、珍しいことだ。
しかしロレッタ選手は慌てる素振りもなく、少しだけ足を浮かせるMMA流のチェックでその右ローを受け流した。
キックの試合のように大きく足を浮かせるとバランスが損なわれて、攻守ともに隙が大きくなる。よって、MMAにおいてはこうして最小の動きで蹴りの威力を逃がすのが王道だ。王道ファイターのロレッタ選手は、やはりローの対処も的確であった。
ロレッタ選手の姿勢がまったく乱れないため、多賀崎選手も次の手を打つことがかなわず、また距離を取ってしまう。
すると今度は、ロレッタ選手のほうが前進した。
前に出した右手による、コンパクトなショートフックが繰り出される。
そしてその際に、左膝がぴくりと動くのを、瓜子は見逃さなかった。もしも多賀崎選手が組み技を仕掛けてきたならば、膝蹴りで撃退しようと目論んでいたのだろう。
しかし多賀崎選手はバックステップを踏んでいたので、両者は接触しないまま終わる。
するとロレッタ選手は、さらに前進した。
右のジャブを細かく振るって、ぐいぐいと距離を詰めていく。さらに、奥足からの左ローや、前足による関節蹴りも射出された。
いずれも力みのない、小憎たらしいぐらい軽妙な攻撃である。
ただし、多賀崎選手は足を使って、それらの攻撃をすべて空振りさせていた。多賀崎選手らしからぬ、潔すぎる逃げっぷりである。
(それで大丈夫ですか? あんまり好きにやらせると、調子づかせちゃいますよ?)
ここ最近の多賀崎選手は、果敢に打ち合いながらテイクダウンのチャンスを狙うというのが勝ちパターンである。KOを狙うつもりでインファイトを仕掛けて、ここぞというタイミングで組み技を仕掛ける――そんな新たなスタイルで、沖選手に連勝することがかなったのだ。
しかし本日の多賀崎選手は、アウトファイターのように距離を取ってしまっている。リーチは相手がまさっているのだから、これでは自分の攻撃を当てることも難しいはずであった。
解説席のアダム氏も、多賀崎選手の消極的な姿勢に異を唱えている。
すると、灰原選手がひさびさに力強く「ふん!」と鼻を鳴らした。
「黙って見てなよ! これで終わるマコっちゃんじゃないからね!」
すると――さらに意想外なことが起きた。
ロレッタ選手を中心にして、多賀崎選手がサイドにステップを踏み始めたのだ。
これではいよいよ、アウトスタイルである。ただ、もっとも意想外であったのは、そのステップの力強さと躍動感であった。
「なんだ、こりゃ? こいつはいつの間に、アウトファイターに鞍替えしたんだよ?」
サキがそのように言いたてると、灰原選手は「へっへーん!」と大きな声をあげた。
「もうお披露目されたから、喋っちゃおっかな! マコっちゃんはこの数ヶ月、魔法老女にアウトスタイルを習ってたんだよ! なんか、あたしのステップは参考にならないとか言っちゃってさ!」
「おめーは考えなしに飛び跳ねてるだけだから、そりゃー参考にはならねーだろうよ。……で、そのアウトスタイルが、おめーらの隠し玉か?」
「マコっちゃんは沙羅と違って、合宿所で隠したりはしてないはずだよ! そんな何週間も隠してたら、ステップの踏み方を忘れそうだって言ってたもん! ただ、スタイルの幅を広げようとしただけさ!」
「ああ、そーかよ。しかし、そんなもんで驚くのは、こいつの手の内を知ってる日本人だけだろ。シンガポールの連中にしてみりゃあ、べつだん驚くほどのことでも――」
サキの言葉が、そこで途絶えた。
ずっと画面を注視していた瓜子には、その理由も明白である。多賀崎選手がサークリングを始めるなり、ロレッタ選手の顔から余裕の色が消えたのだ。
「……そうか。このアメリカ女は最初の紹介シーンで、アトミックのDVDを山積みにしてやがったな」
「うん。たぶん、スタッフも使って、対戦相手になりえる選手、研究し尽くしている。……僕も以前は、そうだったから」
メイの言葉に、サキが「なるほどなー」と応じる。
「それだけがっちり研究してりゃあ、アタシらと同じぐらい仰天することになるわけだ。あのカタブツ女にしては、なかなか愉快な真似をするじゃねーか」
多賀崎選手がそこまで計算していたかどうかは、不明である。
ただ、ロレッタ選手が動揺していることは、確かであった。インファイターであると信じていた相手選手がいきなり見事なアウトファイターとしての手腕を見せつけてきたのだから、それは驚いて然りであろう。
その間隙を突いたかのように、多賀崎選手が左アウトローを繰り出した。
ロレッタ選手はチェックが間に合わず、右足をおもいきり蹴られてしまう。それで慌てて右フックを繰り出したが、その頃には多賀崎選手も遠ざかっていた。
跳ねるようなステップに、豪快なローキック――これはまさしく、鞠山選手の手腕である。
もちろん多賀崎選手は鞠山選手ほど身軽ではないので、見た目の印象はずいぶん違っている。しかしその分、多賀崎選手のステップは独特の力強さに満ちており――鞠山選手とも灰原選手ともマリア選手とも毛色の異なる躍動感を生み出していた。
多賀崎選手はどちらかというと、ごつごつとした固い動きが特徴的だ。
よって、標的を中心にして円を描くその動きも、短い直線をつないだような、固い動きになっている。しかし、その力強さは他なるアウトファイターたちにも負けていなかったため、独特のリズムが生まれているようであった。
ロレッタ選手はぐっと表情を引き締めて、多賀崎選手を追い詰めようとする。
しかし多賀崎選手はスタミナの欠乏も恐れぬ様子で、力強くステップを踏んだ。
それを追い回すロレッタ選手の挙動が、どんどん大きくなっていく。ステップを踏む足取りも、攻撃のモーションも、これまでのような軽妙さを失っていた。
そうして挙動が大きくなれば、間隙が生まれる。
ロレッタ選手は上体を泳がせるようにして、右フックを旋回させ――それをダッキングで回避した多賀崎選手が、両足タックルを成功させた。
「やったー!」と、灰原選手が瓜子の身をがくがくと揺さぶってくる。
しかし、ロレッタ選手は尻もちをついたが、そのまま背中をつけることなく、上に多賀崎選手を乗せたまま、後方にずっていく。そして背後のフェンスを利用して、至極あっさりと立ち上がってしまったのだった。
「ふん。テイクダウンの対処も、マニュアル通りの完璧さだな。それでもこいつは尻もちをついたし、自分の攻撃は全部からぶりだ。このままいくと、ポイントを失いかねないから――いっそう焦りがつのるだろーぜ」
ロレッタ選手が身を起こすと、多賀崎選手はガードの上から右肘を叩きつけつつ、すぐさま距離を取った。
壁レスリングよりも、ステップワークにスタミナを使うべきだと判じたのだろう。相手はパワーでまさるオールラウンダーであるのだから、それも賢明な判断であった。
ロレッタ選手は大ぶりの攻撃を控えるようになったが、それでも足取りには落ち着きが感じられず、多賀崎選手を捕まえることができない。いっぽう多賀崎選手は大きく距離を取りながら、ここぞというタイミングで鋭く踏み込み、アウトローやショートフックをヒットさせた。
「アドバイスを送るセコンドがいねーってのも、功を奏したな。たぶんこいつは、普段の試合でもセコンドに頼りきりなんだろーぜ。マニュアル人間の、悲しき性ってところだなー」
そうして情勢に大きな変化が生まれないまま、一ラウンド目は終了した。
多賀崎選手はずいぶんスタミナを使ってしまったが、おそらくポイントは獲得できただろう。そして、全身汗だくになりながら、その眼光の鋭さに変わりはなかった。
いっぽうロレッタ選手は明らかにストレスを感じている様子で、頭からドリンクボトルの水をかぶっている。それはすぐさまセコンドの手によって拭われたが、それすらもうるさそうに払いのけようとしていた。
「だけど、こっからが正念場だぞ。シンガポールのトップファイターが、こんなていどで終わるとは思えねーからな」
サキの言葉通り、次のラウンドではロレッタ選手の動きが変じた。
乱れていた足取りに落ち着きがよみがえり、鋭い挙動で多賀崎選手を追い始めたのである。
「こいつだって、アウトファイターの対策を積んだ経験ぐらいはあるだろうからな。そのマニュアルを、頭の中から引っ張り出してきたんだろーぜ」
それは確かに、サキの言う通りなのだろう。
しかし、アウトファイターといっても、さまざまである。瓜子の周辺に限っても、サキや愛音や鞠山選手や灰原選手やマリア選手というのは、それぞれタイプが異なっているのだ。
それでもロレッタ選手が落ち着きを取り戻したため、これまでよりは危うい場面が増えている。手数ではロレッタ選手のほうがまさり、その拳はたびたび多賀崎選手の肩や腕にヒットすることになった。
しかし多賀崎選手もまた、攻撃の手は休めていない。とりわけ、アウトサイドからのアウトローが有効であるようだ。また、ロレッタ選手がそれを嫌がってオーソドックスにスイッチしても、今度は右のアウトローで苦しめてみせた。
「一進一退だな。ヒット数は、あっちのほうが上回ってるから……このままいくと、延長ラウンドもありえるぞ」
延長ラウンドは、避けたいところである。大きくステップを踏んでいる多賀崎選手は、明らかにロレッタ選手よりも疲弊していた。
それでも多賀崎選手は決して妥協することなく、アウトスタイルに徹している。
そうして、三分が経過したとき――ロレッタ選手のショートフックをダッキングでかわした多賀崎選手が、そのまま身を沈めた。
ロレッタ選手は、すかさず右膝を振り上げる。
初回のタックルで、完全にタイミングをつかまれていた。
しかし、多賀崎選手のタックルはフェイントで、本命は右のオーバーフックであった。
ロレッタ選手の膝蹴りは空を蹴り、多賀崎選手の右フックはクリーンヒットする。
日本人選手であれば、たまらずダウンしていたところだろう。しかし、体格でまさるロレッタ選手は、わずかによろめいたのみであった。
しかしまた、これほどのクリーンヒットは初めてのことだ。これまでのわずかな劣勢をくつがえすには、十分な印象点であるはずであった。
ロレッタ選手はいっそう厳しい表情となって、多賀崎選手を追い回す。
多賀崎選手は、そこから逃げるのみとなった。もうスタミナが枯渇しかけているのだろう。足取りは鈍く、攻撃を出すゆとりもないようだ。
しかしその目は、まだ死んでいない。
そうして多賀崎選手は、残り二分弱を逃げぬいて――ラウンド終了のホーンを聞くことになったのだった。
「さあ、判定だ。ちっとばっかり、二ラウンド目は危なかったが……そんな何人も、アメリカ女にポイントをつけるジャッジはいねーだろ」
サキがそのように語る中、灰原選手は瓜子の身をぎゅっと抱きすくめ、穴が空くほどテレビの画面を見つめている。
多賀崎選手はスタミナを使いきった様子で天を仰いでおり、ロレッタ選手は燃えるような眼光をマットに落としていた。
そして、判定は――三名のジャッジがそれぞれ、20対19、20対18、19対19と異なるポイントをつけて、2対0のマジョリティ・デシジョン。多賀崎選手の判定勝利である。
その結果がコールされると同時に、どこか遠いところで『やったー!』という日本語が響きわたった。
カメラがわずかに角度を変えて、レフェリーに腕を上げられた多賀崎選手の向こう側に、ユーリの姿を映し出す。入場口の向こう側から覗き見をしていたらしいユーリが、笑顔でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
多賀崎選手の勝利とユーリの喜びように心をプレスされて、瓜子はどうしようもなく涙をこぼしてしまう。
しかし、それを恥じる必要はなかった。瓜子に抱きついていた灰原選手が、子供のように泣きじゃくってしまっていたのである。
「灰原さんって、ホントに多賀崎さんと仲良しなんスねー。多賀崎さんとお会いしたこともないあたしまで、もらい泣きしちゃいそうッスよー」
「うっさいよー! ばかー!」
そんな風にわめきながら、灰原選手は涙でぐしゃぐしゃになった顔を瓜子の胸もとに押しつけてくる。
瓜子としては、その金と黒が入り混じった頭を、優しく撫でてあげるばかりであった。