05 打ち上げ
「ひよりちゃん、すごかったねー! うちは左ミドルがクリーンヒットしたから、やったー逆転勝利だーって思ってたのに! あーんなすごいパンチを、ぱこーんって当てられちゃってさー! もー、天国から地獄だったよー!」
閉会式を終えてから、数十分後――横浜からの帰り道に位置する某焼肉店でそのように騒ぎたてていたのは、赤星道場の新鋭たる二階堂ルミに他ならなかった。
新宿プレスマン道場の祝勝会に、赤星道場の面々が合流を求めてきたのである。まさか決勝戦で対戦した相手と合流することになるとは思わなかったが、二階堂ルミという少女はわだかまりもへったくれもない様子で、最初から蝉川日和にべったり張りついていたのだった。
こちらは男子選手とセコンド補助の面々が早々に帰宅してしまったため、ジョン、サイトー、瓜子、愛音、蝉川日和の五名のみ。赤星道場のほうは男女の出場選手に二名ずつのセコンド陣も勢ぞろいで、六名だ。そして、青田コーチを筆頭とする男性陣は、いずれも合宿稽古でご挨拶をしたことのある顔ぶれであった。
「ひよりちゃんって、キャリアはどれぐらいなの? うちはねー、二年! やっぱ、うちよりは長いのかなー?」
「はあ。いちおう中学の三年間はジムに通ってたッスけど、そっから二年ちょいのブランクがあって、復帰してからはひと月半ッスね」
「へー、すごーい! でも、なんでそんなへにょへにょしてんのー?」
「すんません。あんまギャルギャルしいヒトって、苦手なんスよね。二階堂さんは声も甲高いんで、鼓膜が痛いッス」
「ひっどーい! ひよりちゃんなんて、タトゥーまみれのくせにー!」
蝉川日和も二階堂ルミもタイプの異なるマイペースさで、交流が深まっているのやらいないのやら、傍目からは判然としない。瓜子としても、あまりその中に割り込もうという気持ちにはなれなかった。
「赤星道場には、あんな個性的な娘さんもいたんすね。正直、けっこう意外でした」
「うん。ルミは裏表がないからね。少々さわがしいところはあるけれど、決して悪い人間ではないんだよ」
赤星弥生子は落ち着いた面持ちで、そのように言っていた。まあ、二年も顔を突き合わせていれば、心が通じるものであるのだろう。所属選手のユニークさにおいては、プレスマン道場もとやかく言える立場ではなかった。
「それにしても、蝉川さんは見事だったね。まだまだ粗削りの感は否めないけれど、あの勢いはなかなかのものだった。本選までは二ヶ月あるし、これからの成長が楽しみだね」
「はい。とにかくやる気はある娘さんなんで、頑張った分の成長は見込めると思います。なんとかプロ昇格を目指して、キックのほうも盛り上げてほしいもんっすね」
赤星弥生子とこれほどゆっくり言葉を交わすのは、ずいぶんひさびさのことである。じゅうじゅうと肉を焼きながら、瓜子はとても穏やかな心地であった。
愛音はジョンと、サイトーは青田コーチら男性陣と、それぞれ楽しそうに語らっている。大江山すみれは赤星弥生子と二階堂ルミの間に陣取り、必要に応じてどちらかの輪に加わる格好であった。
「弥生子さんも、もうじき試合なんすよね。最近は《レッド・キング》にうかがう機会がなくて、残念です」
「いや。猪狩さんも、忙しい身だろうからね。私だってセコンドという立場でアトミックの会場に出向いているだけなのだから、何も気にする必要はないよ」
「次回のアトミックは、大江山さんと犬飼さんの再戦ですね。大変でしょうけど、大江山さんも頑張ってください」
「はい。三度目の正直といきたいところです。そうしたら、決勝戦ではいよいよサキさんとの対戦ですね」
大江山すみれは、内心の知れない笑顔でそのように応じる。瓜子としてはひそかに犬飼京菜を応援する立場であったが、かといって彼女の敗北を望んでいるわけでもなかった。そして何より、サキの優勝を願う身であるのだ。
「それにしても……猪狩さんのそばに桃園さんがいないというのは、やっぱり奇妙な気分だね」
「そうっすか? でも、九月大会でもお会いしてるでしょう?」
「ああ、そうか。でもあのときは、メイさんや灰原さんがいたからね。……なるほど。だから今日は、猪狩さんを独り占めにしているような心地であるのかな」
と、赤星弥生子は口もとをほころばせる。彼女がごく稀に見せてくれる、やわらかな笑顔だ。
「ナナたちが北米に出立して、ついにひと月半だ。これで最後まで勝ち抜いたとしても、折り返しは過ぎたことになるね。かなうことなら、ナナと桃園さんが決勝戦まで進んでほしいと思うよ」
「そうっすね。トーナメントの組み合わせ次第ですから、どういう結果になるかはわかりませんけど……まずはユーリさんに、一回戦突破を目指してもらいたく思います」
「うん。心身ともに万全であれば、桃園さんが有利だと思うが……ナナの試合でもわかる通り、ああいう環境で心を平常に保つというのは、大変なことだ。これまでに勝ち抜いた選手たちというのは、みんな立派だと思うよ」
赤星弥生子は、あくまで沈着である。
その揺るぎない落ち着きが、今の瓜子には何より頼もしかった。
「相手はシンガポールのトップファイターなのに、ユーリさんが有利だって言ってくださるんすね。それだけで、自分は心強い限りっすよ」
「桃園さんの恐ろしさは、私が誰より体感しているからね。それでも勝負には、相性というものが存在する。あの十六名の中で、私がもっとも手ごわいと思うのは桃園さんだけど……そうは思わない選手がひそんでいる可能性も否めない。とりわけ海外の選手というのは内情がつかめないので、厄介なところだ」
そんな風に言ってから、赤星弥生子は背後に鋭く視線を巡らせた。
赤星弥生子と瓜子の間に、何か甘い香りの塊がにゅっと首を突き出してくる。それは大江山すみれの向こう側で騒いでいたはずの、二階堂ルミであった。
「今日の主役をほったらかして、何をしっぽり語らってるんですかー? もー、ずるいんだからー!」
「蝉川さんには、ずっと君がまとわりついていたじゃないか。だいたい、何がずるいと言うんだ?」
「うちは弥生子さんともうり坊ちゃんとも仲良くしたいんだから、どっちもずるく思えるんですよー! 意中の相手同士でいちゃいちゃされる悲しみがわかんないんですかー?」
そんな風に語りながら、二階堂ルミはにこにこと笑っている。彼女は試合後にメイクを整えて、もともと派手な顔がいっそう派手派手しく彩られていた。やたらと甘い香りがするのは、コロンでもふったのだろう。そうして十月も半ばであるというのに、彼女は計量の際に着込んでいたハーフトップとショートパンツの姿で、小麦色の手足と腹をさらしている。そして、耳とへそには銀色のピアスを光らせていたのだった。
「君は初対面の相手に対しても遠慮がないから、猪狩さんに近づけるのは心配なんだよ。それこそ会場では、余計な言葉を口にしていたしね」
「だからそれは、おもいっきり謝ったじゃないですかー! もうマリアちゃんのことは、ヒトコトたりとも口にしませんよー! だから、うちも仲間に入れてくださーい!」
せっかくの穏やかな心地が、台無しである。
が、不思議と瓜子は、それほど嫌な気分でもなかった。彼女は見るからに傍若無人なタイプであるが、あまり瓜子の神経には障らないようなのである。
(ユーリさんやら灰原選手のおかげで、あたしも免疫がついてきたってことなのかな)
瓜子がそんな失礼なことを考えている間に、二階堂ルミがぐいぐいと割り込んできた。角の席である瓜子は動きようがないので、赤星弥生子が大江山すみれのほうにずれる格好だ。赤星弥生子は、小さく溜息をついていた。
「申し訳ない、猪狩さん。ルミは飽きっぽいので、五分もすれば静かになると思う」
「あー! またナチュラルにひどいこと言ってー! 弥生子さんって、SなのかMなのかわかんないとこありますよねー!」
「そのような区分で人を分けるのはつつしみたまえ。くどいようだけど、余所の道場の方々に失礼があったら、許さないよ」
「余所の道場じゃなくって、うり坊ちゃんにでしょー? 弥生子さんは、うり坊ちゃんにラブラブですもんねー!」
瓜子としては居たたまれないような心地であったが、赤星弥生子は溜息をついているばかりであるので、何も深くとらえる必要はないようだ。ただ、二階堂ルミが何をもってそのような発言をしているのかは、いささか気になるところであった。
「二階堂さんも、お疲れ様でした。……でも、その呼び方は何なんすか? 赤星道場に、そんな呼び方をするお人はいないと思うんすけど」
「えー? だってネットとかだと、うり坊ちゃんって呼び方が定着してるじゃないですかー! 可愛いですよね、うり坊ちゃん!」
「ああ、そうなんすか……ネットとかには、疎いんすよ」
そういえば、試合会場ではそのように瓜子を呼ぶ声も多い。ユーリがベストバウト集のインタビュー部分で連呼していたために、世間まで広がってしまったのである。
「ここ最近は、うり坊ちゃんのグラビアがドトーの勢いですよねー! 最初はコンプリートしようとしてたんですけど、もうおカネが続かないんですよー!」
「ああ、いや……できればそっち方面のお話は、ご遠慮願います」
「そっち方面ってー? うち、うり坊ちゃんのカラダ、アコガレなんですよー! ちまちましてるのにすっごくバランスがよくって、カンペキですよねー! いったいどうやったら、そんなボディに仕上げられるんですかー?」
瓜子が返答に窮していると、赤星弥生子が見かねた様子で口を出してくれた。
「骨格や筋肉のつき方というものは、人それぞれで異なっている。ぜーさんいわく、猪狩さんは非常に珍しい体格の持ち主であるらしいので、誰にも真似ることはできないのだろうと思うよ」
「へー! すっごーい! そーいえば、ぜーちゃんもうり坊ちゃんに夢中ですもんねー! やっぱ、天性のスターなんだなー!」
「猪狩さんは謙虚なお人柄なので、そういう言葉は嫌がるよ。猪狩さんと交流を深めたいなら、少し言葉を選んだほうがいい」
「えー? そんなの、うちには無理ですよー! だってようやく、アコガレのうり坊ちゃんに会えたんですからー!」
「それなら、『トライ・アングル』について語るといい。君は、熱烈なファンなんだろう?」
「そーそー! 『トライ・アングル』、サイコーですよねー! うち、タケくんに『トライ・アングル』のDVD借りて、それでうり坊ちゃんのファンになったんですよー!」
赤星弥生子のおかげで、なんとか穏便な方向に話が進んだようである。『トライ・アングル』を褒めたたえる話題であれば、瓜子も本心で語ることができた。
「自分はユーリさんのマネージャー補佐って立場なんで手前みそになっちゃいますけど、『トライ・アングル』のファンだって言っていただけるのは嬉しいです」
「『トライ・アングル』、サイコーですよー! ユーリって――あ、いやいや、ユーリちゃんってすごいですよねー! 弥生子さんとあんなすごい試合をしながら、あんなすごいライブもできちゃうんだもん! それで見た目もあんなだし、もーサイノーのカタマリって感じですよねー!」
「うーん。ユーリさんは確かに、ある種の天才かもしれませんけど……自分、天才って言葉はあんまり好きじゃないんすよね。なんか、裏で努力してるのをないがしろにされてるように感じちゃうんすよ」
「あー、わかるー! うちもねー、けっこう道場では天才肌とか言われちゃうんですよー! たった二年でこんなに強くなるのは、サイノーが違うんだってー! でもうちだって、必死こいてトレーニングしましたからねー! サイノーがどーとか言われるより、頑張ったことをほめてほしいかなー!」
そう言って、二階堂ルミはにぱっと微笑んだ。
その表情が少しだけユーリに似ていて、瓜子は思わずドキリとしてしまう。彼女は端整な顔立ちをしていて色気もたっぷりであるが、いかにも我の強そうな顔つきで、肌も小麦色に焼いているし――印象だけで言うのなら、むしろ沙羅選手に近いはずであった。
しかし、このあけっぴろげな気性は、やはりユーリに近いのだろう。屈託がなくて、いささかならず考え足らずで、思ったことをすぐ口に出してしまうというのは、ユーリを思わせる奔放さであった。
だけどやっぱり、それは部分的な相似であるのだ。
ユーリがこれほどあけっぴろげになれるのは、気の置けない人間を相手にするときだけである。少なくとも、初対面の人間にこれほど心を開くことはありえない。ユーリが憧れのベリーニャ選手と対面したときなどは、ふにゃふにゃに弛緩して口もきけないような状態であったのだ。
また、傍若無人という意味であれば、むしろ近しいのは灰原選手である。彼女は瓜子が懇意にしている人々と少しずつ似たところがあり、それで親しみやすく思えるのかもしれなかった。
(でも、まったく同じ人間なんて存在しない。そんなの、当たり前の話だよな)
だから瓜子は、彼女にユーリの面影を重ねることなく、ひとりの人間としてきちんと向き合うべきなのだろう。
瓜子がそんな考えに至ったのは――ユーリと会えない寂しさで、ユーリの面影を強く追い求めているがゆえなのかもしれなかった。
(でもそんなのは、ユーリさんにも二階堂さんにも失礼だからな)
そうして瓜子は、居住まいを正すことになった。
「二階堂さんは、大江山さんのつてで入門したってお話でしたよね。中学時代は、大江山さんと仲良くしてたんすか?」
「えー? なんですかー? うちの話なんて、つまんないっしょー? それよりユーリちゃんとか『トライ・アングル』について語りましょうよー!」
「そっちのお話もさせてもらいたいですけど、まずは二階堂さんのことをおうかがいしたいんすよね。好きなことを語らうにしても、相手のお人柄を知っておいたほうが、いっそう楽しいじゃないっすか」
瓜子がそのように答えると、二階堂ルミはつけ睫毛に飾られた目をぱちくりとさせた。
「なんか、弥生子さんがデレるのもわかっちゃったかもー! うり坊ちゃんって、おっかなーい!」
「自分、おっかないっすか?」
「うん! だって、そんなお顔でそんなこと言われたら、なんでもべらべらしゃべっちゃいそーだもん! あー、そーゆーところは、六ちゃんともちょっぴし似てるかもー!」
「こら。六丸などと比べるのは、あまりに失礼だぞ」
赤星弥生子がしかめっ面でそのように言いたてると、別なる人影が瓜子と二階堂ルミの間に割り込んできた。大江山すみれの向こうで数日分の食欲を満たしていた、蝉川日和である。
「あのー、なんのお話ッスか? よければ、あたしも入れてほしいッス」
「えー? うちがからんでも、めんどくさそーにしてたじゃーん!」
「だって、猪狩さんはあたしの先輩なのに、みなさんばっかりずるいじゃないっすか」
そんな風に言いながら、蝉川日和は上目づかいに瓜子を見やってきた。その顔が、いくぶん赤らんでいる。
「あたしだって、猪狩さんに試合のご感想を聞きたかったんすよね。まだまだへっぽこなのはわかってますけど、ちょっとでも猪狩さんに近づけたのかなって……」
「そんな、へっぽこなんてことはなかったっすよ。まだまだ課題は多いでしょうけど、あんな迫力のある試合はプロでも珍しいと思います」
「でしたら、ルミさんと蝉川さんの試合を振り返ってみましょうか。猪狩さんがどのような見解をお持ちなのか、わたしも気になります」
思わぬ方向から声があがって、瓜子はぎょっとする。誰も座していなかったはずの下座に、大江山すみれがひっそりと移動していたのである。
「お、大江山さんまで、いったいどうしたんすか?」
「ルミさんがわたしのいない場でおかしな発言をするのは嫌だなと思って、聞き耳をたてていたんです。わたしの中学時代の話なんかより、試合内容のディスカッションのほうが有意義ではありませんか?」
大江山すみれは普段通りの、内心の知れない笑顔である。
すると、二階堂ルミが「えー?」と不満げな声をあげた。
「せっかくうり坊ちゃんと会えたんだから、もっと楽しい話題にしようよー! 『トライ・アングル』のことだって、もっと聞きたいし!」
「あ、あたしは試合のご感想を聞きたいッス!」
「二対一で、こちらの優勢ですね。まずは、ディスカッションから始めましょう」
気づけば瓜子は、十代の少女たちに取り囲まれている格好であった。
すると赤星弥生子が、とても大人びた面持ちで微笑みながら席を立つ。
「それじゃあ私は、サイトーさんにご挨拶をしてこよう。猪狩さん、またのちほどゆっくりと」
「わー、オトナのよゆーって感じー! 時間いっぱいまで、うり坊ちゃんを独占しちゃおっかなー!」
「猪狩さんは人気者だから、誰にも独占することはできないと思うよ。今がまさに、その事実を証明しているからね」
赤星弥生子はくすりと笑って、蝉川日和がもともと座していた場所に移動していく。サイトーや男性陣は、その向かいで語らっているのだ。
そして瓜子の対面に座しているのは、愛音とジョンである。ジョンが店員を相手に追加の注文をしているさなか、愛音はじっとりとした目で瓜子を見やっていた。
「なるほど……こうしてイノシシハーレムとやらが築かれていくのですね。のちほどサキセンパイにご報告するのです」
「ちょっとちょっと。おかしな話を広めないでくださいよ?」
そんな風に答えながら、瓜子は何だかおかしな心地であった。ここ最近で親交を深めた蝉川日和に、初対面となる二階堂ルミ、そして古くからのつきあいでありながらまったく交流の深まる気配がなかった大江山すみれという、こんなトリオに包囲されるなどとはまったく想像の外であったのだ。
(そういえば、九月大会では時任選手や武中選手とも交流を深められたし……ユーリさんに伝えないといけない話が、どんどん山積みにされていっちゃうな)
そしてユーリもラスベガスの合宿所において、さぞかしたくさんの土産話をため込んでいることだろう。
三ヶ月にも及ぶ別離を埋めるには、いったいどれだけの時間が必要となるのか。瓜子には、想像することも難しかった。