03 準決勝戦
蝉川日和が初戦を勝ち抜いてしばらくした後、正午となって昼休みが入れられた。
この後にも試合を控えている蝉川日和の昼食は、プロテインバーとバナナ一本だ。今日の予選大会を優勝した門下生にはコーチ陣が焼肉をご馳走する約束になっているので、何とか頑張ってもらいたいところであった。
ただし、プレスマン道場から出場した二名の男子門下生の内、片方はすでに敗退してしまったらしい。昼休みに少しだけ合流した際、ジョンは温かい表情で蝉川日和の健闘をねぎらってくれた。
あけぼの愛児園の一行は外に食事に出たようで、姿が見えない。まあきっと、サキがそのように取り計らったのだろう。このままいけば、蝉川日和には本名を知られることもなく一日を終えられるかもしれなかった。
そうして午後の一時には試合が再開され、また男子選手の試合がいくつか続き――そののちに、女子中量級の試合が開始された。
最初の出番は、赤星道場の二階堂ルミだ。彼女はすでに二つの試合に勝ち抜いており、これが第一ブロックの準決勝戦であった。
相手は蝉川日和の古巣となる、ホワイトタイガー・ジムの所属選手である。
こちらの選手もなかなか長身で、それよりもさらに長身である二階堂ルミのアウトスタイルにどこまで対抗できるものか、瓜子は心して見守っていたのだが――その結果は、またもや左ミドルによる一ラウンドKOだ。これで二階堂ルミは三試合連続、同じ技によるKO勝利であった。
「相手が雑魚すぎて、そっから先の戦略が見えねえな。あとはぶっつけで勝負するしかねえや」
それだけ言って、サイトーはすぐ目前の試合へと気持ちを切り替えたようであった。
蝉川日和は第二ブロックの準決勝戦。相手は小柴選手の後輩である、細田恵なる選手だ。彼女の所属する武魂会もまた、《G・フォース》を支える一翼であった。
「こいつはスイッチが巧みだし、グローブ空手ってのはちっとばっかり攻撃の質も違ってるからな。地力だったら負けてねえが、油断だけはするんじゃねえぞ」
「はいッ! 武魂会の選手とは前にもやりあってるんで、問題ないと思うッス!」
蝉川日和は意気揚々と、リングに上がっていった。
瓜子はサイトーや愛音とともに、エプロンサイドから試合を見守る。そして対角線の青コーナーには、小柴選手の顔も覗いていた。おたがい後輩選手の勝利を祈る、恨みっこなしの真剣勝負である。
そうして試合が開始されると――細田選手が、これまで以上に見事なステップワークを披露した。
突進する蝉川日和からただ遠ざかるのではなく、サイドに回り込んでローで迎え撃つ。蝉川日和はちょっと極端なぐらいのクラウチングであったため、足もとが弱点であると踏んできたのだ。
蝉川日和もディフェンスは磨いているので、きちんとローにも対処できている。しかし、クラウチングで前足を上げると重心が不安定になるため、反撃が難しいのだ。それでしばらくは、相手に蹴られるいっぽうになってしまった。
なおかつ、相手は武魂会の選手なので、ローの威力も強烈である。きちんとカットしているにも拘わらず、蝉川日和の左足はあっという間に色が変わってきてしまった。
「こっちも負けずに、足を使え! 真っ直ぐ突っ込むんじゃなく、角度をつけるんだよ!」
そのように助言を飛ばすサイトーの声にも、いっそう熱がこもり始めた。
細田選手はスイッチを多用して、上手い具合に蝉川日和の突進をいなしている。そうしてリズムに乗ってくると、ローの後にパンチも出し始めた。
いずれも浅い当たりであるし、蝉川日和はきっちり両腕でブロックできている。しかし、こっちの攻撃は一発もヒットしていないため、このままではラウンドのポイントもあちらのものであった。
見る見る間に時間は過ぎていき、気づけば一ラウンド目も残り三十秒である。二分二ラウンドという短い試合時間では、最初にリズムをつかんだほうが圧倒的に有利であった。
そこでサイトーが、「ステイ!」という言葉を放つ。
これはサイトーが取り決めた隠語で、その意味は「いったん下がれ」であった。蝉川日和は猪突猛進の傾向が強いため、時には頭を冷やすことが肝要であるのだ。
蝉川日和はどこか名残惜しそうな気配を漂わせつつ、しかたなさそうに後ずさる。
すると相手が、すかさず距離を詰めてきた。相手に楽をさせまいという、積極的でいい判断だ。
もちろんインファイターの権化である蝉川日和に真っ直ぐ近づこうとはせず、サウスポーの構えで角度をつけてアウトサイドに踏み込み、これまで以上に強力なローを繰り出してくる。
すると蝉川日和は、ボディフックでそれを迎え撃った。ローの防御を取りやめて、すぐさまカウンターを返したのだ。
細田選手の右ローは蝉川日和の左足に突き刺さり、蝉川日和の右拳は細田選手の土手っ腹に突き刺さった。相手が頭部をガードしていたために、蝉川日和はボディを狙ったのだ。
アウトローをまともにくらった蝉川日和はがくんと体勢を崩しかけたが、相手はそれ以上によろめいていた。蝉川日和のボディブローがクリーンヒットしたならば、相応のダメージを与えられたはずだ。
すると蝉川日和は火がついたような勢いで、左右のフックを振り回した。
相手は前屈みになりながら、懸命に頭部をガードする。これで倒れないのは、なかなかの根性である。
しかしこの際は、蝉川日和の回転力がまさることになった。
三発のフックを繰り出した後、蝉川日和は同じ勢いで右アッパーにつなげたのだ。
白き虎が刻みつけられた蝉川日和の右腕が、細田選手の下顎を撃ち抜く。
細田選手は棒のように倒れ込み、それと同時にラウンド終了のホイッスルが鳴らされたが、レフェリーは両腕を交差させて試合の終了を宣告した。細田選手は、その一撃で意識を飛ばされることになったのだ。
一ラウンド、一分五十九秒で、蝉川日和のKO勝利である。
蝉川日和は両腕を振り上げて勝利をアピールしていたが、リングを下りる際には左足を引きずっており、それでサイトーに頭を小突かれることになった。
「ディフェンスをおろそかにするんじゃねえって、口が酸っぱくなるぐらい言いつけたろうがよ? 邑崎、アイシングだ」
「押忍なのです!」
ヘッドガードとグローブを返却したのち、壁際まで引き下がってから、蝉川日和の左足に氷嚢があてがわれることになった。レガースパッドで威力が抑えられた攻撃であったが、蝉川日和は試合の序盤から何度もローをカットしていたのだ。それで左腿の下部が、内側も外側も赤くなってしまっていた。
「インファイターが前足を痛めたら、致命的だぞ。しかも決勝戦の相手は、小うるさいアウトファイターなんだからな。足は、痛むのか?」
「いえ! 体重をかけなければ、痛くもかゆくもありません! 決勝戦まで時間はありますから、きっと大丈夫ッスよ!」
「ローのダメージは、そう簡単には抜けねえよ。オレは足一本を犠牲にしてまで反撃しろと教えたか?」
「いえ! ただ、相手が打ち気になってたんで、これはチャンスだと思ったんスよ! それでついつい、ディフェンスを後回しにしちゃいました! 申し訳ないッス!」
蝉川日和の弱点は、三点ほど存在する。スタミナ不足と、ディフェンスの甘さと、そして試合中に熱くなりすぎてしまうことである。今回は、その内の二点が発露した格好であった。
「でも、サイトーさんに鍛えていただいたアッパーで、試合を終わらせることができたッス! それに、一ラウンドでカタがついたんで、スタミナも温存できたんじゃないッスかね!」
「そんな大声でわめいてたら、温存したスタミナが台無しだよ。いいから、決勝戦までしっかり休んどけ」
サイトーはもういっぺん蝉川日和の頭を小突いてから、新たな氷嚢を蝉川日和の頭に当てがった。決勝戦が始まるまでに、少しでもスタミナを回復させなければならないのだ。
(でも……これで決勝戦に上がる二人は、どっちも全試合一ラウンドKOだ。サイトー選手は口が悪いから雑魚呼ばわりしてるけど、出場選手のレベルは低くないよな)
蝉川日和と二階堂ルミにKOされた選手たちは、いずれも全日本選手権に相応しいレベルに達していたように感じられる。つまり、それらをKOしてのけた蝉川日和と二階堂ルミのレベルが、さらに高いということだ。瓜子自身、アマチュア時代の自分がこの両名に勝てたかどうか――まったく、自信は持てなかった。
(それを言ったら、邑崎さんだって入門当初から大した力量だったもんな。キックのアマ選手も、年々レベルが上がってるってことか)
ならばそれは、格闘技業界においてもっとも喜ばしいことであろう。プロ選手がどれだけ活躍しようとも、それに続くアマチュア選手が育たない限り、未来は先細りになってしまうものであるのだ。
(そういえば……去年も《フィスト》のアマ大会と《アクセル・ジャパン》を立て続けに観戦することになったんだっけ)
世界最高峰の舞台と称される《アクセル・ファイト》に、アマチュア大会。それはピラミッドの頂点と最下層であり――そしてどちらも、同じぐらい重要な存在であるはずであった。
今日の大会はあくまでキックであるが、そんな区分は些末なことだ。現に、一昨年の女子軽量級王者である愛音やその前年の覇者である犬飼京菜などは、MMAに転向した。また、たとえそのような事態に至らずとも、キックとMMAは非常に近しい位置にある兄弟なような存在であるはずだった。
「やー、ヒヨリはケッショウシンシュツだねー。おめでとー」
と、笑顔のジョンがひょこひょこと近づいてきた。
蝉川日和の頭を氷嚢でぐりぐりと蹂躙しながら、サイトーはそちらを振り返る。
「よう。こっちはそっちを見物してるゆとりもなかったぜ。野郎連中は、どうなったよ?」
「ザンネンながら、ジュンケッショウでハイタイだねー。KOマけでサンイケッテイセンもシュツジョウできなくなったから、もうカエるってさー。ボクはエキまでオクってくるよー」
「じゃ、焼肉屋で合流だな。オレひとりのサイフをあてにするんじゃねえぞ?」
「あはは。ワかってるよー。それじゃあ、またアトでねー」
ということで、ジョンは一時離脱することになった。敗退してしまった男子選手たちは、食事会に参加する気も起きないような精神状態であるのだろう。そういうメンタル面のケアは、プレスマン道場の良心たるジョンがしっかりとこなしてくれるはずであった。
「サイトーさん! おごってくれる気まんまんってことは、あたしが勝つって信じてくれてるんスね! あたし、カンドーしたッス!」
壁にもたれて座り込んだ蝉川日和がそのように言いたてると、サイトーは真剣な面持ちで「おうよ」と応じた。
「お前さんがマットに這いつくばって立てなくなるまでは、信じてやらあ。だから、石にかじりついてでも勝ってみせやがれ」
「はいッ! 歯は頑丈なんで、おまかせあれッス!」
蝉川日和は、いつもの調子で白い歯をこぼす。
ただその目に宿された闘志の炎には、これっぽっちの衰えも見られず――瓜子は同門の人間として、この上ない信頼と心強さを抱くことがかなったのだった。