02 デビュー戦と復帰戦
その後、関東ブロックの予選大会は粛々と開始されることになった。
試合は四つのリングにおいて、同時に進められていく。蝉川日和はシード枠で出番が遅めであったので、それまではひたすらウォームアップだ。
計量を一発でパスした蝉川日和はサイトーの監視のもと、ゼリー飲料とスポーツドリンクで栄養と水分の補充をする。彼女もそれなりに厳しい減量に臨んでいたので、計量後のリカバリーが重要であるのだ。なおかつ、前日計量であるプロ選手よりも、試合直前に計量をするアマ選手のほうが、リカバリーに関してはシビアな面が多いのだった。
「あんまりがぶがぶ飲むんじゃねえぞ。お前さんはただでさえ、スタミナが頼りねえんだからな。筋肉とノーミソにまで水分が行き渡ったら、それで十分だ。少し物足りないぐらいで、ストップしとけ」
「はいっ! でも、死ぬほど美味いッス! 試合後の打ち上げも、楽しみッスね!」
小さからぬ気迫をみなぎらせつつ、蝉川日和は持ち前の明朗さを発揮していた。ずいぶん気負っているようにも見えるが、緊張などとは無縁であるようだ。
「それにしても、赤星の新人は計算外だったな。あそこまででかい選手が出てくるとは、想定してなかったぜ」
「押忍。あの娘さんは、百六十五センチぐらいありそうでしたね。おまけにけっこう肉も詰まってるみたいでしたし……あれなら平常体重も、蝉川さん以上かもしれません」
蝉川日和がエントリーした女子中量級は、五十三キロがリミットである。それで身長百六十一センチの蝉川日和も、年齢のわりにはしっかりとした体格であったのだが――あの二階堂ルミという選手はさらに身長で上回る上に、まったく細長いという印象でもなかったのだ。
「まあ、あのネエチャンとはぶつかるとしても決勝戦だ。それまでの試合で、きっちり分析させてもらうぜ」
そんな言葉を交わしている間に、早くも女子中量級の試合が開始された。
こちらの参加人数は十二名であるため、四名がシード枠となり、残る八名で一回戦目がスタートされる。そこでいきなり登場したのが、二階堂ルミであった。
「おっと、噂をすれば何とやらだ。蝉川、お前さんは直近で当たる連中の出番まで、ウォームアップに集中しとけ。邑崎、頼んだぞ」
ということで、瓜子はサイトーとともにリングの上を注視することになった。
二階堂ルミと対戦するのは、個人ジムの所属選手だ。身長差が十センチばかりもある上に、体格差のほうもなかなかのものであった。
さきほどまではけばけばしい身なりをしていた二階堂ルミも、現在はきちんと大会の規定に沿った試合衣装に身を包んでいる。ただ、身体にフィットするタンクトップを着用すると、その肉感的なプロポーションがいよいよ浮き彫りにされていた。すらりとしていて肉づきのいい足などは、カモシカさながらである。
アマチュアの試合であるためにグローブは重めの十四オンス、防具はヘッドガードとニーパッドとレガースパッドの三点セットだ。運営から貸し出されるグローブとヘッドガードの配色で、赤か青かの陣営が示されていた。
二階堂ルミは赤コーナー陣営であり、ヘッドガードからこぼれるウェービーヘアは後ろでひとつにくくられている。遠目にはわからないが、きっとメイクも落としたのだろう。そうすれば、ただ髪の色が明るく肌が小麦色なぐらいで、外見上は奇抜なこともなかったが――そうすると、今度はその恵まれた体格が目を引いてやまなかった。
(なんかちょっと、灰原選手を思い出させる体格なんだよな。そんなごつごつはしてないのに、やたらと力がありそうな雰囲気で……とにかくアマ選手としては、かなり身体もできあがってるほうだろう)
瓜子がそのように思案する中、すみやかに試合が開始された。
グローブタッチを交わした両選手は、すぐさま距離を取ってファイティングポーズを取る。
そうして、二階堂ルミは――想像以上の力強いステップで、リングの内部をぐるぐるとサークリングし始めたのだった。
「ふん。あれだけのガタイで、ちょろちょろ動き回るタイプのアウトファイターか。ちっとばっかり、予想外だったな」
サイトーは鋭い面持ちで、そのように評している。
しかし瓜子は、それ以上の驚きにとらわれていた。彼女の躍動感あふれるステップには、何だか見覚えがあったのだ。
「二階堂さんは、サウスポーなんすね。そのせいもあるのかもしれませんけど……なんか、マリア選手に似てませんか?」
「んー? そういや、背丈も同じぐらいだな。体格が見合うから、あのメキシコ女に稽古をつけてもらってるのかもしれねえぞ」
相手選手は懸命に追いかけようとしているが、十センチばかりも長身である二階堂ルミが躍動感のあるステップでアウトスタイルに徹しているため、なかなか捕まえることができない。それはまさしく、《アトミック・ガールズ》や《レッド・キング》で対戦相手を翻弄するマリア選手さながらの姿であった。
こちらの大会は決勝戦のみ二分三ラウンドで、それ以外は二分二ラウンドという短い設定になっている。それであっという間に、半分の時間が過ぎ去った。
そして、大江山すみれが「残り半分!」という言葉を飛ばすなり、二階堂ルミが攻勢に出た。遠距離から一気に踏み込んで、強烈な左ローを叩き込んだのだ。
相手選手もきちんと前足を浮かせてカットしたが、その足が横に流れている。見るからに、破壊力のありそうなローだ。
そうして相手選手もすかさず左ジャブを返したが、二階堂ルミはそれよりも早く身を引いていた。
そして相手のアウトサイドに回りつつ、今度は左ミドルを射出する。
それをまともにくらった相手選手は、一撃で膝をつくことになった。レガースパッドを着用していても、その威力であったのだ。
この大会は、ツーダウン・ファイブカウント制となっている。ラウンド内で許されるダウンは二回までで、ファイブカウントまでに立てなければKO負けであるのだ。
そうして相手選手はそのまま五つのカウントを聞いて、呆気なく敗退してしまったのだった。
二階堂ルミは「やったー!」とぴょんぴょん跳びはねて、レフェリーに注意を受けてしまう。しかし、彼女が見事なKO勝利を収めたことに変わりはなかった。
「ふん。相手の根性が足りてねえってことを差し引いても、なかなかの破壊力だったな。決勝戦の相手は、こいつになる公算が高いだろうぜ」
「押忍。でもその前に、まずは初戦っすね」
「おうよ。オレはいったん戻るから、残りのチェックは任せたぞ」
それは、責任重大である。瓜子は心して、残りの試合を見守ることになった。
ただやはり、二階堂ルミほどのインパクトを持った選手は存在しない。ただひとり、小柴選手の後輩である細田という選手はなかなかいい動きをしていた。アマチュア選手としてはスイッチが巧みで、攻守ともに隙がない。それなり以上のキャリアを感じさせる動きである。
「サイトー選手、次が蝉川さんの相手を決める試合っすよ」
瓜子の呼びかけによって、プレスマン陣営が集結する。次の試合の勝者が、蝉川日和の対戦相手となるのだ。
片方はフィスト・ジムの所属で、もう片方は――瓜子の古巣である品川MAの選手であった。
ただし、瓜子が移籍してから入門した選手であるのだろう。顔にも名前にも覚えはない。そしてその選手が品川MAらしい堅実なファイトスタイルで、判定勝利をもぎ取ることになった。
「ふん。小粒な相手だな。普通にやりゃあ負ける相手じゃねえから、下手こくんじゃねえぞ」
「はいッ! 試合が待ち遠しいッス!」
蝉川日和がそのように答えたとき、ついさきほど試合を終えた陣営がこちらに近づいてきた。蝉川日和がもともと所属していた、ホワイトタイガー・ジムの一門である。
「よう、サイトー。まさかその不良娘が、プレスマンに入門するとはな。対戦表を見たときには、我が目を疑ったぜ」
それは瓜子も見覚えがある、ホワイトタイガー・ジムの男性トレーナーであった。それに付き従っているのは、さきほど試合をしていた出場選手と――そして、瓜子が二年前に《G・フォース》で対戦したアヤノ・タイガーホワイト選手だ。
「ああ、あんたか。そっちのブロックには大層なネエチャンがいるみたいだから、せいぜい頑張ってな」
サイトーが不敵な面持ちで応じると、そのトレーナーは面白くもなさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「そいつは、赤星道場のことか? あんなチャラチャラしたやつに負けるもんかよ。そっちこそ、スタミナ不足は解消できたのか? ヤニをふかすようなやつに全日本は荷が重いだろうよ」
「どうやらこいつも、禁煙には成功できたようだぜ。ま、あとは試合を御覧じろ、だ」
もちろんサイトーも《G・フォース》のランカーとして、これまでホワイトタイガー・ジムの所属選手とさんざんやりあってきている。そして《G・フォース》の中核であるホワイトタイガー・ジムや品川MAの面々は、外様のプレスマン道場を敵対視しているのだった。
「まあ、まずは最初の試合を勝ち抜けるかどうかだな。そこの不良娘がどこまで更生できたのか、せいぜい見物させていただくよ」
そんな捨て台詞を残して、トレーナーは早々に身をひるがえす。出場選手たる人物はすぐさまそれを追いかけたが、ただひとりアヤノ選手はその場に留まって、蝉川日和ではなく瓜子をねめつけてきた。
「……あんた、MMAのほうではずいぶん活躍してるみたいだね。このままキックはバックレるつもりなのかい?」
「押忍。いつか両立の目処が立ったら再チャレンジさせてもらうかもしれませんけど、しばらくはMMAに集中するつもりです」
「へえ。アイドル活動に励むヒマはあっても、キックの稽古を積む時間はないってことかい」
「あ、あれは事情があってのことなんすよ。それに、アイドルになったつもりはありません」
「なんでもかまわないけど、あんたがこのままバックレるつもりなら、チャンピオンベルトはあたしがいただくよ」
それだけ言って、アヤノ選手はきびすを返した。
その細長い後ろ姿を見送りつつ、サイトーは「ふふん」と鼻を鳴らす。
「あれはきっと、お前さんの離脱が寂しくて仕方ねえんだろうな。最近の《G・フォース》は、どの階級もパッとしねえしよ」
「そうっすか。でも、フライ級は大丈夫っすよ。これから期待の新人がプロデビューしますからね」
「違いねえや。しっかり頼むぜ、期待の新人様よ」
サイトーに脇腹を小突かれて、蝉川日和は「はいッ!」と元気いっぱいに応じた。
「それにしても、なんだかやいやい文句をつけられちゃって、申し訳ないッス! あたしはあんまり、いい門下生じゃなかったもんで!」
「ホワイトタイガーの連中は、いつもあんな感じだよ。余所の連中に見向きもしねえ品川MAの連中に比べりゃあ、可愛いもんじゃねえか」
「そうっすね。赤坂コーチが辞めて以来、品川MAはますます閉鎖的になっちゃった印象です」
「ま、余所様の内情なんざ、知ったこっちゃねえや。こっちは試合で当たった相手をぶちのめすだけのこった。それじゃあ、ウォームアップの仕上げをするぞ」
そうしてしばらくは、男子選手の試合が続けられ――小一時間ほどが経過したところで、蝉川日和の出番が巡ってきた。
まずは運営陣からグローブとヘッドガードを借り受けて、足もとには自前のレガースパッドとニーパッドを装着する。
そしてグローブを装着する前に、蝉川日和がジャージのウェアを脱ぎ捨てると――近くにいた人々が、わずかにどよめきをあげた。蝉川日和の身に刻まれたタトゥーが、人々の目にさらされたのだ。
瓜子は道場の更衣室などで、すでに何度もそれらの様相を拝見している。
彼女はかつての《アトミック・ガールズ》ミドル級の絶対王者、ジジ選手にも負けないほどのタトゥーをその身に刻みつけていたのだった。
背中には真紅の翼を広げる朱雀、右腕には白虎、左腕には青龍、胸もとには玄武――中国において四神と呼ばれる神獣がそれぞれ魁偉なる姿をさらし、それらの隙間にも流水や花弁や炎などが渦を巻き、ほとんど肌の色が見えないぐらいである。そして両腕の模様は肘の下まで及んでいるため、彼女も稽古中は長袖のウェアが欠かせないわけであった。
本日の試合衣装はタンクトップであったので、背中の朱雀や胸もとの玄武はほとんど隠されてしまっているものの、見えている部分だけでインパクトは絶大であろう。なおかつ、首から上には派手なところもまったくないので、それがずいぶんなギャップを生み出すようであった。
「なんだ、Tシャツじゃなく、タンクトップかよ。普段はひた隠しにしてやがるくせに、今日はずいぶんあけっぴろげじゃねえか」
「はいッ! あたしにとっては、これが一張羅みたいなもんッスから! 試合では、おもいっきりアピールしたいんすよね! 許されるなら、上だけ裸になりたいぐらいッス!」
「許されねえよ。そら、グローブを着けるから手を出しな」
そうしてサイトーが蝉川日和の面倒を見ていると、愛音が横から首をのばした。
「でもこの亀さんは、なかなか可愛らしいお顔をしているのです。なんだか、エサでもあげたくなってしまうのです」
蝉川日和の胸もとに刻まれた玄武というのは、亀に蛇が絡みついているデザインであったのだ。亀の頭は鎖骨のすぐ下に位置していたため、かろうじてタンクトップの襟から覗いていた。
「ホワイトタイガーでは、けっこう引いちゃうお人が多かったんスよね! プレスマンではそういうこともないんで、ありがたいッス!」
「蝉川サンの身体は蝉川サンのものなのですから、愛音が文句をつけるいわれはないのです。とりわけこの亀さんは、愛くるしいのです」
「あはは! そんな撫でられたら、くすぐったいッス!」
「つくづく緊張感のねえ娘どもだな。……きっとお前さんは、プレスマンに入門する運命だったんだよ」
グローブの装着を終えたサイトーが、ヘッドガードをかぶった蝉川日和の頭をぺしんと叩いた。
「さ、ぼちぼち出番だぞ。そのド派手な見てくれに負けねえ姿を見せつけてきやがれ」
「はいッ! おまかせあれッス!」
そうして瓜子たちが待機スペースで見守っていると、リングの上では小柴選手の後輩選手が判定勝利をあげた。蝉川日和が最初の試合を勝ち抜いたならば、準決勝戦で当たるのがこの細田選手である。
しかしまずは、初戦の相手だ。相手は瓜子の古巣となる、品川MAの所属選手であった。
『青。新宿プレスマン道場所属。蝉川日和』
アナウンス係の言葉に従って、蝉川日和はステップを駆けのぼる。
そうして彼女がリングに上がると、またあちこちにざわめきが広げられた。やはり若年の選手が多いアマの大会では、これほど豪奢なタトゥーを入れた人間は珍しいのだ。
しかしもちろん相手選手は、怯むことなく蝉川日和と対峙する。きっとホワイトタイガー・ジムの関係者から、蝉川日和の情報は入手しているのだろう。普段はライバル関係であっても、外敵の排除のためにはがっちりと結託するのが品川MAとホワイトタイガー・ジムの流儀であるのだ。
蝉川日和は百六十一センチで、相手選手は数センチ下回るていどとなる。体格にも、それほど大きな差はないだろう。ただ、よりしなやかに見えるのは蝉川日和のほうであった。
「ラウンドワン」の宣告とともに、試合が開始される。
生粋のインファイターである蝉川日和は、すぐさま相手に突進した。
一回戦目を見る限り、相手は無用に打ち合うことを避けて、堅実にポイントを取ろうとするファイトスタイルだ。そんな相手の思惑はおかまいなしで、蝉川日和はずかずかと間合いに踏み込んだ。
相手の振るう左ジャブは、両腕でしっかりとガードする。
さらに前蹴りも飛ばされてきたが、それは左腕で払いのけた。
そして、相手の蹴りを払うと同時にぐいっと踏み込み、いきなりの右フックを射出する。
相手もしっかりガードを固めていたが、それでもその一撃でぐらりとよろめいた。蝉川日和は、アマチュア離れしたパンチ力とパンチスピードを持っているのだ。
相手は足を使って逃げようとするが、蝉川日和は執拗に追いすがる。そして、左右のフックを乱打した。
蝉川日和は、ちょっと極端なぐらいのパンチャーである。彼女の身上はただひとつ、相手を殴り倒すということであるのだ。
そして彼女は、当て勘にも優れている。ジャブを使って距離を測るまでもなく、いきなりフックをジャストミートできるぐらいであるのだ。なおかつ、攻撃の回転力もなかなかのものであるため、パンチに限って言えばメイに通ずるものがあった。
そんな猛攻にさらされた相手選手は、なすすべもなくコーナーに詰まってしまう。
そしてその身がパンチを受けるたびに頼りなく揺らぐと、レフェリーが見かねた様子でスタンディングダウンを宣告した。相手選手もガードはできているのに、完全にパワーで圧倒されてしまったのだ。
「いいぞ! もうちょい丁寧に狙っていけ!」
サイトーが檄を飛ばす中、試合はリング中央で再開される。
相手選手も、何かアドバイスを授かったのだろう。今度はさきほど以上の機敏さでステップを踏み、なおかつ積極的に攻撃を仕掛けてきた。
蝉川日和もまた、両腕のブロックでそれらの攻撃を弾き返す。彼女もさまざまなディフェンス技術を学んでいたが、やはりウェービングやダッキングで回避するよりは、両腕でブロックするのがもっとも得手であるようであった。
そうして攻撃の切れ間には、自らも拳をお返しする。
その迫力ある反撃に、相手の動きはすぐに鈍り始めた。
「攻撃がワンパターンだぞ! 冷静に、穴をつけ!」
サイトーがそのような声を飛ばすと同時に、蝉川日和はアッパーを繰り出した。
これまでフック一辺倒であったために、相手の注意が左右に偏ったのだ。そこで両腕の隙間が穴となり、蝉川日和の右拳がまともに下顎を撃ち抜いたのだった。
相手はたまらず膝をつき、その瞬間に試合の終了が告げられる。ラウンド内にふたつのダウンを奪って、蝉川日和のTKO勝利である。
蝉川日和はぐっと前屈みになるや、反動をつけて「よっしゃー!」と右腕を振り上げた。
そうして無事に、レフェリーから注意をいただく。リング上の無用な発声は、アマチュアの試合において厳禁であるのだ。
ともあれ――およそ二年半ぶりとなる蝉川日和の復帰戦は、一ラウンドTKO勝利で幕を閉じることに相成ったのだった。