ACT.2《G・フォース》アマチュア全日本選手権 01 小麦色のライバル
十月の第三日曜日――その日は、《G・フォース》のアマチュア全日本選手権の関東ブロック予選大会であった。
かつては愛音や犬飼京菜も、こちらの大会の本選まで進んで優勝を果たしている。キックボクシングのアマ大会としては、もっとも規模が大きくて権威のある大会であるはずであった。
「だけど、邑崎のやつはそれできっぱりキックを引退しちまったし、犬ころのほうはプロに昇格しておきながら、戴冠すると同時にタイトル返上と引退だもんな。運営陣は、さぞかし肩を落としただろうぜ」
そんな風に言いたてたのは、蝉川日和のセコンドとして来場したサイトーであった。
そちらのお手伝いをするべく参じたのは、瓜子と愛音の両名である。今回は蝉川日和の他にも二名の男子門下生が出場するため、人手不足だという話であったのだ。
「せっかくの休日に申し訳ねえが、ま、蝉川のやつだってお前さんがたのセコンドを手伝ってくれたんだからな。これこそ、持ちつ持たれつってやつだ」
「押忍。もちろんです。いつもお世話になるばかりなんすから、全力でサポートさせていただきますよ」
瓜子がキックの試合でセコンドを務めるのは、およそ一年と九ヶ月ぶり――《G・フォース》でサイトーの試合に同行した日以来であろう。瓜子はその日、初めて犬飼京菜の試合を会場で観戦し、そして大江山すみれと初対面の挨拶を交わしたのだった。
また、アマチュア選手の大会を拝見するというのは、およそ一年と四ヶ月ぶり――愛音のMMAデビュー戦以来であろう。愛音はその日に初勝利を飾ると同時に、二回戦目で大江山すみれを相手に初めての敗戦をも体験することになったのだった。
斯様にして、所属道場に強い思い入れを抱いていれば、セコンドという立場であっても忘れられない記憶が刻まれるものである。瓜子は品川MAの所属であった時代にも何度かセコンドの雑用係をこなした覚えがあったが、そちらには大した思い出も残されていなかった。
「あたしなんかのためにお手間を取らせちゃって、本当に申し訳ないッス! 道場の名を汚さないように絶対に勝ち抜いてみせますので、どうかよろしくお願いします!」
そんな風に言いながら、蝉川日和は毛先のはねた頭をぺこぺこと下げていた。
しかしその顔には、十分以上の気迫がみなぎっている。彼女もプライベートではずいぶんくつろいだ姿を見せるようになっていたが、稽古の場ではいつも別人のごとき気迫をみなぎらせているのだ。それが試合の場となると、気迫も五割増しで加算されるようであった。
「そろそろ計量の時間だな。……おいコラ、ウェイトはきっちり落とせたんだろうな?」
「もちろんッス! ジョン先生の言う通りにしてたら、リミットきっちりでした! なんか、魔法でもかけられた気分ッス!」
そのように語るそばから計量の開始が告知されたため、蝉川日和はいそいそと列に並ぶことになった。
本日の会場は、某体育大学の体育館である。実に広々とした空間に、四つものリングが設置されていた。
四方の壁際には、出場選手の関係者や見物人がずらりと立ち並んでいる。今は瓜子たちも、そのひとりだ。見物人よりも関係者のほうが遥かに大人数であるというのは、アマチュア大会ならではの特色であった。
ちなみに本日行われるのは十六歳以上を対象とした一般部門で、それ以下の中学生部門とキッズ部門は昨日の土曜日に開催されている。そしてこちらの一般部門においてはプロ昇格を見据える選手が多かったため、蝉川日和のような気迫をみなぎらせている人間も決して少なくはなかった。
ただし、女子選手の人数はごくわずかである。キックもMMAと同じように、男女の競技人口には十倍ぐらいの開きがあるのだろう。それでも瓜子がエントリーした数年前に比べれば、少しばかりは女子選手の人数も増えてきたように思われた。
「なるほど。女子中量級の出場選手は、十二名なのですね。それでも立派な人数のように思えるのです」
対戦表の冊子を眺めながら、愛音はそのように言っていた。
十二名がかりのトーナメントで優勝した者だけが、再来月に開催される全国大会に出場することができる。蝉川日和の目標は、そちらの全国大会でも優勝を果たして、プロ昇格を目指すことであった。
「蝉川サンはシード枠なので、優勝までは三試合なのですね。たとえ入門ひと月半でも、プレスマン道場の門下生として恥ずかしくない結果を残していただきたく思うのです」
「そうっすね。目指すは本選出場です。その本選でも、準優勝じゃカッコつかないっすもんね」
「……猪狩センパイは、ときおり無用の記憶力を発揮するのです」
実は瓜子もアマチュア時代にこちらの大会に参戦しており、その結果は本選の準優勝であったのだ。そして、入門当時の愛音にその結果をけなされていたのだった。
「ほんの冗談っすよ。今ではすっかり邑崎さんと仲良くなれて、自分も嬉しく思ってます」
「……そういう台詞も、愛音を辱めようとしているように思えてならないのです」
すると、サイトーが「おい」と瓜子の脇腹を小突いてきた。
「見慣れた頭が覗いてやがるぞ。忙しくなる前に、挨拶をすませておくか」
サイトーの視線を追いかけてみると、人垣から覗いているのは赤黒半々のセミロングの髪であった。
何を隠そう、この体育館は横浜キャンパスに存在するのである。それで横浜に住まうサキは、セコンドではなく観客として参じたわけであった。
「でもたしかサキさんは、余計な挨拶なんざいらねーよとか言ってましたよね。サキさんがわざわざあんな風に言うってことは、うかつに近づかないほうがいいかもしれませんよ」
「知ったことかよ。殴られたら殴り返すだけのこった」
なんだかんだ言って、サイトーはサキとじゃれるのが好きなのである。もちろん瓜子もサキをこよなく敬愛する立場であったので、サイトーの逞しい背中に隠れながら挨拶をさせていただくことにした。
そうしてそちらに接近していくと、サキのかたわらに牧瀬理央と加賀見老婦人の姿も見受けられる。それで瓜子の内にあった疑問はあらかた氷解することになった。
(なるほど。そういえば《フィスト》のアマ大会でも、加賀見さんがご一緒だったっけ。だから挨拶はいらないなんて言ってたのか)
しかしサキには申し訳ないが、加賀見老婦人とは滅多に顔をあわせる機会がないので、瓜子としても是非ともご挨拶をさせていただきたいところである。何せ彼女は崩壊寸前であったあけぼの愛児園を立て直し、すでに受け入れ年齢をオーバーしていた理央を保護して、しかもサキともども住み込みのアルバイト職員として雇用してくれた人物であったのだ。それはもう、瓜子にとっても大恩人と呼びたくなるような業績であったのだった。
「よう。貴重な休日を犠牲にしてまで観戦に出向くなんざ、なかなか立派な先輩様じゃねえか」
サイトーが気安く声を投げかけると、サキは瓜子が想像していた以上におっかない目つきをした。
「手前ら……挨拶なんざいらねーって言いつけておいただろうがよ? そろいもそろって、その耳は飾りもんなのか? そんな役立たずの耳は、引きちぎって犬にでも食わしちまえよ」
「なんだ、ご機嫌ななめだな。そっちの嬢ちゃんなら、オレだって何度か顔をあわせてるんだぜ? それなら、ご挨拶は必要だろうよ」
サイトーが不敵な笑みを向けると、理央ははにかむように微笑んだ。今日も松葉杖を持参していたが、今はそれに頼らずに自分の足だけで立っている。
そして加賀見老婦人はにこにこと柔和に微笑んでいたが――それよりも早く、挨拶の声をあげる者がいた。
「は、はじめまして! いつも、ちゆ――サキちゃんが、お世話になってます!」
それは瓜子の記憶にもない、十歳ぐらいの男の子であった。
そしてもうひとり、今度は中学生ぐらいの女の子が赤い顔をしながら頭を下げてくる。
「い、猪狩さんですよね? は、はじめまして。今日は勝手に押しかけちゃって、どうも申し訳ありません」
「いえ、この大会は入場も自由なんで、何も謝られる筋合いはないっすけど……みなさん、どなた様ですか?」
「これはみんな、うちの施設の子供たちですよぉ」
加賀見老婦人が笑顔でそのように発言すると、それ以外にも五名ぐらいの子供たちが次々に頭を下げてきた。年齢も性別もさまざまな、小学生から中学生までの子供たちだ。
「なるほど、そういうことでしたか。……でも、どうして自分なんかの名前をご存じなんです?」
「それは、あの……いつも理央ちゃんに、DVDを観せてもらっていますから」
と、中学生の女の子が顔を赤らめたまま、そのように言い放った。
その言葉に、瓜子は思わず目眩を覚えてしまう。
「DVDって……もしかして、『トライ・アングル』の?」
「はい。それでみんな、ユーリさんや瓜子さんのファンになっちゃったんです。……あ、もちろん愛音さんもです」
「いいのですいいのです。愛音などは、しょせんユーリ様の引き立て役に過ぎないのです。名前を覚えていただけただけ、光栄の限りであるのです」
そんな風に語りながら、愛音はじっとりと瓜子をにらみつけてくる。愛音は決して自分の立場に不満は抱いていないのであるが、引き立て役でありながら注目を集めてしまっている瓜子には大きな不満を抱いているのだ。
「この子たちも、ちゆ――サキさんの影響で、格闘技というものに興味を持ったみたいでしてねぇ。今回は近所で入場料もかからないっていうお話だったんで、みんなで観戦させていただこうと思ったんですよぉ」
加賀見老婦人の説明に、サイトーは「なるほどな」と肩をすくめた。
「ところで、いちいち名前を言いなおすのが面倒そうだね。心配しなくても、ここにいる三人はサキの本名をわきまえてるよ」
「あらあら、そうだったんですねぇ。それがこちらにお邪魔するための約束だったんで、みんなちゆみさんを怒らせないように気を張っていたんですよぉ」
サキは深い深い溜息をつきながら、無造作にのびた頭をがりがりとかきむしった。そちらを横目で見やりながら、サイトーは仁王像を思わせる顔でにやにやと笑う。
「まったく、難儀な野郎だな。可愛らしい名前で、けっこうなことじゃねえか。なんなら、オレのこともヨシミちゃんって呼ばせてやろうか、ちゆみちゃん?」
「……本気でタコ殴りにすんぞ、金髪」
「おお、やってみろや、半赤毛」
なんとも不穏なやりとりだったが、これこそがサイトーの好むじゃれあいである。そして施設の子供たちもサキの気性をよくよくわきまえているようで、べつだん心配そうな顔はしておらず、むしろ緊張が解けた様子であった。
「それじゃあ僕たちも、ちゆみちゃんって呼んでいいんだね」
「よかったぁ。サキちゃんって呼び方は、やっぱりしっくりこないもんね」
「ちゆみちゃんは、どうしてちゆみちゃんって名前が好きじゃないんだろうね。すっごく可愛いのに」
子供たちがそのように言いたてると、サキは長いリーチを活かして順番にその頭を小突いていった。頭を小突かれた子供たちは、どこか嬉しそうにも見える顔できゃあきゃあと逃げまどう。瓜子がその微笑ましい光景に思わず微笑をもらしてしまうと、最後に頭を小突かれてしまった。
「用が済んだんなら、とっとと消え失せやがれ。おめーらの仕事は、新入りの調教だろーがよ?」
「へいへい。おおせのままに。……じゃ、最後まで楽しんでいってくれや。もし格闘技を始めたくなったらオレたちが稽古をつけてやるから、いつでも道場に遊びに来な」
サイトーがそんな風に呼びかけると、子供たちは純真無垢なる面持ちで「はいっ!」と応じていた。
そうしてサキたちに別れを告げ、元の場所に戻るさなか、愛音がふっと息をつく。
「サキセンパイは普段、あの子たちの面倒を見ておられるわけなのですね。サキセンパイの傍若無人な態度には、たびたび悩まされておりますけれども……ほんのちょっぴり、尊敬のゲージが上昇したように思うのです」
「そうっすね。サキさんもみんなに慕われてるみたいで、ほっとしました」
すると行きがかりで、さらに見覚えのある人々を発見することになった。
赤星弥生子と大江山すみれ、そして小柴選手である。彼女たちも、同門の選手のセコンドとして来場していたのだ。
「みなさん、お疲れ様です。今日は敵味方に分かれちゃいましたけど、どうぞよろしくお願いします」
奇しくも、赤星道場と武魂会船橋支部から出場するのも、女子中量級の選手であったのだ。ここに四ッ谷ライオットまで加わっていたならば、愛音が参戦した《フィスト》のアマ大会そのままの様相であった。
「みなさん、お疲れ様です。プレスマンの選手とはブロックが分かれてしまったので、対戦するとしたら決勝戦ですね。おたがいそこまで勝ち抜けるように、力を尽くしましょう」
年長者のサイトーが混じっているためか、赤星弥生子は丁寧な口調で挨拶を返してくる。しかし相変わらずの、静謐な雰囲気の中にぴんと鋭いものをひそませた、赤星弥生子ならではの存在感だ。
「師範みずからがセコンドとは、豪勢な話だな。今回参加するやつは、そんなに有望な選手なのかい?」
「いえ。有望な選手だから同行したというわけではないのですが――」
赤星弥生子が珍しくも言いよどむと、内心の知れない微笑をたたえた大江山すみれが補足した。
「熱心におねだりされたものだから、弥生子さんも無下にはできなかったわけですね。まあ、青田コーチは男子選手の面倒を見ていますので、ちょうどよかったかと思います」
「へえ。大怪獣様におねだりかい。そんな豪気な娘っ子が、キック部門にもいたっけか?」
「彼女は合宿稽古に参加したこともありませんので、プレスマンの方々とは面識がないかと思われます」
大江山すみれがそのように答えたとき、「すみれちゃーん!」という元気な声が響きわたった。
「ここにいたんだねー! もー、探しちゃったじゃん! 今日はうちの面倒を見るのが仕事っしょー?」
瓜子は思わず、ぎょっと身を引くことになってしまった。それはこのような場には、あまり似つかわしくないような風体をした少女――うねうねと渦を巻くウェービーな髪をアッシュブロンドに染めあげて、肌を小麦色に焼きあげた、実にけばけばしい娘さんであったのだ。なおかつ、爪にはピンクのマニキュアが塗られて、蛍光イエローのハーフトップにショートパンツなどという身なりであるものだから、その肉感的なプロポーションと相まって、レースクイーンか何かのように見えてしまった。
「でねー、計量はパスしたんだけどさー! つけまとメイクがバレちゃったー! 試合前にすっぴんにならないと、失格負けですだってさー! ほんっと、融通がきかないよねー!」
「だから、大会の規定を守るように言ったでしょう? 文句があるならエントリーを辞退して、帰りましょう」
「そんな、つれないこと言わないでよー! 今日に備えて、ダイエット頑張ったんだからさー!」
謎の少女はけらけらと笑いながら、大江山すみれに抱きついてその頭に頬ずりをした。身長百六十センチの大江山すみれにそんな真似ができるぐらい、彼女は長身であったのだ。
そして、メイクとつけ睫毛に彩られたその目が、瓜子のほうを見て――たちまち、「あーっ!」という雄叫びをほとばしらせたのだった。
「誰かと思ったら、ウワサのうり坊ちゃんじゃーん! わー! 実物は超ちっちゃーい! でも、超かわいー!」
「……なんだよ、このケバいネエチャンは? まさか、こいつが赤星の門下生なのか?」
言葉を失う瓜子の代わりにサイトーが問いかけると、赤星弥生子は沈着な面持ちのまま「ええ」とうなずいた。
「彼女は二階堂ルミといって、キック部門の一般門下生です。……ルミ、初対面の方々に失礼のないように、きちんと挨拶をなさい」
「はーい! ルミ十八歳でーす! すみれちゃんの影響で、赤星道場に入門しちゃいましたー! キャリアは二年ぐらいで、ぴちぴちの高校三年生でーす!」
二階堂ルミなる少女は目もとに横向きのピースサインを添えながら、無邪気に笑みを振りまいてくる。そしてその間も、しなやかな左腕が大江山すみれの首にからんだままであった。
「ルミはすみれと同じ中学で、そこで面識を得たとのことです。プロ志向ではありませんが、力試しということでエントリーさせることになりました。公式試合は、今日がデビュー戦となります」
「初の公式試合が、全日本選手権かよ。ま、こっちもブランク持ちだから、人のことはどうこう言えねえが……それにしても、思い切ったもんだな」
「はい。稽古通りの力を出せれば、恥ずかしい結果にはならないかと思います」
赤星弥生子がそう言うからには、きっときちんとした実力を持つ選手であるのだろう。
まあ――剥き出しの手足や腹部などは、きっちりと無駄肉が落ちてしなやかに引き締まっている。少なくとも、不摂生な生活に身を置いていないことは明白であった。
「うち、『オラ!ホロ!』でバイトしてるんですよー! うり坊ちゃんもユーリと一緒に、店まで来たことあるんでしょー? マリアちゃんから話を聞いて、ずーっと羨ましいなーって思ってたんですよー!」
「ユ、ユーリ? まさか、ユーリさんのお知り合いなんすか?」
「あー、ちがうちがう! ほら、芸能人にさんづけなんてしないっしょー? いつものクセで、呼び捨てにしちゃっただけですよー! うち、『トライ・アングル』のファンですから!」
なんだかこれは、灰原選手にも負けない騒がしさであるようであった。
そんな瓜子の心情も知らずに、二階堂ルミはけらけらと笑っている。
「マリアちゃんには、店でも道場でもすっごくお世話になってるんですー! マリアちゃん、今ごろ頑張ってますかねー! ここはやっぱり日本撫子の底力で、シンガポールの連中なんか――」
と――彼女がそこまで言いかけたとき、ふわりと浮きあがったものがその口もとを覆い隠した。赤星弥生子の、右の手の平である。
「ルミ。それは他言無用だと、なんべんも注意していたはずだ」
二階堂ルミは「もがもが」ともがいてから、笑顔で赤星弥生子の手をひっぺがした。
「そうでしたー! テンション上がって、つい口がすべっちゃったんですよー! ハンセーしてますから、ルミのこと嫌いにならないでくださいねー!」
赤星弥生子はいくぶん眉を下げながら、瓜子たちのほうに向きなおってきた。
瓜子は――激しい驚きにとらわれてしまっている。
「や、弥生子さん。もしかして……マリア選手が、『アクセル・ロード』の合宿所に招集されたんすか?」
「……申し訳ない。たとえそうだとしても、我々には守秘義務というものが生じてしまうんだ」
確かに《アクセル・ファイト》との契約書には、そのような一文がしたためられているのだろう。
しかし、補欠要員のマリア選手が招集されたのなら――それは、日本陣営の誰かが負傷欠場となったことを意味しているのだった。
(負傷欠場って、誰が? まさか、これからの四試合で? それとも、試合後のトレーニング中に怪我をしたとか?)
瓜子の心臓が、激しく胸郭を叩いてくる。
すると赤星弥生子はますます申し訳なさそうな面持ちとなって、瓜子に呼びかけてきた。
「マリアの去就については、何も語ることができないが……それと同時に、たとえマリアが招集されたとしても、我々に内情が明かされることはない。誰が負傷欠場となったかは、番組の内容で確認するしかないんだ」
「ええ……ええ、わかってます。きっとユーリさんや青田さんは、大丈夫です」
「……猪狩さんは、そこですぐさまナナの名前まで挙げてくれるんだね」
「ええ。心配なのは、弥生子さんも一緒ですもんね」
そうして瓜子が無理やり笑顔を作ってみせると、赤星弥生子はひどく優しげに口もとをほころばせてから、白刃のごとき眼光を二階堂ルミに突きつけた。
「ルミ。君が不用意に発言すれば、無用に人の心をかき乱すこともありえる。まがりなりにも赤星道場の門下生であるならば、節度というものをわきまえるべきだろう」
「ごめんなさーい! ハンセーしてますから、怒らないでくださーい!」
と、あれだけにこやかな顔をしていた二階堂ルミが、たちまち目もとを潤ませてしまう。その姿に、さしもの赤星弥生子も小さく息をついた。
「とにかく、我々はこれで失礼するとしよう。またのちほど機会があったら、そちらの選手の方々にもご挨拶をさせてください」
「ああ。そんなもんは、試合の後でもかまわねえよ。対戦前に馴れあう必要はねえからな」
サイトーがうるさそうに手を振ると、赤星道場の面々は人垣の向こうに立ち去っていった。
そしてサイトーは、「おい」と瓜子の頭を小突いてくる。
「手前も試合に集中しやがれよ、猪狩。役立たずなら、帰ってかまわねえからな」
「押忍。大丈夫です。きちんと仕事はしてみせます」
そのように語る瓜子のかたわらで、愛音は肉食ウサギの形相となっており、小柴選手は雨に濡れた子犬のような面持ちになっている。やはり誰もが、北米に旅立った大切な人々のことを思いやらずにはいられないのだ。
しかし、遥かなるラスベガスの合宿所でいったい何が起きたのか。瓜子たちにそれを知るすべはない。今は赤星弥生子の言う通り、『アクセル・ロード』の番組内でそれが語られる日を待ち受けるしかなかったのだった。