ACT.1 Accel road -Ⅱ- 01 episode3-1 トレーニングと前日計量
ユーリたちが北米に出立してから、ついに一ヶ月が経過して――世間は、十月に突入した。
残暑もじょじょに落ち着いて、秋物の上着が必要なぐらい気温が下がることもある。夏と冬の狭間に存在する、わずかばかりの過ごしやすい時節の到来であった。
幸いなことに、瓜子も大過なく過ごすことができている。日中は撮影の仕事か取材の依頼、それがなければ朝から稽古――そんな日々が、一ヶ月も過ぎたのだ。
瓜子の次の試合は十一月の第一日曜日であるので、もう一ヶ月ばかりはこうして平穏に過ごすことになる。十月の半ばには蝉川日和が参戦する《G・フォース》のアマ大会、十月の下旬には『ワンド・ペイジ』の単独ライブの観戦、そしてその前には灰原選手たちと朝から遊ぶ計画も立てられていたが――基本のスケジュールに変化はない。ユーリと離ればなれで過ごす秋は、まだ二ヶ月ばかりも残されていたのだった。
その期間、瓜子がユーリを思うよすがとなるのは、やはり『アクセル・ロード』の放映である。
毎週水曜日、瓜子はユーリの元気な姿を目にすることができる。たとえそれが何週間も前に撮影された過去の映像であったとしても、瓜子にとっては初めて目にするユーリの姿であるのだ。それが瓜子の支えになっていることは、まぎれもない事実であったのだった。
そうして迎えた、十月の第一水曜日――
ついに本日からは、トーナメント戦の開幕である。
たとえユーリや多賀崎選手の出番はなくとも、血が躍らないわけはなかった。
瓜子とサキ、灰原選手と蝉川日和、そして部屋の主たるメイは扇状に着席して、巨大なテレビ画面を見守る。そろそろ目に馴染んできたオープニング映像が流されて、その後は――日本陣営のトレーニング風景へと切り替えられた。
卯月選手がじきじきに指導を行っているのは、本日試合が公開される青田ナナと、来週が出番である沙羅選手だ。ただそれは放映日が分けられているだけで、両名は同じ日に試合をするスケジュールであるはずであった。
『お二人が対戦するのは、どちらも生粋のストライカーです。フィニッシュはグラウンドで狙うとしても、まずは相手の強烈な打撃技に対抗する技術を学ばなくてはなりません』
立ち技のスパーに励む両名に、卯月選手がそんな言葉を投げかけた。
しかし、そんな話は本人たちも先刻承知であろうから、これは視聴者に向けられた台本の台詞であるのだろう。
『特に、青田さんと対戦するルォシー選手は、ムエタイで数々の王座を戴冠しています。彼女は足くせの悪いサウスポーですので、沙羅さんはまたとないスパーリングパートナーとなるでしょう。いっぽう沙羅さんと対戦するユーシー選手はストライカーながらも鋭いタックルを持っていますので、青田さんはその役をお願いいたします。これでおたがい、攻防ともに有意義な稽古を積めるはずです』
そこで場面が切り替えられて、汗だくの両名が卯月選手に意見している姿が映し出される。
『せやけど、ウチは立ち技でも真っ向勝負するつもりやで。あないな三下は、こっちがKOを狙うぐらいでちょうどいいやろ』
『日本ではユーシー選手の試合映像も手に入らなかったようですが、こちらは一試合だけ確認することができました。スタンド戦における技術面に関しては沙羅さんも心配ないでしょうが、パワーでは完全に負けています。真っ向勝負には、若干のリスクが生じるでしょう』
『はん。せやけど、あいつもフライ級なんやろ?』
『同じフライ級でも、体格はあちらがまさっています。シンガポールはアジアにおいてもっとも平均身長が高いというデータがありますし、中華系のトップファイターはおおよそ骨格も頑健です。なおかつ、ユーシー選手の所属するジムは計量後のリカバリーに関しても定評がありますので、平常体重は沙羅さんを上回っているものと推測されます』
『卯月はんは、案外データ主義なんやね。ま、フィジカルがすべてやないっちゅうことを、ウチの華麗なテクニックで証明したるわ。もちろん隙あらばテイクダウンも狙うつもりやから、心配ご無用やで』
沙羅選手は卯月選手にどのような印象を抱いているのか。何にせよ、その人を食った態度は相変わらずであった。
いっぽう青田ナナは、明らかに反感を抱いている。卯月選手は赤星道場を見捨てて衰退させた、元凶のひとりであるのだ。その眼差しには、敵を見るようなとげとげしさが込められていた。
『あたしだって、立ち技で逃げ回る気はないよ。道場では、もっとおっかない連中を相手にしてるんだからね』
『もちろん青田さんの技量であれば、立ち技でも勝ち目がないわけではありません。しかし、グラウンドでは圧倒できるでしょうから、そちらで勝負をかけるべきかと思われます。……また、俺も立ち技で逃げろとは言っていません。相手の攻撃を正しくさばいて、テイクダウンのチャンスをうかがうべきでしょう』
『そんなもんは、MMAの基本だろ。今さら偉そうに指図されるほどのことではないね』
そこでまた画面が切り替わり、壁を背後にした卯月選手のバストショットが映し出された。
『青田さんと沙羅さんは表面上、反抗的な態度を取っています。ですが、トレーニング中は俺の指示に逆らうこともありませんので、問題はないでしょう。ああいう闘争心や我の強さといったものも、彼女たちにとってはファイターとしての長所なのだろうと受け止めています』
そして次には、沖選手のトレーニング風景がお披露目される。
彼女はグラップリングのスパーを積んでおり、その相手をしているのは――ユーリである。
『沖さんと対戦するイーハン選手は、きわめて質の高いオールラウンダーです。体格で劣る沖さんが勝利するには、あなたが得意とするグラウンド戦が要となるでしょう。彼女からテイクダウンを奪うのは至難の業ですが、それに成功できれば勝機はあるはずです』
卯月選手の言葉を聞きながら、沖選手はユーリと取っ組み合っている。上になった沖選手が、するすると逃げまくるユーリから何とか一本を取ろうとしている格好だ。
『スタンド戦が不利である以上、グラウンド戦でポジションキープに徹するだけでは勝利に結びつきません。よって、グラウンドでは積極的にサブミッションを狙ってください。このスパーリングには、寝技巧者のユーリさんがもっとも相応しいはずです』
くるくると動き回るグラウンド戦をこよなく愛するユーリは、とても楽しそうに沖選手のお相手をしていた。
そんなユーリの姿を見ているだけで、瓜子は胸が詰まってしまう。
『イーハン選手との対戦は、沖さんにとって非常に過酷なものになるでしょう。ですが、勝負に絶対はありません。沖さんも確かなグラウンドテクニックを持っていますので、そこに勝負をかけたいと思います』
単独のインタビューでは、そのように語る卯月選手であった。
そして、前半戦にエントリーされた最後のひとりである宇留間選手は――魅々香選手を相手に、グラップリングのスパーに取り組んでいた。最初から下になって、相手のポジションキープから脱する稽古であるようだ。
宇留間選手は、やはりまともな稽古を積んでいないのだろう。基本を無視した無茶苦茶な動きで、力まかせに魅々香選手の身をはねのけようとしている。
しかし、苦しそうにしているのは、魅々香選手のほうであった。宇留間選手が持ち前のフィジカルで暴れまくるものだから、ポジションキープに徹するだけで気力とスタミナを削られてしまうのだ。それは何だか、ゴリラやオランウータンを思わせるパワフルさであった。
『宇留間さんには、いかなる基礎技術も備わっていません。この合宿所の稽古期間だけで基礎を習得させるのは不可能ですので、彼女のフィジカルを活かす稽古に集中する他ありません』
宇留間選手に対してはアドバイスを送るシーンもなく、卯月選手の単独コメントだけが収録されていた。
そしてお次は、シンガポール陣営のトレーニング風景だ。
ルォシー選手はタックルの回避、イーハン選手はストライキング、シンイー選手とユーシー選手は逃げまくる相手からテイクダウンを狙うという稽古内容であった。
『ナナ・アオタは、質の高いオールラウンダーだ。ルォシー・リムであればストライキングで有利に試合を進められるはずだが、テイクダウンを取られると厳しくなる。ここは徹底して、立ち技勝負を挑むべきだろう』
『カズミ・オキは、典型的なグラップラーだ。イーハン・ウーであれば寝技でも互角以上の勝負をできるかもしれないが、スタンドであればリスクなしに戦える。また、彼女に必要なのはテイクダウンを回避する技術ではなく、相手にテイクダウンのチャンスを与えない攻撃の勢いだと考えている』
『チハナ・ウルマは、不可解なファイターだ。ただし、立ち技のストライキングにおける破壊力は際立っている。なんとか相手の勢いに屈することなくテイクダウンを狙えれば、勝機を見いだせるはずだ』
『シャラ・カモノハシは、個性的なオールラウンダーだ。特にスタンドにおけるステップには目を見張るものがある。それに比べればグラウンドテクニックは外連味のないキャッチ・レスリングであるようなので、柔術の技術を駆使すればタップを奪うことが可能だろう』
ジョアン選手もまた、ぬかりなく日本陣営の研究をしているようだ。また、それらのコメントを聞く限り、卯月選手にも劣らないほど的確に分析できているように思えた。
これは選手たちだけではなく、コーチ同士の戦いでもあるのだ。ひとりで八名もの選手のコーチングを務めるというのは、大変な労苦であるはずであった。
なおかつ、トーナメントの決勝戦が行われる《アクセル・ファイト》の公式大会では、コーチ対決として卯月選手とジョアン選手が対戦する。これまでひとつ下のウェルター級であった卯月選手が、ミドル級に階級をあげる初戦で絶対王者たるジョアン選手と対戦するのである。《JUF》時代からのライバル同士ということで、世間は大いに盛り上がっているようであったが――卯月選手こそ、誰よりも過酷な戦いに身を投じようとしているのかもしれなかった。
(しかも、自分の稽古時間を犠牲にして、コーチ役を受け持ってるんだもんな。相手も同じ条件とはいえ……あたしなんかには、とうてい真似できないよ)
瓜子がそんな風に考えている間に、また映像が切り替わった。
おそらくは試合前日の、計量の様子である。ここでは華やかな水着姿をお披露目した沙羅選手が、選手陣やスタッフたちから口笛や喝采を浴びていた。最近ますます磨きがかけられた小麦色の肢体に、光沢のあるグリーンのブラジリアン・ビキニという、グラビア撮影を思わせるきらびやかさだ。
「沙羅さんってお人も、なかなかエロいッスよねー。灰原さんも負けてないと思うッスけど」
「あのさー! せめてセクシーとか色っぽいとかにしてくれない? なんか、中身までエロいみたいじゃん!」
「だったら普段の行いをあらためやがれ、エロウサ公」
そんなサキたちの戯れ言はともかくとして、八名の全員が計量をパスしていた。
その中で、もともとバンタム級である三名――青田ナナ、イーハン選手、ルォシー選手は、研ぎ澄まされた肉体である。おそらく彼女たちは平常体重を落とすことなく、現地でしっかりと減量に励んだのだろう。トレーナーの力を借りずに減量を成功させるというのは、並々ならぬ話であるはずであった。
ただ、同じくバンタム級である宇留間選手だけは、印象がまったく変わらない。おそらく彼女は、減量を必要としない平常体重であるのだろう。それでいて、誰よりも肉厚な体格であるというのは、なかなかに不公平な話であった。
いっぽう、フライ級である四名――沙羅選手と沖選手、シンイー選手とユーシー選手も、決してたるんだ身体はしていない。きっと誰もが、この日に備えて身体を作ってきたのだろう。普段の試合より五キロも重いウェイトが許されるのだから、それをすべて筋肉で増量させようという意気込みでトレーニングに励んだのだろうと思われた。
計量を終えた後は、ひと組ずつ対戦相手とファイティングポーズで向かい合う姿が撮影される。青田ナナたちは余分な肉を削ぎ落したためか、前回以上の迫力ある面相だ。瓜子たちにとっては一週間ぶりの姿であるが、現地ではそれ以上の時間が経過しているはずであった。
そうして視聴者の期待感を駆り立てるための勇ましいBGMがフェードアウトしていき、画面もゆっくりと暗くなっていく。
次に画面が明るくなったとき、そこには控え室と思しき場所が映された。前半戦の試合に出場する青田ナナ、沖選手、宇留間選手、沙羅選手の四名が集っており、全員が青い試合衣装とオープンフィンガーグローブを装着している。一日が経過して、ついに試合の当日となったのだ。
沖選手はタンクトップとハーフスパッツで、それ以外の三名はハーフトップとファイトショーツだ。ただ、いずれの試合衣装にも『アクセル・ロード』のロゴがプリントされている。デザインとしてはシンプルで、いかにもこれから華やかな舞台を目指そうとしている若き選手たちといった様相であった。
宇留間選手はベンチに寝転がっており、青田ナナと沖選手はストレッチ、沙羅選手は壁に向かってシャドーをしている。もうこれは、試合直前の映像であるのだろう。放映時間に限りがあるとはいえ、息もつかせぬスピーディーな展開であった。
そして次には、シンガポール陣営の控え室も映し出される。こちらは試合衣装が赤いだけで、他に変わるところはない。ただ、ルォシー選手とユーシー選手がペアになって空振りの立ち技スパーをしているのが印象的であった。
(そっか。この二人は、同じジムなんだっけ)
どうやらシンガポールは日本ほどジムが細分化されていないらしく、ルォシー選手とユーシー選手、イーハン選手とシンイー選手、エイミー選手とランズ選手はそれぞれ同じジムの所属であるのだ。
また、シンガポールでは試合を行う興行も、きっちり系統立てられている。ひとつの大きな団体がメインの興行を張っており、あとはアマの試合をメインにしたマイナープロモーションであるそうなのだ。そちらのマイナープロモーションで名を馳せた選手がメインのプロモーションか、あるいは北米などの海外にチャレンジするという、そういう図式であるようであった。
「ま、シンガポールってのは《アクセル・ファイト》が世界的な格闘技ブームを巻き起こしてから、MMA事業に手を出したって立場だろうからなー。もともと色んな団体が節操なく乱立してた日本とは、まったく事情が違ってるんだよ」
かつてサキは、そのように語っていた。
日本は古豪で、シンガポールは新鋭――ただし、日本は歴史が長いゆえに、さまざまなシステムが錯綜している。すべてのシステムがあらかた落ち着いてからMMA事業に乗り出したシンガポールは、きわめて整然としているといった印象であった。
そしてこれは余談かもしれないが、日本というのは長きにわたって不景気にあえいでおり――いっぽうシンガポールは、アジアでもっとも豊かな国と称されている。それがまた、シンガポールのMMAに新進気鋭というイメージを与えるのかもしれなかった。
MMAの競技人口などは、おそらく日本のほうが上回っているのだろう。
しかしどうやら、プロファイターの扱いというものは、シンガポールのほうが手厚いらしい。国が豊かであるゆえに、ファイトマネーも日本の団体とは比較にならないようであるのだ。ただそれも、メジャープロモーションが一本化されている恩恵なのかもしれなかった。
斯様にして、日本とシンガポールのMMA事情というのは対極的であるようなのだ。
若く、近代的で、先鋭化されたシンガポールと、古く、歴史を持ち、小さからぬ澱みを抱えた日本――これは、そういう対決であるのかもしれなかった。
(でも……試合をするのは、個人個人なんだ)
大富豪の娘でも、貧困にあえぐアルバイターでも、試合で向かい合えば対等の存在である。潤沢な資金で存分に稽古を積める選手も、苦しい環境ゆえにハングリー精神を育まれた選手も、ただその身に備わった力をぶつけあうのみであるのだ。
これまでの放送で十六名の選手たちのバックボーンを知った瓜子は、そんな思いを新たにさせられたのだった。