03 episode1-3 最初の朝
テレビ画面に、いきなりユーリの寝顔が大映しにされた。
薄暗い部屋の中、ベッドの上で薄手の毛布を肩まで掛けて、可愛らしいイノシシの抱き枕をぎゅっと抱きすくめながら、ユーリは横向きの姿勢で眠っている――かのように見える。しかしそれが狸寝入りであることは、瓜子の目には一目瞭然であった。
やがて枕もとでタイマーが鳴り響くと、ユーリは『にゅー』とうなりながら白い指先をそちらにのばす。そうしてタイマーを制止させると、ユーリは「あふぅ」と色っぽくあくびをしながら半身を起こした。
ユーリが身につけているのは、女子選手の一行がプレゼントしたナイトウェアだ。その品を選ぶという役目を負った愛音は、今ごろ感動に打ち震えているかもしれない。ただ瓜子は、ユーリの左手首に装着された白いリストバンドのほうにひとり胸を高鳴らせ、自分もピンク色のリストバンドを撫でさすることになった。
ナイトウェアはきわめて薄手のシルク素材であったため、ユーリの破壊的なプロポーションをまざまざと浮かびあがらせている。それをさらに強調するかのように、ユーリは「うーん!」と大きくのびをした。
『おはようございまぁす。ついに今日から、お稽古の開始ですねぇ』
ユーリはのほほんと笑いながら、カメラに向かって手を振った。
そのカメラが、ベッドの脇で蒸気を噴いている加湿器をクローズアップする。そしてカメラが戻されると、ユーリは笑顔のまま説明を始めた。
『このラスベガスはすっごく空気が乾燥してるって聞いてたから、あらかじめ加湿器を準備してもらったんですぅ。咽喉を痛めたら大変ですし、乾燥はお肌の天敵ですからねぇ』
すると、灰原選手がうろんげに瓜子のほうを見やってきた。
「いちおう確認しておくけど……これって、台本だよね?」
「でしょうね。寝起きでカメラマンが待ちかまえてたら、さすがにユーリさんも慌てるでしょうから。……まあそれ以前に、ユーリさんは最初から寝たふりをしてましたけど」
「だよねー! なーんか芝居がかった演出ばっかりで、試合のほうが心配になっちゃうなー!」
「さすがに天下の《アクセル・ファイト》が、八百長を仕込むこたーねーだろうよ。そら、おめーの相方が見切れてんぞ」
「えっ! どこどこー? わー、いたいた! どうせだったら、マコっちゃんの寝起きシーンも映してよー!」
そんな具合に、合宿生活の最初の朝が、いささかならず唐突にスタートされた。
どうやらこちらの合宿所は、寝室が二人部屋であるらしい。それでユーリと多賀崎選手が相室となったのは、何よりの話であった。
ユーリは小洒落たナイトウェアのまま、多賀崎選手はTシャツにハーフパンツという姿で、寝室を後にする。そんな彼女たちが向かったのは、だだっ広いダイニングであった。
二十畳ぐらいは余裕でありそうな、広大なるダイニングである。これまで映し出されてきた合宿所の内装はいずれも機能重視の近代的な様相であったが、こちらはフローリングで壁も木目調であり、奥にはカウンターキッチンが設えられている。そして壁の一面が大きな窓になっており、そこからたっぷりと朝日が差し込んで――それこそ、ロッジやペンションの一室を思わせる様相であった。
ユーリたちが入室すると、すでにソファでは沖選手がくつろいでいる。魅々香選手は巨大な冷蔵庫からミルクの瓶を取り出しており、青田ナナは別の椅子でリンゴをかじっていた。
『みなさん、おはようございまぁす。あらためて、今日からお願いしますねぇ』
ユーリがそのように声をかけると、魅々香選手は慌てた様子で頭を下げ、沖選手はうっそりとうなずき、青田ナナはちらりと視線だけ送ってくる。残念ながら、その場に社交的な人間は存在しなかった。
「なんかさー、昨日からピンク頭の出番が多くない? こういうえこひいきって、ピンク頭のためにもならないと思うんだけど!」
「ふん。北米やシンガポールのエロ親父どもにも、この乳牛の色気は効果的って判断だろーよ。テレビ番組なら、まず考えるべきは視聴率だからなー」
すると、サキの言葉に応じるように、また画面がユーリの姿で埋め尽くされた。
さきほどまで青田ナナが座っていた椅子に座り、優雅にグラスを傾けている。格好はナイトウェアのままであったが、それなりの時間が経過した様子だ。
『いよいよお稽古の開始ですねぇ。卯月選手はとってもためになるアドバイスをくださるので、ユーリも心待ちにしていましたぁ』
ユーリがそのように語り始めると、無音のままに日本語字幕で質問が飛ばされた。
『ユーリ・モモゾノは、ウヅキと面識があったのですか?』
『はぁい。以前に合宿稽古で面倒を見てもらったんですぅ。多賀崎選手や魅々香選手もご一緒でしたよぉ』
そこで画面が、試合映像に切り替えられた。
それがユーリと赤星弥生子の試合映像であったため、瓜子は思わずドキリとしてしまう。そして英語のナレーションとともに、字幕でその意味が説明された。
『ユーリ・モモゾノが所属するのは、ウヅキのトレーナーであるレム・プレスマンが設立した新宿プレスマン道場である。さらに彼女は、ウヅキの妹であるヤヨイコ・アカボシに勝利した、ただひとりの選手でもあった』
ノーガードでたたずむ赤星弥生子に、ユーリが無軌道なコンビネーションの乱発で立ち向かっている。そのいきなりの迫力に、瓜子は息を呑む思いであった。
『ヤヨイコ・アカボシは男子選手との対戦でも無敗の記録を有しており、日本最強の女子ファイターと言われていたが、ユーリ・モモゾノはそれに勝利した。さらに彼女は、《フィスト》の女子バンタム級王者ナナ・アオタにも勝利している。ユーリ・モモゾノが日本最強の女子ファイターと呼ばれる所以である』
いきなり画面が切り替わり、ユーリが火山の噴火めいたスープレックスで赤星弥生子をKOする。
そしてさらに、画面が切り替わった。
これまたずいぶん唐突に、ユーリのグラビア撮影のシーンが映し出されたのだ。しかもそれは《アトミック・ガールズ》のベストバウト集でも使用されていた、ユーリの若かりし日の姿であった。
『そんなユーリが格闘技と出会ったのは、十七歳の頃。それまでの彼女は、グラビアアイドルとして活動するひとりの少女にすぎなかった』
「何これー! これじゃあまるっきり、ピンク頭の特集番組じゃん!」
灰原選手が怒声をあげると、サキが「うっせーよ」とそれを掣肘した。
「『アクセル・ロード』では、こうやって選手をひとりずつピックアップするのが定番なんだよ。他の連中にもすぐ出番が回ってくるから、いちいちぎゃーすか騒ぐんじゃねーよ」
「あ、そーなの? そういえば、マコっちゃんやミミーも何か撮影されたって言ってたっけ! うわー、楽しみだなー!」
「それにしても、桃園さんってエロいッスねー。あたしが野郎だったら、辛抱たまんなかったッスよ」
「おめーもうっせーよ」
そうしてサキたちが語らう中、ユーリのプロフィールが紹介された。
グラビア活動の次にお披露目されたのは、ベリーニャ選手との出会いである。ユーリはベリーニャ選手のドキュメント番組によってMMAに魅了され、そして――二年前の冬、憧れのベリーニャ選手と対戦したのだった。
『ユーリ・モモゾノとベリーニャ・ジルベルトが対戦したのは、トーナメントの決勝戦。ただし、ユーリ・モモゾノは準決勝戦で右の拳を骨折し、大きなハンデを抱えての対戦となった。それでもベリーニャ・ジルベルトの本領であるグラウンドにおいても互角に近い戦いを見せ、ついには強烈な膝蹴りでベリーニャ・ジルベルトの肋骨をへし折ってみせた。判定は、僅差でベリーニャ・ジルベルトの勝利となり――これがこの二年半で、ユーリ・モモゾノにとっての唯一の黒星である』
『あれは、夢のような時間でしたねぇ。……ユーリはベリーニャ選手みたいにかわゆくて強いファイターになるのが夢なんですぅ』
ユーリとベリーニャ選手の試合を背景に、ユーリの声が響きわたる。
リングの上で、ベリーニャ選手と死闘を繰り広げるユーリは――最高に幸福そうな面持ちであった。
『もちろん、ベリーニャ選手とは再戦したいと思っていますよぉ。だからユーリは、「アクセル・ロード」に参戦することに決めたんです』
『ベリーニャ・ジルベルトとの出会いで格闘技を始め、プレスマン道場で学んだユーリ・モモゾノが、ウヅキのコーチングのもと、ジョアン率いるシンガポールの選手陣と雌雄を決する。いくつもの運命が絡み合い、彼女を「アクセル・ロード」へと導いたのである』
そうして画面が、いきなりトレーニングルームに切り替えられた。
卯月選手が見守る中、八名の日本人選手がグラップリングのスパーに励んでいる。ユーリの相手をしているのは、多賀崎選手であり――それを背景に、またナレーションがかぶせられた。
『マコト・タガサキは、不世出の努力家だった。彼女は長らく中堅選手として、トップファイターたちの輝きを見上げる存在であったのだ』
灰原選手が無言のまま、ぐっと身を乗り出した。
画面がまた切り替えられて、多賀崎選手が夕暮れ時の川沿いでロードワークをしている姿が映し出される。どこか牧歌的にも見える光景であった。
『日本のプロファイターの数多くは、日常の仕事をこなしながらファイターとしての活動に取り組んでいる。マコト・タガサキもまた、そのひとりだった』
『うちの親が小売業の商売をしてるんで、昼間はだいたいその仕事を手伝ってます。それで給料の半分を、家賃と食費として親に返してる形ですね。実家で気楽に働ける分、他の選手の人らよりは恵まれてると思いますよ』
ロードワークに励むシーンを背景に、多賀崎選手の言葉が語られた。
『あたしは別に、何か目標があって格闘技を始めたわけじゃありません。ただ、格闘技を楽しいと思ったから……あとは、試合で勝ちたいと思っただけですね。他には趣味も取り柄もなかったし、人間づきあいもそんなに得意じゃなかったんで……一番好きなことで頑張ろうって、ただそんな風に思ってました』
人気のない公園に到着した多賀崎選手は、シャドーボクシングを開始する。
それが普段通りの光景であるのか、撮影のための演出であるのかは、瓜子にもわからなかったが――ただ、虚空にパンチを振るう多賀崎選手の眼差しは、瓜子が知る通りの真剣な光を帯びていた。
『ただ、去年の五月ぐらいに、色んな選手とお近づきになれたんですよね。そいつらが物凄く強くて、物凄く真剣だったから……あたしも少し、心持ちが変わったように思います。ただ格闘技が好きで、試合に勝ちたいだけだっていう、根っこの部分は変わらないんですけど……同じ気持ちでいる人間がこんなにたくさんいるんだって知って、嬉しくなったのかもしれません』
『それからマコト・タガサキは地道に勝利を積み上げて、今年の五月、ついに《フィスト》の女子フライ級王座を戴冠した。その執念で、「アクセル・ロード」に集った猛者たちを蹴散らすことができるか――彼女にとって、試練の道である』
そんな調子で、日本陣営のトレーニング風景とプロフィール紹介が交互にお披露目されることになった。
多賀崎選手の次は、魅々香選手である。こちらでは、ニット帽をかぶった魅々香選手がパソコンに向かって事務作業に打ち込む姿が映し出された。瓜子はまったくあずかり知らぬことであったが、魅々香選手は水産加工会社の事務員であるそうなのだ。そしてそれはれっきとした正社員であったため、この『アクセル・ロード』に参加するために三ヶ月間の休職願いを提出したのだという話であった。
魅々香選手は病弱な幼少期を過ごし、体力をつけるために天覇館の道場に入門した。そこで肉体の健康を取り戻すと同時に、格闘技の才能を開花させたのだ。キックに挑めばランカーとなり、柔術では茶帯を取得し、天覇館の女子中量級部門では全国大会の優勝と、実に華々しい成績である。
ただ、MMAではトップファイターと呼ばれつつ、いずれの王座にも手が届いていない。ここで確かな結果を出せるかどうか――というナレーションで、魅々香選手のプロフィール紹介は締めくくられた。
そして次なるは、同じく天覇館である鬼沢選手の登場だ。
鬼沢選手は荒れた青春時代を送り、女だてらに路上の喧嘩に励んでいた。そうして地下格闘技の試合にも出場していたが、それでも血の気がおさまらず、警察沙汰の事件を起こしてMMAのジムを破門されてしまう。そののちに更生して、天覇館の福岡支部に入門を果たしたのだ。
そして、昨年の全国大会では、女子無差別級部門で優勝をおさめている。来栖舞が引退し、高橋選手が負傷欠場した、本命不在の大会において、まだ新人の立場であった彼女が栄冠をつかみとったのだ。
そちらの紹介映像で、瓜子は初めて天覇館の試合というものを目にすることになった。天覇館においては道着ありと道着なしのルールが存在し、彼女はどちらの部門でも優勝を果たしていた。
道着ありの試合というのは、なかなかに斬新である。基本のルールはMMAと大差ないようであったが、柔道のように道着をつかむことが許されていたのだ。道着をつかんで相手を殴りつけるというのは、路上の喧嘩に通ずるものがあるのかもしれなかった。
(そういえば天覇館ってのは、空手と柔道の融合を目指した流派だっていう話だったっけ。これだけ天覇のお人たちとお近づきになりながら、あたしは勉強不足だなぁ)
ともあれ、瓜子は初めて鬼沢選手の試合を目の当たりにしたわけだが――道着があろうとなかろうと、彼女は荒っぽいインファイターであるようだ。それで、勢いまかせで相手を押し倒し、パウンドを振るうのが得手であるようであった。
(こういう力まかせの選手も、怖いっちゃ怖いよな。……でもまあ、日本人同士でぶつかるのは二回戦目以降だから、まずは全員が一回戦を突破できるように祈るしかないか)
そしてその後は、シンガポール陣営のトレーニング風景とプロフィール紹介である。
こちらも選ばれたのは四名で、まずはナンバーワン選手のイーハン選手、そのライバルであるエイミー選手――あとは瓜子が見知っていなかった、ランズ選手にユーシー選手という顔ぶれであった。
イーハン選手は、北米のマイナープロモーションで活躍していた姿が映し出される。そちらでは、おもに南米系の選手とやりあっていたようだ。
彼女はそちらで、バンタム級王座まで獲得している。しかし、ギャラの低さを理由に団体から離脱して、ホームたるシンガポールに舞い戻った。それからも連勝を重ねていたが、シンガポールの団体の王者と対戦する機会がなかなか訪れず――その前に、『アクセル・ロード』からお呼びかかったのだという話であった。
『《アクセル・ファイト》と正式契約できるなら、そっちのほうがビッグチャンスだからね。あたしがシンガポールの最強選手だってことを証明してみせるよ』
端整な顔でにこにこと笑いながら、イーハン選手はそのように言い放っていた。
そこで小首を傾げたのは、蝉川日和である。
「あの、この選手はたびたびナンバーワン選手だって紹介されてたッスけど、シンガポールには他にチャンピオンがいるわけッスね?」
「ああ。シンガポールのチャンピオン様は、『アクセル・ロード』の招聘をお断りしたって話だなー。ホームでも十分に稼げてるなら、それもひとつの選択だろーぜ」
「へー。シンガポールって、そんなに稼げるんスか。日本とは大違いッスね」
「そりゃーシンガポールは、アジアMMAの中心地とまで言われてるからなー。そもそも国の豊かさだって、アジアでトップなんじゃねーの? 所得税が低いから、富裕層が集まりやすいって評判だしよー」
「へー。サキさんって、見た目に寄らず賢いんスね。……あわわ、すみません! あたし、言葉を飾れないんスよ!」
「なんのフォローにもなってねーぞ、コラ」
そうしてサキたちがじゃれあっている間にも、番組は進められていく。
ただ、その後は特筆するべき内容も少なかった。瓜子の関心を引いたのは、イーハン選手とエイミー選手のライバル関係がずいぶん根が深そうである、ということぐらいであった。
両者の戦績は、イーハン選手の二勝である。ただし、初戦は不慮の頭突きによるドクターストップで、イーハン選手の反則勝ち。二戦目は、僅差の判定勝利。それでエイミー選手は思い詰めた顔をしながら、実力は自分のほうが上であると言い張っていた。
『わたしは自分がイーハンより強いことを証明するためにやってきた。日本人選手なんて、眼中にない。イーハンを倒せるのはわたしだけなんだから、結果的にわたしが優勝することになるだろう』
エイミー選手はそのように語り、こちらの合宿所でもイーハン選手とのスパーを拒絶するぐらいの徹底っぷりであった。
残る二名、ランズ選手とユーシー選手には強い個性が感じられない。ランズ選手はバンタム級のグラップラー、ユーシー選手はフライ級のストライカー――あとはどちらも裕福な家庭で育ち、恵まれたトレーニング環境にあるようであった。
そうして日本とシンガポールの選手が四名ずつ紹介されたところで、タイムアップである。
エンディングのテーマとともに制作陣のクレジットが流れ始めると、灰原選手が「もう終わりー?」と不満の声をあげた。
「けっきょく選手の紹介だけで終わっちゃったじゃん! マコっちゃんたちがどんなトレーニングをしてるのか、じっくり拝見したかったのにー!」
「そんなもんを楽しめるのは、同業者ぐらいだろーがよ。『アクセル・ロード』はこういう番組作りでヒットしたんだから、文句を言ったって始まらねーや」
サキのそんな言葉が、瓜子にひとつの疑問を抱かせた。
「あの、サキさんは『アクセル・ロード』にもお詳しいっすよね。もしかして、ユーリさんの部屋に転がりこむまでは、このチャンネルを観られる環境だったんすか?」
「…………」
「あ、あれ? なんでそんな、おっかない目でにらむんです?」
「誰もにらんじゃいねーよ。……ガキの頃に、ちらっと観たことがあるだけだ」
「ガキの頃? でも、サキさんって――」
サキは中学時代まで、あけぼの愛児園のお世話になっていた。それならば、今と変わらない環境であったはずだ。
そうして瓜子が言いよどんでいると、サキは頭をがりがりとかき回してから、噛みつくような勢いで瓜子の耳もとに口を寄せてきた。
「あの犬っころのオンボロ道場では、《アクセル・ファイト》の試合をチェックするために大昔からこのチャンネルを観られる環境だったんだよ。それでアタシも、ヒマつぶしで眺めてただけのこった」
「あ、ああ、そうだったんすね。でも別に、そんな不機嫌にならなくっても……」
そこまで言いかけて、瓜子はふいに腑に落ちた。中学時代、サキはドッグ・ジムに入り浸っており――そしてそこで、ダニー・リーに懸想し、ついには求婚することになったのだ。であれば、その時代のことを語りたくないのも道理であるように思えてならなかった。
「……どうも申し訳ありません。デリカシーが足りなくって、お恥ずかしいっす」
「手前……訳知り顔で、勝手に納得してんじゃねーぞ」
「痛い痛い痛い! 本当にごめんなさい! 反省してますから、許してください!」
「あんたら、何をじゃれあってんのさー! じゃれあうんなら、あたしもまぜてよ!」
灰原選手が横から瓜子を抱きすくめて、サキの魔手から救ってくれた。
サキはそっぽを向きながら、「ふん!」と盛大に鼻を鳴らす。
「とにかく、『アクセル・ロード』ってのはこういう番組だ。人様の家にまで乗り込んできて、うだうだ文句をぬかしてんじゃねーよ」
「別に文句があるわけじゃないけどさー。来週は、残りの連中の紹介ってことでしょー? 仲良くしてる連中の出番は今日で終わっちゃったから、ちっともそそられないんだけど!」
「ああ、そーかよ。来週には、トーナメントの組み合わせが発表されるはずだけどなー」
「え、そーなの!? だったら、絶対チェックしないと! メイっちょ、来週もよろしくね!」
「承知した」と答えながら、メイは番組の終了したテレビの電源を落とす。
そちらを振り返った灰原選手は、いくぶん心配そうに眉を下げた。
「そーいえば、メイっちょはずっと静かだったねー。やっぱ、こういう騒がしいのはイヤだった?」
メイはきょとんと目を丸くしてから、さきほどのサキのように頭をかきむしった。
「僕、視聴に集中してただけ。別に、不快ではなかった。……ヒサコこそ、不快ではなかった?」
「んー? どうしてあたしが、不快にならないといけないの?」
「……僕、客のもてなし方、知らないから。失礼あっても、認識できない」
メイのそんな言いように、灰原選手は「あはは」と笑う。
「あたしらをもてなす必要なんてないし、なんの失礼もなかったよ! もー、メイちょは思わぬところで、こっちのハートをくすぐってくるなぁ」
「……僕、何もくすぐっていない」
「その困ってるようなすねたようなお顔も、だんだん可愛く見えてくるよねー! ……ねえねえ、今日は準備する時間がなかったけど、来週はお泊まりさせてもらってもいい?」
メイは、ぎょっとした様子で身を引いた。その口からこぼれたのは、「何故?」という短い言葉のみである。
「だって、マコっちゃんたちは合宿生活なのに、こっちは終電で独り住まいのアパートに帰るだけなんて、さびしーじゃん! うり坊なんかはお隣さんだけど、せっかくだから一緒にお泊まりしようよ!」
「あ、いえ、実はその……ここ最近は、メイさんをこっちの部屋にお招きしてたんすよね」
「えーっ! ずるいずるい! だったらあたしも、一緒にまぜてよ! もー、コンビニで歯ブラシだけ買って、今日も泊まらせてもらおっかな!」
「酔狂な野郎だなー。アタシはとっととズラからせてもらうぜ。朝帰りじゃ仕事に間に合わねーからな」
サキは肩をすくめながら、立ち上がる。いっぽう蝉川日和は、上目遣いでメイや灰原選手のことを見回していた。
「あの……だったらあたしも、隅っこで寝かせてもらっていいッスか? ここから帰るのは面倒なんで、適当にネカフェでも探すつもりだったんスよね」
「おー、いいじゃんいいじゃん! なんだったら、もっぺん番組をリピートしようよ! 来週まで、マコっちゃんたちの姿を目に焼きつけておきたいからさ!」
そんなわけで、急遽お泊まり会が敢行されることになってしまった。
まあ、瓜子としては望むところである。どのみち本日は情緒をかき乱されて、しばらく寝つけそうになかったのだった。
(まあ……最後は少しだけ、安心できたけどさ)
カメラに映るユーリは、ずっとよそゆきの笑顔であった。
しかし――最後に多賀崎選手たちと取っ組み合っていたユーリは、いつも通りの気力をみなぎらせていたのである。番組ではカットされてしまっていたが、おそらくは卯月選手から的確なアドバイスを受けて、実りのある稽古を積むことができているのだろう。
格闘技さえあれば、ユーリは大丈夫だ。
そして、そんな風に考えると――瓜子は稽古を終えたばかりであるのに、また自分まで稽古に没頭したいような気持ちに陥ってしまったのだった。