05 打ち上げ
「猪狩さんは、本当にすごかったッス! あそこからKOで逆転できるなんて、観てるこっちは鳥肌モンだったッスよ!」
蝉川日和はまた顔を真っ赤にしながら、そのように言いたてていた。
閉会式も無事に終えて、打ち上げ会場の居酒屋においてのことである。彼女は瓜子が試合を終えてからこちらに移動するまで、ずっと昂揚しっぱなしであったのだった。
「でも本当に、これは最後までずるずるいっちゃうパターンかと思ってました。猪狩さんの底力は、すごいですね」
と、隣の側からは武中選手が笑いかけてくる。
さらに背後からは、時任選手がにゅっと首をのばしてきた。
「鞠山さんって、相手の長所を潰すのが十八番だからねぇ。猪狩さんも二ラウンド目までは完全に術中だったみたいだから、あたしもあの結末には驚かされちゃったよぉ」
「押忍。自分もかなり、追い込まれてました。精神的には、一番しんどい試合だったかもしれません」
そのように答える瓜子は、まだ身体の中にどっぷりと虚脱感を残していた。集中力の限界突破ともいうべき感覚に陥った日は、普段以上に疲弊が溜まるものであるのだ。
しかし身体は疲れていても、心のほうは充足している。瓜子もこちらに移動するまでの時間で、ようやく本日の勝利を噛みしめられるぐらい回復していたのだった。
ユーリたちが不在である興行で、なんとか結果を出すことができた。試合直後は頭が回らなかったが、会場はあれだけわきかえっていたのだから、瓜子も自分の役割を全うすることができたのだろう。そのように考えると、どれだけ疲れていても幸福な気持ちにひたることができるのだった。
そうして瓜子たちが和やかに語らっていると、ジョッキを掲げた灰原選手が「ちょっとー!」と突撃してくる。
「新顔がわちゃわちゃ集まるから、あたしがうり坊といちゃいちゃできないじゃん! 十一月いっぱいまで、うり坊はあたしのもんなんだからね!」
「ええ? それは理不尽ッスよ それに、猪狩さんをモノ扱いするのは失礼だと思うッス!」
「うるさいうるさーい! あんたは道場でいちゃいちゃできるでしょ!」
と、灰原選手は蝉川日和を押しのけて、瓜子に抱きついてきた。
蝉川日和は口をへの字にして、時任選手は愉快そうに微笑み、武中選手は目をぱちくりとさせる。そうして口を開いたのは、武中選手であった。
「灰原さんって、ほんっとに猪狩さんと仲良しなんですね。まあ、リュウさんからもそう聞いてましたけど」
「そのリュウくんたちは、どこで何をしてんのさ? あっちもライブが終わったんなら、合流すればいいのにさー!」
「いや、ツアーのしめくくりは古くからお世話になってるライブハウスって決まってるから、今はそっちの人たちと打ち上げをしてるんだと思いますよ。試合を観てないのに合流するってのは、あっちにしてみても気が引けるでしょうしね」
武中選手は灰原選手に連敗した身であるが、わだかまりなどは抱いていない様子である。それで彼女も単独で、この打ち上げに参加することを希望してきたのだった。
本日は、ここ最近の中ではいくぶん控えめな人数であろうか。プレスマン道場と四ッ谷ライオットの関係者に、時任選手が所属するパイソンMMAの関係者、単独の武中選手――そして、サキの妹分たる牧瀬理央という顔ぶれであった。さすがに本日は鞠山選手の陣営も別の場所で打ち上げを行うことになり、小柴選手やオリビア選手はそちらに参加していたのである。
それに、アトム級のトーナメントの関係もあって、赤星道場やドッグ・ジムの面々も合流することなく帰還していった。二ヶ月後には暫定王者の座をかけて対戦する可能性が高いため、自粛することになったのだろう。こればかりは致し方のないことであった。
「さっき、あかりんからメッセージが届いてたよ! 毒蛇ネエサンも、あっちに合流したみたいだねー!」
「ああ、雅選手は鞠山選手の戦友でしょうからね。それが当然だと思います」
「でも、別々の場所で打ち上げなんて、水臭くない? 魔法老女って、そんなの気にしないタイプだと思ってたんだけどなー!」
「ええ。でもまあ、小柴選手なんかはサキさんと対戦するわけですからね。全員一緒にっていうのは、ちょっと難しいんじゃないっすか?」
それに――鞠山選手も試合後には普段通りのふてぶてしい態度であったが、その胸中には無念の思いが渦巻いているはずだ。瓜子とて、自分が負けていたら同じ場で打ち上げを楽しむ気分になれていたか、知れたものではなかった。
「それに、これだけ人数がいたら寂しいこともないでしょう? うちの新人とも、仲良くしてあげてくださいよ」
「いいよー! うり坊を独り占めにしようとしなければね!」
灰原選手は怪力で瓜子の身をしめあげながら、頭に頬ずりをしてくる。その姿に、蝉川日和はまだ不満げな面持ちであった。
「あたしも猪狩さんのことは尊敬してますけど、女同士でべたべたするのは趣味じゃないッス。猪狩さん、しんどくないッスか?」
「ええまあ、誤解を恐れずに言うなら、こういうスキンシップも慣れっこですので」
「そうッスか。まあ、猪狩さんがどういうご趣味でも、あたしの気持ちはゆるがないッスけど」
「いやいや、だから誤解はないようにお願いします。自分や灰原選手だって、そういう趣味なわけじゃないっすよ」
すると、新たな人影がこちらに近づいてきた。ビールの大ジョッキを掲げた、サイトーである。
「まーた手前らは絡み合ってんのか。あれだけ暴れておきながら、元気なこった。……おいコラ、未成年。こそこそ悪さをしてねぇだろうなぁ?」
「はいっ! この半年で、酒への未練は絶てたッス! 遠慮はいらないんで、みなさんはどうぞお楽しみください!」
「誰が遠慮なんざするもんかよ」と、サイトーは迫力のある笑顔で蝉川日和の頭を小突いた。
「来月には、手前も試合を控えてるんだからな。それまでに不祥事を起こしたら、こっちもきっちり見限らせてもらうぞ?」
「もちろんッス! あたしみたいな大バカを受け入れてくれたんですから、絶対にみなさんの信頼は裏切りません! 来月の試合も勝って、プロ昇格にこぎつけてみせるッス!」
「へえ。蝉川さんは、来月試合なのぉ?」
「はいっ! 《G・フォース》のアマ大会ッス! それで優勝して、プロを目指すつもりッス!」
「なるほどなるほどぉ。それは楽しみなところだねぇ」
時任選手はのほほんと笑いながら、瓜子に向きなおってきた。
「そういえば、猪狩さんはもうキックから足を洗ったのかなぁ? いつの間にか、ランキングから外れてたよねぇ」
「はい。キックを辞めたわけじゃないんすけど、しばらくはMMAに集中することにしました」
「うんうん。二冠王だと、周りの期待もでっかいだろうしねぇ。……時に、宗田さんのことは聞いてるぅ?」
「あ、はい。先月、《G・フォース》の試合に出場したそうですね。いきなりプロの試合だったんで、ちょっとびっくりしました」
「うんうん。いくら柔道の強化選手でも、キックは畑違いだもんねぇ。MMAならまだしも、キックでいきなりプロ扱いってのは特別待遇だねぇ。《G・フォース》も猪狩さんがいなくなっちゃって、話題作りに必死なのかなぁ」
「いえいえ。逆に自分は、干され気味だったんすよ。品川MAを辞めたのが運営陣のご機嫌を損ねたみたいで、かなり冷たい扱いだったんです」
瓜子たちがそのように語らっていると、蝉川日和がぐっと首を突き出してきた。
「お話の最中に、申し訳ないッス! 宗田さんって、あのアトミックに出場してたお人っすか?」
「ええ、そうっすよ。宗田選手はアトミックで結果を出せなかったんで、しばらくキックで武者修行するって言ってたんすよね」
「それでいきなり、プロ扱いッスか! それは確かに、特別待遇ッスね! アトミックの試合を観る限り、そんな大した選手だとは思えなかったッスけど!」
「おいコラ、余所様の選手に失礼なことを抜かすんじゃねえよ。いちおうオレらも、深見塾とは懇意にしてるんだからな」
サイトーに頭を引っぱたかれると、蝉川日和は「申し訳ないッス!」と頭を下げた。彼女は礼儀正しいが、言葉を飾れない性分でもあるのだ。
そして、彼女の発言に時任選手が「ふうん」と笑った。
「蝉川さんって、キック専門なんでしょう? それなのに、宗田さんがアトミックに出場してたことは知ってて、キックでデビューしたことは知らなかったんだねぇ」
「はいっ! アトミックの映像はツレがコンプリートしてたんで観まくりましたけど、《G・フォース》のほうはさっぱりッス!」
「そっかぁ。で、宗田さんは大したことないって評価だったのぉ?」
「はいっ! 寝技とかはよくわかんないッスけど、立ち技は大したことないって思いました! ……あ、また失礼なこと言っちゃって、申し訳ないッス!」
「そっかそっかぁ。それじゃあ、対戦の日が楽しみだねぇ。蝉川さんの体格だと、宗田さんとは同じ階級だろうからさぁ」
時任選手の言葉に、蝉川日和は目をぱちくりさせた。
「あ、そうか! 宗田さんってのは猪狩さんと同じ階級だったから、あたしとも同じ階級なんスね! 眼中ないから、気づきませんでした!」
「いや、宗田選手はかなりのハードパンチャーっすよ。もちろん立ち技の技術はまだまだでしょうけど、柔道の強化選手までのぼりつめたお人が本気で取り組んだら、きっとめきめき成長するはずです」
瓜子がそのように口をはさむと、蝉川日和はたちまち目を輝かせた。
「猪狩さんがそう仰るなら、きっとそうなんスね! 対戦するのが、楽しみになってきたッス!」
「その前に、まず目前の試合だろうがよ。来年の目標を語るのは、今年のミッションをクリアしてからにしろや」
と、またサイトーが蝉川日和の頭を小突く。いささか荒っぽいコミュニケーションであるが、彼女たちも順当に師弟としての交流を深められているようであった。
「でも、宗田さんが抜けちゃったのは残念でしたよね。わたしも同じ階級だったんで、いっぺん手合わせしてみたかったです」
と、武中選手も話題に乗ってくる。やはり宗田選手というのは、期待の選手として名が鳴り響いていたのだろう。
「宗田さんは、あの一色って選手と鞠山さんに負けたんですよね。一色って選手はともかくとして、鞠山さんはあんなに強いんだから、ちょっと見切りをつけるのが早かったように思います」
「まったくっすね。でも、宗田選手なりに考え抜いた決断でしょうし、キックはあくまで武者修行って言ってましたから、いつかもっと手ごわくなってMMAのほうに戻ってくると思いますよ」
「そうですね」と言いながら、武中選手は灰原選手に向きなおった。
「わたしの目標は灰原さんへのリベンジですけど、さすがに二回も負けたらしばらくチャンスはないでしょうからね。じっくり力を蓄えて、チャレンジさせていただきます」
「ふっふーん! その頃には、あたしがうり坊からベルトをいただいてるからね! あたしとやりあいたかったら、王座に挑戦できるぐらいの実績を作ってきな!」
「おお、うちの門下生だったら頭を引っぱたきたくなるような大口だな。しかも、うちからベルトをかっさらおうってんだから、タチがわりいや」
サイトーは苦笑しながら身を起こし、蝉川日和の襟首をひっつかんだ。
「どれ、こっちは品性のある方々に挨拶回りでもしてくるとするか。手前も失礼な口を叩くんじゃねえぞ?」
「はいっ! みなさん、またのちほど!」
四ッ谷ライオットやパイソンMMAもキックの試合に選手を輩出しているので、蝉川日和をそちらの方々に挨拶させようというのだろう。サキと同じぐらい乱暴でありながら、そういうところは抜かりのないサイトーであった。
そうしてこちらの人口密度がわずかにやわらぐと、新たな人影が接近してくる。それは妹分の手を取った、サキであった。
「おい、こっちのタコスケが挨拶したいとよ。この中では唯一の客なんだから、せいぜいもてなせや」
「どうぞどうぞ。理央さんも、どうもお疲れ様でした」
牧瀬理央ははにかみながら、「あい」とうなずいた。
まだ言葉のほうは少し不自由であるが、彼女も屋内では松葉杖をつかずに歩くようになったのだ。頭蓋骨陥没に脳挫傷という重傷を負ってから二年ほどが過ぎ、彼女もそこまで回復できたのだった。
手術のためにいったん刈り上げられた頭も、今では自然なショートヘアになっている。それが明るい栗色をしているのは、もともとの髪色だ。そして、抜けるように肌が白く、少しだけユーリに面立ちが似ている彼女は、何かの精霊のように透明感があって、可憐そのものであった。
「うりこしゃん。タイトルぼうえい、おめでとうございましゅ」
「ありがとうございます。自分にとっても大きな試合だったんで、理央さんに見届けてもらえて本当に嬉しいです」
瓜子がそのように答えると、牧瀬理央は感じやすい頬に血の気を巡らせる。そうすると、ますます彼女は愛くるしかった。
彼女はたびたび《アトミック・ガールズ》を観戦に来てくれていたが、今回は初めてサキや加賀見老婦人の手を借りず、ひとりでおもむいてくれたのだ。右腕と右足に多少の麻痺が残っている彼女にしてみれば、それは大変な苦労であるはずであった。
「理央っちも、すっかり元気そうだよねー! でも、まだまだお肉が足りないかな? あと五キロぐらいは太っても大丈夫そうだから、いっぱい食べなねー!」
瓜子に抱きついたまま、灰原選手が気さくに呼びかける。理央はもじもじとしながら、それでも笑顔で「あい」とうなずいた。
「あ、こいつらは初対面だよね? こいつはあたしに連敗した武中で、こいつは昔サキに負けた時任だよ! 面倒じゃなかったら、覚えてあげな!」
「あのさぁ。どうせだったら、勝った試合をアピールしてくれないかなぁ? あたしも武中さんも、勝った試合のほうが多いはずなんだからさぁ」
「あはは。まったくですね。あたしは九勝三敗の武中清美っていいます。よかったら、キヨって呼んでください。それがリングネームなんで」
「あたしは何勝何敗だったかなぁ。そろそろベテラン呼ばわりされそうなキャリアでそこそこ勝ち星をおさめてる、時任香名恵と申しまぁす」
武中選手も時任選手も社交的である上に、灰原選手の軽口にめげない人柄であったため、とても和やかな空気である。それで理央も気を張ることなく、「あい」と微笑むことができた。
「まきせりおでしゅ。ちゆ……サキたんといっしょにはたらいてて、うりこしゃんたちとなかよくさせてもらってましゅ」
「ああ、サキさんのご同僚だったんだぁ。あれ? でも、サキさんって鳶さんじゃなかったっけぇ?」
「うっせーなー。アタシがどこで働こうが、おめーに関係あるかよ」
「サキと理央っちは、あけぼのなんちゃらっていう施設で働いてるんだってさ! 食事を準備をしたり子供の面倒を見たりだって! サキが子供の面倒なんて、想像つかないよねー!」
普段とはいくぶん顔ぶれが異なっているが、そこには普段と変わらない温かい空気が満ちている。
そうして安らいだ気持ちでいると、瓜子はどうしようもなくユーリの存在に心をとらわれてしまった。
ラスベガスとの時差はおよそ十七時間であるため、今頃あちらは昼下がりであろう。普通に考えれば、猛トレーニングのさなかであるはずだ。
それとも、撮影のためにインタビューでも受けているだろうか。
あるいは、試合が行われているかもしれない。トーナメントの一回戦目は九月下旬に行われるとされていたが、正確な日付は明かされていないのだ。
その一回戦目で敗退したメンバーは、早々に帰国する予定になっていたが――もちろん瓜子は、ユーリが最後まで勝ち抜くことを信じていた。シンガポールの選手陣がどれだけ強豪ぞろいであっても、あのユーリが一回戦目で敗退する姿など想像しようがなかったのだ。
(ユーリさんが気落ちして実力を発揮できないなんて、ありえませんよね? 信じてますよ、ユーリさん)
そんな想念に身をゆだねながら、瓜子はピンク色のリストバンドにそっと指先をあてがった。