04 決着
「完璧にやられたな」
インターバルの時間、そのように語る立松の声も深刻さの度合いを高めていた。
「胴体への組みつきっていう要素をひとつ織り込まれるだけで、こうまで厄介さが増すとは思わなかった。あちらさんは徹頭徹尾、お前さんとのインファイトを回避しようとしてるんだ」
「そんな! いくら猪狩さんが凄腕のインファイターでも、最後まで逃げっぱなしなんてずるいッスよ!」
瓜子の背後のフェンスの向こうから、蝉川日和が不満げにわめきたてる。それを黙殺して、立松は言葉を重ねた。
「お前さんは立ち技の攻防で追い込まれると、人間離れした集中力や反応速度を発揮する。あれはもう、赤星一家の大怪獣タイムみたいなもんだ。……だから相手は、その状況に陥らないことを一番に考えてるんだろう。だからきっと最終ラウンドも、打撃の攻防だけは避けようとするはずだ」
「押忍」
「かといって、こっちはガードをゆるめることもできん。すべての攻撃に警戒しながら、相手を追い詰めろ。ただ接近するんじゃなく、自分からタックルを狙っていけ。無理に寝技をする必要はないが、相手を転ばせたらリズムを崩すこともできる。タックルを織り交ぜながら近づいて、とにかく一発当てるんだ。有効なのは、ローだな。足を潰して動けなくすれば、あとは殴り放題だぞ」
そこで、『セコンドアウト』のアナウンスが鳴り響いた。
瓜子にマウスピースをくわえさせてから、立松が両手で瓜子の頭を抱え込んでくる。これまでには見せたことのない所作であった。
「お前なら、絶対に勝てる。これまで積んできた稽古の成果を、すべてぶつけていけ。自分の努力を信じろ」
試合中の立松はいつでも真剣であるが、これほどまでに気迫のこもった眼差しと激励を受けたのは初めてのことである。
瓜子もこれまで以上の覚悟でもって、「押忍」と応じてみせた。
『ラウンドスリー! ファイナルラウンド!』
リングアナウンサーのアナウンスに、レフェリーの「ファイト!」という声と試合開始のブザーが続く。
鞠山選手は――一ラウンド目とまったく変わらぬ警戒さで、ぴょこぴょことステップを踏んでいた。
(……やっぱり鞠山選手は、おっかない人だ)
瓜子はこれまで、何度となく薄氷の勝利をつかんできた。それこそ一昨年に鞠山選手とやりあって以来、さしたる苦労もなく勝てたというのは――ラウラ選手との連戦と、あとは一色選手との試合ぐらいであったのだ。その両名は戦略の面で間違いを犯し、瓜子を苦労させる前に自滅したようなものであった。
しかしそれ以外に、楽であった相手などひとりもいない。
イリア選手、ラニ・アカカ選手、メイ、マリア選手、オリビア選手――誰もが、恐るべき強敵であった。それで瓜子は毎回ぎりぎりの瀬戸際まで追い込まれて――あの、集中力の限界突破ともいうべき境地に至っていたのだった。
鞠山選手は、その状況を回避しようとしているのだ。
スタンド状態でぎりぎりの瀬戸際まで追い込まれると、瓜子は途方もない底力を発揮させる。ならば、それを発揮させないように試合をコントロールすればいいと、鞠山選手はそのように考え――そしてここまでの二ラウンドでは、まんまと実現してみせたのである。
これこそが、鞠山選手の恐ろしさであった。
十年以上のキャリアとさまざまな技術と強靭な精神力を持つ鞠山選手であるからこそ、このような真似ができるのだ。瓜子にとってもっとも手ごわいと思えるのはやはりメイであったが、そのメイでもこのような作戦を真似ることはできないはずであった。
(でも、あきらめるな。たとえ厄介さが倍増したとしても……これは、想定していた厄介さの延長上であるはずだ)
そんな風に自分を鼓舞して、瓜子は鞠山選手のもとを目指した。
身体はくたびれ果てているが、瓜子はこれまで以上に動かなければならない。これまでのラウンドはすべてポイントを取られているのだろうから、瓜子はあと五分間でKO勝利を目指さなければならないのだった。
(タックルを織り交ぜながら、ローを主体に攻め込んでいく。立松コーチのアドバイスは、きっと有効だ)
瓜子は鞠山選手を追い回しながら、左右のローを振るってみせた。
蹴り技はタックルを取られる危険が生じるが、これまでと異なる展開に至るならば上等である。瓜子とて、この試合が決まってからはタックルをかわす稽古を積みまくっていたのだ。
しかし鞠山選手は、これでもなおタックルを仕掛けてこなかった。
おそらくは、タックルの不発によるスタミナロスを警戒しているのだ。鞠山選手が最終ラウンドでもこれだけぴょこぴょこ動けるのは、スタミナを削る展開を徹底的に避けた結果であるはずであった。
瓜子がローを振り回すと、鞠山選手は逃げるばかりである。胴体への組みつきを狙うには、キックよりもパンチの攻撃のほうが望ましいのだろう。
ならば――と、瓜子はパンチからキックに繋げるコンビネーションを繰り出してみせた。ローばかりでなく、ミドルまで織り込んだコンビネーションだ。初撃のパンチに反応して組みつきを狙ってくれば、その後のキックを当てられるはずであった。
しかし、鞠山選手は近づいてこない。瓜子の思考を読んだのか、それともこのラウンドではこれまで以上に逃げに徹底しようとしているのか――鞠山選手にしてみれば、このラウンドを大過なく過ごせれば判定勝ちを手にできるのだ。
(だったら、レフェリーが警告を与えたくなるぐらい追い込んでやる!)
瓜子はそのように考えて、さらなる猛攻を仕掛けてみせた。
いつまでも消極的な姿勢を見せていれば、いずれは口頭注意から警告にまで発展し、最後には減点の憂き目にあう。そして、このラウンドのポイントに減点のポイントまで加算されれば、判定では2対2の引き分けとなり、王座防衛という結果になるのだった。
最初から最後まで逃げ回ったあげくの引き分けで、ベルトの獲得はならず――鞠山選手がどれだけ人を食った性格でも、そのようにぶざまな結果だけは避けたいはずだ。
瓜子はそのように信じて、全力の攻撃を出し続けてみせた。
しかし、鞠山選手は近づいてこない。
そうしてついには、「二分経過!」の声を聞くことになった。
二分間も攻撃を出し続けて、瓜子は疲労困憊である。
攻撃の間も相手の反撃を警戒しているので、気力までもが削られてしまった。
しかし、勝負はここからだ。
ここで瓜子が手を止めたら、鞠山選手の思うつぼである。
瓜子は大きく口を開け、可能な限りの酸素を摂取しながら、なおも鞠山選手を追いかけた。
鞠山選手も汗だくで、綺麗にヘアメイクした髪もぺったりとしおれてしまっている。
横に平たいカエルのような顔も、汗でぬらぬらと光っていた。
その眠たげな目に、瓜子の姿はどのように映されているのか――少しはプレッシャーを受けているのか。瓜子には、まったく判然としなかった。
それでも、鞠山選手を追い詰めるのだ。
瓜子はマウスピースを噛みしめて、渾身のハイキックを繰り出した。
その瞬間――鞠山選手の姿が、ふっとかき消えた。
横や後ろに移動するのではなく、頭を沈めることでハイキックを回避したのだ。
タックルか、あるいは組みつきを狙ってくるかもしれない。
瓜子は右足を下ろしながら、すぐさま左拳を射出した。
いや――射出しようとした。
それよりも早く、凄まじい衝撃が胴体のど真ん中をつらぬいた。
鞠山選手が、頭から突っ込んできたのだ。
瓜子の腹に激突したのは、鞠山選手の左肩であった。
瓜子の左脇に鞠山選手の頭が差し込まれて、胴体がしっかりとクラッチされている。そして、瓜子の左足が相手の左足に外から掛けられた。
タックルはタックルでも、胴タックルである。
もちろん瓜子も、それを警戒していないわけではなかったが――鞠山選手はこのタイミングで、かつてなかったほどの鋭い踏み込みを見せて、まんまと胴タックルを成功させたのだ。
瓜子はなすすべもなく、背中をマットに叩きつけられた。
しかも相手の身が最初から左側にもぐりこんでいたため、倒れた後はサイドポジションを取られてしまっている。
時間はここで、二分半――最終ラウンドの折り返しで、瓜子はついにテイクダウンを取られてしまったのだった。
鞠山選手のずんぐりとした身体が、瓜子の胴体を横からぐいぐいと圧迫してくる。
ウェイトは同程度のはずであるが、鞠山選手は重心の掛け方に長けている。スタミナを使いまくった今の瓜子には、それだけで地獄の苦しみであった。
「脇を差されるな! ハーフに戻せ! 絶対に背中は預けるなよ!」
怒号のごとき歓声の向こうから、立松の声が聞こえてくる。
しかし相手は、寝技巧者の鞠山選手である。瓜子はハーフガードに戻すすべも見つけられないまま、あえなく右脇を差されてしまった。というか、鞠山選手はもともと胴体をクラッチしていたので、瓜子の両脇を差している状態にあったのだ。
(でも、背中だけは預けない!)
今のこのスタミナで鞠山選手に背中を預けたら、もう敗北は必至である。
だから瓜子はどれだけ苦しくとも、絶対に身体をねじろうとはしなかった。
鞠山選手はぐいぐいと体重をかけて瓜子の呼吸を圧迫しつつ、フリーの右腕で細かいパウンドを打ってくる。
それを嫌がって顔をそむけると、咽喉もとに左肩をねじ込まれてきた。
いっそう呼吸が苦しくなって、瓜子の視界が白濁してくる。ほんの数秒前まで猛ラッシュを仕掛けていた瓜子は、最初から酸素が足りていなかったのだ。
瓜子は残り二分半で、鞠山選手の身を押しのけて、スタンドに戻り、またKO勝利を目指さなくてはならない。
それはほとんど不可能だとしか思えない絶望的な状況であったが――しかし、あきらめるわけにはいかなかった。
(鞠山選手より、ユーリさんのほうが重い! オルガ選手や高橋選手や男子選手の先輩がたにも、あれだけ苦しめられてきたじゃないか! 稽古中は、もっと苦しい場面もあったはずだ!)
瓜子は死に物狂いでもがき、なんとか鞠山選手の重量を跳ね返そうとした。
しかし、鞠山選手のどっしりとした身体は小ゆるぎもしない。漬物石のようなゆるぎなさである。これが自分と同じ階級の選手とは信じ難いほどであった。
そして、新たな苦悶が瓜子の左脇腹を圧迫してくる。
鞠山選手がニーオンザベリーのポジションとなり、左膝で左脇腹を圧迫してきたのだ。瓜子はうめき声をあげそうになるほど、苦しかった。
(だけど――)
と、白濁した頭で思考の火花が散る。
鞠山選手はポジションキープに徹さず、さらに有利なポジションに移行しようとしている。サイドポジションというのは一本を狙うすべが少ないので、マウントポジションまで移行しようとしているのだ。
むろん、グラウンド状態でもあまりに動きがなければ膠着状態と見なされて、ブレイクをかけられる恐れがある。鞠山選手としても、何らかの動きは必要であったのだろう。
しかし、それにしても、ポジションの移行が性急であるように感じられる。瓜子はこれだけなすすべもなく苦しんでいるのだから、もう数十秒はポジションキープに徹してもよさそうなものであった。
(もしかしたら――)
鞠山選手は判定勝利ではなく、一本勝ちを目指しているのかもしれない。
あるいは――寝技における瓜子との力量差をわきまえているので、さしたる苦労もなく一本を取れると考えているのかもしれない。
何にせよ、それは瓜子にとってつけいるべき間隙であった。
相手がポジションキープに徹さず、動きを見せようとするならば、それは逆転のチャンスでもあるのだ。
瓜子はかすむ目を見開いて、少しでも多くの酸素をむさぼりながら、その瞬間を待ち受けることになった。
鞠山選手の左膝はぐりぐりと瓜子の左脇腹を圧迫しながら、腹の上をまたぎ越えるタイミングをうかがっている。
それにつれて、瓜子の右脇を差している左腕も力加減が変動した。瓜子の右腕を差し上げて、腹をまたぐためのスペースを確保しようとしているのだ。
また、瓜子の胴体に密着した鞠山選手の胴体も、のろのろと歩むカタツムリのように重心を移動させている。
なんだか――頭はかすんでいるというのに、そういった感覚だけがまざまざと鮮明であった。
まるで時間そのものが、ゆっくりと流れているかのようである。
(これじゃあ、まるで……いつも通りの、あの感覚じゃないか)
集中力の、限界突破――瓜子はグラウンド状態であり、なすすべもなく寝転がっているというのに、あの不可思議な領域に踏み込んだということなのだろうか。
しかし、そのような雑念にかまけているいとまはなかった。
瓜子が考えるべきは、ただひとつ――この絶望的な状況から脱出して、勝利することのみであるのだ。
左脇腹の圧迫がひどくなり、それと同時に胴体への圧迫がゆるんだ。
左膝を支点にして、瓜子の腹を乗り越えようとしているのだ。
そして、左脇腹への圧迫もゆるんで、すべての重量が消え去った瞬間――瓜子は左フックを打つ感覚で、左腕を振り上げた。
瓜子の左肘の内側が、鞠山選手の右脇腹に激突する。
ちょうど重心を傾けようとしていた鞠山選手は、そのまま左側に倒れ込むことになった。
瓜子は左足でマットを踏み、さらに鞠山選手の身体を押す格好で我が身をねじりあげる。
鞠山選手は瓜子の上を通過して、ついにマットへと倒れ込んだ。
おたがいに横向きの体勢で寝ころび、向かい合っている格好である。
鞠山選手の眠たげな顔が、瓜子の目の前で驚愕の形相に移り変わっていくのが見えた。
瓜子は、立ち上がるべきであろうか?
いや、そうとは思えなかった。
瓜子が立ち上がれば、鞠山選手も立ち上がる。そうして再び距離を取られたら、瓜子の集中も続かないはずであった。この奇跡のような時間は、そんな何十秒も継続できるものではないはずであるし、逃げる相手を追うのにも適していないはずであった。
今ならば、鞠山選手は瓜子の手の届く場所にいる。
ならば、この場で決着をつけるのだ。
それだけのことを刹那の間に思考して、瓜子は右足を振り上げた。
その反動で身体を反転させ、振り上げた右足を鞠山選手の向こう側に振り下ろす。
鞠山選手の身体は、瓜子の股の下だ。
そうして瓜子が体重をあびせると、横を向いていた鞠山選手の身体が仰向けとなり――結果、マウントポジションの体勢となった。
瓜子が鞠山選手から、マウントポジションを奪取したのだ。
このような事態は、人生で初めてのことであった。
きっとユーリであれば、有利なポジションを失う危険も厭わず、腕ひしぎや三角締めを狙うことだろう。
しかし瓜子に、それほどの技量はない。たとえこの不可思議な感覚の渦中にあっても、瓜子の技量そのものに変化が生じるはずがなかった。
だから瓜子は、右の拳を振り下ろした。
顔面を狙った、パウンドである。
鞠山選手の両腕がのろのろと動いて、自分の頭をガードしようとする。
その殻が閉じ切る前に、瓜子の拳が鞠山選手のこめかみを打った。
だが、パウンドというのは上半身の力だけで振るうものであるため、スタンド状態のパンチよりは威力が落ちる。一発や二発で相手の意識を奪うというのは、至難の業であった。
瓜子は右拳を引きながら、左拳を振りかざす。
そのとき、股の下で鞠山選手の腹が蠕動した。
ブリッジして、瓜子の身を跳ねのけようとしているのだ。
このまま体重を預けていたら、重心を崩される。
瓜子は左拳の攻撃を止めて、両腿に力をこめ、鞠山選手の腹から股を浮かせた。
瓜子の股を追いかけるように、鞠山選手の腹が浮き上がってくる。
最後には追い付かれて、瓜子の股に鞠山選手の腹が接触したが、重心を乱されるほどの衝撃ではなかった。
瓜子はあらためて重心を落としつつ、同時に止めていた左拳を振りおろす。
堅くガードした相手の腕の横合いから、右の頬に拳を叩きつけてみせた。
すると今度は、鞠山選手の上体が浮き上がってきた。
頭を守っていた両腕が、瓜子のほうにのばされてくる。瓜子の頭を抱え込み、密着して、パウンドを打つ隙間を潰そうとしているのだ。
瓜子は右腕を深く曲げて、相手との隙間にねじ込んだ。
そして右肘を、鞠山選手の顔面に打ちおろす。
ただ――この攻撃は、浅かった。瓜子はまだまだ、肘打ちの稽古を積んでいるさなかであるのだ。
やはりどのような状態にあろうとも、瓜子の技量に変わるところはない。
どれだけ時間をゆっくり感じようとも、不得意な技は不得意であるのだ。どのように身体を動かすべきか、それを正しく習得していない限り、瓜子が正しく動けるはずもなかった。
ただ――瓜子は、新たな感覚をつかんでいた。
これまでは肉体のほうが先に動いて、思考が後から追いかけてくるような感覚であったのに、今は動作と思考がぴったり重ねられている。
これは前回の試合でオリビア選手と対戦した際、最後のハイキックを繰り出したときと同じ感覚であった。
瓜子はただ、緩慢な時間の中で動いている。
相手の動きはゆっくりと感じられるが、瓜子の動きも同様であるのだ。
ただ瓜子は、普段よりも冷静に、もっとも適切な動作を選び取ることができる。言ってみれば、それだけの話であった。
しかしそれこそが、今の瓜子には何よりありがたかった。
これほど適切に対処できていなければ、瓜子などは先刻のブリッジであっさりと跳ねのけられていたはずであった。
今も鞠山選手は、瓜子の右腕を取ろうとしている。
顔面を肘で打たれながら、その腕を抱え込もうとしているのだ。
そして鞠山選手の腰が、またじわじわと力を溜めていた。
今度は瓜子の右腕を捕らえたまま、身体をねじろうとしているのだ。
これでは瓜子が腰を浮かせても、右腕を引かれて重心を崩されるかもしれない。
そうしてひとたび重心を崩されれば、瓜子など簡単にポジションを奪われてしまうはずであった。
思うに――鞠山選手がこうして絶え間なくアクションを起こしてくれるからこそ、瓜子もこの状態を保つことができているのだろう。
やはり鞠山選手は寝技巧者であり、瓜子は一瞬も気を抜くことが許されない。よってこれは、至近距離で乱打戦を行っているほどの緊張感であり――その緊張感こそが、瓜子を集中させているのだろうと思われた。
そんな緊張感の中、瓜子は自ら右側に重心を傾けていく。
鞠山選手が引くよりも早く、右腕を押しつけるのだ。
そうして瓜子は、再び右肘を顔面にヒットさせてみせた。
さらに横合いから、左拳を振るう。
今は鞠山選手も瓜子の右腕を抱えているため、頭部がノーガードである。その左こめかみに、左拳をぶつけてみせた。
右腕の拘束がゆるんだので、それを引き抜き、拳の側面で顔面を殴りつける。
すると再びブリッジを仕掛けてきたのでこちらも腰を浮かせつつ、今度は下顎を狙って左拳を叩きつけた。
瓜子をねめつける鞠山選手の目は、まだ死んでいない。
鞠山選手は鼻血を流し、左の目尻からも出血していたが、まだまだそのずんぐりとした身体にも力感がみなぎっていた。
瓜子は驚嘆の思いを込めて、右の拳を振りおろす。
さらに、左の拳を振り上げたとき――その腕が、思わぬ方向からつかみ取られた。
それを振り払おうとした瓜子は、危ういところで動きを止める。
瓜子の腕をつかんだのは、レフェリーであったのだ。
最終ラウンドが、終了してしまったのだろうか?
ともあれ、試合においてレフェリーの存在は絶対である。瓜子はマウスピースを噛みしめながら、腕の力を抜き――そうすると、意識の外に追いやっていた大歓声が五体を震わせてきた。
『――三ラウンド、四分八秒! パウンドにより、猪狩瓜子選手のKO勝利です!』
大歓声に続いて、そんなアナウンスまで聞こえてくる。
瓜子が呆然としていると、下から鞠山選手の声が聞こえてきた。
「やられただわね。まさか、グラウンドで主導権を握られるとは思ってなかっただわよ」
そんな軽口を叩けるぐらい、鞠山選手は元気である。
ただ、その鼻からあふれた鮮血が、マットのほうにまでしたたっていた。それでおそらく、レフェリーストップをかけられてしまったのだ。
瓜子は脱力して、息をつく。
すると、鞠山選手が不満そうに胴体を揺すった。
「人様の上で、脱力するんじゃないだわよ。重苦しいったらないんだわよ」
「すみません」と、瓜子は答えようとした。
しかし、瓜子の咽喉は酸素を求めるためにぜいぜいと荒い呼吸を繰り返し、声を出すことも立ち上がることもできなかった。
瓜子はほとんどノーダメージであったが、スタミナは一滴も残されていない。集中力が途切れてしまうと、身体のすべてが鉛のように重かった。
「だから、重苦しいってんだわよ。わたいの上から、とっととどくんだわよ」
「すみま……せん……ちょっと、身体が……動かなくって……」
「まったく、情けないチャンピオン様だわね」
鞠山選手が目をやると、レフェリーが瓜子の両脇に手を入れて抱えあげてくれた。
鞠山選手はぴょこんと起きあがり、手の平で鼻血をぬぐってから、瓜子の腕をつかんでくる。
「まあ、あんたの実力は想定以上だっただわよ。次にわたいとやりあうまで、誰にも負けるんじゃないだわよ?」
そんな風に言いながら、鞠山選手は瓜子の右腕を高々と掲げてくれた。
さらなる大歓声が、瓜子の疲れ果てた身を包み込んでくる。
そうして瓜子は二度目の防衛に成功し、十三連続KO勝利の記録を更新させたわけであるが――今は、それを喜ぶ力も残されていなかったのだった。