02 古豪と新鋭
瓜子が三名のセコンド陣とともに控え室を出たところで、メイの陣営が戻ってきた。
メイは高橋選手に肩を借りつつ、柳原によって氷嚢を顔にあてられている。そして自分の腕では腹を抱え込んでおり、満身創痍と呼ぶに相応しい様相であった。
「よう、お疲れさん。お祝いの言葉は、あとでゆっくりとな」
立松がそのように呼びかけると、メイは「うん」とうなずいてから瓜子のほうを見やってきた。
「おめでとうございます。最後はすごい乱打戦でしたね。でも、冷静にテイクダウンを取りにいったのは、お見事でした」
「……本当は、スタンドでKOしたかったけど、身体が限界だった。やっぱり僕、まだウリコにかなわない」
「スタンドだろうがグラウンドだろうが、KOはKOだろ。あんな見事なテイクダウンや肘打ちは、今の猪狩には真似できないはずだ。どっちが上等って話ではねえよ」
そう言って、立松は苦笑した。
「そういう論評も、また後でな。ジョン、そっちのケアは頼んだぞ」
「ウン。ウリコはタイトルマッチ、がんばってねー。ウリコだったら、ゼッタイにカてるよー」
「俺たちも、モニターで猪狩がベルトを巻く姿を見守ってるからな」
「鞠山さんは強敵だろうけど、頑張って」
「……ウリコ、勝利、信じている」
「押忍。必ずベルトを守ってみせます」
そうしてメイたちと別れを告げて、瓜子は入場口の裏手を目指すことになった。
その道中で、雑用係の蝉川日和が鼻息を荒くする。
「メイさんの試合も、物凄かったみたいッスね! DVDの発売が楽しみッス!」
「あれ? 蝉川さんは、モニターを観てなかったんすか? 自分だって、最後は目を奪われちゃったのに」
「だってあたしは、猪狩さんのセコンドッスから! 雑念は排して、ずっと猪狩さんのお姿を見守ってたッス!」
「この際は、新人のほうが正しいだろ」と、瓜子はまた立松に頭を小突かれてしまう。
やがて所定のスペースに到着すると、すでに山垣選手の姿はなかった。瓜子たちがメイの相手をしている間に、入場してしまったのだ。
「お次はバニーガールのネエチャンか。おい新人、こっちはいいからお前さんは扉の隙間から試合を覗いとけ」
サイトーがそのように呼びかけると、蝉川日和は「ええ?」と眉を下げてしまった。
「それもセコンドの仕事なんスか? あたし、猪狩さんの様子が気になっちゃって、他の選手の試合どころじゃないんスけど……」
「ああもう、融通のきかねえやつだな。だったらお前さんは、好きなだけイノシシ様の勇姿を拝んどけや」
サイトーは蝉川日和の尻をひっぱたいてから、自ら覗き見に勤しみ始めた。これは決してセコンドの仕事を二の次にしているのではなく、試合を気にする瓜子の心情を慮ってのことであるのだ。
「お次は猪狩さんのお友達の灰原さんと、トップファイターの山垣さんでしたっけ。やっぱり上り調子の灰原さんが有利なんスかね?」
「おいおい。雑談で選手様の集中を乱すなよ」
「あ、そうでした! ど、どうも申し訳ないッス!」
「かまわないっすよ。幸い自分は、図太くできてますんで」
そんな風に応じながら、瓜子は立松の構えたミットにミドルキックを叩き込む。
それを受けた立松は、神妙な面持ちで「ふむ」とうなずいた。
「さっきはモニターに気を取られてたが、しっかり集中できてるみたいだな。これなら、心配はいらなそうだ」
きっと立松も、瓜子の精神状態を心配してくれていたのだろう。それをありがたく思いながら、瓜子は「押忍」と答えてみせた。
今日はユーリが不在の中でおこなわれる、初めての試合であったのだ。
ここで瓜子が不甲斐ない姿を見せることなど、絶対に許されない。誰よりも、瓜子がそれを許せなかったのだった。
(それであたしが調子を乱したら、ユーリさんとの関係性がマイナスに働いたってことになっちゃうんだからな。絶対に、そんなぶざまな姿を見せるもんか)
間もなく北米で試合をするはずのユーリも、きっとこれまで通りの勇姿を見せてくれるはずだ。瓜子は、そのように信じていた。
「バニーのネエチャンは、今日も絶好調みたいだな。でも、相手の追い足もなかなかのもんだぞ」
扉のほうからは、サイトーが試合の実況をしてくれている。
山垣選手は生粋のインファイターであるため、ウサギのようにステップを踏む灰原選手を懸命に追っているのだろう。
「相変わらず、金髪のネエチャンは攻撃が荒っぽいな。サキや邑崎なら、好きなだけカウンターを狙えそうなところだが……でも、下手に足を止めると乱打戦に引きずりこまれそうな勢いだな。バニーのネエチャンも、ちっとばっかりやりにくそうだ」
「そうっすか。灰原選手なら、インファイトでも太刀打ちできそうですけど。でも、セコンド陣には止められるでしょうね」
そのように応じながら、瓜子は立松の構えたミットにワンツーを打ち込む。
そこでサイトーが、「おっ」と声をあげた。
「危なねえ危ねえ。バニーがテイクダウンを取られかけたぞ。あの金髪がタックルを仕掛けるなんて、珍しいじゃねえか」
「山垣選手が、タックルっすか。さすがに色々と考えてきてますね」
「バニーも面食らったみたいで、足取りが鈍ったな。……と思ったら、カウンターを当てやがった。こいつは効いたぞ」
そうしてサイトーが口を閉ざすと、扉ごしの歓声がいっそう高まった。灰原選手がもともとの本領であるインファイトを仕掛けたのだろう。
「すげえ打ち合いだな。でも、相手の攻撃はブロックできてる。……おっと危ねえ。今のは、頭突きが入ったんじゃねえか?」
「灰原選手は、大丈夫っすか?」
「ああ。バニーが動きを止めねえから、レフェリーもストップしなかった。あいつ、普段はへらへらしてるが根性はあるよな」
灰原選手も以前はしょっちゅう出稽古におもむいていたので、サイトーもさんざん面倒を見ていたのだ。
「よし、終了だ」
サイトーが身を引くと同時に、歓声が爆発した。
瓜子は最後にミドルキックを叩きつけてから、サイトーのほうに向きなおる。
「灰原選手が勝ったんすね?」
「ああ。相手のタックルや頭突きにもめげずに、最後まで自分の試合をしやがった。アレとやりあうのは、なかなか面倒だぞ」
そんな風に言いながら、サイトーは不敵な笑顔である。サイトーもまた、戦う相手は強敵でなければつまらないというスタンスであるのだ。
そしてこちらでは、蝉川日和が「すごいッスね!」と声を張り上げた。
「サイトーさんと会話しながら、猪狩さんは一回も動きがブレなかったッス! あたしにはとうてい真似できないッスよ!」
「そうでなきゃ、ウォームアップ中のおしゃべりなんざ許さねえよ」
立松は苦笑を浮かべつつ、キックミットを壁にたてかける。これは帰り道で回収するのだ。
「ま、灰原さんを迎え撃つのは、早くても年が明けてからだ。まずは目の前の相手に集中だぞ」
「押忍。ベルトは守ってみせます」
しばらくして、山垣選手の陣営が戻ってきた。
山垣選手は両方の目もとを腫らしていたが、セコンド陣に肩を借りることなくのしのしと扉をくぐってくる。そして、いっそう迫力を増した顔で瓜子に笑いかけてきた。
「あんたとやりあう前に、またターゲットが増えちまったよ。そっちはせいぜい頑張りな」
「押忍。お疲れ様でした」
山垣選手は敗北してもなおうつむくことなく、堂々と控え室に戻っていく。やはり彼女は、尊敬できる先輩選手であるようであった。
そうして瓜子は扉の前に立ち、自分の出番を待ちかまえた。
扉の向こうからは、鞠山選手の入場曲である自身の歌声がうっすらと聞こえてくる。それを微笑ましく思えるほど、瓜子はリラックスできていた。
『赤コーナーより、猪狩瓜子選手の入場です!』
リングアナウンサーの宣言とともに、扉が開かれる。
同時に、『ワンド・ペイジ』の『Rush』の演奏が鳴り響いた。
耳に馴染んだ勇ましいイントロが、瓜子の心を熱くしてくれる。そうして山寺博人のしゃがれた歌声が響くと同時に、瓜子は足を踏み出した。
大歓声が爆発し、『ワンド・ペイジ』の歌声と演奏をも呑み込んでいく。
空調の設備も追いつかず、会場には凄まじい熱気が満ちていた。
ユーリたちが不在でも、観客たちが物足りなく思うことはなかっただろう。それぐらい、今日も素晴らしい試合が続いていたはずだ。
そして、それよりもさらに素晴らしい試合を見せるのが、メインイベンターの責任である。
その重みをしっかりと双肩に担ぎながら、瓜子は花道を進んでみせた。
ケージの下まで到着したならば、脱いだウェアを蝉川日和に受け渡す。蝉川日和は瓜子よりも昂揚した面持ちでそれを受け取り、シューズともどもバッグの中に突っ込んだ。
「い、猪狩さん、頑張ってください! ……あ、水! 水はいかがッスか?」
瓜子はうなずき、蝉川日和から受け取ったドリンクボトルで口の中をわずかに湿した。
そうしてドリンクボトルを返してから右の拳を差し出すと、蝉川日和はいっそう赤い顔をしながら自分の拳をぎゅっと押しつけてくる。
さらにサイトーや立松とも同じ行為に及び、マウスピースをくわえてボディチェック係に向きなおる。
そちらで顔にワセリンを塗られながら、瓜子はいつも通りの充足感を噛みしめることができた。
いつかはユーリも映像で、今日の試合を観ることになる。
ユーリが喜んでくれるような、そんな試合をしてみせよう。
そのように決意することで、瓜子はユーリの不在を正しい形に昇華させることができた。
『それでは試合に先立ちまして、国歌の清聴です。皆様、ご起立をお願いいたします』
瓜子がケージに乗り込むと、すぐさまそのようなアナウンスがされた。
国歌の清聴と、コミッショナー氏によるタイトルマッチ宣言。瓜子にとっては四度目となる、タイトルマッチの進行だ。
ただ――今回は、これまで以上に胸に迫るものがあった。
これはきっと、相手が鞠山選手であるためなのだろう。瓜子が最初に経験したのは、まだ個人的な交流を持っていなかった時代のメイを相手にした暫定王者決定戦であり、その後の二回はラウラ選手であったため、これほど懇意にしている相手とのタイトルマッチというのは初めてのことであったのだ。
去年のゴールデンウィークを皮切りとして切磋琢磨してきた鞠山選手と同じ場に立ち、これからタイトルマッチを行おうとしている。それが瓜子には、何より誇らしく思えるようであった。
『第十試合、メインイベント、《アトミック・ガールズ》ストロー級タイトルマッチ、五分三ラウンドを開始いたします!』
と、瓜子の感慨も知らぬげに、リングアナウンサーが朗々たる声を響かせた。
『青コーナー。百四十八センチ。五十一・九キログラム。天覇ZERO所属。……まじかる☆まりりん!』
鞠山選手もまた普段通りの軽やかさでくるりとターンを切り、お姫様のようにスカートめいた装飾のひだをつまんだ。
『赤コーナー。百五十二センチ。五十一・九キログラム。新宿プレスマン道場所属。《アトミック・ガールズ》ストロー級第五代王者、《フィスト》ストロー級第四代王者……猪狩、瓜子!』
瓜子はすべての感慨を呑み込んで、右腕を振り上げてみせた。
歓声や拍手が渦を巻き、物理的な圧力をもって瓜子にのしかかってくるかのようである。しかし瓜子は、そんな圧迫感をもパワーに転換する所存であった。
レフェリーに招かれて、瓜子はケージの中央に進み出る。
そうして間近から向かい合っても、やはり鞠山選手に変わるところはなかった。
瓜子よりも四センチ小柄で、そのぶん肉厚のずんぐりとした体格をしている。頭が大きく、手足の短い、それこそ幼児体型の名に相応しい様相であろう。ただ、これだけの力感を有した幼児など存在するわけもなかった。
横幅の広い顔は《アトミック・ガールズ》のルールに抵触しない範囲でメイクがほどこされ、そばかすも綺麗に隠蔽されている。鼻はぺちゃんと潰れていて、口が大きく、眠たげに垂れた目は睫毛がくりんとカールして、カエルのお姫様さながらだ。アッシュブロンドに染められた髪も、これから撮影に臨むかのように入念にヘアメイクされていた。
思うに――鞠山選手は《アトミック・ガールズ》において、ショー的な華やかさを担うべく努めてきたのだろう。
黎明期の《アトミック・ガールズ》において主役を張っていたのは、来栖舞、兵藤アケミ、雅選手、そして鞠山選手の四名となる。その中で、無差別級の両名は質実剛健なタイプであり、とにかく試合で勝つことだけを眼目にしていた。格闘技とは、強さこそがすべてである、と――無言のままに、そんな信念を体現していたのだ。
しかし、女子格闘技には華やかさというものが求められている。十年以上の歳月が流れてもまだその傾向は強く残されているのだから、黎明期などはもっと顕著であったのだろう。どうせ技術や迫力の面では男子選手に及ばないのだから、女子選手は女子選手ならではの華やかさを演出するべき――という、そんな風潮がまかり通っているのだ。
実際問題、来栖舞と兵藤アケミの力だけでは、《アトミック・ガールズ》を存続できたとは思えない。彼女たちは確かに強かったが、勝利にこだわるために妥協を許さず、時としては地味に過ぎたのだ。
それを裏で支えていたのが、雅選手と鞠山選手であった。
雅選手はその美貌でもって各メディアに進出し、女子格闘技のPR活動に勤しんでいた。そして鞠山選手は奇抜な試合衣装とクセのあるファイトスタイルでもって、面白みのある試合というものを演出していたのだ。
もちろん鞠山選手は自らの趣味嗜好によってキャラ作りをしているのであろうし、試合においても妥協をしていたわけではない。ただ、地味な試合になるぐらいであれば、せいぜい華々しく散ってやろう――という心意気は、時おりこぼれているように感じられた。そもそもは柔術家でありながら、ぴょんぴょんと跳びはねるカエルのごときステップワークや豪快な打撃技というファイトスタイルを磨き抜いたのも、派手な試合を求めてのことなのではないかと思われた。
そうして鞠山選手たちが華やかさを演出していたからこそ、来栖舞たちの質実さが際立ったのである。来栖舞は、妥協を許さない。勝つためであれば、退屈な膠着状態なども厭わない。格闘技に、ショー的要素など不要である、と――そういう武道家らしい実直さが、ひとつのキャラクターとして成立し得たのだ。
それから長きの時を経て、《アトミック・ガールズ》にはサキにユーリという新たな世代が乗り込んできた。
サキは格闘技に、ショー的要素など求めていない。スタンスは、むしろ来栖舞たちに近いぐらいだろう。ただサキはMMAの固定観念にとらわれず、独自のファイトスタイルを磨きぬき、人並み外れて華やかな試合を見せることができる存在であったのだ。
いっぽうユーリは――最初から、強さと華やかさを同じぐらい強い気持ちで求めていた。それでデビュー当時は不同視という秘密の弱点を抱えていたために結果を残せず、華やかさばかりが先行して、周囲に忌み嫌われることとなってしまったのだ。
しかしユーリは、二年前に生まれ変わった。サキの厳しい指導によって、地味な技や荒っぽい技の習得にも励み――その結果、怪物のごとき強さを体得したのだ。もとよりユーリは誰よりも華やかなビジュアルをしていたし、持てる才能や精神構造のバランスもわやくちゃであったため、なりふりかまわず勝利を追い求めるだけで、きわめて個性的な存在に成り得たのだった。
そうして文字通り新時代のスターたちが台頭しても、鞠山選手は我が道を突き進んでいる。
それで、自身のポリシーや信念はまったく曲げないまま――こうしてついに、タイトルマッチまで到達したのである。
十年以上もの間、『中堅の壁』と称されていた鞠山選手が、イリア選手という難敵を打ち倒し、トップファイターの座を手中にして、人生初のタイトルマッチを迎えたのだ。鞠山選手がこれほど奇矯なキャラクターでなければ、それはずいぶん感動的なシナリオであるように感じられるはずであった。
(もちろんこっちは相手のバックボーンなんて関係なく、全力で迎え撃つだけだ。でも――)
それだけの歴史を辿ってきた相手を、瓜子は若き王者として迎え撃つ。
瓜子は最大限の敬意でもって、この大先輩のベテランファイターに相対しなければならないはずであった。
「では両者、クリーンなファイトを心がけて」
レフェリーにグローブタッチをうながされて、鞠山選手はにまにまと笑いながら両手を差し出してくる。
瓜子はグローブをタッチさせるのではなく、自分も両手で鞠山選手の手を握りしめてみせた。
「鞠山選手、よろしくお願いします」
「舞台上では、まじかる☆まりりんだわよ」
鞠山選手の人を食った態度に変わりはない。
それを嬉しく思いながら、瓜子はフェンス際まで退いた。
「よし、落ち着いていけよ。とにかく、相手のステップワークに惑わされるな。タックルだけは注意して、自分から手を出していけよ」
フェンスの向こうから聞こえてくる立松の声に、「押忍」と応じてみせる。
そうして瓜子の四度目となるタイトルマッチは、粛然と開始されたのだった。