ACT.3 Re:boot #3 ~Final round~ 01 黒き悪夢と青い目の空手家
アトム級王座決定トーナメントの一回戦目が終了した後には十五分間のインターバルが入れられて、残す試合は三試合であった。
瓜子はウォームアップに励みながら、モニターの模様を確認する。第八試合はメイとオリビア選手の一戦であったため、目を離すことができなかったのだ。
オリビア選手は本日も穏やかな面持ちで、花道を歩いている。穏やかすぎて、飄然と見えるほどである。
いっぽうメイは、殺気の塊と化していた。厳格なる養父を説得して日本に居残っているメイは、何としてでも結果を残さなければならない身であるのだ。
そんな両者がケージの中央で向かい合うと、体格差があらわになる。
身長差は二十三センチ、リカバリー後の体重差はおそらく七キロていど――メイは瓜子とほとんど同じ体格であるため、瓜子が前回の試合で味わわされた体格差がそのまま再現されるはずであった。
オリビア選手は瓜子と向かい合ったときと同じように、柔和な眼差しでメイを見下ろしている。
ドレッドヘアの隙間からそれを見返すメイは炎のような眼光で、石のような無表情だ。
両者はともにオーストラリアの出身であり、かつてはシドニーを拠点にしていた。その頃からMMAのジムでニアミスをして、顔見知りていどの関係であったのだそうだ。
しかしその後、メイは北米に渡り、オリビア選手は日本を主戦場としたため、交流が深まる機会はなかったらしい。それでメイが《アトミック・ガールズ》に参戦することで、ひさびさの再会を果たしたというわけであった。
ただやはり、以前のメイは余人を寄せつけない排他的な性格であったため、実際に交流が深められたのは《カノン A.G》の騒動が終息した後であるのだろう。そういえば昨年のゴールデンウィークにもオリビア選手はメイを合宿稽古に誘っていたのだが、けんもほろろに断られていたのだった。
ともあれ――現在は両名も、それなり以上に交流を深めている。もとよりオリビア選手は同郷のよしみでメイに心を砕いていたし、メイのほうも人見知りの性格を発揮しながら少しずつほだされていたはずであった。
が、ひとたび試合の場で向かい合えば、全力で相手を叩き潰すのみである。
オリビア選手はどれだけ優しげな面持ちをしていようと、瓜子のときと同じようにメイの全力を受け止めてくれることだろう。なおかつ、それが可能な実力者であるからこそ、なかなか対戦相手の見つからなかったメイの相手に抜擢されたのだろうと思われた。
「オリビア、油断のならない相手。それは、最初からわかっていたけど……ウリコとの試合で、いっそう思い知らされた」
かつてメイは、そのように語っていた。
瓜子もオリビア選手との試合では、ぎりぎりの瀬戸際にまで追い込まれていたのだ。であれば、瓜子と同格の力量であるメイもまた、同じぐらい追い込まれる危険性が存在するわけであった。
(ただ、あたしとメイさんじゃファイターとしてのタイプが違うからな。いったいどういう試合になるんだろう)
立松の構えたミットにパンチを繰り出しつつ、瓜子はモニターを見守ることになった。
そんな中、試合開始のブザーが鳴らされる。
それと同時に、メイがオリビア選手のもとに突進した。
犬飼京菜を思わせるほどの、迫力ある突進だ。
ただし、犬飼京菜のようにトリッキーな動きを見せることはなく、自らアウトサイドに踏み込んで、右のローを叩きつける。フルコン空手出身のオリビア選手は、ゆとりをもってそれをカットした。
しかしそうしてオリビア選手が前足を浮かせたならば、メイは凄まじい勢いで前進した。相手の前足を抱えて、逆の側の胸を押す、ニータップだ。
オリビア選手は右足だけでたたらを踏み、何とかフェンス際まで後退する。
メイはそのまま相手をフェンスに押しつけて、何とかテイクダウンを奪おうとする。いきなり予想外のレスリング勝負が展開され、会場には困惑気味の歓声がわきたっていた。
「へえ。どっちもストライカーって聞いてたのに、いきなり壁レスかぁ。ねえねえサキさん、このメイさんってお人は組み技や寝技も得意なのぉ?」
時任選手がそのように呼びかけると、インターバルの間にシャワーを終えていたサキはまだ湿っている前髪をかきあげつつ「うっせーなー」と応じた。
「そりゃあ空手女に比べりゃあ、立ち技以外のキャリアはなげーだろ。ただ、これだけの体格差でテイクダウンを奪うのはしんどいだろうなー」
「そうだよねぇ。頭も相手の顔まで届いてないし、これは攻めてるほうが削られる展開かなぁ」
時任選手はそのように言っていたが、メイが積極的に組み技を仕掛けていくというのは最初からの作戦だ。もちろんサキも、そのような内情まで明かしたりはしなかった。
メイと瓜子の最大の違いのひとつは、組み技および寝技の練度である。MMAキャリアが二年と九ヶ月である瓜子に対して、メイは幼少の頃より猛稽古を積まされていたのだ。
ただしメイは、すべての技術をまんべんなく学ぶのではなく、得意な技をひたすら錬磨するという方針であったらしい。よって、組み技で得意なのは足もとへのタックル、寝技で得意なのはポジションキープとパウンドとチョークスリーパーのみという偏りっぷりであった。
(だからこういう壁レスリングも、メイさんはそれほど得意じゃない。でも、メイさんにグラウンドで上を取られたら厄介だってことは、オリビア選手も重々承知してるから……死に物狂いで抵抗してるはずだ)
それが余裕であしらっているように見えるのは、オリビア選手がやわらかい表情を保っているゆえであろう。どのような苦境でも決して平穏な表情を崩さない、オリビア選手はそういうタイプのポーカーフェイスであるのだ。
しばらくして、両者に大きな動きが見られないと判断したエフェリーがブレイクを命じてくる。
再び両者がケージの中央に戻されると、あらためて歓声がわきたった。
そうして試合が再開されると、メイは前後にステップを踏む。
瓜子の知る限り、もっとも鋭さを持つステップである。前後のステップに限定すれば、メイは階級の区別なくナンバーワンではないかと思えるほどであるのだ。
それと向かい合うオリビア選手は、ゆったりとしたすり足で間合いを測っている。メイの機敏な動きに惑わされないというのは、大した心臓だ。
そして今度は正面から踏み込んだメイが、低い軌道の右ローを放った。
オリビア選手は慌てることなく、前足を浮かせてカットしたが――そうするとメイは、再び突進して組みつきの動きを見せた。
これはオリビア選手も予測していたらしく、メイの肩に手をやってステップを踏み、何とか組みつきを回避する。
ただ、カウンターで反撃することはできなかった。逃げずに反撃に出ようとすれば、テイクダウンを取られる恐れがあると判断したのだろう。
それこそが、プレスマン陣営の計略であった。
初回でテイクダウンにこだわったのは、オリビア選手に組み合いの危険性を刷り込むためであったのだ。
瓜子もオリビア選手を相手にする際は組み技のプレッシャーをかけていけと命じられていたが、メイならばさらに高い水準でそれをこなすことができる。オリビア選手も、メイが瓜子よりも寝技を得意にしていることは承知しているため、より強いプレッシャーを与えることがかなうわけであった。
(相手に手の内を知られるってのは、不利に感じられるけど……それを逆手に取ることもできるわけだよな)
メイはストライカーであり、これまでの試合でも寝技の技量はあまりお披露目していない。しかし、合宿稽古をともにしているからこそ、オリビア選手はメイの技量がインプットされてしまったわけである。
オリビア選手は変わらぬ穏やかな面持ちであるが、いまだに一発の攻撃も出せていない。
その間隙に、メイが次なる一手を打った。
ローやタックルのフェイントを入れつつ、左ジャブを当て始めたのだ。
これはメイが、プレスマン道場に入門してから磨いた技術である。彼女はもともと左右のフックを多用して、瓜子と対戦した際にもほとんどジャブを使っていなかったのだ。
もちろんリーチ差が甚だしいため、メイの左ジャブも相手の顔までは届いていない。すべては両腕でブロックされてしまっていた。
しかしそこまで接近しても、オリビア選手はなかなか反撃できなかった。タックルのフェイントが効いていて、迂闊に手を出せないという状況なのだろう。時おり出されるローに対しても、もはや足を浮かせることはできずに、踏ん張ることで耐えていた。
フルコン空手の出身であるオリビア選手は、足もとも頑丈だ。しかしメイは、瓜子と同じぐらい骨が硬い。そのローをまともにくらっていたら、すぐにダメージが溜まるはずであった。
「なんだか、一方的になってきましたね。猪狩さんでも、このオリビアって選手には苦戦していたのに――」
武中選手がそのように言いかけたとき、オリビア選手が大きく動いた。
ただし、前方にではなく後方にだ。長い腕を突っ張るようにしてメイの身を突き放し、大きく後方に下がったのである。
体格でまさるオリビア選手の弱気な挙動に、客席は大いにわきかえる。
が――そこでオリビア選手が、奇妙な動きを見せた。背筋をのばしたまま深く腰を落として、足を前後に大きく開いたのである。
両膝は、ほとんど直角なぐらいである。
それで頭の高さは、ほとんどメイと同じぐらいになっていた。
そして、左腕はゆったりと前側にかざしつつ、右の拳は腰に溜めている。いかにも空手の型でありそうなポージングであったが、それがMMAの試合でどのような本領を発揮するのかはまったくうかがい知れなかった。
「……いったい、何なのです? オリビア選手が試合や合同稽古でこんな型を見せることはなかったはずなのです」
愛音は、うろんげにそう言っていた。
その本人と向かい合ったメイなどは、さらに大きな疑問を抱えていることだろう。メイは小刻みにステップを踏みつつも、用心をして相手の間合いに踏み込もうとはしなかった。
するとオリビア選手が、すり足で前進する。
深く腰を落としたまま、じりじりとメイに近づき始めたのだ。メイは尻尾を踏まれた猫のような挙動で、さらに距離を取ることになった。
瓜子であればアウトサイドに回り込み、大きく前に出された左足を狙うところである。
しかしメイは前後のステップに比べて、左右に回り込むステップがあまり得意ではない。よって、メイがサイドに回り込もうとしても、オリビア選手はふわりと動いてすぐに正対してしまった。
(だから、あたし相手のときにはこの構えを見せなかったわけか)
オリビア選手は奇妙なぐらい腰を落としているので、これではメイもテイクダウンは狙いにくいだろう。
さらに、オリビア選手の腰で溜められた右の拳は、いかにもカウンターを狙っているように感じられる。オリビア選手の強烈なボディブローを知る人間であれば、たいそうなプレッシャーになるはずであった。
オリビア選手はすり足で前進しながら、前手をゆらゆらと動かしている。
目の前のメイを幻惑しているような――あるいは、さっさとかかってこいと挑発しているかのような動きだ。
メイはしばらく慎重に距離を取っていたが、やがて意を決したように前進した。
正面から踏み込んでの、左足によるインローだ。
その際に、左腕はやや低めに構えられている。頭部よりもボディを固く守ろうという構えだ。相手のカウンターはブロックして、自分のローだけはヒットさせる、そういう動きであった。
メイのローは、思惑通りにクリーンヒットした。
しかもそれは、ふくらはぎの下部を狙ったカーフキックである。これだけ深く腰を落としていれば足を浮かせることもできないので、深いダメージを与えられると見込んだのだろう。並の選手であれば、その一撃で足を痛めてしまいそうな勢いであった。
しかし、オリビア選手の身体は揺らぎもしなかった。
ダメージのほどは不明であるが、どっしりとマットを踏んだ足をしたたかに蹴られても、微動だにしなかったのだ。
そして、見ている者が想像していた通りに、右の拳が射出された。
腰のあたりに溜められていた右拳が、するするとのびていく。何か、ぞっとするほどしなやかな動きであった。
左ローを繰り出したメイは、まだ同じ場所に留まっている。
左腕は、しっかりとボディを守っていた。
だが――オリビア選手の右拳は、さらに上昇した。そうして咄嗟に首をねじったメイの左頬を、槍の穂先のように撃ち抜いたのだった。
まだ蹴り足を戻しているさなかであったメイは、ぐらりとバランスを崩してしまう。
すると、メイの顔面を打った右拳が開かれて、メイの首筋を捕獲した。
それを支えにして、オリビア選手が右膝を振り上げる。深く曲げられていた右膝が、そのままの角度でメイのボディを襲ったのだ。
もとよりメイは、左腕でボディを守っている。
その左腕に、オリビア選手の右膝が突き刺さった。
メイの小さな身体が、くの字に折れ曲がる。
たとえガードしていても、相当なダメージがボディを貫いたことだろう。それぐらい、オリビア選手の攻撃は重いのだ。
しかしメイは、倒れなかった。
それどころか、前屈みの姿勢で右の拳を繰り出した。
短い軌道で、メイのショートフックがオリビア選手の左頬を打つ。
まごうことなき、クリーンヒットである。
しかしまた、オリビア選手も倒れない。メイの硬い拳で顔面を撃ち抜かれながら、オリビア選手はいったん引いていた左拳を繰り出した。
今度こそ、ボディフックである。
なおかつ、オリビア選手の右手はまだメイの首を抱えている。そうして固定された状態でレバーを撃たれれば、さしものメイも悶絶していたことだろう。
だがその前に、メイの右拳がオリビア選手の腹を打った。
瓜子であれば、これほどのスピードで次の攻撃につなげることは難しい。メイはこの苦境にあって、最大の特性である回転力を発揮してみせたのだった。
メイに腹を打たれたことで、オリビア選手の軸が乱れる。
その隙に、メイは頭を振ってオリビア選手の拘束から逃れた。
そしてその動きに、左フックを連動させている。
ただし、オリビア選手も不発に終わったレバーブローを再び射出していた。
メイの左フックはオリビア選手の顔面を叩き、オリビア選手の左拳はボディを守ったメイの右腕を叩く。
そして、オリビア選手の左拳を弾くようにして、メイの右腕が動いた。短い射程の、ボディアッパーだ。
ボディアッパーは、オリビア選手の土手っ腹にヒットする。
それでもオリビア選手が倒れなかったのは、玄武館で培った打たれ強さであろう。
オリビア選手は不屈の闘志で、右拳を打ちおろした。
しかしそれより先に、メイの右フックがオリビア選手の左頬を打つ。その後に、オリビア選手の右拳がメイの顔面を打った。
そしてさらに、返しの左フックがオリビア選手の右頬を打つ。その後に、オリビア選手の左拳がレバーを狙ったが、それは右肘でブロックされた。
回転力は、圧倒的にメイがまさっている。オリビア選手が一発を打つ間にメイは二発打ち、それがさらに三発に増え――気づけば、至近距離の乱打戦であった。
メイが倒れずにいられるには、先に攻撃を当てて相手の勢いを削いでいるためであろう。
いっぽうオリビア選手は、持ち前の頑丈さだけでメイの攻撃に耐えている。それはそれで、恐るべき話であった。
いったいどちらが先に倒れるのか。ウォームアップのさなかであった瓜子も、つい動きを止めて目を奪われてしまう。
オリビア選手は目尻から血を流しつつ、再びメイの頭を抱え込んだ。
それと同時に、右膝が振り上げられる。
しかしそれより早く、メイが大きく踏み込んだ。
間合いが詰まり、オリビア選手の右膝は勢いに乗る前にメイのボディに激突する。
そしてメイは、そのままオリビア選手の長身をあびせ倒した。膝蹴りを出した直後であったため、オリビア選手も踏ん張ることができなかったのだ。
オリビア選手は何とかガードポジションを死守しようと、長い両足でメイの胴体をはさみこもうとする。
メイは野獣のような敏捷さで身をひねってそれをかわし、サイドポジションを確保した。
さらに息をつく間もなく、相手の腹の上にまたがる。マウントポジションを奪取したのだ。
オリビア選手は大きくブリッジをして、メイの身を払いのけようとした。
しかしメイは、ポジションキープの能力に長けている。ロデオのようにバランスを取って、オリビア選手の顔面に右肘を叩きつけた。
さらに横合いからは左の拳を叩きつけ、オリビア選手が両腕で顔面を覆うと、その隙間に縦方向で肘を落とす。
その一撃で、鮮血がしぶき――それと同時に、レフェリーがメイにつかみかかった。
『一ラウンド、四分五十二秒! グラウンド・エルボーにより、メイ=ナイトメア選手のKO勝利です!』
客席には歓声があふれかえり、控え室には感嘆のどよめきがわきおこる。
そんな中、瓜子はミットを装着した手の平で頭をぱふっと叩かれることになった。
「そら、気が済んだんなら、ウォームアップだ。今は人の試合より、自分の試合だろ」
「押忍。すみません。……でも、今のはしかたなかったと思います」
「何がしかたねえんだよ」
立松は苦笑して、もういっぺん瓜子の頭を優しく叩いてくる。
レフェリーに右腕を上げられたメイは、左腕でボディをかばっていた。たとえガードの上からでも、オリビア選手の重い打撃を何発ももらってしまったのだ。おそらくこの夜は、固形物を口にすることも難しいに違いない。
しかしそれでも、メイは勝利した。
八ヶ月ぶりとなる試合において、オリビア選手という一階級上の難敵を相手に、KOで勝利することができたのだ。ウォームアップを再開させつつ、瓜子は心からの喜びと安堵を噛みしめることになったのだった。