04 若獅子たちの決戦(下)
一分間のインターバルはあっという間に終わりを迎え、第二ラウンドが開始された。
そして――試合開始のブザーが鳴らされるなり、犬飼京菜がケージの中央へと躍り出た。第一ラウンドではあれだけ慎重に振る舞っていた犬飼京菜が、第二ラウンドの開始と同時に猛攻を仕掛けてきたのだ。
遠い距離からの、大技の連発である。
バックスピンのハイキックにミドルキック、身を屈めての水面蹴り、短い足を槍のように突き出すサイドキック――果てには、その場で垂直に跳躍し、顔面を狙う前蹴りなどというものも披露された。
そしてその合間には、タックルのフェイントも織り交ぜる。
寝技の技術は、確実に犬飼京菜のほうがまさっているのだ。それで愛音は犬飼京菜の猛攻を危なげなく回避しつつ、なかなか反撃できなくなってしまった。
(さすがにあっちも、研究し尽くしてるな。邑崎さんも、驚くぐらい立ち技の技術が向上したけど……寝技だけは、キャリア通りの腕なんだ)
ごく純粋な寝技の技量において、犬飼京菜は大江山すみれをも上回っている。そして、大江山すみれは瓜子よりも寝技が巧みであり――愛音は、瓜子よりも寝技が不得手であるのだ。そう考えれば、犬飼京菜との力量差は歴然であった。
むろん、ドッグ・ジムの面々はそこまで駒かいデータを持っていない。しかし、愛音が《フィスト》のアマ大会において、大江山すみれに寝技で敗れていることぐらいは調べあげているだろう。それに、大江山すみれとの再戦でも、愛音はグラウンド状態の肘打ちでドクターストップをくらっているのだった。
そして愛音はもともと武魂会の出身である、生粋のストライカーだ。それで立ち技の技術がこうまで向上しているならば、寝技の稽古にそこまでの時間は割いていない――と、それぐらいのことは容易く推測できるだろう。愛音は高校生であり、稽古時間には限りがあるのだから、なおさらであった。
「すげえ……まるで竜巻みたいッスね! あれだけ動いてバテないなんて、すごいスタミナッス!」
蝉川日和の言う通り、犬飼京菜は一秒として動きを止めようとしなかった。彼女はダメージを負わない限り、ユーリと同格のスタミナの化け物であるのだ。
愛音はその猛攻を問題なく回避できているが、まったく反撃できていない。これでは一ラウンド目と、まったく逆の様相である。それに、傍目には余裕で回避しているように見えるが、実際には一瞬も気を抜けずに死に物狂いでディフェンスに集中しているのだろうと思われた。
それに、一ラウンド目の犬飼京菜は徹底的にステップワークで接触を回避していたが、現在の愛音はときおり手足で攻撃をブロックしている。それだけ距離が詰まっているなら、リーチでまさる愛音はより深く攻撃を当てられるはずであるが、相手のタックルを警戒してそれもままならないのだ。そうして犬飼京菜の大技をブロックすれば、手足にダメージが溜まっていくはずであった。
やはり犬飼京菜は一ラウンド目の時間をまるまる使って、愛音の間合いやリズムや攻撃のパターンなどを分析していたのだろう。それは愛音の側も同様であったはずだが、犬飼京菜は初回にほとんど攻撃の手を出していなかったため、愛音はこの場で初めて彼女の恐るべき機動力を体感したわけであった。
犬飼京菜はただ俊敏なだけでなく、どこか動きが不規則であるのだ。それはおそらく、ジークンドーや古式ムエタイの技術を取り入れているためなのであろうと思われるが、そもそもそれらの競技がどういった内容であるかも判然としないため、相手取る人間はただただ惑乱させられてしまうのだった。
そうして怒涛のように時間が過ぎ去って、あっという間に二ラウンド目も終了である。
今回は、完全にポイントを取られてしまった。それに、氷嚢で冷やされる愛音の手足は、ところどころが青く変色していた。
客席の歓声は、いよいよ高まっている。やはり犬飼京菜の豪快なファイトスタイルは、見る者の心を揺さぶってならないのだ。彼女はその技の一発ずつに自らの生命力をありったけ注ぎ込んでいるような迫力であり――その鬼気迫る様相は、ユーリに涙を流させるほどであったのだった。
ともあれ、勝負は最終ラウンドである。
大歓声の中、最後のブザーが鳴らされた。
犬飼京菜は無尽蔵のスタミナで大きくステップを踏み、またいきなりのバックスピンハイキックを披露する。
それをバックステップでかわした愛音は――すぐさま距離を詰め、鋭い前蹴りを繰り出した。
犬飼京菜は身をよじり、それを回避する。そして、両足タックルの動きを見せた。
愛音は蹴り足が戻りきらない内に、ショートアッパーを繰り出す。
犬飼京菜が両足タックルを仕掛けていたなら、どこかしらにその攻撃が当たっていたことだろう。しかし犬飼京菜のタックルはフェイントに過ぎなかったので、両者が接触することはなかった。
愛音は肉食ウサギの形相で、さらに関節蹴りを出す。
それをかわした犬飼京菜は、さきほどの愛音にも負けない鋭い踏み込みとともに、サイドキックを繰り出した。
それを右腕でブロックした愛音は、左フックで応戦する。
しかし距離が遠いため、それは簡単にかわされてしまう。さらに犬飼京菜は、再び両足タックルの気配を見せた。
愛音は左腕を引きながら、右の膝を大きく突き出す。タックルに備えての膝蹴りだ。ただし今回もタックルはフェイントであったため、カウンターを当てることはできなかった。
愛音もまた、タックルを恐れずに攻勢に出ようとしているのだ。
しかし、犬飼京菜も攻撃の手を休めようとはしなかった。
犬飼京菜がバックスピンのミドルキックを見せると、愛音はそれをブロックして、即座に左のストレートを返す。
それをぎりぎりのタイミングでかわした犬飼京菜は、すぐさま身を沈めて水面蹴りを繰り出した。
愛音は大きくバックステップして、それをやりすごす。カウンターを返さなかったのは、低い位置からのタックルを警戒してのことだろう。愛音もただがむしゃらに反撃しているのではなく、相手の動きに対応して、もっとも適切な攻撃を出そうとしているのだ。
愛音は犬飼京菜のタックルを警戒しつつ、攻勢に出ようとしている。
犬飼京菜は愛音のカウンターを警戒しつつ、攻勢に出ようとしている。
おたがい一手間違えれば、すぐさま敗北に直結しかねない、ぎりぎりの場所での攻防戦である。きっと彼女たちは、これまでのラウンドで相手の力量を痛感し――もはやノーリスクで勝つすべはないと覚悟を固めたのであろうと思われた。
それを見守る瓜子は、ぞくぞくと背筋が粟立ってしまっている。
二人の気迫が、瓜子の心を揺さぶっているのだ。それは、何となく――赤星弥生子とベリーニャ選手の一戦を思わせる様相であったのだった。
当時の赤星弥生子とベリーニャ選手はどちらも十代の少女であり、まだまだ技術にも穴があった。しかし彼女たちはその身の力を最後の一滴まで振り絞り、素晴らしい攻防を見せていたのだ。
今の愛音と犬飼京菜にも、大きな穴がある。愛音は寝技が未熟であり、犬飼京菜は極端に打たれ弱いという、そんな弱点を抱えているのだ。
しかし両者はそんな弱点を突かれることも恐れずに、すべての力を振り絞っている。それも、やけくそで特攻するのではなく、持てる技術と精神力でもって、弱点を補おうとしているのだ。そのぎりぎりにまで追い込まれた姿が、若き頃の赤星弥生子とベリーニャ選手を想起させるのではないかと思われた。
そうして魂が震えるような攻防が、四分ばかりも繰り広げられ――残り一分を切ったところで、均衡が破られた。
バックスピンハイキックを回避してから繰り出した愛音のボディアッパーが、ついに犬飼京菜の胸もとを叩いたのだ。
急所でも何でもない、胸もとのど真ん中である。
しかし犬飼京菜は、極端に打たれ弱い。その一撃で、大きくたたらを踏むことになった。
愛音はすかさず踏み込んで、追撃の左ストレートを射出する。
角度も、タイミングも、絶妙だ――と、瓜子にはそのように思えた。
しかし、犬飼京菜は思わぬ俊敏さで、その場から逃げた。
よろめく足でマットを蹴り、あらぬ方向にダイブしたのだ。
瓜子の背筋に、寒いものが走り抜ける。
頭からマットに突っ込みつつ、犬飼京菜は大きく両足を旋回させた。
古式ムエタイの技――『ヤシの実を蹴る馬』である。
犬飼京菜の右の中足が、愛音の側頭部を撃ち抜いた。
愛音は左ストレートの体勢のまま、前のめりに倒れ伏す。
ただし犬飼京菜も正しい着地をすることはかなわず、手の平ではなく両肘をマットにつくことで頭を守り、そしてそのまま横合いに倒れ込んだ。
そして――二人は同時に、立ち上がった。
犬飼京菜の蹴りは、クリーンヒットしていなかったのだ。でなければ、こめかみを蹴られた愛音が立てるはずもなかった。
二人は大きく口を開け、ぜいぜいと息をつきながら相対する。
胸もとを殴られた犬飼京菜と、こめかみを蹴られた愛音で、ダメージが深いのはどちらであるのか。それよりも、二人はスタミナの欠乏が著しかったため、ダメージのほうは判然としなかった。
残り時間は、もうほとんど残されていない。
そこで攻勢に出たのは、愛音のほうであった。
もはやステップを踏む力もないようで、ベタ足で相手に接近し、左の拳を振りかざす。形としてはフックであったが、ただ殴りかかったと表現したくなるような荒々しい所作であった。
犬飼京菜もまた足が動かないようで、両腕で頭を抱え込む。そうして前腕のあたりを殴られると、犬飼京菜は力なくよろめいてフェンスにもたれかかった。
愛音は凄まじい気力でもって、犬飼京菜を殴りつける。
すべて両腕でブロックされたが、その一撃ごとに犬飼京菜の小さな身は頼りなく揺らいだ。
そうして愛音が、大きく左腕を振りかぶると――犬飼京菜はほとんど倒れかかるようにして、愛音の胴体にしがみついた。
愛音には、もはや踏ん張る力も残されていない。なおかつ犬飼京菜は足を内側から掛けて、テイクダウンを成功させた。
愛音は死にかけた蛇のようにのたうちながら、何とか長い足で相手の胴体をはさみこむ。かろうじて、ガードポジションだ。
犬飼京菜は愛音の身にしがみついたまま、背中を大きく上下させている。そちらもまた、寝技の勝負をする体力は残されていないようであった。
そして――両者はそのままの状態で、試合終了のブザーを聞くことに相成ったのだった。
『時間切れのため、判定決着となります! ジャッジの集計まで、少々お待ちください!』
大歓声の中、リングアナウンサーの声が遠く響きわたる。
そしてこちらでは、頬を紅潮させた蝉川日和が瓜子の鼻先にまで詰め寄ってきた。
「最後の最後まで、すごい勝負だったッスね! これ、どっちが勝ったんスか?」
「それは、自分にもわかんないっすよ。二ラウンド目までは1ポイントずつ取り合ったでしょうから、最終ラウンド次第でしょうね」
そんな風に答えながら、瓜子はサキのウォームアップに付き添っている立松へと視線を送る。しかし立松は、仏頂面で肩をすくめた。
「悪いが、後半は見てなかった。こっちの仕事がおろそかになりそうなぐらい、凄い試合になってたようだからな。邑崎の活躍は、あとでじっくり映像で拝見するよ」
それではと、メイのほうに視線を移す。
しかしメイも炯々と黒い瞳を光らせつつ、首を横に振っていた。
「判定、難しい。攻撃、多く当てたのは、アイネだけど、すべてブロックされてたし……キョウナ・イヌカイ、ダウンとテイクダウン、ひとつずつ奪ってる。あとは、ジャッジをつける人間の感性だと思う」
「感性? そんなもんで、勝負をつけられちゃうんスか?」
蝉川日和が不満そうに言いたてると、メイは「しかたない」と言い捨てた。
「技術点なら、キョウナ・イヌカイの勝利。アイネの攻撃、ひとつを除いて、すべてブロックされてるから。……でも、アイネの攻撃、ガードの上からでもダメージを与えているように見えた。だから、ダメージの差で勝敗をつけるなら、アイネの勝利。……でも、ダメージは数値化できない。数値化できないなら、あとは感性で決定するしかない」
「うーん、そうッスか! やっぱりMMAの試合って、難しいんスね! でも、勝っても負けても邑崎さんは凄かったと思うッス!」
そうして蝉川日和が笑顔を取り戻したとき、ジャッジの集計が完了された。
それぞれレフェリーに手首をつかまれた愛音と犬飼京菜は、どちらもまだ荒く息をついている。ともすれば、今にもへたり込んでしまいそうであった。
『それでは、判定の結果をおしらせいたします! ……ジャッジ横山、29対28、赤、アイネ!』
歓声が、怒涛のようにわきおこる。
しかしそれもすぐさま静まって、次のアナウンスを待ち受けた。
『……ジャッジ大木、29対28、青、犬飼!』
やはりというか、票が割れてしまった。ジャッジ同士で意見が割れるぐらいの大接戦であったのだ。
そして、審判が下された。
『サブレフェリー東野、29対28、青、犬飼! ……判定の結果、2対1で犬飼京菜選手の勝利です!』
愛音の手首は解放されて、犬飼京菜の腕が高々と掲げられる。
犬飼京菜は大きく天を仰ぎ、惜しみない歓声と拍手がその上に降り注がれた。
愛音は一瞬うつむきかけたが、すぐに毅然と頭をもたげて、犬飼京菜のほうに向きなおる。そうしてレフェリーが身を引くと、犬飼京菜のほうに両手を差し出した。
犬飼京菜はまだ肩を上下させながら、迷うように愛音を見上げる。
すると愛音は強引に犬飼京菜の手を取り、これでもかとばかりに握手を交わしてから、身をひるがえした。
ケージの扉からは大和源五郎が駆け込んできて、いつぞやのように犬飼京菜の身を肩に担ぎあげる。
そちらを振り返ることなく、愛音はケージを出ていったが――大歓声の何割かは、愛音に捧げられたものであるはずだった。