03 若獅子たちの決戦(上)
序盤の三試合が終了して、ついにアトム級暫定王者決定トーナメントの開幕であった。
その第一試合は、いきなりの大勝負――愛音と犬飼京菜の一戦である。
「このトーナメント、本命はサキさんで対抗馬が犬飼さんって言われてるらしいッスね! その犬飼さんと一回戦目で当てられたってことは、邑崎さんが運営陣にナメられてるってことッスか?」
控え室にて、そんな風に騒いでいたのは蝉川日和であった。立松とサイトーはサキのウォームアップに付き添い、雑用係の彼女は瓜子とメイのそばに控えているように命じられたのだ。
「ナメられてるかどうかはわからないですけど、トーナメントにエントリーされた八名の中で一番キャリアが浅いのは邑崎さんですからね。それに邑崎さんは、大江山さんにも連敗してますから……十代の若手組の中では、一番格下と見なされてるかもしれません」
「そうッスか! だったらそんな前評判をひっくり返せたら、カッコいいッスね!」
蝉川日和は礼儀正しいが、あまりボキャブラリーが豊富ではない。というか、そもそも思考回路がシンプルにできているのだろう。瓜子も他者のことをどうこう言えるような立場ではないが、彼女の率直さを初々しく思えるぐらいには成長できているようであった。
そんな中、青コーナー陣営の花道から犬飼京菜が入場する。
格上である彼女が青コーナーであるのは、プレスマン道場の選手を赤コーナー側にまとめたからに過ぎない。前園選手にゾフィア選手というトップファイターを下し、現王者の雅選手にしか負けていない彼女は、まごうことなきトップコンテンダーであるはずであった。
犬飼京菜は誰よりも小さな身体に狂暴な殺気をみなぎらせ、花道を闊歩している。それに付き従うのは大和源五郎とダニー・リーとマー・シーダムの三名で、全員が黒と緑の公式ウェアだ。大きなフラッグを持ち込むことは禁止されたままであったが、本日もドッグ・ジムの面々には他の陣営と一線を画す一体感が感じられてならなかった。
そして次には、愛音とプレスマン陣営が赤コーナー側の花道に登場する。
先頭を進む愛音はユーリと同じく白とピンク、ジョン、柳原、高橋選手の三名は、白と黒のカラーリングだ。天覇館の選手にもこのカラーリングを好む人間が多かったため、高橋選手もたまたまおそろいになったのだった。
『アトム級暫定王座決定トーナメント、Aブロック一回戦、第一試合! 四十八キロ以下契約、五分三ラウンドを開始いたします!』
両者がケージに居揃うと、リングアナウンサーが意気揚々と声を張り上げた。
『青コーナー。百四十二センチ。四十キログラム。犬飼格闘鍛錬場ドッグ・ジム所属……犬飼、京菜!』
ハーフトップにファイトショーツという試合衣装になった犬飼京菜は、大きな目をぎらぎらと輝かせながら両腕を振り上げた。
『赤コーナー。百六十センチ。四十八キログラム。新宿プレスマン道場所属……アイネ・ローズ=ブロッサム!』
その珍妙なるリングネームがコールされるのは、これが二度目のこととなる。
そして、ハーフトップにショートスパッツという試合衣装は、カラーリングを含めてユーリと同一だ。彼女が誰を意識してそのように珍妙なリングネームをつけたかは、説明するまでもないはずであった。
そうして両者は、ケージの中央で向かい合う。
身長差は十八センチ、体重差は八キロ――しかも本格的に身体を作り始めた愛音は、二キロ以上もリカバリーしている。であれば、実際の体重差は十キロ以上であった。
本来このような体格差は、無差別級でしか起こり得ない。犬飼京菜はもうそれなりのキャリアを積んでいるというのに、いっこうにウェイトが増える気配がなかった。
瓜子は数ヶ月前までドッグ・ジムのお世話になっており、出稽古に出向いた際は夜食までご馳走になることが多かったため、彼女の食生活についてもあるていどは把握している。彼女はあのように小さな身体で、瓜子以上のカロリーを摂取しているはずであった。
それでもウェイトが増えないということは――摂取するより多くのカロリーを消費する猛稽古を積んでいる、という証であるのだろう。つまり彼女は、運動量を抑えてウェイトアップを目指すより、技術の向上に重きを置いているということであった。
(でも、それに付け加えて……きっと、肉がつきにくい体質なんだろうな)
彼女は幼少期より猛稽古を重ねて、身体をいじめぬいていたのだと聞く。それが背丈や体重の発育に悪い影響を与えてしまったのではないかという、そんな疑いがもたれていたのだ。
しかしその分、彼女は若年に似合わぬ技術を体得している。
ジークンドーや古式ムエタイの技術を織り込んだ立ち技の迫力は圧巻であるし、寝技の技術も大江山すみれ以上であるのだ。大江山すみれとて、幼少期より稽古を積んでいるはずなのだから、それもまた大した話であるはずであった。
いっぽう愛音は八歳の頃に武魂会に入門し、十六歳の段階でプレスマン道場に移籍している。グローブ空手のキャリアは八年、MMAのキャリアももう一年と九ヶ月になるのだから、決して侮れるものではないだろう。
ただやはり、犬飼京菜というのは特別な存在であるように感じられる。
愛音のように幼少期から何らかの道場やジムに通う人間というのは、決して少なくないのだ。とりわけ空手や柔道というものは、その傾向が強いように感じられた。
しかしそれは、おそらく心身の健康を育むための行いであるのだろう。
その点が、犬飼京菜と異なっている。彼女はMMAファイターであった父親の影響で稽古を積み、後年には父親の無念を晴らすという執念が原動力になっていたのだった。
そしておそらくは、赤星道場の関係者たち――赤星弥生子、青田ナナ、大江山すみれも、それは同様なのであろうと思う。父親たちが築いた赤星道場と《レッド・キング》を守るために――格闘技ブームの余波で衰退してしまった赤星道場と《レッド・キング》の灯火を消さないために――という執念が、彼女たちの原動力であるはずであった。
(それで、犬飼さんは大江山さんに連勝してて、邑崎さんは連敗してるわけだから……格下と見なされてもしかたないところだよな)
大江山すみれは、まぎれもなく強敵である。今年の合宿稽古で本気のスパーリングというものを体験した瓜子も、その片鱗をまざまざと体感していた。
しかし、彼女が古武術スタイルを駆使しようとも、瓜子が追い込まれることにはならなかった。
そして、犬飼京菜とのスパーリングでは、瓜子も毎回追い込まれていたのである。犬飼京菜には手加減という機能が備わっていないため、毎回が本気のスパーリングであり――そして瓜子は毎回のように、集中力の限界突破ともいうべき状況に追い込まれていたのだった。
よって、現時点では大江山すみれよりも犬飼京菜のほうが難敵であるのだろうと思う。
それを証し立てるかのように、犬飼京菜は大江山すみれに連勝しており――そして、愛音は大江山すみれに連敗していたのだった。
(だけど、格闘技には相性ってものが存在する。あたしにとって厄介なのは、大江山さんより犬飼さんのほうだけど……邑崎さんがそうだとは限らないんだ)
瓜子はそんな思いでもって、両者の対峙を見守ることになった。
愛音は肉食ウサギ、犬飼京菜は狂犬の眼光だ。これだけの殺気を撒き散らす十代の選手というのは、他にそうそう存在しないはずであった。
レフェリーがグローブタッチをうながすと、愛音は無造作に左拳を突き出し、犬飼京菜はそれを荒っぽく平手で叩く。相手を無視せず触れ合っただけ褒めてあげたいほど、両者は殺気立っていた。
そうしてついに、試合の開始である。
すると――試合開始のブザーが鳴らされるなり、犬飼京菜が愛音のもとに突進した。
ひさびさの、ロケットスタートである。
コーチ陣もその可能性を考慮していたものの、瓜子は序盤から息を呑む思いであった。
犬飼京菜は文字通り駆け足で、愛音のもとへと突進する。
すると愛音も正面を向いたまま、ほとんど走るような勢いでフェンス際を横移動した。
犬飼京菜もすかさず進路を調整するが、それだけでもダッシュの勢いは半減される。そして愛音はフェンスに衝突しないように細心の注意を払いつつ、鋭い眼光で犬飼京菜の急接近に相対していた。
上段か、中段か、下段か――打撃技か、地を這うようなタックルか――犬飼京菜は、何を仕掛けてくるかわからない。それは相当な恐怖であるはずであったが、愛音は持ち前のふてぶてしさで平静を保っているように見えた。
そうしてついに、おたがいの間合いに踏み込んだ犬飼京菜は――同じ勢いのまま、身を沈めた。
そうしてマットに片手をついて、右足をマットと平行に走らせる。相手の足をなぎ払うための、水面蹴りだ。
しかし犬飼京菜が身を沈めた時点で、相音は横合いに跳躍していた。
下段であれば、水面蹴りか低空タックルの可能性が高い。そうと見越して、どちらも無効化できるだけの距離を取ったのだ。
マットに着地した愛音は、両腕のガードをゆるめていない。
そしてマットに起き上がった犬飼京菜も、それは同様だ。二人はともに、セカンドアクションで相手が攻撃に出る事態を想定していた。
瓜子は大きく息をつき、客席には歓声が吹き荒れる。
そして瓜子のかたわらでは、蝉川日和がじたばたと足を踏み鳴らしていた。
「まだどっちの攻撃も当たってないのに、物凄い迫力ッスね! 邑崎さんも、さすがッス!」
「はい。邑崎さんは、絶対に優勝するんだっていう意気込みですからね」
愛音はこれがプロ二戦目であり、トーナメントに出場できたことが不思議なぐらいのキャリアである。そんな愛音が優勝することなど、誰も予想していないに違いない。――ただひとり、愛音本人を除いては。
瓜子自身、優勝するのはサキだと信じている。
ただ――決勝戦の相手は愛音であってほしいと、心からそのように願っていたのだった。
モニターでは、軽妙にステップを踏んだ愛音がケージの中央を取っている。
犬飼京菜は遠い位置で、前後と左右にステップを踏んでいた。
両名とも、なかなか攻撃の手を出そうとはしない。
しかし、ベテランのトップファイターもかくやという気迫である。客席からわきあがる歓声にも、期待の念があふれかえっているように感じられた。
(邑崎さん、頑張って。決して勝てない相手じゃないですよ)
瓜子は本心から、そのように思っていた。
確かに犬飼京菜は強敵であるが、つけいる隙はあるはずなのだ。
それに犬飼京菜は、最大にして唯一の弱点を有している。
その小さな身体に起因する、極端な打たれ弱さである。彼女はいまだ現王者の雅選手にしか負けていなかったが、アマチュアの時代にその弱点を突かれてKO負け寸前にまで追い込まれていたのだ。
そしてさらに言うならば、犬飼京菜を窮地に追い込んだその選手――フィスト・ジムの榊原選手を、愛音はノーダメージで倒している。
そこでもまた、選手の相性というものが発露されていたのだった。
(邑崎さんは攻撃力に難があるけど、攻撃の精度はかなり高い。一発でも当てることができれば、かなり有利になれるはずだ)
なおかつ、愛音はリーチでも大きく勝っている。犬飼京菜がいつになく慎重であるのは、愛音のそういった特性を十二分に理解しているためなのであろうと思われた。
サウスポーに構えた愛音は小刻みにステップを踏みながら、じわじわと距離を詰めていく。
いっぽう犬飼京菜は不規則にステップを踏みつつ、愛音との距離を一定に保っていた。
トリッキーな大技で相手を翻弄するのが犬飼京菜のスタイルであるのに、今日はなかなか手を出すことができない。迂闊に動けばカウンターをくらう恐れがあるためであろう。正統派のアウトファイターとして研鑽を積んだ愛音は、距離とタイミングをはかることに長けているのだ。
愛音のほうはジャブを振り始めたが、明らかに誘いの攻撃である。一定の距離を保ってカウンターを狙うというのは、愛音の本領であるのだ。両者はいまだに接触していなかったが、これは愛音に有利な流れであるはずであった。
おたがいのセコンドが、激しく檄を飛ばしているようである。
モニターではその内容を聞き取ることもできないが、どちらも的確な助言を送っているのだろう。ただしそれでも、両名はなかなか相手の間合いに踏み込もうとはしなかった。
そうして一分が経過すると、さすがに客席の歓声にも焦れた気配が入り混じる。
だが、愛音も犬飼京菜も外野の声を気にするような性分ではない。両者はひたすら殺気をみなぎらせ、細かに動きを変えながら、なおも相手の出方をうかがい続けた。
そこで一気に試合が動いたのは、一分四十秒が経過してからのことである。
ふいに愛音が、攻撃を繰り出したのだ。
それは、相手の膝を正面から狙う、関節蹴りであった。
犬飼京菜は素晴らしい反応速度でバックステップを踏み、その攻撃を回避する。
しかし愛音も、同じだけの距離を前進した。
そして今度は、前足による前蹴りだ。
すらりと長い愛音の足が、犬飼京菜の腹を目掛けて鋭く繰り出されたが、これもまたバックステップでかわされた。
さらに犬飼京菜はアウトサイドに回り込み、ぐっと力をたわめたようだが――けっきょく攻撃の手は出せないまま、さらに距離を取った。
モニター越しでも、犬飼京菜が爛々と目を燃やしているのがわかる。
しかしそれでも、攻勢に出るタイミングがつかめないのだろう。今の愛音は、それほどの選手に育っているのだった。
(自分で言うのも何だけど……邑崎さんは、あたしやサキさんやメイさんとスパーを積んできたんだ。プロキャリア二戦目っていうレベルではないはずだよ)
八月末日にトーナメント表が公開されて以来、瓜子たちは仮想・犬飼京菜として愛音とのスパーに臨んでいた。さすがにジークンドーや古式ムエタイの技を真似ることはできなかったが、とにかく回転系の大技を連発して、愛音に対処のすべを学ばせたのだ。
犬飼京菜は誰よりも俊敏であるため、それを真似ることのできる人間はいない。
ただし瓜子たちは、犬飼京菜よりも身長に恵まれていた。瓜子やメイでも、彼女より十センチは長身であるのだ。その身長差は、俊敏性を補って余りあるはずであった。
それで何より身になったのは、サキやメイとのスパーであろう。
サキなどは犬飼京菜より二十センチも長身である上に、もともと大技の蹴りを得意にしているのだ。いっぽうメイはフィジカルモンスターであるため、その機動力は犬飼京菜にも負けていないはずであった。
そんな両者とスパーを積んだ愛音には、犬飼京菜の猛攻にも怯まない覚悟が備わっている。
そしておそらくは、愛音のそんな覚悟と気迫が、犬飼京菜の動きを封じているのだった。
愛音はじわじわと、犬飼京菜を追い詰めていく。
右のジャブを振りながら、遠い距離から関節蹴りや前蹴りを繰り出し、時にはスイッチをして相手を攪乱する。十八歳の高校生とは思えない緻密さと落ち着きだ。愛音はもともと戦いの場においてもせっかちな性分であったが、コーチ陣や赤星弥生子の指導により、そちらも見違えるほど矯正されていた。
そうして同じペースのまま、時間は過ぎ去って――ついに一ラウンド目は、タイムアップである。
攻撃を仕掛けていたのは、常に愛音のほうだ。ほとんど接触らしい接触もなかったが、判定をつけるならば確実に愛音のものであった。
(でも、この二人の勝負が判定までもつれこむとは思えないんだよな)
二人は何事もなかったように、力強い足取りでそれぞれのコーナーに戻っていく。そんな姿も、ベテラン選手さながらであった。
おそらく両者とも、初回のラウンドは相手の間合いやリズムをつかむことに集中していたのだ。
次からのラウンドでは、それらの成果がどのような形で発揮されるのか――自分の試合を間近に控えながら、瓜子はこの若獅子たちの一戦にどうしようもなく心をつかまれてしまっていた。