02 開戦
その後は何事もなく時間が過ぎ去って、開会セレモニーの刻限を迎えることになった。
入場口の裏側に、赤コーナー陣営の選手が集結する。プロ選手が十名にアマ選手が二名という、普段通りの人数だ。かえすがえすも、その内の四名がプレスマン道場の門下生であるというのが、とてつもない話であった。
(もしもユーリさんがいたら、これが五名になってたんだろうしな)
そんな思いを抱えながら、瓜子は本日も列の最後尾から出場選手らの背中を見守ることになった。
本戦の第一試合は、控え室で挨拶をした武中選手の出番となる。灰原選手に連敗した彼女に準備されたのは、ストロー級の中堅選手であった。
第二試合は、かつてストロー級のトップファイターであった時任選手だ。相手はかつて多賀崎選手に敗北したフライ級の若手選手で、時任選手のキャリアを考えればずいぶん格下の相手となる。が、現在はフライ級のトップファイターが不在であるし、とにかく時任選手は復帰後に連敗している身であるので、運営陣も慎重に様子を見ようとしているのだろう。
第三試合は、合宿稽古でご一緒した香田選手とベテランファイター大村選手の一戦である。前回の大会でプロ昇格を果たしたばかりの香田選手が、いきなりトップファイターの関門たる大村選手と対戦することになったのだ。これは、無差別級の選手層が薄いという事実を表すのと同時に、査定試合をKO勝利で飾った香田選手への期待度が示されているのではないかと思われた。
そうして第四試合からは、アトム級暫定王座決定トーナメントとなる。
八月の終わりに公表された、その組み合わせは――
Aブロックの第一試合、邑崎愛音 vs 犬飼京菜。
Aブロックの第二試合、金井若菜 vs 大江山すみれ。
Bブロックの第一試合、濱田初美 vs まじかる☆あかりん。
Bブロックの第二試合、サキ vs 前園彩。
――という内容になっていた。
端的に言って、Aブロックにキャリアの浅い選手をまとめた格好になるだろう。愛音、犬飼京菜、大江山すみれという新人選手の一団に、若手のトップファイターたる金井選手を加えた形であった。
いっぽうBブロックは、歴戦のトップファイターの中に小柴選手が組み込まれた格好になっている。サキはもちろん前園選手だってアトム級では指折りの実力者であり、濱田選手にいたっては雅選手の前の王者であったのだ。
ただ、全体的に年齢は低いように感じられる。アトム級は他にも何名かトップファイターが存在するはずであるが、ベテランと呼べるような選手は濱田選手しかエントリーされなかったのだ。
「ま、現王者が毒蛇ババアなんだから、若い人間をぶつけたくなるのが人情ってもんだろーよ。残りのババアどもは毒蛇ババアに蹂躙された後なんだから、余計にな」
口の悪いサキなどは、そんな言葉で今回のトーナメント戦を評していた。
瓜子としても、基本の部分で異存はない。金井選手というのは去年のタイトルマッチで雅選手に敗北しているので、十代の若獅子たちがそれに打ち勝てるかどうかというテーマでもって、Aブロックは編成されているように思えた。
そうしてアトム級の四試合の後は、トップファイター同士の対戦が三試合だ。
第八試合は、メイ=ナイトメア vs オリビア・トンプソン。
第九試合は、山垣詩織 vs バニーQ。
第十試合は、猪狩瓜子 vs まじかる☆まりりん――ストロー級の、タイトルマッチである。
バニーQこと灰原選手は、ついにセミファイナルに抜擢であった。
しかも相手は歴戦のトップファイターである山垣選手であり、何をどう考えてもこれは次期王座挑戦権を懸けた一戦であろう。この一戦の勝者が、いずれ瓜子と鞠山選手のどちらかと王座を懸けて戦うことになるのだ。
(二戦連続で第二世代のトップファイターと対戦なんて、あたしとしてはちょっと羨ましいぐらいだな)
山垣選手の逞しい背中を見やりながら、瓜子はそんな風に考えた。
ただし瓜子の本日の対戦相手は、第一世代の強豪たる鞠山選手である。これが二度目の対戦であっても、瓜子が不満をこぼす理由などあろうはずもなかった。
「……なんか、視線を感じるなぁ」
と、山垣選手が瓜子のほうを振り返ってくる。かつて金髪のモヒカンであった山垣選手は、サイドの片側だけを刈りあげるようになり、そして金色の髪には赤だの緑だののメッシュが入れられて、いっそう派手になっていた。眉毛もほとんどすりきれて、男のように厳つい顔である。
「今日はあの色ボケバニーをぶっ潰して、タイトル挑戦権をもぎ取ってやるからね。あんたも今さら、あんなロートルに負けるんじゃないよ?」
「押忍。でも、灰原選手も鞠山選手もすごく実力を上げてるはずっすよ。おたがい、頑張りましょう」
「ふふん。あんたらは、チーム・プレスマンだの何だのって持てはやされてたもんな。ま、前回の試合を見る限り、馴れあうつもりはないようだから、そんな話はどうでもいいけどさ」
そう言って、山垣選手はふてぶてしく笑った。
「サキがトンズラこいちまった以上、あたしのターゲットはあんたとこっちのドレッド女だ。あたしとやりあうことになるまで、しっかりベルトを守っておくこったね」
山垣選手は目の前に立ち尽くしているメイに膝を壊されて、長期欠場に追い込まれた身であったのだ。そしてその前にはサキの王座に挑戦して敗れているし、現在の王者は瓜子であるし――山垣選手にしてみれば、打倒プレスマン道場という心意気なのかもしれなかった。
ただ、山垣選手は言動もファイトスタイルも荒っぽいが、瓜子は悪い印象を抱いていない。直情的なファイターなど珍しくもないし、彼女は陰湿なところもないので、むしろ好感を覚えるぐらいであるのだ。そして、今日の結果がどうなろうとも、瓜子はサキとしのぎを削っていた第二世代のトップファイターとの対戦を熱望していたのだった。
そうして瓜子たちが語らっている内に、もう入場は始められている。
メイやサキも扉の向こうに消えていき、山垣選手も続いたならば、ついに瓜子の出番である。
《アトミック・ガールズ》のテーマソングに乗って、瓜子が花道に足を踏み出すと――今日も今日とて、大歓声が迎えてくれた。
前回の大会よりも三百名分が加算された、大歓声だ。
そして瓜子は、その人数以上の熱量を感じていた。
何か、狂おしいほどの歓声である。それはもしかして、ユーリが不在である分、瓜子にいっそうの期待がかけられているということなのかもしれなかったが――瓜子としては、全身全霊で試合に臨む他なかった。
そして、試合の前に、まずは開会の挨拶である。
このたびも、メインイベントの赤コーナー陣営である瓜子に、その役割が与えられていた。
『本日はご来場ありがとうございます。こんなにたくさんの方々が会場に駆けつけてくださって、心から感謝しています』
瓜子がそのように伝えると、いっそうの歓声や拍手が巻き起こる。
瓜子は胸中に渦巻く感情を静かに噛みしめながら、さらに言葉を重ねてみせた。
『今回は、フライ級とバンタム級のトップファイターである方々が出場できませんでした。それでも物足りないと思われないように、自分たちは死力を尽くします。みなさんのご期待を裏切らないように頑張りますので、どうか最後まで見届けてください』
瓜子に言葉を飾る能はないので、正直な気持ちを届けるしかない。
それでも客席の人々が物凄い歓声で応じてくれたので、瓜子はありがたい限りであった。
『猪狩選手、ありがとうございました! 続いて、アトム級の現王者たる雅選手からも、ひと言お願いいたします!』
リングアナウンサーがそのように告げると、会場が大きくどよめいた。
解説席に陣取っていた雅選手が、しゃなりしゃなりとケージの上にあがり込んだのだ。そしてひさびさに登場した雅選手は、その身を豪奢な着物に包んでいたのだった。
黒地に白蛇と赤い牡丹が染め抜かれた、実に毒々しい柄である。
しかし、雅選手にはそういう毒々しさがまたとなく似合っていたし――長い黒髪をアップにまとめて、唇に鮮烈な紅をさした雅選手は、普段以上の妖艶なる美しさであった。
『みなさん、おひさしぶりどすなぁ。元気におすごしやったでっしゃろか? ……何やら、うちがちょい休んどる間にこないな愉快な話になってもうて、楽しいことやねぇ。ま、誰が勝ち上がってきても、最後はうちにくびり殺されるだけやけど、せいぜいイベントを盛り上げてもらいまひょ』
今年はまるまる欠場しようという見込みであるのに、雅選手は悪びれる気配もなかった。
しかしこれこそが、雅選手であるのだろう。雅選手がしおらしく振る舞うことなど、誰も期待していないはずであったし――どこの誰が望もうとも、雅選手がそのように振る舞うことなどありえないのだ。
『雅選手、ありがとうございました! わたしも刮目して、アトム級暫定王者決定トーナメントの行く末を見守らせていただきたく思います! ……それでは、選手退場です!』
雅選手が優雅に手を振る中、瓜子たちは退場することになった。
プレマッチに出場するアマ選手だけが入場口の裏手に残り、十名のプロ選手は控え室まで舞い戻る。ただし、序盤の出場である武中選手と時任選手は、すぐさまウォームアップを開始していた。
「猪狩さん、サキさん、お疲れ様ッス! 何か必要なものはないッスか? 水でもお持ちするッスか?」
と、こちらでは熱血の新人門下生が身を寄せてくる。サキは心から面倒くさそうに、「うっせーなー」とあしらっていた。
「選手様の集中を乱すんじゃねーよ。こっちから命令を出すまで、雑用係はひっこんどけや」
「はいッ! 失礼しましたッ! ……猪狩さんは、大丈夫ッスか? 何でもご遠慮なく言いつけてほしいッス!」
「今のところは、自分も大丈夫です。必要な指示は、コーチ陣が出してくれると思いますよ」
「イノシシ様の仰せの通りだ。いつでも動けるように、気だけは張っとけ」
助言を送るサイトーにも、「はいッ!」と元気いっぱいに答える。しかしまあ、瓜子には好ましく思える初々しさであった。
「ところでよ、ウェアまで着込んで暑苦しくねえのか? 試合場でまで彫りもんを隠す理由はねえだろうがよ?」
そのように問いかけるサイトーは公式のTシャツ姿で、両腕の風神と雷神をさらしている。いっぽう蝉川日和は、長袖のジャージ素材である公式ウェアを着込んでタトゥーを隠蔽していた。
「あたしも迷ったんスけど、セコンドが目立つのはアレかと思って、隠すことにしたッス! あたしのタトゥーは、サイトーさんより派手なんで!」
「だったらせめて、長袖インナーの上にTシャツを着りゃいいだろ。ブランドのロゴさえ見えりゃあ、運営様にも文句はねえだろうしよ」
「いえ! 万が一にも規定違反だったら、まずいッスから! あたしは大丈夫なんで、気にしないでほしいッス! お気遣い、ありがとうございます!」
「……声がでけえよ。ちっとは落ち着け」
と、サイトーまでもが苦笑することになってしまった。
確かに蝉川日和は、いつも以上に血圧が上がってしまっているようだ。その顔には闘争心と見まごう熱気がみなぎり、選手陣にも負けない気迫であった。
「なんか、会場の熱気にあてられちゃったのかもしれないッス! でも、ご迷惑だったら、黙るッス!」
「おう。仕事ができるまでは、モニターでも眺めとけ。オレらにとっちゃあ畑違いだが、参考になる試合もあるだろうからよ」
ということで、プレスマン陣営もしばらくは大人しくモニターを見守ることになった。最初の出番である愛音も第四試合であったため、まだまだ猶予が残されているのだ。
モニターでは、すでにプレマッチの第一試合が始められている。瓜子と同じくストロー級の一戦であるが、あまり目を引く要素はないようだ。
それに続くフライ級の一戦も同様で、結果はどちらも時間切れの判定勝負である。そこでようやく、愛音も軽くアップを開始した。
ここからは、プロ選手による本戦だ。
青コーナーからはストロー級の中堅選手が、赤コーナーからは武中選手が入場する。同じ階級であるために瓜子もこの中堅選手はチェックしていたが、長きのキャリアを積みながらトップファイターには一歩及ばず、この一年ぐらいはすっかりお呼びのかかっていなかった選手であるはずであった。
いっぽう武中選手は、《NEXT》を主戦場にしていた若手の有望株だ。そちらの舞台で灰原選手に敗北した彼女はリベンジを果たすために《アトミック・ガールズ》へと参戦し――そして今後は団体の区別なく、とにかく試合数をこなしたいと主張していた。
(サキさんと小柴選手だけじゃなく、時任選手まで階級を変更しちゃったし、イリア選手も本業に力を入れ始めたから、ストロー級は少し手薄になっちゃったもんな。運営陣も、きっと武中選手に期待をかけてるんだろう)
もとより武中選手はアマの時代から順当に勝利を収めて、プロの舞台でも灰原選手と外国人選手にしか敗北していない。それで現在の戦績は、八勝三敗であるとのことであった。
それを迎え撃つ中堅選手は、正念場である。ここで新進気鋭の若手選手を退けることがかなえば、再びピックアップされるかもしれないのだ。最近のストロー級は大きく勢力図が塗り替えられて群雄割拠の様相を呈し始めているのだから、ベテランの中堅選手としては今こそ返り咲きたいはずであった。
しかし、勝者は常にひとりである。
このたびのサバイバルマッチで勝利を収めたのは――新進気鋭の若手選手であった。武中選手は序盤から積極的に打撃戦を仕掛け、相手が体勢を立て直す間隙も与えずテイクダウンを奪い、豪快なパウンドでTKO勝利を奪取してみせたのだった。
「こいつは、勢いが違ったな。こんな選手に連続でKO勝ちした灰原さんは、大したもんだよ」
立松は、そのように評していた。
そうして控え室に凱旋してきた武中選手は、まず真っ先に瓜子へと呼びかけてきたのだった。
「今日は自分の試合をすることができました! リュウさんに見てもらえなかったのが残念です!」
「ああ、『ベイビー・アピール』は今日が全国ツアーの締めくくりらしいっすね。リュウさんたちには、放映の日に楽しんでいただきましょう」
「はいっ!」と応じる武中選手は、とても清々しげな笑顔であった。
リュウの友人の妹さんが好ましい人柄をしていて、瓜子としても喜ばしい限りである。
そうしてお次は、時任選手の出番だ。
相手はフライ級の若手選手であり、キャリアで言えば圧倒的に時任選手がまさっている。
しかしまた、時任選手は膝に故障を抱えているし、復帰後には連敗しているし、これが階級を上げての初戦であるし――ある意味では、さきほどの中堅選手と似た立場であった。かつてトップファイターであったからこそ、負けられないのは時任選手のほうであるのだ。
(亜藤選手も負けが込んできたけど、それは相手もトップファイターだったからだし……灰原選手との試合では、しっかり自分の持ち味を見せつけていた。でも、時任選手はいい場面を作れないまま、鞠山選手と小柴選手に連敗しちゃったもんな)
これでまたもや若手選手に敗れるようであれば、少なくともトップファイターの冠は外されてしまうことだろう。
なおかつ、階級をあげた上で敗れてしまったなら、もはや打開策も見つけられない。階級をあげるというのは減量を取りやめて心身の充実をはかり、己のポテンシャルを余すところなく発揮させようという目論見であるはずなのだから、ここで負けたら後がなくなってしまうのだ。
そして、その結果は――時任選手の、判定勝利であった。
それも、2対1のスプリット・デシジョンである。瓜子の目から見ても、どちらが勝ってもおかしくない内容であった。
「いやぁ、やっぱりフライ級は重みが違うねぇ。勝ちをこぼしたんじゃないかって、ひやひやしちゃったよ」
控え室に戻ってきた時任選手は、くたびれ果てた顔で笑いながらそんな風に言っていた。
「まあ、あたしはまだまだ身体を作ってる最中だからさ。次はしっかり身体を作って、恥ずかしくない試合をしてみせるよ」
「……それはアタシに言ってんのか? しばらく見ねーうちに、ずいぶん図々しくなったもんだなー」
「うん。あたしはサキさんの復帰戦を見て、奮起することになったからさぁ。まだまだ若いもんには負けないよぉ」
どうも時任選手というのは、なかなかマイペースな人柄なようである。
まあ瓜子としては、サキが仏頂面でその相手をさせられているのが微笑ましいばかりであった。
そうして愛音は肉食ウサギの形相で、いざ出陣だ。
ジョンと柳原と高橋選手がそれに続き、しばらくは三名のセコンドが三名の選手の面倒を見る時間が訪れた。サキがウォームアップを始めたので、瓜子とメイはその妨げにならないようにひっそりと過ごす他ない。
そしてモニターでは、香田選手と大村選手の一戦である。
この一戦が、なかなかの見ものであった。
香田選手は百五十六センチの身長に六十五キロという重量で、いささか特殊なファイトスタイルを有している。愚直に前進しながら、意外に鋭い打撃技を放ち、やがて距離感がつかめてくると俊敏なバックステップで相手の攻撃をすかし、ここぞというタイミングで組み技を仕掛ける――その厄介さは、瓜子も合宿稽古で思い知らされていた。
それに対する大村選手は百七十一センチの身長に七十五キロの重量という堂々たる体格で、レスリングが巧みであり、異常なほど打たれ強い。トップファイターには一歩及ばない力量であるものの、彼女をKOで下すことができたのは、小笠原選手とオルガ選手の両名のみであった。来栖舞や兵藤アケミですら、KOや一本を奪うことはかなわなかったのだ。
そんな大村選手に対しても、香田選手は自らのファイトスタイルを貫いていた。
身長で十五センチ、体重で十キロまさる相手に向かって恐れげもなく接近し、的確に攻撃を当て続けてみせたのである。
最初は大村選手も余裕の表情で、相手の打撃を受け止めていた。
そして、体格差を活かして得意のレスリング戦に持ち込もうと試みていたのだが――香田選手は上体を振りつつバックステップを踏むことで、その組み合いをも退けてみせた。
そうして三分も経過すると、大村選手の足取りが鈍ってくる。
すると、香田選手の勢いがいっそう増してきた。
彼女にはもう一点、底知らずのスタミナというストロングポイントがあったのだ。そしてそれに起因しているのか、彼女はスロースターターでもあったのだった。
大村選手はじわじわとスタミナを削られているのに、香田選手のほうはむしろ動きが鋭くなってくる。
その結果として、香田選手の攻撃がより多く当たり始めた。
これまではガードの上を叩いていた拳が、顔面やボディにヒットする。たとえ十キロの体重差でも、数がかさめばダメージが蓄積するはずであった。
それでついには、大村選手が下がり始めた。
しかし、大柄な大村選手には俊敏さが欠けている。そして相手は、愚直な前進を身上とする香田選手だ。ただ真っ直ぐ下がるだけでは、香田選手を勢いづけるだけのことであった。
小さな選手が大きな選手を圧倒するというのは、見ている人間の心をくすぐるものである。
そうして会場には、これまで以上の歓声が吹き荒れて――そんなさなか、香田選手のショートフックが大村選手の下顎をとらえた。
きっと同じウェイトの人間であれば、ダウンしていたところであろう。
しかし体重でまさる大村選手は、わずかに上体をよろめかせたばかりである。
ただ、香田選手にはそれで十分であった。
香田選手はすぐさま身を沈めて両足タックルによりテイクダウンを奪い、無慈悲なまでのパウンドの雨を降らせた。
もとより香田選手は、柔術の強豪選手であったのだ。
よって、グラウンド戦におけるポジションキープ能力は高い水準に達している。大村選手とてレスリング出身であるのに、スタミナが尽きた上にパウンドの乱打を浴びては、なすすべもなかった。
そうして第一ラウンドが終了しようかというタイミングで――ついにレフェリーが、試合の終了を宣告したのだった。
香田選手の、TKO勝利である。
彼女はプロデビュー戦で、ベテランの中堅選手を見事に下してみせたのだ。
試合後には、セコンドの兵藤アケミが笑顔で香田選手の肩を叩いていた。
大村選手をTKOで下すというのは、兵藤アケミにも成し遂げられなかったことであるのだ。瓜子としては、兵藤アケミの笑顔にこそ胸が熱くなってやまなかったのだった。