ACT.2 Re:boot #3 ~First round~ 01 入場
そうしてユーリたちがいなくなってから、二週間と少しが過ぎ去って――九月の第三日曜日がやってきた。
《アトミック・ガールズ》の九月大会である。
このたびの試合会場は、実にひさびさの『ミュゼ有明』となる。前回の『恵比寿AHAD』よりもやや規模の大きな会場で、収容人数は千六百名ていどだ。
幸いなことに、その日もチケットは満員札止めの結果となっていた。
ユーリたちが不在でも、それだけのお客を集めることがかなったのである。パラス=アテナの面々は胸を撫でおろしていただろうし、瓜子としても感無量であった。
そしてこのたびのセールスポイントは、瓜子の二度目の防衛戦および、アトム級暫定王座決定トーナメントの開幕となる。そちらは八名がかりのトーナメントであり、本日はその一回戦目にあたる四試合が行われる予定になっていた。
二年前に開催された無差別級王座決定トーナメントは一日で決着をつける過酷な形式になっていたが、そういうワンデイトーナメントというのはすっかり廃れて久しいのである。一日に三試合も行うというのは安全面にも問題があるし、決勝戦ではスタミナが尽きて凡戦になってしまいがちというリスクも生じるのだ。
それに現在のパラス=アテナにおいては、なるべく長期間にわたってイベントを盛り上げたいという思惑もあるのだろう。とりわけ今回と次回の大会はフライ級とバンタム級の主力選手が出場できない見込みであったため、そういう思いもさらに加算されるはずであった。
ともあれ、本日行われるのは一回戦目のみで、準決勝戦と決勝戦は次回の興行で開催される予定になっている。瓜子としては、懇意にしている面々が全員一回戦を突破できるように願うばかりであった。
(……まあ、ひと組だけは、懇意にしている人間同士の対戦になっちゃったけどな)
そんな思いを抱え込みながら、瓜子はメイとともに入場することになった。
控え室には、お馴染みのメンバーと新顔のメンバーが居揃っている。お馴染みであるのは立松とジョン、柳原とサイトーのトレーナー陣で、初顔となるのは新人門下生たる蝉川日和と本来は部外者である高橋選手であった。
「このタイミングで女子門下生が増えたのは、もっけの幸いだったな。ま、キック部門の門下生にこっちを手伝ってもらうのは申し訳ないが、ここは遠慮なく頼らせてもらうぞ」
立松がそのように声をかけると、蝉川日和は本日も元気いっぱいの様子で「はいっ!」と応じた。
「せ、先輩方の試合を生で拝見できるんスから、こっちのほうこそありがたいぐらいッス! ご、ご迷惑をかけないように頑張りますんで、どうかご指導お願いします!」
言うまでもなく、素直で情熱的な蝉川日和はいずれのトレーナー陣からも可愛がられていた。とりわけサイトーと立松の両名は、こういうタイプがお気に召すようである。
「それで今回は、高橋さんまで名乗りをあげてくれたからな。こっちは本当に大助かりなんだが……でも本来、お前さんがそこまでする義理はないんだぞ?」
「いえ。週の半分も出稽古でお世話になってるんですから、これぐらいのことはさせてください。……それにあたしも、生で試合を拝見できるのはありがたい限りです」
そんな風に言いながら、高橋選手は大らかに笑ってくれていた。実直で礼儀正しい彼女もまた、この二週間あまりでトレーナー陣と確かな信頼関係を築くことがかなったのだ。
(今回はユーリさんがいない代わりに、メイさんが出場することになっちゃったもんな。いっぺんに四人も出場するなんて、トレーナー陣にしてみれば本当に大変なはずだ)
しかし前回の興行においても、立松たちは見事な布陣でこの難事に対処してくれたのだ。今回はエキシビションの試合もなく、前回よりもいっそう苦労がかさむはずであったが、瓜子は全面的にトレーナー陣の采配を信頼していた。
ちなみに今回はセコンド陣も六名という人数になったため、三名ずつできっちり布陣を分けることになった。立松、サイトー、蝉川日和が瓜子とサキの担当で、ジョン、柳原、高橋選手がメイと愛音の担当という布陣である。
「蝉川さんは初めてのセコンドなのに、いきなり二試合ですもんね。本当に、感謝しています」
瓜子がそのように声をかけると、蝉川日和はいっぺんに顔を赤くしてしまった。
「と、とんでもないッス! 猪狩さんのタイトルマッチを肉眼で拝見できるんスから、こっちがお金を払いたいぐらいッス! 何か不始末があったら、遠慮なくぶっ飛ばしてほしいッス!」
「だから、ぶっ飛ばしたりはしませんて」
瓜子がそのように答えたとき、新たに入室してきた人物が「あっ!」と大きな声をあげた。そちらに目をやると、どこかで見たような覚えのある女子選手が瓜子の顔を注視している。ただ、キャップを目深にかぶっているために、咄嗟には誰かも判別できなかった。
「どうも、おひさしぶりです。ていうか、きちんと挨拶させてもらうのは、たぶん初めてですよね。あたしはビートルMMAラボの、武中といいます」
「ああ、武中選手っすか。どうも、プレスマン道場の猪狩と申します」
それは昨年の『NEXT・ROCK FESTIVAL』で灰原選手と対戦し、今年になってからは《アトミック・ガールズ》の舞台で再戦することになった、武中キヨ選手であったのだ。
武中選手が帽子を取ると、明るめに染めたショートヘアがあらわになる。そして武中選手は、それなりの熱心さをかもしだしながら言葉を重ねてきた。
「猪狩さんの試合は、映像で何度も拝見しています。何せ同じ階級の、絶対王者ですからね。それに……猪狩さんのことは以前から、兄貴にさんざん聞かされていたんです」
「兄貴? ……ああ、武中選手のお兄さんは、《NEXT》の人気選手なんすよね」
「はい。それで兄貴は、リュウさんとも仲良くさせてもらってますんで」
そう言って、武中選手はにこりと微笑んだ。目の光が強くて、けっこう勇ましい面立ちであるのだが、そうすると一気に人懐っこそうな表情になった。
「あたしもときどき飲み会とかに混ぜてもらうんですけど、リュウさんは猪狩さんやユーリさんの話ばかりですよ。それで何か、勝手に親近感を持っちゃってました。図々しかったら、すみません」
「いえ、とんでもない。おかしなイメージを持たれてなかったら、幸いです」
「リュウさんは、どっちのこともベタぼめですよ。しかも珍しく、下心を封印してるみたいでしたから……きっと、猪狩さんたちとの関係をすごく大切にしてるんだと思います」
そんな風に言いながら、武中選手はぺこりと一礼した。
「それじゃあ準備があるんで、いったん失礼します。よかったら、試合の後にでもまたお話させてください」
「ええ、喜んで。今日はおたがい頑張りましょう」
そうして武中選手は自身のセコンド陣とともに、控え室の奥へと進んでいく。
それを横目に、サキが瓜子の頭を小突いてきた。
「なんだ、ありゃ? イノシシハーレムの新人か?」
「そんなけったいな組織は存在いたしません。あれは灰原選手と二回対戦した、武中選手っすよ。サキさんだったら、忘れたりしないでしょう?」
「あいつの素性ぐらいは、先刻承知だよ。その連敗女がどういう経緯でハーレム入りしたのかって聞いてんだよ」
「自分だってきちんとご挨拶をしたのは、これが初めてです。……武中選手のお兄さんは《NEXT》の有力選手で、『トライ・アングル』のリュウさんのご友人なんです。そういった関係で、『ベイビー・アピール』の方々は『NEXT・ROCK FESTIVAL』に参戦することになったんすよ」
しかし、そのリュウが瓜子たちのいない場で話題に出してくれていたなどとは、面映ゆい限りである。瓜子のほうこそ、武中選手に対して至極すみやかに親近感を覚えてしまいそうだった。
「はん。こっちの新人クソガキといい、ハーレム要員には事欠かねーな。乳牛が留守にしてる間に、お盛んなこった」
「あのですね……自分はともかく、武中選手の前でそんな失礼な軽口は叩かないでくださいよ? サキさんだってこれだけキャリアを重ねてれば、他のジムの方々と懇意にする機会はあったでしょう?」
「はん。アタシに気安く近づこうとする人間なんざ、この世に存在するもんかよ」
サキがそのように答えたとき、まるでその声に導かれるように新たな選手が入室してきた。
面長で、今は黒髪を胸のあたりまで垂らしている。その細い目がサキの姿をとらえるなり、「やあ」といっそう細められた。
「サキさん、おひさしぶり。同じ日に出場するのは、ずいぶんひさびさだね。おたがい、負傷欠場が長引いちゃってたもんね」
「……うっせーなー。またぶっ壊れかけた足を蹴られに来やがったのか?」
「うん。おたがい気をつけようね。でも、サキさんのほうは安心かな。前回も前々回も、今まで以上の動きだったもんね。なんか居合斬りの達人みたいで、あたしは惚れ惚れしちゃったよ」
それはかつてストロー級のトップファイターであった、時任選手に他ならなかった。長期欠場を経て鞠山選手と小柴選手に連敗した彼女は、ついにフライ級へと階級を上げて、今回はその初戦となるのだった。
「もしよかったら、一緒に打ち上げでもしない? こっちのコーチ陣にも、話を通しておくからさ。……それじゃあ、おたがい頑張ろうね。サキさんの試合、楽しみにしてるからね」
そうして和やかな笑みを振りまきながら、時任選手も立ち去っていった。
すると何故だか、サキがぐりぐりと瓜子のこめかみを圧迫してくる。
「痛い痛い。なんで自分を攻撃するんすか?」
「ふん。おめーの無駄口に先制しただけのこった」
「だったら、言わせていただきますね。やっぱりサキさんだって、懇意にしてるお相手が……痛い痛い! 照れ隠しの力加減じゃないですってば!」
「本当にお前さんたちは、緊張感とも無縁だな。そろそろ試合場に移動しておくぞ」
そうして立松の号令によって、瓜子たちは試合場に向かうことになった。
するとそちらには、さらに懇意にしている人々が待ち受けている。四ッ谷ライオットと天覇ZEROの面々である。
「あー、来た来た! プレスマンは、いっつも重役出勤だねー!」
と、灰原選手がさっそく満面の笑みで瓜子にからみついてくる。けっきょく今日まで予定が合わなかったため、灰原選手たちと再会するのは『ジャパンロックフェスティバル』以来であったのだった。
ただし、鞠山選手とだけは、昨日の内の再会を果たしている。タイトルマッチには、調印式というものが存在するのである。そして鞠山選手は、昨日と同じように不敵で眠たげな笑みを届けてきたのだった。
「そのつやつやのお肌からして、体調も万全なようだわね。今日はしこたま可愛がってやるだわよ」
「押忍。どうかよろしくお願いします」
どれだけ交流を深めようとも試合では全力でぶつかるのみであるし、それ以外の場所では険悪に過ごす必要もない。自分ばかりでなく相手もそのように振る舞ってくれるというのは、何よりありがたい話であった。
「あたしだって今日の試合に勝って、挑戦権をゲットしてみせるからね! うり坊は、魔法老女なんかに負けないでよー?」
「格下ウサ公は黙ってるだわよ。それじゃあわたいたちは、マットの確認に出向くんだわよ」
「あ、その前に、うちの新人を紹介させてもらっていいっすか?」
いちおう蝉川日和という新人が入門したことは、すでにメールで伝えている。ただ、彼女はキック部門であったため、さしたる関心は寄せられていなかったのだった。
「彼女が、蝉川日和さんです。蝉川さん、こちらが本日自分と対戦する鞠山選手で、こちらが灰原選手です」
「はいっ! お二人の試合も、映像で拝見したッス! どうぞよろしくお願いします!」
灰原選手は瓜子にしなだれかかったまま、蝉川日和の顔を「んー?」と覗き込んだ。
「ちょっと地味めだけど、まあまあ可愛いお顔だね。メイクしたら、映えるんじゃない?」
「ありがとうございます! でも、メイクは興味ないッス!」
「声も大きいけど、背も大きいなぁ。ちょうどイネ公と同じぐらいかな? ちっちゃくて可愛いのは、うり坊とメイっちょだけだねー!」
と、灰原選手は瓜子の頭に頬ずりをしてくる。蝉川日和の先輩門下生たる瓜子としては、なかなか威厳を保つのが難しいところであった。
「そういえば、あんたは愛音より小さかったんだわね。態度がでかいんで、図体もでかいイメージだっただわよ」
「あんたにだけは、言われたくないってんだよ! さっさとマットの確認にでも行ってきたらー?」
「そうだわね。わたいはどうでもかまわないけど、いらない誤解を招かない内に退散するだわよ」
やはり、タイトルマッチでぶつかる両名が試合前に馴れあう姿というのは、あまり見せるべきではないのだろう。とりわけ日本人というのはそういう話に敏感であるのだと、瓜子も立松からそのように聞かされていた。
そんなわけで、鞠山選手と天覇ZEROのコーチ陣はケージのほうに立ち去っていく。
それと入れ替わりでやってきたのは、赤星道場の面々であった。
「みなさん、お疲れ様です。先日の合宿稽古も、ご参加ありがとうございました」
「どうも、お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」
出場選手の大江山すみれに、セコンドは赤星弥生子に大江山軍造に六丸という布陣だ。それらの姿に、立松はにやりと笑った。
「前回と同じく、念入りな布陣だな。準決勝でぶつかれるように、おたがい気張ろうや」
「ほう。それじゃあそっちは、今日の試合も勝つつもりなわけだな。そいつは心強いこった」
あちらからは、大江山軍造が赤鬼のごとき笑みを返してくる。
愛音の一回戦目は、犬飼京菜が相手になってしまったのだ。大江山軍造に指摘されるまでもなく、これは間違いなく愛音の正念場であった。
そうしてドッグ・ジムの面々はすでにケージの内であり、こちらに視線をよこそうともしない。犬飼京菜の性格上、対戦相手とは顔をあわせたくないのだろう。以前は対戦相手である大江山すみればかりでなく赤星弥生子にまで宣戦布告していたものであるが、あれは赤星道場への確執があっての行いであったのだ。
「トーナメントに参加するのは誰もがまぎれもなくトップファイターなのですから、どのような組み合わせでも決して油断はできないでしょう。……それでも、プレスマン道場の方々が勝ち進んでくるように祈っています」
そのように語る赤星弥生子は、いつも通りの静かな面持ちだ。もう以前のように張り詰めた気配をむやみに撒き散らすことはなくなっていたが、その静謐さもまた武道の達人を思わせてやまなかった。
「それじゃあ、そちらさんにも紹介しておくか。こいつはキック部門の新人で、蝉川日和ってもんだ。今後も何かと顔をあわせる機会があると思うんで、ひとつよろしくな」
「蝉川日和ッス! よろしくお願いします!」
蝉川日和が毛先のはね回った頭を下げると、赤星弥生子が「せみかわひより?」と反問した。
「初めまして……だと思うのだが……どこかで名前を聞いた気がするな」
「はい。それはたぶん、附田さんが仰っていた方ではないでしょうか? ちょうど一年前ぐらい前に、どこかのバーで乱闘騒ぎになって……何人もの男性を病院送りにしたという女性が、そういう名前であったかと思います」
大江山すみれがにこにこと笑いながら発言すると、蝉川日和はたちまち真っ青になってしまった。
「つ、附田さん? みなさんは、附田さんをご存じなんスか?」
「ああ。ハンマーヘッドの連中は、《レッド・キング》の常連だからな。……俺も思い出したぞ。それで附田くんはお前さんの腕っぷしに惚れこんで、ハンマーヘッドへの入門を勧誘したそうじゃねえか」
立松たちが呆れた顔で蝉川日和のほうを振り返ると、大江山軍造は豪快に笑いながら言葉を重ねた。
「だけどお前さんは、しつこく勧誘する附田くんをぶっ飛ばして逃げ出したんだって聞いてるぞ。附田くんは、そりゃあ残念がってたもんだ。そいつがまさか、プレスマンに入門するとはなぁ」
「……未成年の小娘が、バーで乱闘騒ぎかよ。おい、お前さんはまだ警察のご厄介になったことはないって話だったよな?」
立松が厳しい表情で問い質すと、蝉川日和は直立不動で「はいっ!」と答えた。
「そ、そのバーはオーナーがそのスジのお人なんで、どんな騒ぎになっても警察が呼ばれたりはしないんス! だから、警察沙汰にはなってないッス!」
「……そんなバーに出入りしてた時点で、俺はどうかと思うけどな」
「も、申し訳ないッス! ……あの、あたし、破門ッスか?」
蝉川日和が子供のように不安そうな顔になると、立松より先に大江山軍造が声をあげた。
「なんだなんだ、破門だの何だのずいぶん大げさに騒ぐじゃねえか。飲みの席での乱闘騒ぎなんざ、昔は日常茶飯事だったろ? うちなんざ、大吾さんが先頭切って暴れてたぐらいだしなぁ」
「昔と今じゃあ、時代が違うだろうがよ。だいたい、女の身で乱闘騒ぎなんざ――」
「そいつは男女差別ってもんだ! だいたいな、騒ぎを起こしたのは別の連中で、そこの娘さんや附田くんなんかは巻き込まれただけって話なんだよ。無事に店を出るには周りの連中をぶっ飛ばすしかないって状況だったらしいから、どれだけ暴れたって正当防衛だろ」
立松は溜息をつきながら、自分の頭をがりがりと掻きむしった。
「その附田ってやつは、信用できるのか? どうせ《黒武殿》で暴れてるやつなんだろ?」
「おうよ! 信用できねえやつを、《レッド・キング》に呼んだりはしねえよ! 猪狩さんたちだって、去年の打ち上げで附田くんと仲良くしてたろ?」
「押忍。附田選手って、あのマリア選手と対戦したスキンヘッドのお人っすよね? あのお人はユーリさんのファンだったんで、サインをあげたりしてましたよ」
「うん、そうそう! とにかくな、酔っ払いとはいえ野郎連中をぶっ飛ばせるなんざ、大したもんだ! そんな有望な娘っ子を獲得できたんなら、せいぜい鍛えてやるといいさ!」
大江山軍造の高笑いにもういっぺん溜息をつきつつ、立松は蝉川日和の青ざめた顔をにらみつけた。
「過去のことは、水に流そう。ただし、うちの門下生となったからには喧嘩もご法度だし、そんな真似をするやつにプロは務まらねえ。そこのところは、きっちり理解できてるか?」
「はい! 酒と煙草だけじゃなく、喧嘩もやめたッスから! 今後はどんなにムカついても、絶対に手は出さないッス!」
立松は「よし」とうなずき、サイトーは無言で蝉川日和の頭を引っぱたく。そうして蝉川日和は引っぱたかれた箇所を押さえつつ、おずおずと瓜子のほうを見てきた。
「あの……あたし、猪狩さんに愛想を尽かされちゃったッスか?」
「いえ。自分も過去のことでどうこう言うつもりはないっすけど……でも、蝉川さんが不祥事を起こしたら道場や他の門下生にも迷惑がかかるっていうことを、しっかり自覚してほしいと思います」
「はいっ! 絶対に約束は守るッス! 猪狩さんの名誉を汚すぐらいなら、死んだほうがマシッスから!」
「そこは猪狩じゃなく、道場の名誉だろうがよ」
サイトーは苦笑を浮かべつつ、もういっぺん新人門下生の頭を引っぱたいた。
それでようやく丸く収まったようなので、瓜子はひとつ息をつく。すると、赤星弥生子がさりげなく瓜子の耳もとに口を寄せてきた。
「なんとなく、最初から気配を感じていたけれど……彼女は、猪狩さんに強い思い入れを抱いているのかな?」
「あ、はい。彼女は自分の試合を観て、格闘技をやりなおそうと思いたったそうです」
「そうか。さすがは、猪狩さんだね」
そうしてやわらかい微笑をこぼしてから、赤星弥生子はさらに囁きかけてきた。
「まあ、乱闘騒ぎの一件は気にしなくていいと思うよ。私も《レッド・キング》に参加させる選手の素性は入念に確認する必要があるので、さきほどの一件に関してもきっちり聞かせてもらっているけれど……話を聞く限り、あれは正当防衛だ。なおかつ、騒ぎを起こしたグループと附田くんとバーのオーナーの三者で和解も果たされているので、遺恨を残すこともない。彼女がきちんと身をつつしめば、今後はそういった騒ぎに巻き込まれることもないだろう」
「そうっすか。弥生子さんにそう言っていただけると、自分も安心できます」
瓜子がそのように答えたとき、灰原選手がまた全身でからみついてきた。
「何をこそこそ密談してるのさー! あたしをのけものにするなんて、ひどくない?」
「のけものになんて、してないっすよ。もう、甘えん坊モードが全開っすね」
「しかたないじゃん! マコっちゃんがいないんだから!」
すると、赤星弥生子は微笑をはらんだ眼差しで灰原選手を見つめた。
「ナナたちも、そろそろ最初の試合が迫ってる頃だね。その正確な日付はわからないし、私たちはずいぶん後になってから編集された映像を観るしかないのだろうけれど……ともあれ、日本陣営の選手たちが全員勝利することを祈っているよ」
「マコっちゃんたちなら、大丈夫さ! そんでもって、優勝するのはマコっちゃんだからね!」
「猪狩さんに抱きつきながらそのような発言のできる灰原さんは、大したものだと思うよ」
そのように語りながら、赤星弥生子はやはり静謐だ。
瓜子はユーリを、灰原選手は多賀崎選手を、赤星弥生子は青田ナナを応援する身である。しかし、だからと言って、瓜子たちが交友の関係を崩す理由はないはずであった。
そしてそれよりも、まずは自分たちの試合である。
瓜子は左手首に装着したピンク色のリストバンドをそっと撫でながら、自分の試合に集中することにした。