02 初日(下)
「よう。ちょいと邪魔するぜ」
瓜子たちにそんな言葉が投げかけられたのは、サキや高橋選手と合流してから一時間ほど稽古を積んだのちのことであった。
声をかけてきたのは、キック部門のサブトレーナーたるサイトーである。背丈は鞠山選手と同じく百四十八センチという小兵なれども、金色の髪を螺髪のようにまとめあげて、仁王像のように厳つい面立ちをした、大先輩だ。そしてサイトーのかたわらには、見慣れぬ少女が緊張しきった面持ちでたたずんでいた。
「押忍、お疲れ様です。サイトー選手、こちらは今日から出稽古でご一緒することになった、高橋選手です」
「ああ、天覇館のネエチャンか。オレはキックが専門なんで関わる機会は少ないと思うが、まあよろしくな」
「押忍。よろしくお願いします」
これにて、こちらの挨拶は終了した。お次は、サイトーが引き連れてきた人物の番である。
しかしその前に、サイトーは瓜子の顔をじろじろと眺めてきた。
「思ったより、腑抜けたツラはしてないみてぇだな。初対面の挨拶で情けねえ姿を見られなかったのは、幸いだ」
「押忍。そちらは、どなたっすか?」
「こいつは今日付けでキック部門に入門した、新人だ。あとは、手前でアピールしな」
「は、はい! あたしは、蝉川日和ッス! 年齢は十八歳で、高三の年代ッスけど、高校には行ってません! 昼間は倉庫で働いてます!」
大きな声を張り上げて、その人物は深々と一礼した。
頭は無造作なショートヘアで、よほど癖毛であるのか、あちこち毛先がピンとはねている。眼光が鋭くて、なかなかに勇ましい面持ちであるが、ずいぶん緊張してしまっているようだ。
それに、背丈は百六十センチの愛音と同程度で、長袖のラッシュガードとハーフパンツを纏ったその身体は、やや細身なれどもしっかり筋肉がついている。見るからに、格闘技の未経験者とは思えないたたずまいであった。
「……あなたはどこかで、お見かけした覚えがあるのです。もしかして、《G・フォース》のアマ大会に出場していたのです?」
愛音の問いかけに、蝉川日和なる少女は「はいっ!」と大きな声で答えた。
「も、もうすいぶん前ですけど、中坊の頃に中量級で出場してたッス! もともとの所属は、ホワイトタイガー・ジムッス!」
「へえ、ホワイトタイガーっすか。自分も昔は、しょっちゅうそちらの方々とやりあってましたよ」
瓜子がそのように口をはさむと、蝉川日和は一瞬で真っ赤になってしまった。ただその顔は、厳しく引き締められたままだ。
「い、猪狩さんのご活躍は、拝見してるッス! に、二年前の多田さんとの試合ではセコンドの雑用係を押しつけられたんで、あたしも会場で拝見したッス!」
「多田先輩? 二年前っていうと……アヤノ選手のことっすかね?」
二年前となると、瓜子がプレスマン道場に移籍した年だ。であれば、その年でキックの試合をしたのは、二回のみ。瓜子の記憶によると、ホワイトタイガー・ジムの所属であったのは、前半に対戦したアヤノ=ホワイトタイガー選手のほうであった。
「……ああ、あの忌まわしい日のことなのですね。愛音は格闘技チャンネルで拝見しましたが、忘れようにも忘れられない漆黒の記憶であるのです」
「い、忌まわしいって何すか。新人さんの前で、おかしなこと言わないでくださいよ」
「あの日はユーリ様がラウンドガールを務めており、KO勝利した猪狩センパイを抱擁し、頬ずりされていたのです。忌々しいこと、この上ないのです」
愛音は半分まぶたを下げて、瓜子のことをじっとりとにらみつけてくる。
瓜子が頭をかいていると、サイトーはにやにやと笑いながら、新人門下生の脇腹を荒っぽく小突いた。
「言いたいことは、残らず言っておけよ。稽古の前に、雑念は浄化しておけや」
「は、はい! ……あの、あたしは言葉を飾ることができないんで、本音で語らせてもらっていいッスか? 気に食わなかったら、遠慮なくぶっ飛ばしてほしいッス!」
「何もそんな、ぶっ飛ばしたりしないっすよ。自分に何か、言いたいことがあるわけっすね?」
「は、はい! あたしはたぶん、猪狩さんの試合をほとんどチェックしてると思うんスけど……正直に言って、キックの時代には興味を持ってなかったッス! でも、MMAでの試合を拝見して……それであたしももういっぺん、キックをやりなおそうって思ったんス!」
「キックをやりなおす? ホワイトタイガー・ジムを辞めてから、ブランクがあるんすか?」
「はい! ちょうど猪狩さんと多田さんの試合を見届けた直後ぐらいに、辞めることになったッス!」
であれば、二年以上のブランクであろう。それで現在十八歳ということは――ずいぶん早い段階で辞めてしまったものであった。
「あ、あたしは十歳から十六歳まで、ジムに通ってたんスけど……その、家とか職場とか仲間関係とかで、色々と問題が重なっちゃって……真面目に稽古する気が失せちゃったんス。そ、それで今年の二月ぐらいに、ツレから《アトミック・ガールズ》の映像を観せられて……い、猪狩さんとマリアって選手の試合ッスね。それでなんか、頭をぶったたかれたような心地で……居ても立っても居られなくなって、猪狩さんのMMAの試合映像を全部拝見することになったんス!」
「それで半年がかりで身体を作りなおしてから、こうしてプレスマン道場に入門してきたんだとよ。つまり、お前さんに憧れて、格闘技熱が再燃したってわけだな」
「サ、サイトーさん! 憧れとか言われるのは、恥ずかしいッス!」
蝉川日和は、どんどん赤面してしまう。そのまま血管が切れてしまうのではないかと、いささか心配なところである。
そして瓜子は、思わぬ驚きを頂戴することになってしまった。赤星道場の合宿稽古で出会った中学生の少年と同様に、この蝉川日和という少女も瓜子の試合に触発されて、格闘技の稽古を再開しようという心境に至ったわけなのであった。
「そんでも、MMAじゃなくキックのほうに入門したわけか。おめーも親か何かに反対されたクチか?」
サキがそのように口をはさむと、蝉川日和は「いえ!」と答えた。
「親はとっくにくたばってるし、保護者代わりの叔父貴は我関せずなんで、関係ないッス! ただ、わちゃわちゃした寝技とかは自分の性分に合わなそうだったんで、またキックを始めることにしたッス!」
「こいつはけっこう、荒っぽい環境で育ったみたいでな。ま、警察のお世話になったことはギリギリないらしいから、温かく迎えてやってくれや」
サイトーがすました顔でそのように言い添えると、愛音が「あっ」と声をあげた。
「もしかして……あなたは昔、サイトーセンパイのような髪色だったのです? それなら愛音も、試合を拝見した覚えがあるのです」
「は、はい! 実は先月まで、もっとド派手な頭だったッス! この下も、タトゥーでびっしりッス!」
と、蝉川日和はラッシュガードに包まれた上半身を撫で回す。その姿に、愛音は「なるほどなのです」と首肯した。
「あなたは当時中学生だったのにタトゥーだらけで、それで長袖のウェアを着込んでいるという噂があったのです。その噂は、真実であったのです?」
「は、はい! あたしも十八歳になったんで、もう問題はないみたいッスけど……あたしのはちょっとド派手すぎるんで、稽古中は隠すことにしました!」
瓜子はそもそも憧れの選手であったサキが左足に燕のタトゥーを入れているため、タトゥーの文化に抵抗はない。が、おそらく十八歳になるまでは、タトゥーの施術は禁止されているのだろう。それで中学時代からタトゥーだらけであったといのは――なかなかに豪気な話であった。
「とまあ、そんな感じでな。こいつはキック部門のあずかりになるが、手が空いたときには面倒見てくれや。憧れの相手とスパーを積めたら、こいつも感無量だろうしよ」
「で、ですから、憧れとかいう言葉は小ッ恥ずかしいッス! あたしは、ただ……猪狩さんみたいに、熱い試合をしたいって思っただけッスから……」
と、自分の言葉にいっそう顔を赤らめながら、蝉川日和はずっと無言でたたずんでいるメイのほうに視線を突きつけた。
「い、猪狩さんの試合はみんな凄いッスけど、一番凄いのはメイさんとの試合でした! い、いつかメイさんにも稽古をつけてもらえたら、光栄ッス!」
メイは「うん」としか答えなかった。
サイトーは分厚い肩をすくめつつ、もういっぺん蝉川日和の脇腹を小突く。その腕にも、見事な雷神と風神のタトゥーが凶悪な笑顔を見せていた。
「それじゃあ、このあたりで切り上げるか。今日のところは面倒をかけねえから、手前らは好きなだけもつれ合ってろや。来週からは、よろしくな」
そうして瓜子たちと蝉川日和の初顔合わせは、終了した。
ユーリがいなくなった日に、このような新人門下生を迎えることになったのだ。ユーリが聞いたらどんな顔をするのだろうと、瓜子はそんな思いをよぎらせながら稽古を再開させることに相成ったのだった。
◇
そうして午後の十時に至り、その日の稽古は終了した。
本日はキック部門の門下生が清掃の当番であったため、更衣室で蝉川日和と出くわすことはない。彼女がどれだけ見事なタトゥーを入れているかは、後日のお楽しみであった。
「日本からネバダまでは、飛行機で十二時間ていどであるのです。ユーリ様も、もうあちらの空港に降り立っているところであるのです」
「ふん。あの乳牛の重量で、飛行機が墜落してなければなー」
「サキセンパイは、度し難いほど不謹慎であるのです! 飛行機が無事に到着したことは、フライトレーダーのサイトで確認済みであるのです!」
瓜子はそんな愛音の言葉によって、ユーリの無事を確認することができた。
心の中で愛音にお礼を言いつつ、シャワーと着替えを済ませて、道場を出る。
昨日はこの道も、ユーリと一緒に辿ったのだ。
ユーリ抜きで、道場からの帰路を辿る。これもまた、瓜子には初めての体験であるのかもしれなかった。
サキや愛音や高橋選手とは駅で別れて、メイと二人で電車に乗る。
三鷹で降りたら、マンションまでは徒歩の道のりだ。
その道中、瓜子はメイとぽつぽつ言葉を交わしていたのだが――それもまた、夢の中の出来事のようにぼんやりとしていた。
なんとなく、気持ちや考えがまとまらない。
ラスベガスに到着したユーリがどのような表情をしているかも、うまく想像することができなかった。
そうしてマンションに到着したならば、エレベーターで五階を目指す。
やがて部屋の前まで到着すると、メイが何気なく瓜子に語りかけてきた。
「ウリコ、少し待っていてほしい」
「え? 何すか?」
メイは答えず、自分の部屋に入っていった。
が、さして長い時間をかけることなく、瓜子のもとに舞い戻ってくる。ただ、その背中からリュックが消失し、代わりに何かナイロン素材の大きな包みを小脇に抱えていた。
「これは、寝袋。……今日、ウリコの部屋、宿泊させてほしい」
「え? どういうことっすか?」
「……ウリコ、元気そうだったら、干渉しないつもりだった。でもやっぱり、時間が過ぎるごとに、ユーリの不在が影響を及ぼしているように見える。だから、宿泊させてほしい」
瓜子は思わず、メイの顔をまじまじと見つめ――それから、泣きたいような気持ちで笑うことになった。
「やだなぁ。自分はそんなに落ち込んでるように見えますか?」
「落ち込んでは、いないと思う。ただ、ユーリの不在で、だんだん心が曇っていってるように思う。……僕、大切な相手と離れる苦しさ、知ってる。孤独は少しずつ、人の心を蝕んでいく」
メイのほうは、怒っているような顔でそのように言いたてている。
ただその黒い瞳には――思いも寄らないほど、穏やかな光がたたえられていた。
「ウリコ、僕の孤独をやわらげてくれた。だから今度は、僕がウリコの役に立ちたい。……ウリコ、迷惑?」
「……迷惑なわけ、ないじゃないっすか」
瓜子はメイから顔をそらして、ドアのキーロックを解除した。
「どうぞお入りください。……でも、寝袋ひとつでお泊まりできるんすか?」
「着替え、タオル、歯磨きの器具、すべて詰め込んである。心配は、無用」
「……ありがとうございます、メイさん」
そんな風に伝えながら、瓜子は目もとに浮かんだものを手の甲でぬぐった。
ユーリも今ごろ、誰かの優しさに包まれているだろうか。ユーリがひとりきりではなく、多賀崎選手や沙羅選手や魅々香選手とともにあることを、瓜子は心から感謝したかった。
そうしてユーリと離ればなれで過ごす最初の一日は、メイの優しさに包まれながら終わりを迎えることに相成ったのだった。