ACT.1 別れの始まり 01 初日(上)
世間は、九月に突入し――瓜子とユーリにとっては、長きにわたる別離の時間が開始された。
最長で、三ヶ月にもわたる別離の時間である。瓜子としてはユーリが少しでも心安らかに過ごせるように祈りつつ、自分もまた全力で気持ちを引き締めなければと誓うばかりであった。
出立の朝、ユーリはいつも通りの笑顔でマンションを出ていった。
これから空港に入るシーンを撮影されるため、一張羅のおめかしスタイルである。そうしてユーリは試合やライブの前と同じように、瓜子と拳をぎゅっと合わせて――後ろを振り返ることなく、颯爽と出立していったのだった。
ユーリだけがマンションを出て、瓜子がひとりで取り残されるというのは、これまでほとんど味わったことのない状況である。
出先であれば、別行動を取ることもなくはない。ユーリは隔週で美容院に行っていたし、時には悪寒と鳥肌をこらえて美容エステに出向くこともあったため、瓜子もそういった際には自分の用事を済ませていたりしたのだ。
だが、このように瓜子がマンションに取り残されることは、果たしてあったかどうか――どれだけ記憶をまさぐっても、なかなか瓜子には思いつかなかった。
(そういえば、あたしがリンや佐伯さんと遊ぶために、ユーリさんを置いてけぼりにしたことはあったっけ。……まあ、あのときはユーリさんがストーカーみたいに追っかけてきて、すぐに再会することになったけどさ)
そういえば、逆のパターンで瓜子がユーリを追いかけたこともある。ユーリが数少ない友人であるアキくんこと清寺彰人と遊びに出かけたとき、愛音の発案でこっそり後を追いかけ回すことになったのだ。
しかしその後、ユーリがアキくんと遊ぶ際には瓜子も誘われることになったし、瓜子が佐伯たちと遊ぶ際にはユーリを誘うことになったし――そう考えると、瓜子もユーリもひとりきりでマンションに取り残される機会などは一度として存在しなかったのではないかと思えるほどであった。
(……って、いきなりそんな感傷的な気分を抱え込んで、どうするんだよ。馬鹿みたいにぼーっと突っ立ってないで、身体を動かそう)
瓜子は自分の頬をぴしゃんと叩き、まずは家事をこなすことにした。
昨日使用したトレーニングウェアやタオルなどを洗濯機にかけて、その間に朝食の洗い物を完了させる。余った時間は、廊下やダイニングキッチンの清掃だ。
洗濯が済んだならば乾燥機にかけて、もののついででトイレやバスルームの掃除にまで着手する。そうして乾いた衣類を自分とユーリの衣装ケースに片付けたならば、朝の家事も終了で――それを見計らったかのように、携帯端末がメールの受信を告げてきた。
ユーリはまだ空港への移動中であろうし、そもそもユーリは電話やメールを業務連絡でしか使おうとしない。「どんなにうり坊ちゃんを恋しく思おうとも、たぶん電話やメールはしないと思うので、そのおつもりで!」と、ユーリは出立前にも宣言していた。それではいったい誰からの連絡であろうと思い、携帯端末を取り上げてみると――そこに表示されていたのは、『灰原久子』の四文字であった。
『マコっちゃんが出発しちゃったよー! さびしーよー!』
本文には、そんな言葉が記載されていた。撮影のために空港への見送りをお断りされた灰原選手は、「それなら家まで見送りにいくもん!」と言い放っていたのだ。瓜子は何だかほっとしたような、それでいてちょっぴり泣きたいような心地でメールを送り返すことになった。
『ユーリさんも、無事に出発しました。寂しいですけど、二人の健闘を祈りましょうね』
そうして瓜子が携帯端末をポケットに戻そうとすると、すぐさま新たなメッセージが届けられる。
『仕事じゃなかったら、うり坊と遊びたかったよー! うり坊は、いつならヒマ?』
灰原選手も夕方からの稽古時間を確保するために、バニー喫茶の勤務は早番をメインにしているそうであるのだ。きっと今も職場への移動中に携帯端末を操作しているのだろうと思われた。
『日曜日は夕方まで仕事が入っちゃいましたけど、夜なら空いてます』
『日曜はこっちが遅番なんだよー! 来週の火金の昼間は?』
『どっちも仕事です。タイミングが合わないですね』
『仕事って、グラビア撮影? すっげー! そんなにガンガン仕事が入ってるんだー? こりゃー来月は、本屋やコンビニがうり坊の水着姿に埋め尽くされちゃうね!』
『気分がすぐれないので、今日はもう失礼します』
『こっちも職場に着いちゃったよ! また休み時間にでもメールするねー!』
瓜子が苦笑を浮かべつつ携帯端末をしまいこむと、今度は来客を告げるチャイムが鳴った。
時刻は早くも、午前の九時二十分である。インターホンのモニターに映し出されているのは、大きなリュックを背負ったメイの姿であった。
「すぐ行きますんで、少々お待ちください」
瓜子は自室に準備しておいたショルダーバッグを取り上げて、急ぎ足で玄関に向かった。
「お待たせしました。それじゃあ出発しましょう」
本日は瓜子も一日フリーであったため、朝から道場の自由稽古に励むことにしたのだ。
メイは「うん」とうなずきながら、瓜子の顔をじっと注視してきた。
「どうしました? 自分の顔に、何かついてますか?」
「ううん。思ってたより元気そうだから、安心した」
ドアのロックを確認しつつ、瓜子はメイに笑いかけてみせた。
「お気遣いありがとうございます。そんなどっぷり落ち込んだりはしてませんので、ご安心ください」
「うん」とうなずくメイとともに、瓜子はプレスマン道場を目指した。
マンションから三鷹駅まで徒歩で十五分、三鷹から新宿まで電車で十五分、新宿駅からプレスマン道場まで徒歩五分で、十時前には到着だ。そして瓜子はその時間内に、数々のメールを受信することになったのだった。
『桃園にもメールを入れておいたよ。そっちも大変だろうけど、頑張ってね』
『ついに出発の日だわね。気を抜いて稽古中に事故って、タイトルマッチを台無しにするんじゃないだわよ』
『おはようございます。猪狩さんは、お元気ですか? 何かあったら、ご遠慮なく連絡をくださいね』
『ウリコ、おはよー。ユーリがいないと寂しいだろうけど、気を落とさずに頑張ってねー。メイにもよろしく伝えてくださーい』
『ナナは無事に出発しました。誰もが本来の力を発揮できるように祈りましょう。猪狩さんもタイトルマッチに向けて、頑張ってください』
小笠原選手、鞠山選手、小柴選手、オリビア選手、そして赤星弥生子――誰もが瓜子の心情を気づかってくれているのだ。
瓜子がそのひとつひとつに気持ちを込めて返信していると、かたわらのメイがそっと呼びかけてきた。
「ウリコ、みんなに大事にされている。……ただ、メッセージアプリを使っていないから、返信が大変そう」
「あはは。まったくっすね。こんなことなら、いい加減にガラケーを卒業しておくべきでした」
そんな風に答えながら、瓜子はしみじみと感謝の思いを噛みしめることになった。
そうして道場に辿り着くと、すでに入り口のガラス戸は開錠されて、サブトレーナーの柳原や男子選手が自由稽古に励んでいた。
「押忍。おはようございます」
「押忍。……思ってたより、猪狩は元気そうだな」
「あはは。メイさんにも、さっき同じことを言われちゃいました」
「きっと今日は、何回も同じ言葉を聞かされるだろうな。集中して、怪我のないように気をつけろよ」
「押忍。肝に銘じます」
ユーリはそろそろ空港に到着して、撮影を開始されている頃合いであろうか。
そんな想念を頭によぎらせながら、瓜子もまた自分の為すべきことに取りかかることにした。
◇
午前の十時から正午までは補強稽古に取り組み、メイと二人でランチを済ませた後は、スパー中心の稽古である。
そうして午後の二時になったところで、立松が姿を現した。
「よう、やってるな。……思ってたよりは、元気そうな面じゃねえか」
いつも通りの不敵な笑みを浮かべつつ、立松の眼差しは優しげだ。瓜子は感傷的な気分に陥らないように気をつけながら、「押忍」と答えてみせた。
「ただし、明後日からはもう調整期間だからな。今日もオーバーワークにならないように気をつけろよ」
「押忍。気をつけます。……あの、調整期間に朝から稽古する場合はどんなメニューにするべきか、あとでご相談に乗ってもらえますか?」
「そもそも調整期間に、朝からみっちり稽古を積む必要はねえけどな。……わかった。事務仕事が終わったら相手をしてやるから、それまで待っておけ」
「押忍。ありがとうございます」
瓜子がどのような状況であり、どのような気分であろうとも、時間は粛々と過ぎていく。
しかし明日からは撮影の仕事が始められてしまうし、仕事のない日は朝から稽古を積むことができる。ひまを持て余さずに済むというのは、今の瓜子にとってもっとも幸いな話であった。
やがて事務仕事を終えた立松とトレーニングメニューに関して話し合っていると、「押忍なのです!」と愛音が登場する。学校の授業を終えて、その足で道場にやってきたのだ。こういう日の愛音はグレーのベストに白いブラウス、チェックのブリーツスカートにダークブラウンのローファーという姿で、どこからどう見ても真っ当な女子高生であった。
「ユーリ様は無事にフライトされたとのことで、何よりなのです。いったいどのように華麗なお姿を撮影されたのか、放映日が楽しみでならないのです」
「あ、邑崎さんにはご連絡がいったんすね。ユーリさんは、いかがでしたか?」
「……猪狩センパイには、ご連絡がなかったのです?」
「それはまあ、自分は玄関口で見送った身ですし、ユーリさんもそんなあちこち連絡する時間はないでしょうしね」
愛音はうろんげに瓜子のことをねめつけてから、携帯端末の文章を読みあげてくれた。
「『撮影終了! ついにフライト! 初めてのヒコーキでドキドキだよー。ムラサキちゃんは、おけいこ頑張ってねー。ではでは、行ってまいります!』……以上、原文ママなのです」
「あはは。ユーリさんらしいコメントっすね。自分も放映日が楽しみっすよ」
『アクセル・ロード』の最初の放映日は、九月の第三水曜日である。日取りとしては、《アトミック・ガールズ》九月大会の三日後であった。
ユーリは合宿所のメンバーとうまくやっていけるのか、初めての海外で本来の実力を発揮することができるのか――不安の種は尽きなかったが、瓜子は自分の果たすべき行動に取り組みつつ、ユーリの健闘を祈るしかなかった。
そうして時間が深くなるごとに、道場の人口密度は上昇していく。そして午後の五時が近づくと、サキが姿を現した。
「なんだ、泣きべそかきながら取っ組み合ってるかと思ったら、ずいぶん元気そうじゃねーか。意外に薄情な女だったんだなー」
「押忍。おはようございます。……憎まれ口を装いながら、お気遣いありがとうございます」
「うるせーよ」と瓜子の頭を小突いてから、サキは更衣室に向かおうとした。
するとそこに、新たな人影が近づいてくる。Tシャツにジャージのボトムというラフな格好で、大きなショルダーバッグをさげた大柄な女性――天覇館の、高橋選手である。九月の初日たる本日から、彼女も出稽古にやってくる予定であったのだ。
「押忍。天覇館の高橋です。今日からよろしくお願いします」
「コーチ連中もいねーのに、何を真面目くさったツラしてんだよ。アタシらに媚を売ったって、一銭の得にもなりゃしねーぞ」
「最初の挨拶ぐらい、きっちりやらせておくれよ。あんたは本当に、自分の道場でもその態度なんだね」
力士のように厳つい顔で、高橋選手は苦笑する。まったくもって三人三様であるが、彼女とサキとメイは同い年の二十三歳であるのだ。
「とにかく、よろしくお願いします。……御堂さんも桃園も、無事にフライトできたみたいだね。桃園は子供みたいにはしゃいでるって、御堂さんから連絡が入ってたよ」
「そうっすか。それなら、何よりです」
ユーリは今頃、負の感情を全力で意識の外に追いやっているはずであるのだ。瓜子もそれを見習って感傷的な気分を腹の底にねじ伏せながら、高橋選手に笑いかけてみせた。
「それじゃあ、自分たちも頑張りましょう。サキさん、更衣室へのご案内はお願いしますね。その間に、コーチ陣にも声をかけておきますから」
「コーチにご挨拶する前に、着替えちまってもいいのかい?」
「ええ。そういうところは、大らかな道場ですんで」
ということで、高橋選手らが着替えている間に、瓜子は男子選手の面倒を見ていたコーチ陣に声をかけておくことになった。
そうして着替えを済ませた高橋選手らがウォームアップを開始したところで、ようやく立松とジョンと柳原がこちらにやってくる。高橋選手とは試合会場で挨拶をしていたので、いずれの表情も和やかなものであった。
「よう、お疲れさん。今は男連中の稽古をつけてるところなんで、後で手が空いたら様子を見にくるよ。それまでは、こいつらと一緒に適当にやっててくれ」
「押忍。お手数をかけますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いいさいいさ。それじゃあ各自、怪我のないようにな」
それだけ言って、立松たちは早々に立ち去っていく。
あまりに淡泊な対応であったためか、高橋選手はいくぶん困惑の面持ちで瓜子を振り返ってきた。
「これから週三でお世話になろうって話なのに、ずいぶんあっさりとした顔あわせだね。べつだん歓迎されてないわけじゃないみたいだけど……」
「もちろんっすよ。プレスマンは個人主義かつ効率重視で、余計な挨拶は無用ってスタンスなだけです。指導が始まればコーチ陣のお人柄は自然に知れると思うんで、どうぞご安心ください」
「ああ、うん。それじゃあとにかく、最低限の礼儀作法さえ守っておけば、問題はないのかな?」
「高橋選手だったら自然体で、まったく問題ないはずです。何せコーチ陣を鰐だの金髪だの呼ばわりしても許される環境ですからね」
「おー? こっちのデカブツより、まずはおめーを教育する必要があるみてーだなー」
そうして瓜子がサキに小突かれたのち、あらためて稽古が開始されることになった。本日はオルガ選手も深見塾で稽古をつける日取りであったため、女子選手はこれで総勢だ。
そしてその中に、ユーリの存在がない。瓜子も日中から稽古に励む機会はそう多くなかったので、メイと二人きりでも違和感はなかったのだが――夕刻となり、サキや愛音までそろってしまうと、どうしてもユーリの不在が気にかかってならなかった。
(まあ、今日は初日だからな。三ヶ月もあれば、いつか慣れるさ)
瓜子はそんな思いを心の片隅に抱え込みながら、高橋選手を迎えた初めての稽古に取り組むことに相成ったのだった。