別れの夜
『ジャパンロックフェスティバル』の四日後――八月の最終木曜日である。
八月の最終日でもあるその日が、ユーリが日本で過ごす最後の夜であった。
しかしユーリは、その日も通常通りに過ごしていた。日中は副業のグラビア撮影で、夕方からは道場の稽古である。もちろん北米出立の前日ということで副業も稽古も加減された内容であったものの、拘束時間そのものに変わりはなかった。
ただ一点、常と異なっていたのは稽古の後であろう。
午後の十時となり、稽古が終了して、稽古場とトレーニング用品の清掃に取りかかろうかというタイミングで、立松がすべての門下生をユーリのもとに招集したのだった。
「みんな聞いてると思うが、こちらの桃園さんは『アクセル・ロード』に参加するため、明日北米に出立する。こいつは早見が《アクセル・ファイト》との契約をもぎ取ったとき以来の快挙だろう。それでもまあ、うちは個人主義をモットーにしてるんで……その気のあるやつだけ、個人的にお祝いしてやってくれや」
その場には、MMA部門とキック部門のプロ選手、およびプロを目指しているアマチュアの門下生が勢ぞろいしている。そして――それらのすべてが、ユーリのために拍手してくれたのだった。
中には、いまだにユーリに反感を抱いている人間もいるのだろう。その筆頭であった柳原とは和解できたものの、類い稀なる容姿と色香と歌唱の能力でモデルとしてもミュージシャンとしても成功をおさめたユーリは、格闘技ひと筋で頑張っている人間を時として大きく苛立たせているようであるのだ。
だけどその時その瞬間だけは、誰もがユーリを拍手で祝福してくれた。
それぐらい、『アクセル・ロード』に招聘されるというのは大ごとであるのだ。そして、ユーリがここまで辿り着くためにどれだけの情熱を注いでいたかは、みんなその目で見届けていたはずであった。
立松もまた、満足そうな面持ちで手を叩いている。
そうして拍手に包まれたユーリは、「あうう」と頭を抱えながら涙をにじませていた。
「ま、十六名がかりのトーナメントで優勝を目指すってのはなかなか難儀な話だろうが、桃園さんの実力だったら、そいつも夢じゃないはずだ。どうか《アクセル・ファイト》との正式契約を目指して、後悔のないように頑張ってくれ。……じゃ、今日は男連中で稽古場の掃除を受け持つからな。それが、俺たちからの餞別だ」
「はい……みなさん、ユーリなんかのために、どうもありがとうございます。ユーリなんかが優勝できるかどうかはわからないですけれど、ユーリは新宿プレスマン道場の門下生として、最後の一滴まで力を振り絞ることをお約束します」
ユーリはピンク色の頭を深々と下げて、それでお祝いの儀は終了であった。
余禄にあずかった瓜子たち女子選手の一行も、ユーリと連れだって更衣室を目指す。そちらに到着した折には、愛音が鼻息を荒くしていた。
「愛音はユーリ様の優勝を信じているのです! 『アクセル・ロード』の放映はすべて録画して、永久保存する所存であるのです!」
「うん、ありがとぉ。ムラサキちゃんも、アトム級のトーナメントで優勝できるように頑張ってねぇ」
「ほー。つまりおめーは、アタシがこのジャリにぶちのめされる姿を期待してるってこったなー」
「あわわ。そういう意味じゃないよう。みんなみんな、同じぐらい頑張ってほしいのです!」
愛音がユーリに心酔しているのはいつものことであるし、サキも通常の態度を崩そうとしない。よってその場には、いつも通りの賑やかな空気が形成されることになった。
シャワーを浴びて着替えを済ませたら、掃除を受け持ってくれた人々にお礼を言って、道場を出る。その際にも、何名かの人々が激励の言葉をかけてくれた。
そして、出口まで見送ってくれたのは四名のトレーナー陣だ。
「それじゃあな。俺たちにやれることはやったつもりだから、あとは桃園さんの頑張り次第だ。気候の違いにだけは気をつけるんだぞ」
「ユーリ、ガンバってねー。ユーリだったら、ユウショウできるよー」
「ああ。シンガポールの連中だって、桃園さんの敵じゃねえさ。少なくとも、赤星弥生子ぐらいおっかない選手はいないはずだから、優勝目指して頑張ってくれ」
「こっちに居残る馬鹿娘どもはきっちり面倒見ておくから、憂いなく頑張れや。試合の他でも、あんまりみっともねぇ姿をさらすんじゃねぇぞ」
立松もジョンも柳原もサイトーも、それぞれの気性に見合った態度や言葉でユーリを励ましてくれた。
明日は空港に入るところから撮影が開始されるため、見送りは遠慮するように通達されているのだ。よってユーリにとっては、立松たちともここで長きの別れとなるのだった。
「ユーリは、せいいっぱい頑張ってきます。みなさんも、どうかお元気に頑張ってください」
さしものユーリも、今日は真っ当な言葉しか口にできないようである。
その目はいまだに潤んでおり、口もとにはあどけない微笑がたたえられていた。
そうして道場を出て、駅に到着したならば、今度は女子選手たちとの別れである。
意外なことに、真っ先に口を開いたのは外様のオルガ選手であった。
「……自分と父キリルは、《アトミック・ガールズ》の十一月大会を終えると同時に帰国する。よって、ユーリが『アクセル・ロード』の決勝戦まで進んだならば、顔をあわせないまま帰国することになる。そしてきっと、ユーリは決勝戦に進むだけでなく、優勝を果たすのだろうと考えている」
親切なメイが、英語で語るオルガ選手の言葉を通訳してくれた。
「ユーリと《アトミック・ガールズ》で再戦できないのは、とても残念。でも、ユーリが『アクセル・ロード』で優勝しないのは、もっと残念。だから自分は祖国で《アクセル・ファイト》との契約を目指し、そちらの舞台でユーリと再戦できるように願っている」
メイがそこで口をつぐむと、オルガ選手は自らの口で「ガンバレ」と言って、ユーリのほうに手を差し出した。
ユーリは迷いなく、両手でその手をつかみ取る。たとえ悪寒に見舞われようとも、こんな場で握手をためらうユーリではないのだ。
「ユーリはオルガ選手のおかげで、すごく楽しくお稽古を積むことができました。いつかオルガ選手とまた試合できる日を楽しみにしています」
メイがその言葉を通訳すると、オルガ選手は鉄仮面のような無表情のまま眼差しをやわらげて、「アリガトウ」とつぶやいた。
オルガ選手とキリル氏は瓜子たちにも一礼して、構内の雑踏へと消えていく。それを横目に、サキは「ふん」と鼻を鳴らした。
「たかだか三ヶ月ていどの遠征で、湿っぽい言葉を吐く気にはならねーな。ましてや相手が、こんな乳牛風情じゃよ」
「サキセンパイは、人の心を持っていないのです! このような場でぐらい、素直に激励のご挨拶をするべきだと思うのです!」
「あはは。サキたんは、これでいいのだよぉ。サキたんがそんなかしこまったら、ユーリはむしろ困惑のきわみであるのです」
ユーリが笑顔でそのように言いたてると、サキは長い前髪をかけあげながら、ずいっと詰め寄った。
「……後悔のないように、頑張れよ。みんなテレビにかじりついて、おめーを応援してるからな」
ユーリは驚愕の表情で、「ぎょぎょ!」と身を引いてしまった。
サキは口もとを曲げて笑いつつ、きびすを返す。
「それがおめーの言う、困惑のきわみってやつかよ。思ってたほど、面白い見世物でもなかったな。……じゃ、せいぜいくたばるなよ」
「まったく、サキセンパイはしかたのない人であるのです。それでは、愛音も失礼するのです。……ユーリ様の優勝を、毎日欠かさず祈っているのです」
愛音はぺこりと頭を下げて、サキを追うように雑踏へと消えていく。その横顔には、涙が光っており――おそらくは、ユーリに泣き顔を見られたくなかったのだろうと思われた。
しかし、愛音の気持ちはしっかり伝わっているのだろう。ユーリは「あはは」と笑いながら、目もとににじんだ涙をぬぐった。
「これでみんなと三ヶ月もお別れだなんて、なんだか実感がわかないにゃあ。まあ、一回戦目で負けちゃったら、ひと月ていどで再会できるわけだけどねぇ」
「そんな不吉なこと言わないでくださいよ。……自分たちも、出発しましょうか」
瓜子はユーリやメイとともに、改札をくぐった。
車内はそれなりに混雑していたため、ユーリは人と接触しないようにドアのそばで縮こまり、窓の外へと視線を飛ばす。
そこから見える夜景とも、しばしのお別れであるのだ。それを邪魔しないようにと、瓜子は無言で見守ることにした。
三鷹の駅に到着したならば、マンションまでは徒歩で十五分だ。
その時間も、あまり声をあげる者はなく――メイがあらたまって発言したのは、マンションに入ってそれぞれの部屋の前まで辿り着いてからのことであった。
「ユーリ。僕も、ユーリが優勝すること、信じている。ただひとつ心配なのは、ウリコ、そばにいないことだけど……ユーリなら、それも乗り越えられると、信じている」
「あはは。実のところ、ユーリにとってもそれが一番の不安要素なのですけれど……でもでも、死ぬ気で乗り越える覚悟であるのです」
「うん。ユーリなら、大丈夫。それに、ウリコも大丈夫。みんな、ウリコのことを支えるから、どうか心配せず、頑張ってほしい」
「はい。その点は、心配しないでいられるのです。うり坊ちゃんは、たくさんの方々に愛されておりますからねぇ」
メイは穏やかな眼差しで「うん」とうなずき、瓜子のほうにも目だけで挨拶をしてから、自分の部屋へと入っていった。
こちらもカードキーを通して、玄関口へと足を踏み入れる。そうしてドアを閉めるなり、ユーリは「ふひー」と息をついた。
「なんだか、ユーリはへろへろなのです。みなさんの優しさでお胸が詰まってしまい、酸素不足なのかしらん」
「ユーリさんは、かしこまって過ごすのが苦手ですもんね。でも、きちんとおちゃらけずにみなさんの気持ちを受け止めて、ご立派だと思いますよ」
「にゃはは。それもなけなしの誠実さを総動員した結果であるのです。ではでは、明日に備えて就寝の準備をいたしませう」
ユーリは二人きりになっても、いつも通りのユーリであった。
それもそのはずで、ユーリはその身に生じる負の感情をすべて封じ込めているのである。別れの悲しみやこの先への不安など、すべて意識の外に追いやっているのだ。それがユーリの防衛本能であることを知っている瓜子は、決して二年前のようにユーリの本心を疑ったりはしなかった。
よって瓜子もいつも通りに、その夜を過ごしてみせる。
稽古場で生じた洗い物は洗濯機にぶちこみ、寝間着を兼ねた部屋着に着替えて、歯磨きだ。時にはこの時間に夜食をとることもあったが、瓜子ももうじき試合の二週間前となるため、オーバーカロリーに気を使う時期になっていた。
この時点で、時刻はいまだ十一時前である。瓜子たちの就寝時間はおおよそ午前0時であったため、それまでは試合の映像を見返したり雑談をしたりして過ごすのが常であった。
しかし本日のユーリは、眠そうに目もとをこすっている。さまざまな相手と別れの挨拶を交わして、気疲れしてしまったのであろうか。ユーリであれば、ありえそうな話であった。
「ユーリさんは、眠そうっすね。いつ寝落ちしてもいいように、ユーリさんのお部屋でおしゃべりしましょうか?」
「うん……と、いうよりも……今日はうり坊ちゃんに添い寝をお願いできませんでしょうか……?」
と、ユーリは眠そうな顔のまま、もじもじとした。
瓜子は温かい気持ちで、「いいっすよ」と答えてみせる。
「でも、同じ場所で眠っちゃうと、だいたい朝には抱きつかれてますからね。出発の朝に鳥肌まみれで、大丈夫っすか?」
「うみゅ。それよりも、添い寝から得られるパワーのほうが重要であるのです」
「了解しました。ちょっと取ってくるものがあるんで、先に行っててください」
ユーリは「わーい」とはしゃいだ声をあげてから、「あふぅ」とあくびを噛み殺した。撮影の仕事も夜の稽古も控えめな内容であったのに、本当にずいぶん消耗しているようだ。
(まあ、どれだけ気持ちを切り替えたって、無意識のストレスは溜まるかもしれないもんな。本来の落ち込み具合を考えれば、そっちのほうが自然なぐらいだ)
そんな風に考えながら、瓜子は自室から必要なものを取り上げて、ユーリの寝室へと向かった。
そちらの部屋のドアの脇には、二つの巨大なキャリーケースが鎮座ましましている。女子選手の一行から贈られたナイトウェアや抱き枕も、『トライ・アングル』から贈られたデジタルオーディオプレーヤーやスピーカーのセットも、鞠山選手や円城リマから贈られたイラストも、すべてその中に詰め込まれているのだ。
瓜子が「失礼します」と入室すると、ユーリはすでにベッドに横たわっていた。
そして「にゅふふ」と笑いながら、横合いのスペースをぽふぽふと叩いてくる。瓜子は苦笑を浮かべつつ、室内に散乱した雑誌や衣服をよけながらそちらに近づいた。
「ユーリさん。横になる前に、お渡ししておきたいものがあるんすけど」
「うみゅみゅ? 餞別のプレゼントでしたら、すでに受け取っておりますぞよ」
「はい。それとは、別件です」
瓜子がベッドの端に腰をかけると、ユーリも小首を傾げつつ半身を起こした。
瓜子はハーフパンツのポケットに隠していたものを、ユーリのもとに差し出してみせる。
「二ヶ月以上も早いですけど、バースデープレゼントです。二十二歳、おめでとうございます」
「ええええええ? それはあまりに、フライングが過ぎるのではないかしらん?」
「だってユーリさんは、誕生日が過ぎるまで帰ってこられないじゃないっすか。遅いよりは早いほうがいいと思ったんすよ」
困惑顔のユーリに、瓜子は精一杯の思いで笑いかけてみせる。
「それにやっぱり、個人としてユーリさんに何かプレゼントしておきたかったんです。でも、女子選手のみなさんと一緒にプレゼントを贈りたいって気持ちもあったから……そういった思惑のからみあった結果だとでも思ってください」
「うみゅう……さすがに困惑の思いを隠しきれないユーリちゃんでありますけれど……でもでも、うり坊ちゃんのプレゼントを拒む理由など存在するわけがないのです」
そう言って、ユーリはにぱっと笑顔を見せた。
「これでバースデーの前に帰国する羽目になったら、なかなか格好がつかないところでありますにゃあ。うり坊ちゃんに無言のプレッシャーをかけられたような心地でもあるのです」
「そんなつもりはないっすけどね。万が一、本当に万が一にもそんな事態になっちゃったら、誕生日にはディナーでもご馳走しますよ。それはそれとして、どうぞお納めください」
「うん、ありがとぉ。いまだ正体は知れないけれど、これも大事にアメリカまで持っていくからねぇ」
瓜子から包みを受け取ったユーリは、にこにこと笑いながらそれを開封した。
瓜子がそこに準備していたのは――二本の、リストバンドである。素材はラバーで、色はピンクとホワイトであった。
「ほうほう。これはなかなか、スポーティーなデザインでありますにゃあ」
「はい。これだったら、寝てる間とかにも着けていられるでしょう?」
そんな風に言いながら、瓜子はユーリの手からピンクのリストバンドをつまみあげ、それを自分の手首に装着した。
「自分も稽古や試合以外の時間は、これを着けておくことにします。ユーリさんは、お好きにどうぞ」
「……うり坊ちゃんが、ピンクなの?」
「そうっすよ。じゃないと、ユーリさんを思うよすがにならないじゃないっすか」
ユーリは茫洋とした面持ちで、瓜子の顔をじっと見つめている。
その目から、ふいに涙があふれかえった。
「これは……あまりに不意打ちであるのです……なんとか泣かずにお別れできると思ったのに……ユーリの計画が台無しであるのです……」
「今日ぐらい、泣いたっていいじゃないっすか。涙には、ストレスを洗い流す効能もあるらしいっすよ」
そのように語る瓜子の目にも、どうしようもなく涙が浮かんでしまう。
そうしてぼやけた視界の中で、ユーリは白いリストバンドを装着した。
滂沱たる涙をこぼしつつ、ユーリは「えへへ」とあどけなく笑う。
「これでどれだけ離れていようとも、うり坊ちゃんに添い寝をされてる気分だねぇ」
「でも、日本とラスベガスじゃ十六時間の時差ですからね。ユーリさんが眠ってるとき、こっちは昼の真っ只中です。……でも、なるべく外さずにおきますよ」
ユーリは「うん」と、子供のようにうなずいた。
その顔には、まだ天使のような微笑がたたえられている。
そうして瓜子とユーリは、しばらくおたがいの笑顔を見つめながら涙をこぼし続け――長きの別れを果たす前の最後の一夜を、静かに過ごすことになったのだった。