03 嵐の前
メインステージの観戦を終えたならば、時刻は午後の五時――『トライ・アングル』の出番まで、残りは二時間である。
ステージの一時間前には準備を始めなければならないので、瓜子とユーリは残りの一時間で『ジャパンロックフェスティバル』を味わい尽くすことになった。
小さなステージやブースを巡りつつ、時おり立ち寄った屋台で小腹を満たし、咽喉を潤す。明確な目的を持たない、贅沢な時間の使い方だ。
ひっきりなしに雨がぱらつくため、たいていの人間はポンチョや雨合羽を羽織ったままか、あるいは開きなおって濡れっぱなしの姿である。灰原選手は後者であり、頭には売店で購入したイベントグッズのタオルも巻いて、勇ましいことこの上なかった。
そうして約束の刻限が近づいたならば、女子選手の一行および『モンキーワンダー』の面々に別れを告げて、セカンドステージの裏手に回り込む。そちらには屋根を張られた休憩スペースと着替えのためのプレハブ小屋が設置されていた。
「何かアクシデントが生じる前に、着替えを済ませておくべきでしょう。まずはユーリ選手から、こちらにどうぞ」
千駄ヶ谷の案内でプレハブ小屋に踏み入ると、そちらにはつい先ほどまで演奏を披露していたらしいバンドのメンバーがあられもない姿をさらしていた。こちらは男女で部屋が分けられておらず、奥のほうに目隠しの衝立が準備されているばかりであったのだ。
千駄ヶ谷の指示でユーリの衣装をケースから取り出した瓜子は、それらの人々に頭を下げつつ衝立のほうに向かう。色恋沙汰の経験は皆無に等しい瓜子であるが、男の半裸姿などは道場や試合場で見飽きているぐらいであるのだ。なんなら全裸の姿であっても、今さら頬を染めるほど初心ではなかった。
そうして衝立の裏にユーリを追いやったのちは、横合いの隙間にビーチタオルを張って覗き見を防止する。こういった作業は撮影現場でも何度か体験していたので、瓜子も手慣れたものであった。
さして待つほどもなく、着替えを終えたユーリが「じゃーん」と登場する。
本日も、他のメンバーとおそろいのステージ衣装である。ただし今回は夏場の屋外ステージであったため、ジャケットの着用は免除されており、ダークレッドの中折れハットとスーツパンツ、黒いドレスシャツ、レザーのショートブーツといういでたちだ。男性陣はこれに白いネクタイも追加されるが、ユーリは本日もステージ上においてシャツのボタンを全開にする予定であったため、ネクタイの代わりとばかりに白いビキニを着込んでいるはずであった。
現在のユーリはきちんとシャツのボタンを留めているが、裾はパンツにしまわず自然に垂らしている。そちらのシャツもオーダーメイドであるために、起伏の激しいユーリのボディラインにぴったりフィットしており、その姿でも十分に色香が発散されていた。
スーツパンツもまた然りで、ユーリのヒップラインと脚線美がまざまざとあらわにされている。こちらの生地はストレッチがきいているために、これだけタイトでもステージアクションに支障は生じないのだ。中折れハットをななめにかぶったユーリは、ご機嫌そうに「にゅっふっふ」と笑っていた。
「やっぱりこちらのステージ衣装を身に纏うと、気持ちがきりりと引き締まるのです。心なし、ウエストも引き締まったような心地であるのです」
「心配しなくても、ウエストだけは最初から引き締まってますよ」
「では、待機エリアに戻りましょう」
ユーリが室内を横断すると、まだうだうだとくつろいでいたバンドマンの一団が口笛などで冷やかしてきた。あんまり行儀のよろしい方々ではないようだ。
そうしてプレハブを一歩出るなり、強い風が吹きつけてくる。ユーリはハットを飛ばされないように、すかさず手で押さえていた。
「雨はやみましたが、風が強くなったようですね。引き続き、警戒いたしましょう」
千駄ヶ谷を先頭に、屋根の下の待機スペースを目指す。すると、そちらでくつろいでいた『トライ・アングル』の面々が腰を上げた。
「おー、ユーリちゃんは今日も色っぽいな! じゃ、俺たちも着替えてくるかぁ」
瓜子たちに気遣いは無用と伝えているのだが、彼らは可能な範囲であられもない姿を見せるのを避けてくれていた。交流が深まってもそういった節度を軽んじない彼らの姿勢にこそ、瓜子は信頼を置いていた。
そうして瓜子たちは屋根の下のパイプ椅子に陣取ったが、風が強いためにまったくもって落ち着かない。ハットを瓜子に預けたユーリも、「うみゅみゅ」と難しい顔をしていた。
「これだとメイクのお直しもひと苦労ですにゃあ。普通のお手洗いが存在しない不便さを痛感してしまうのです」
こちらはもともとスキー場であるために、常設されているカフェや食堂にしか真っ当なトイレは存在しない。あとは工事現場などで見かける簡易トイレが、会場のあちこちに設置されているばかりであるのだ。そしてこのセカンドステージからは、いずれの食堂とも気軽に行き来できる距離ではなかった。
「本日は、ステージの内側にまで風雨が吹き込む可能性が高いでしょう。そのおつもりで、メイクをお願いいたします」
「はぁい。ベストを尽くしますですぅ」
本日はメイク係も存在しないため、ユーリは自前のメイクセットをテーブルに広げた。ともすれな、それらのメイク道具が吹き飛ばされそうなほどの強風である。
しかしユーリはめげることなく、目もとにメイクを施していく。日中はサングラスをかけていたために、目もとはほとんどノーメイクであったのだ。ユーリは魔法のような指づかいで、もともと美しい顔をさらに美しく彩っていった。
やがてユーリのメイクが完成したところで、男性陣が舞い戻ってくる。
ユーリと同一のステージ衣装だ。メンバーのほとんどは黒いシャツの袖をまくって、白いネクタイもだらしなくゆるめていた。完全にきっちりと着こなしているのは、それがもっとも似合う陣内征生ただひとりである。
「うっひゃー! どんどん風が強くなってくるな! こいつは楽しいステージになりそうだ!」
タツヤやダイたちは、この段に至っても陽気な声をあげている。台風の到来にはしゃぐ子供そのままの姿である。しかし瓜子としては、そんな彼らの無邪気さが心強いばかりであった。
「……お前、ずいぶん気を張ってるみたいだな」
と、背後を通りすぎざまに、山寺博人がそんな言葉を瓜子に投げかけてくる。
「こっちがいくら気をもんだって、なるようにしかならねえよ。いつも通り、図太くかまえとけ」
「自分って、そんなにふてぶてしいっすか? ……でも、スタッフの自分がメンバーのヒロさんにご心配をかけてしまって、どうもすみません」
「心配なんてしてねえよ」と、山寺博人は口もとをひん曲げて通りすぎていく。
だったらどうしてわざわざ声をかけてくれたのだと、瓜子は胸の内側をくすぐられたような心地であった。
開演時間は、刻一刻と近づいていく。
そうして本番まで残り三十分というタイミングで、運営スタッフの腕章をつけた若者が小走りで近づいてきた。
「ちょっとこの後は、天気が大きく崩れるかもしれません。場合によっては演奏の途中で中止をお願いすることもありえますので、あらかじめご了承ください」
千駄ヶ谷やこちらのスペースで合流したマネージャー陣が、「承知しました」と応答する。
それでもメンバーたちの意気が下がることはなかった。
「ったく、台風が直撃するわけでもねえのに、弱気だよな!」
「ああ! 電源が落ちない限り、こっちは余裕だっての!」
「ま、ライブなんてアクシデントがあってなんぼだからな! ユーリちゃんも気にせず、いつも通りに大暴れしてくれよ!」
「はぁい。もとより、そのつもりなのですぅ」
ユーリも笑顔であったため、瓜子も消沈せずに済んだ。
風はごうごうとうなりをあげて、頭上では物凄い勢いで雲が流れている。そろそろ日没も近いので、山々は黒いシルエットと化していき――なんだか、世界の終わりが近づいているかのようであった。
そうして十分も経たない内に、また運営スタッフが駆けつけてくる。
「器材のセッティングが完了しました。開始時間にはまだ二十分ほど早いのですが……もしよければ、演奏を開始していただけませんか?」
「あん? でもまだメインステージでは、大御所バンドが演奏してる頃合いだろ」
「はい。ですから、最終的なご判断はそちらにおまかせいたします。こちらとしては、早く始めればそのぶん長く演奏できるだろうという判断です」
つまり運営陣は、『トライ・アングル』のステージが途中で中止されるだろうという見込みであるのだ。
漆原は「ははん」と鼻を鳴らしてから、他のメンバーたちを見回した。
「じゃ、多数決でも取るとするかぁ。客が集まってない状態でも、速攻で始めたいと思うやつは、挙手ぅ」
八名の全員が、手をあげた。
タツヤやダイなどは、早くも腰を浮かせている。
「決まりだなぁ。じゃ、気合を入れていこうぜぇ」
『ベイビー・アピール』のメンバーは「おー」と気合のない声をあげ、ユーリは「はーい!」と両腕を振り上げる。そうして『トライ・アングル』の面々は、本来の開始時刻よりも二十分ほど早く、ステージを目指すことに相成ったのだった。
こちらの野外ステージにも、舞台袖というものが存在する。瓜子は千駄ヶ谷や他のスタッフ陣とともに、そちらで『トライ・アングル』の勇姿を見守る格好だ。
そうして舞台袖に上がるための階段まで到着したとき、千駄ヶ谷がユーリを振り返った。
「こちらの舞台袖は、客席からも見える仕様になっています。そちらに向かう前に、衣装をお整えください」
ユーリは「はぁい」と応じつつ、シャツのボタンを全開にした。衣装を整えるとは正反対の行いであるが、これがユーリの正装であるのだ。
そうしてユーリがシャツを羽織っただけの格好になると、たちまち強風がその裾をあおっていく。ユーリの素肌とトライアングルビキニのトップスは、薄暮に包まれた世界の中で鮮烈なまでに白かった。
「うり坊ちゃん、お帽子ありがとう。今日も最後まで、ユーリたちを見守っててねぇ」
「はい。台風が直撃したって、目をそらしたりしないっすよ」
中折れハットをユーリに手渡しつつ、瓜子は右拳を差し出してみせる。
ユーリはにこりと笑いながら、白い拳を瓜子の拳にぎゅっと押しつけてきた。
他のメンバーは瓜子に手を振り、あるいはまったく見向きもせずに、ひとりずつ階段を上がっていく。その先頭であったタツヤが舞台袖に到着すると、客席のスペースから歓声がわきたった。
八名のメンバーに続いて、瓜子たちも舞台袖に移動する。
確かにそちらは屋根を支える柱の陰になっているだけで、客席からもほぼ丸見えの状態であった。
メンバーたちは、すでにステージへと進軍している。それを迎える観客たちは――五千名ていどを収容できるスペースの、半分ていどが埋められているばかりであった。
さきほどダイが言っていた通り、現在はまだメインステージで演奏が行われているさなかであるのだ。この場に集まっているのは、他のステージに興味がなく、早い時間からいい場所を確保しておこうと考えている熱心な人々ばかりであるはずであった。
スペースの後ろ半分は丸々あいてしまっているものの、それでも二千名以上の人々が参じてくれているのだ。そちらから放たれる熱気と歓声は、普段の単独公演にもまったく負けない勢いであった。
『みなさん、こんばんはぁ。なんだかお天気が崩れそうだったので、早めに始めることになっちゃいましたぁ。ユーリたちも力の限り頑張りますので、最後まで楽しんでいってくださいねぇ』
片手で中折れハットを押さえたユーリが、黒いシャツの裾を翼のようにはためかせながら、そのように宣言した。
その場に集まった人々は、物凄い勢いで歓声を返す。周囲に渦巻く風のうなりさえもが、その歓声にかき消されていた。
そんな中、ギターを抱えたリュウが漆原のコーラスマイクのもとまで進み出て、『だめだこりゃ』という声をあげる。
いったい何事かと思ったら、リュウは胸もとで生きた蛇のように暴れ狂うネクタイをひっつかみ、それをほどいた。あまりの強風で、ネクタイさえもが演奏の邪魔になってしまったのだ。
リュウは外したネクタイを手で丸めると、それを客席に投げ入れた。
ネクタイはすぐさま風にあおられて、あらぬ方向に飛んでいく。人々は歓声をあげて手をのばし、運のいい誰かがそれをキャッチした。
そしてその後は、メンバーのほとんどがリュウの行為を真似ていく。ネクタイが風にあおられないのは、きちんとピンで固定していた西岡桔平と陣内征生のみであったのだ。なおかつ西岡桔平は自らの意思で、陣内征生はタツヤにうながされて、みんなと同じようにネクタイを客席に投げ入れていた。
『これで俺たちも、ユーリちゃんとおそろいだなぁ。まあ、俺たちはビキニなんて着込んでないけどよぉ』
漆原がそのような言葉を届けると、客席からは笑い声があがり、ユーリは幸福そうに微笑んだ。
『じゃ、これで準備はばっちりだなぁ。ユーリちゃん、宣戦布告をお願いするぜぇ』
『はぁい、うけたまわりましたぁ。「トライ・アングル」、いざいざスタートでぇす』
ユーリの声を合図として、すべてのメンバーが楽器をかき鳴らし、乱打した。
突如として発生した爆音の中、ユーリは懸命に手で押さえていた中折れハットを、客席へと投げつける。
風に乗ったダークレッドの中折れハットは、どこまでも高く舞い上がり――そして、『トライ・アングル』のステージが開始されたのだった。