ACT.5 Summer's end(下) 01 エア・ブリーズ
翌日――八月の最終日曜日である。
ふかふかのベッドで起床した瓜子は目を覚ますなり、すぐ隣のベッドで眠るユーリの愛くるしい寝顔を網膜に焼きつけられることになった。
苗場クイーンズホテルの一室である。
ユーリの寝顔を思うさま視線で愛でてから半身を起こした瓜子は、思わずギクリと身をすくませる。ベッドの足側に設置されたテーブルでは、すでに千駄ヶ谷がモーニングコーヒーを楽しんでいるさなかであったのだ。
千駄ヶ谷は口もとに指を立てつつ、ただ目だけで挨拶をしてくる。きっとユーリの眠りを妨げまいとしているのだろう。しかしそんな気遣いもむなしく、ユーリは「むにゅう」といううなり声とともに目を覚ましてしまった。
「わあ、うり坊ちゃんだぁ……寝ぐせがぴょんとはねて、朝からかわゆらしさの極致だねぇ」
「お、おはようございます。でも、千駄ヶ谷さんもいらっしゃるので、節度ある発言を心がけましょうね」
「私は、いっこうにかまいません。どうぞお二人はご遠慮なく、通常通りにお過ごしください」
そんな具合に、瓜子はその日の朝を迎えることになった。
時計を見ると、時刻は午前の八時過ぎである。瓜子にしてみれば遅い起床の部類であったが、昨日はなかなかの騒がしさであったので、身体のほうが休息を求めていたのだろう。しかし稽古を休んでいる分、筋肉疲労とは無縁であったため、肉体には十全に体力がよみがえっていた。
そうしてユーリの目が完全に覚めるのを待ってから、ホテルのラウンジで他の面々と合流する。感心なことに、女子選手の一行はみんな同程度の時間に目を覚ましていたのだった。
「『トライ・アングル』の方々は、西岡氏と田辺氏のみ起床しているようです。他のメンバーが起床次第合流するので、みなさんは自由にお過ごしくださいとのことです」
「じゃ、朝だけはホテルでいただこっか! ホテルの朝食バイキングなんて、なかなか味わう機会もないもんね!」
ということで、女子選手の一行はホテルの食堂で腹ごしらえを済ませたのち、いざ『ジャパンロックフェスティバル』の会場を目指すことになった。
『ジャパンロックフェスティバル』はオールナイトのイベントも開催しているぐらいであるし、二十四時間出入りは自由であるのだ。もちろんこのような朝方にはさしたるイベントも準備されていないが、それでもヨガのワークショップやテクノミュージックのDJイベントなどはすでに開始されているとのことであった。
そうして瓜子たちが最初に向かったのは、DJイベントが行われているエア・ブリーズなるエリアである。
とりたてて、テクノミュージックに関心のある人間がいたわけではない。目的は、そのエリアに向かうためのゴンドラを楽しむことであった。
山麓に位置する苗場クイーンズホテルから山頂の高原に向かうための、ゴンドラである。こちらはもともとスキー場の名物施設であり、移動距離は五・五キロメートル、標高差は四百三十メートルという、日本最大規模のゴンドラであるのだそうだ。料金は別途で千五百円ほどかかってしまうが、ここまで来てこちらの施設を楽しまない手はなかろうと、ほとんど全員一致で出陣することになったわけであった。
いざ入場口まで出向いてみると、定員は八名までであったため、二手に分かれることにする。
そうしてケーブルに吊るされたゴンドラが、ゆったり発進し始めると――ほどなくして、期待に違わぬ絶景が眼下に広がった。
視界を埋め尽くすのは、ひたすら濃厚な色合いをした緑の木々である。しかもまだまだ朝方であったため、それらの緑がうっすらと霞がかっている。これほどに雄大な自然のさまを目の当たりにしたのは、瓜子にとって初めてなぐらいであるかもしれなかった。
こちらのゴンドラはスキーシーズンばかりでなく、春と秋にもひと月ぐらいずつ運行されているとのことである。きっと冬などはこれらの緑に真っ白な雪がかぶさり、秋には壮大なる紅葉が楽しめるのだろう。しかし、夏の終わりにあたる今日という日にも、物足りないことはまったくなかった。
「ほへー。ユーリは断然、お山よりも海派なのですけれども……これはなかなかに、圧倒される光景でありますにゃあ」
ゴンドラの窓にへばりついたユーリは、そんな風に語りながらきらきらと瞳を輝かせていた。
その隣で同じ光景を満喫していた瓜子の腰が、やがて強い力で拘束される。びっくりして目を向けると、そこには座席に身を伏せつつ瓜子の胴体を抱きすくめるメイの姿があった。
「ど、どうしたんすか、メイさん? もしかして、高いところは苦手でしたか?」
「……こんな乗り物に乗った経験はなかったので、苦手かどうかも把握してなかった」
そのように語るメイは切迫感に満ちみちたお顔で、瓜子の腹部をぎゅうっと抱きすくめてくる。何せフィジカルモンスターのメイであるため、なかなかの息苦しさであったものの、瓜子としてもその腕を邪険に振り払うことはできなかった。
「おめーはオーストラリアの生まれだってんだから、北米やら日本やらに移動するのに何度も飛行機に乗ってるんだろーがよ? それに比べりゃ、このていどの高さは誤差じゃねーのか?」
後部の座席にふんぞりかえっていたサキがそのように言いたてると、メイは瓜子の脇腹に頬ずりをするような格好でぶんぶんと首を振った。
「飛行機、見えるのは、空と雲だけ。高度、実感できないから、恐怖、生まれる理由はない。少し想像したら、理解できると思う」
「ほー。そんな情けねー姿をさらしながら、よくもまあ人様を低能よばわりできるもんだなー。こんなちっぽけなゴンドラなんざ、アタシの胸先三寸でもっと楽しいアトラクションに仕立てられるはずだけどなー」
「やめてほしい、絶対に。僕、サキと敵対したくない」
「本当にやめてくださいよ、サキさん? 社会人として、ルールとマナーをお守りくださいね」
本当は心優しいサキがルールとマナーを守ってくれたため、ゴンドラは恐怖のアトラクションに変貌することなく山頂に辿り着いた。
気の毒なメイは膝が笑ってしまっていたため、瓜子が肩を貸しつつ一緒にホームへと降り立つ。そうして駅の外に出てみると、これまた雄大なる大自然が広がっていた。
一面が緑に覆われて、どこまでもなだらかな曲面を描く高原である。
周囲には、さらに標高の高い山々がそびえたっている。空は一面が薄い雲に覆われていたが、それはそれで趣のある風情であった。
「千駄ヶ谷さんの言う通り、上着を着ておいて大正解でしたね。八月とは思えない涼しさです」
「うんうん、本当だねぇ。なんだか別世界に放り込まれた心地ですわん」
ユーリは、ふにゃふにゃと笑っている。昂ることなく、静かにこの楽しさを噛みしめているようだ。
それから数分ばかりも待っていると、後続のメンバーが到着する。その一員であった灰原選手は「どひゃー!」と遠慮なく歓声をあげていた。
「すごいすごい! しかも、こんな場所までイベントの会場なんだね! これなら高いチケット代も納得かなー!」
高原にはあちこちに奇妙なモニュメントが設置されており、屋根つきのブースからはゆったりとした電子音が鳴らされていた。こちらで披露されているのはテクノミュージックであるはずであったが、瓜子の想像していたようなピコピコサウンドではなく、この大自然に似つかわしいゆったりとした音色であった。
「こいつは写真を撮るのに、うってつけだねー! ほらほら、並んで! あっちの山をバックにしよー!」
灰原選手の提案で、記念撮影が敢行される。昨日の段階でも何度かこういう機会はあったが、カメラマンを務めるのはおおよそ千駄ヶ谷であった。
撮影に使われるのはおおよそ鞠山選手の携帯端末であり、そちらは何かしらのアプリというもので他の人々と共有できるらしい。そして、その機能を持ち合わせていない瓜子とユーリには、頼んだ分だけプリントしてもらうのが定例であった。去年のゴールデンウィークを皮切りに、記念撮影というのは何度か行われていたのである。
(あたしやユーリさんなんかは、そういう写真にも興味のないほうだったけど……)
しかしいつしか、瓜子たちの共有アルバムもそれなりのボリュームになってきている。そして北米に出立する際はそのアルバムも一時拝借したいとユーリは願い出ていたのだった。
昨日から今日にかけて撮影された写真たちも、ユーリの孤独を埋める大事な糧になってくれることだろう。
そのように考えると、撮影の場で笑うことを苦手にする瓜子も、自然に口をほころばせることができたのだった。
その後はしばらく高原を散策し、音楽がほどよく聴こえる場所を選んでレジャーシートを広げて、身を休める。
昨日の狂騒が嘘のように、ゆったりとした時間が流れている。
時間も早かったためか、こちらのエリアはさして人も多くなかったのだ。高原の涼風に頬を撫でられながらくつろいでいると、眠たくなるほどの安らいだ心地を得ることができた。
そんな中、細い雨が降りそぼってきたのは、その場で十五分ほどくつろいだのちのことである。
慌ててポンチョや雨合羽をひっかぶると、雨足はどんどん強まっていく。しかしそれも数分ていどで、すぐに過ぎ去っていくことになった。
「雲が厚みを増してきただわね。午後の公演が、ちょいと心配なところだわよ」
「そうですね。台風の進路も、わずかにこちらに寄ってきたようですし……最悪の事態も想定しておくべきかもしれません」
千駄ヶ谷の厳しい声が耳に入ると、ユーリはまた悲しげな面持ちで瓜子のTシャツの裾をつかんできた。
瓜子は「大丈夫ですよ」と、懸命に笑いかけてみせる。こればかりは、天に祈るしかなかったのだった。
「ゴンドラの運行が止められるほどの事態にはそうそう見舞われないかと思われますが、我々は万が一に備えて戻ることにいたしましょう。みなさんは、どうされますでしょうか?」
「戻るんだったら、みんなで戻ろうよ! ここの空気は、しっかり堪能できたしさ!」
ということで、一行はまとめてゴンドラの駅へと舞い戻った。
さきほどの雨で同じ思いを抱いた人間が多かったのか、入り口には十名ばかりの人々が立ち並んでいる。瓜子がその列に並ぼうとすると、今度はメイがTシャツを引っ張ってきた。
「……僕、徒歩で戻りたい」
「いやいや、それはさすがに無理っすよ! ここから麓まで、道らしいものは見えなかったじゃないっすか」
瓜子がそのように答えると、千駄ヶ谷も冷徹きわまりない面持ちで「はい」と割り込んできた。
「こちらの山頂は、厳密には別なるスキー場のエリアとなります。『ジャパンロックフェスティバル』の期間中、ゴンドラ以外の手段で行き来することは禁止されています」
「え? ここは苗場のスキー場じゃないんすか?」
「はい。もちろんどちらもクイーンズホテルが運営するスキー場であり、冬場には自由に行き来することが許可されておりますが、『ジャパンロックフェスティバル』においては山頂のエリアしかレンタルしていないということなのでしょう」
今さらながら、あのように豪華なホテルと広大なスキー場のすべてが同じ会社に運営されているというのが、とてつもない話に聞こえてしまう。
まあそのような感慨は脇に置いておいて、瓜子は子供のようにTシャツを引っ張るメイに笑いかけることにした。
「まあそういうわけらしいっすから、一緒にゴンドラで戻りましょう。自分もついてますから、何も心配はいらないっすよ」
ということで、瓜子は復路の二十分間も、メイの怪力で胴体を締めあげられることになったわけであった。
そうして地上に帰りつくなり、千駄ヶ谷の携帯端末がメッセージを受信する。『トライ・アングル』の面々が、合流を求めてきたのだ。鞠山選手いわく、『モンキーワンダー』の面々は昼頃までホテルで英気を養う予定であるとのことであった。
「みなさん、おはようございます。……ちょっと台風が、心配な感じになってきましたね」
合流するなり、西岡桔平がそのように告げてきた。テレビのニュースの最新情報によると、台風の進路がだいぶん危うい方向にそれ始めたのだそうだ。
「もちろんこっちに直撃するようなことはないでしょうけど、あまりに余波が大きいようだと公演は中止になってしまいますからね。怪我人なんかを出さないように、そのあたりはけっこうシビアに取り決められているはずです」
「はい。人事を尽くして天命を待つ他ありませんでしょう。私としましては、『トライ・アングル』の方々が持つ強運に望みを託したく思います」
「はは、強運ですか。確かにこれだけのメンバーがユニットを組めたのは、運の力もあるはずですよね」
そう言って、西岡桔平も穏やかな笑顔をユーリに向けてきた。
「実のところ、俺も『トライ・アングル』のライブが中止になるとまでは思っていません。でも、根っこが心配性なもんで、つい弱気な発言をしちゃいました。ユーリさんは、どうかいつもの元気さで俺たちを引っ張ってくださいね」
「はいぃ。なんとか台風が消滅するようにと、ユーリも強く強く祈っているのですぅ」
すると、まだいくぶんねぼけまなこであったタツヤやダイたちが陽気な声をあげた。
「俺たちの演奏とユーリちゃんの歌声をぶつけてやりゃあ、台風なんざ木っ端微塵だよ!」
「そうそう! それより、出番までの時間を楽しもうぜ! ちょっとマニアックなおすすめバンドを紹介してやるからさ!」
ユーリは健気に笑顔を作って、「はぁい」と答えていた。
そうして一抹の不安を抱え込みつつ、『ジャパンロックフェスティバル』の最終日は本格的に開始されたのだった。