03 『ベイビー・アピール』と『ワンド・ペイジ』
「あー、間に合った間に合った! 危うく遅刻するところだったよー!」
午後の五時が目前となり、瓜子たちがレジャーシートを片付け始めた頃合いで、ようやく灰原選手のグループが戻ってきた。
そちらを振り返った瓜子は、きょとんと目を丸くしてしまう。もともとTシャツ姿であった灰原選手が、別なるTシャツを着込んでいたのだ。それはペパーミントグリーンのカラーリングで、胸もとにでかでかと『ジャパンロックフェスティバル』のロゴがプリントされていた。
「これ、いいでしょー? あっちに売店のブースがあったから、買っちゃった!」
「あ、そういうことっすか。でも、いったいどこで着替えたんすか?」
「どこでって、そのへんでだよ。雨に備えて、この下は水着だもーん」
と、灰原選手はわざわざTシャツをめくって、青いビキニに包まれた豊満なる胸もとを見せつけてくれた。
「旅の思い出に、ぴったりでしょ! うり坊も、後で買いに行く?」
「うーん。自分はちょっと生活費を切りつめないといけないんで、遠慮しておこうかと思います」
「こんなお祭りの真っ只中で、ケチくさいこと言わないでよー! これ、出演バンドの名前もプリントされてるんだよー?」
と、灰原選手はナップザックを下ろして、今度はTシャツのバックプリントを見せつけてくる。そこには主要のステージに出演するバンドの名前が、何十も記載されていたのだった。
「わ、『トライ・アングル』や『ワンド・ペイジ』や『ベイビー・アピール』の名前もプリントされてるんすか。……もー、自分の財政を圧迫しないでくださいよ」
「あはは。あとで一緒に買いに行こうねー!」
灰原選手が笑顔でそのように言いたてたとき、人混みのほうから歓声がわきおこった。ステージに『ベイビー・アピール』のメンバーが登場したのだ。
「わっ、ライブが始まっちゃう! ほらほら、さっさと観にいくよ!」
「一番遅れた人間の言うセリフじゃないだわよ。あ、人間じゃなくて低能ウサ公だっただわね」
「いいから、早くってばー!」
そうして一行は、慌ただしく人混みに突撃することに相成った。
とはいえ、ユーリは人に触れられない身だ。それに、屋根のすぐ下あたりには巨大なスクリーンが設置されて、ステージの模様が映し出されている。よって、ユーリを取り囲んだプレスマンの精鋭および千駄ヶ谷は、人垣の最後方からそちらのスクリーンをうかがうことになった。
『ベイビー・アピール』の面々はロックテイストの強い衣装に身を包み、各自の楽器を鳴らして観客たちを煽りたてる。
今日はまだ彼らと挨拶を交わしていないためか、なんだかちょっぴり別世界の人間であるように感じられてしまった。
『一年ぶりの苗場だなぁ。じゃ、のんびり始めさせてもらうぜぇ』
漆原ののほほんとした声に合わせて、ダイがシンバルでカウントを刻む。漆原の宣言とは裏腹に、彼らの一曲目は疾走感の権化である『境界線』であった。
『トライ・アングル』と同じ日にステージをこなすとき、『ベイビー・アピール』はいつもこの曲をセットリストから外している。しかし今回は日取りが別であったため、遠慮なく織り込むことになったのだろう。四人の演奏で、漆原の歌う『境界線』が、瓜子にはひどく新鮮に感じられた。
晴れわたった青空の下、大自然の山々に囲まれて、金属的な爆音が響きわたる。
これが、野外フェスの醍醐味なのだろうか。確かに瓜子は、普段のライブとはまったく異なる昂揚と清々しさを覚えていた。
熱気は凄いが、そこには風が吹いている。人工的な空調ではなく、山あいの地の清涼な風だ。
なんとなく、そんな場でスクリーンを眺めているのは惜しい気がして、瓜子は背伸びをして実際のステージを見やることになった。
このセカンドステージは五千名ぐらいの観客が集えるようになっているため、最後方からでは演者たちの姿も豆粒のように小さい。しかしそこには、確かに生きた人間の躍動感があふれかえっていた。
(そういえば、ベイビーのステージはいっつもモニターで拝見してたもんな)
また、『トライ・アングル』のステージは、すべて舞台袖から見守っている。よって、こうして客席からライブを観戦するのは、瓜子にとって初の体験であったのだった。
姿が小さいために、メンバーたちの表情まではわからない。
しかし彼らは瓜子が知る通りの演奏とアクションで、その場に『ベイビー・アピール』ならではの空間を作りあげていた。
『境界線』の後には瓜子のよく知らない曲が続いたが、中盤では『アルファロメオ』や『fly around』がお披露目される。そちらもまた、きわめて新鮮な仕上がりであった。
『じゃ、ここで一曲、カバー曲なぁ』
そんな言葉とともに披露されたのは、なんとユーリ個人の持ち曲である『ハッピー☆ウェーブ』であった。
どこかの作詞家がユーリのために書いた女性的な歌詞とメロディを、漆原がねっとりとしていてどこかデジタルに聴こえる独特の声音で歌いあげるのだ。さらに、彼らは『トライ・アングル』のステージでもこちらの楽曲を演奏していたが、それよりもさらに攻撃的でダークな印象に聴こえるアレンジが施されていた。
きっと『トライ・アングル』のアレンジのままでは、ユーリの歌声と『ワンド・ペイジ』の演奏が消える分、物足りない出来栄えになってしまうのだろう。それを補うために、彼らは『ベイビー・アピール』ならではのアレンジで『ハッピー☆ウェーブ』を再構築していたのだった。
『どうだぁ? 悪くない出来だったろぉ? ユーリちゃんの歌声が恋しくなったやつは、明日の「トライ・アングル」もよろしくなぁ』
そんなMCをさしはさみつつ、さらに二曲の激しい曲を披露して、『ベイビー・アピール』のステージは終了した。
一時間きっかりの演奏時間であったはずだが、あっという間に終わってしまったような心地だ。それでも瓜子は大きな満足感を胸に、人混みから退くことがかなったのだった。
◇
『ベイビー・アピール』のライブを観戦し終えた後は、再びの自由時間である。
そしてここからは、『ワンド・ペイジ』の代わりに『ベイビー・アピール』のメンバーが合流した。
「ステージの上から、久子ちゃんの姿が見えたよ! もみくちゃにされて、大変だったろ?」
「うん! でも、すっごく楽しかったー! 野外イベントって、いいもんだね!」
「ここからは、俺たちも酒解禁だ! 一緒に残りの時間を楽しもうぜ!」
『ベイビー・アピール』の面々も、灰原選手に負けないほどはしゃいでいる。そして瓜子のもとには、リュウが笑いかけてきた。
「瓜子ちゃんも、ご機嫌みたいだな。さすがに泣いたりはしなかっただろうけど、楽しんでもらえたかい?」
「はい。やっぱり客席から拝見すると、印象が変わるものですね。なんか、みなさんがスターだってことを再認識した気分で……こうやって口をきくのも、ちょっと恐れ多い感じです」
「なに言ってんだよ。俺たちなんて、もう何回も瓜子ちゃんの試合を観戦してるんだぜ? あっちでは、瓜子ちゃんのほうこそスターだろ」
と、サングラスを額のほうに押しやって、リュウは優しげな目もとを覗かせた。
「恐れ多いなんて、そんな寂しいこと言わないでくれよ。今日も明日も、仲良くしてくれよな」
「ええ、もちろんです」
ということで、『ワンド・ペイジ』のライブが始まるまでの一時間は、瓜子たちも会場を散策することになった。このたびは、ユーリも休息ではなく栄養補給を願ってきたのである。昼にはサービスエリアのレストランでたっぷりランチをいただいていたが、午後の六時を過ぎてすっかり消化してしまったようだ。
会場には、あちこちに食べ物のブースが出されている。しかし食堂は客席もいっぱいであったため、ここは屋台でさまざまな軽食を楽しむことにした。
ケバブのサンドイッチやたこ焼きやお好み焼き、豚肉の串焼きや鮎の塩焼き、焼きそばや天丼やインドカレー、ベーコンエッグロールやにんにく醤油まぜそばや長崎ちゃんぽん、果てには五平餅やタイ料理など、瓜子の知る通常のお祭りよりも多彩なラインナップである。どうやらこの場には、日本の各地からさまざまな専門店が屋台を出しているようであった。
さらに他なる売店ブースでは、イベントや出場バンドの各種グッズも取りそろえられている。明日の出場である『トライ・アングル』も、その例外ではなかった。
その中で瓜子の心をひきつけたのは、やはり『ワンド・ペイジ』の物販グッズであろう。『トライ・アングル』のグッズはサンプルとして頂戴できるので、瓜子とユーリの部屋にはひとつ余さずコンプリートされているのである。
然して、瓜子が所有している『ワンド・ペイジ』のグッズというのは、メンバーおよびユーリからプレゼントされたTシャツが、それぞれ一枚ずつである。まあ、瓜子は山寺博人がインディーズ時代から使用していたエレキギターなどというとんでもないアイテムを所有しているわけであるが、それでも『ワンド・ペイジ』の公式グッズに胸を躍らせない理由にはならなかった。
「そんなもん、ワンドの連中に頼めばいくらでもゲットできるだろ!」
「そうだそうだ! 俺たちのグッズには目もくれないくせに、なんか感じ悪いぞ!」
と、瓜子は珍しくもタツヤやダイに不平の声を浴びせられることになってしまった。しかしまあ、すねた子供のような風情であったので、可愛らしいものである。
そんなわけで、瓜子は後ろ髪を引かれつつ『ワンド・ペイジ』のグッズから身を遠ざけ、その代わりに『ジャパンロックフェスティバル』のTシャツを購入することにした。
瓜子はあまり、土産物をありがたがる気質ではない。しかしそれでも今日というイベントの記念品を、何かしら購入したくなってしまったのだ。
それで選んだのは、灰原選手と色違いのTシャツである。瓜子が選んだのは淡いパープルで、ユーリも同じカラーリングのものをほくほく顔で購入していた。
そうして売店のブースを巡っているだけで、瞬く間に時間は過ぎ去ってしまう。
午後の七時が近づいて、辺りがすっかり薄暮に包まれた頃、瓜子たちは大慌てでセカンドステージに舞い戻ることになった。
やはりメインステージは大御所のバンドで埋められてしまうらしく、『ベイビー・アピール』も『ワンド・ペイジ』も、明日の『モンキーワンダー』も『トライ・アングル』も、のきなみセカンドステージでライブを行うことになるのだ。しかしこちらは六つのステージの中で二番目の規模であるのだから、十分に立派であるはずであった。
夜が近づいたことにより、辺りにはまた異なる雰囲気が生まれ始めている。
周囲の山々は早くも真っ黒なシルエットとなって、紫色に染まった天空には細く雲がたなびいていた。
気温は、明らかに下がってきている。まだまだ上着が必要になるほどではないが、それは人の熱気のおかげかもしれなかった。
「なんか本当に、キャンプにでも来たような気分だね。ま、あたしはキャンプなんて行ったこともないんだけどさ」
『ワンド・ペイジ』の登場を待つさなか、多賀崎選手が笑顔でそんな言葉をこぼしていた。
多賀崎選手もこのたびのイベントを心から楽しめている様子で、瓜子はほっとする。普通に考えて、北米行きの数日前に新潟旅行を敢行するなど、無茶なスケジュールであるのだ。しかも北米では人生のかかった大一番が待ち受けているのだから、なおさらであるはずであった。
そうしていよいよ夜の気配が近づいてきた頃、『ワンド・ペイジ』の三名がステージに登場する。このたびも、瓜子は背伸びをして生の姿を見届けることになった。
山寺博人はかったるそうな態度でマイクスタンドの角度を調節し、陣内征生は巨大なアップライトベースにしがみつくような格好で立ち尽くす。西岡桔平は何度か椅子の上で座りなおし、スネアやタムを撫でるように試し打ちした。
それから何の前触れもなく、陣内征生がアップライトベースを乱打し始める。
大歓声の中で開始されたのは、これまた『トライ・アングル』の定番曲である『カルデラ』であった。
この曲は、瓜子も何年も前からCDで聴かせていただいている。
しかし最近ではめっきり『トライ・アングル』のバージョンが耳に馴染み――それゆえに、懐かしさと新鮮さが同じぐらいの勢いで胸中を駆け巡ることになった。
ユーリの歌声と『ベイビー・アピール』の追加アレンジに頼ることなく、彼らは威風堂々と『カルデラ』の迫力を客席に叩きつける。
『ワンド・ペイジ』には三名のメンバーしかいないため、『トライ・アングル』のバージョンに比べると音が薄くなるのが必然であろう。それでもまったく物足りないという印象が生じないのは、さすがのひと言であった。
だけどきっと、それは話が逆であるのだろう。
この『カルデラ』に限らず、『ワンド・ペイジ』の楽曲というのはこの三名で完成されているのだ。山寺博人のしゃがれた歌声と、荒々しく人間くさいギターサウンドと、流麗であったり繊細であったり暴力的であったりする陣内征生のアップライトベースと、ジャズの影響が強い西岡桔平のドラム――『ワンド・ペイジ』の楽曲に必要なのは、本来それのみであるはずであった。そこに五名もの人間が割り込んで、原曲とは異なる形で同じぐらいの完成度を実現させたことこそが、『トライ・アングル』の物凄さであるのだった。
『ワンド・ペイジ』のライブを初めて客席から目にした瓜子は、もう最初の一曲目から圧倒されてしまう。
そうして彼らは次々と、瓜子にとって馴染みのある曲を披露して――その中には、当然のように『砂の雨』と『ジェリーフィッシュ』も含まれていた。
さらに終盤でお披露目されたのは、なんとユーリの持ち曲である『リ☆ボーン』である。本来は明るく元気な曲であるのに、山寺博人が歌うと凄まじいまでの切迫感や疾走感が加えられることに相成った。
『さっきのベイビーさんと曲がかぶらなかったのは、ラッキーでした。明日の「トライ・アングル」も、どうぞよろしくお願いします』
『リ☆ボーン』のアウトロから音を消さずにシンバルの響きを引っ張りつつ、西岡桔平は笑いを含んだ声でそのように言いたてた。
『それじゃあ俺たちは、これで最後の曲です。イベントは明日まで続きますので、最後まで一緒に楽しみましょう』
和やかに語りつつ、西岡桔平は勢いよくオープンのハイハットでカウントする。
そうして最後の曲として準備されていたのは――瓜子が入場曲として使用させていただいている、『Rush』であった。
瓜子は胸がいっぱいになって、思わず涙をこぼしてしまう。
ユーリも心から楽しそうな様子で、ずっとぴょんぴょん跳びはねていた。
かくして、『ワンド・ペイジ』のステージも終了し――瓜子はこれまで以上に充足した気持ちで、イベント初日の夜を迎えることになったのだった。