インターバル 多事多端
「なかなか厄介な事態になってきちまったぞ」
コーチの立松がそのように言い出したのは、八月の最終週に入ってからのことであった。
赤星道場の合宿稽古にお邪魔して、『トライ・アングル』のセカンドシングルも無事にリリースされ、その翌週には単独ライブとテレビ番組の収録も終え、残すは週末に控えている『ジャパンロックフェスティバル』のみ――そして、ユーリたちが北米に出立するまで、残る期間は十日足らずといった頃合いである。
「いったい何があったんすか? まさか……こんな土壇場で、『アクセル・ロード』が中止になったとか言わないっすよね?」
「そんなわけがあるかよ。厄介なのは桃園さんじゃなく、お前さんについてだよ」
立松はこれ以上もなく、仏頂面になってしまっていた。どうも瓜子が戴冠して以来、立松はすっかり気苦労が増えてしまったようである。それを申し訳なく思いつつ、瓜子は立松の言葉を拝聴することになった。
「どいつもこいつも示しあわせたみたいに、厄介な連絡を入れてきやがって。いったい何から話したもんか、整理がつかねえよ。まあ、これもお前さんがそれだけの人気選手になったって証拠なんだろうから、文句をつける筋合いはねえんだがな」
「押忍。つまりは、試合のオファーがらみのお話ってことですか?」
「ああ。とりあえず、わかりやすいところからいくか。……まず、《G・フォース》から十月大会のオファーがあった。ただし期日は、十月の第二日曜日だ」
「第二日曜日っすか。となると、アトミックの三週間後っすね。大きなダメージを負わなければ、なんとかなるかもしれませんけど……」
「しかし、アトミックの試合はタイトルマッチだ。その三週間後にキックの試合なんざ、俺はオーケーを出す気にはなれねえな。しかもお前さんは、もう二年ばかりもキックの試合から離れてるんだからよ」
そう言って、立松は厳しい目で瓜子の顔を見据えてきた。
「それにな、前から何べんも言ってる通り、キックの八オンスのグローブだと、お前さんのハンマーみてえなパンチの威力が半減する。そうすると、キックとMMAではファイトスタイルを大きく変える必要があるってことだ。タイトルマッチの対策と同時進行でキックの技術を磨きなおすってのは、どっちも中途半端に終わる危険が高い。もちろん最後に決断するのはお前さんだが、俺はコーチとして断固反対の意見を述べさせてもらうぞ」
「そうっすね……自分も今では、アトミックと《フィスト》の二冠王としての責任があると思います。キックとMMAの両立を目指すなら、普段からそのためのトレーニングを積む必要があるんでしょうね」
瓜子は、そのように答えてみせた。
立松は、重々しく首肯する。
「俺もかねがねそう思ってたが、MMAのほうがあまりに慌ただしくて、キックの指導までは行き届かなかった。その点は、きっちり詫びさせてもらいたい」
「いえ、とんでもない。そもそもこれまでの自分に、キックとMMAの両立を目指す余力はなかったと思います。それで今でも、MMAの稽古だけで手いっぱいですから……ここはいったん、きっちりキックと距離を取るべきなんでしょうね」
「……今回のオファーを蹴ったら、おそらく《G・フォース》のランキングから外されることになるだろう。それでも、気持ちは変わらねえか?」
「押忍。今はMMAに集中したく思います」
「よし」と、立松は自分の膝を叩いた。
「それじゃあ、そっちの話はよしとしよう。お次は……やっぱり近い日取りの話から片付けるべきだろうな。たったいまタイトルマッチが云々と言ったばかりだが、九月大会のマッチメイクでまたまた変更のしらせが来やがったんだよ」
「え? 後藤田選手とのタイトルマッチが、また流れちゃったんすか? これで二回連続っすよ?」
「ああ。あちらさんはベテラン選手で、なんらかの故障を抱えてるんだろう。もしかしたら後藤田選手は、今回の欠場でタイトル戦線から外されちまうかもしれねえな」
と、立松は厳しい面持ちのまま居住まいを正す。
「まあ、俺たちがあちらさんの心配をする必要はない。それより重要なのは、目前の試合だ。九月大会まで、残りひと月ていどなんだからな」
「押忍。新たな候補は、どなたなんすか? 亜藤選手や、山垣選手あたりっすか?」
「いや。鞠山さんだよ。こっちの予想より、ちょいと早い対決になっちまったな」
瓜子は思わず、息を呑むことになってしまった。
「鞠山選手っすか……それは確かに、予想外だったっすね」
「ああ。しかも鞠山さんとは、赤星の合宿稽古でご一緒してたんだろ? お前さんの手の内も、あるていどは知られてる状態だ。……このオファー、受けるか?」
「もちろんです!」と、瓜子はつい大きな声をあげてしまった。
「予想外ではありましたけど、自分は鞠山選手や灰原選手との対戦を心待ちにしてたんすよ。それはもちろん、タイトルマッチなんでしょう?」
「ああ。こっちがオッケーを出せば、そういうことになるだろうな。しかし、いきなりのカード変更なんだから、ノンタイトル戦を希望することもできるはずだぞ」
「いえいえ! どうせだったら、タイトルマッチでお願いします! せっかく鞠山選手と対戦できるのに、ベルトを懸けないなんてもったいありません!」
「ふん。そんなガキみてえに嬉しそうな顔するんじゃねえよ」と、立松のほうも嬉しそうに口もとをほころばせた。
「じゃ、こっちの話もオッケーだな。残るオファーは、あと二件だ」
「押忍。それ以外に、二件もオファーがあったんすか?」
「ああ。こいつはまとめて話すか。オファーがあったのは、《フィスト》の十一月大会と――年末の、《JUFリターンズ》だ」
瓜子は再び、息を呑むことになってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。自分なんかに、《JUFリターンズ》からオファーがあったんすか?」
「自分なんかにってのは、どういう言い草だよ。お前さんは、押しも押されぬ二冠王だろ」
「そ、それはそうですけど……でも、今の《JUFリターンズ》は《アクセル・ファイト》の下部組織なんでしょう? それで《アクセル・ファイト》には女子ストロー級も存在しないのに、《JUFリターンズ》で自分を抜擢する意味があるんすか?」
「そりゃあ確かに今の《JUFリターンズ》ってのは、《アクセル・ファイト》に相応しい選手を発掘するための場だと言われてるがな。その前にまず、興行としても成功させなきゃならん。だからジョアン選手みたいな人気選手を出場させて、客の目を引こうとしてるわけだ。お前さんも、そのレベルの人気選手だと見なされたってことだろう」
そんな風に言ってから、立松は鋭く目を光らせた。
「あるいは――そろそろ《アクセル・ファイト》でもストロー級を設立しようって動きがあるのかもな。それでお前さんの実力を見定めようって魂胆なのかもしれねえぞ」
瓜子はどくんと心臓が高鳴るのを感じた。
立松はしばらく瓜子の顔を見つめてから、ふっと表情をやわらげる。
「まあ、実際のところはどうだかわからん。しかし何にせよ、《JUFリターンズ》ってのは国内最大規模のイベントだ。お前さんにとって、ビッグチャンスだってことに変わりはねえよ。……その試合は、地上波で生放送されるんだろうしな」
「そう……ですね。ユーリさんだって、《JUFリターンズ》にはグラップリングマッチで出場してるんですもんね」
「あれは夏の大会で、地上波の放映も見送られてたがな。しかし桃園さんは、一昨年の年末にもオファーをもらってた。そいつは負傷欠場することになっちまったが……お前さんが二年前の桃園さんに追いついたんだと考えれば、そんなに不思議な話ではないんじゃねえか? むしろ実績だけで言えば、お前さんはあの頃の桃園さんをとっくに追い抜いてるんだからよ」
あの頃のユーリといえば、無差別級王座決定トーナメントの予選試合で、来栖舞を打ち倒した時期である。沙羅選手、秋代拓海、オリビア選手を打ち倒した上での結果であるから、それは見事な戦績であるに違いないが――《アトミック・ガールズ》と《フィスト》の二冠王となり、十二戦連続でKO勝利を果たした現在の瓜子は、確かにそれよりも遥かにまさる実績であるはずであった。
しかしもちろん現在のユーリはベリーニャ選手に敗北して以降、瓜子と同じペースで勝利を重ね、《アトミック・ガールズ》の王者にもなっている。現時点ではユーリのほうが実績を積み、それで『アクセル・ロード』の中心人物と目されることになったわけであった。
(だから、あたしが《JUFリターンズ》に挑むってのは……一歩先を行くユーリさんを追いかけてるようなもんか)
そんな思いが、瓜子の胸をいっそう高鳴らせていく。
「承知しました。自分も喜んで、そのオファーを受けさせてもらいたく思います。……でも、立松コーチはどうして悩ましげなお顔をされてたんすか?」
「それはきっとお前さんより、少しばかり視野が広いせいだろうな。……《フィスト》と《JUFリターンズ》のオファーを受けたら、お前さんは二回連続でアトミックを欠場する可能性が高いんだからよ」
立松のそんな言葉に、瓜子は大いに慌てることになった。
「ちょ、ちょっとお待ちくださいね。えーと、《フィスト》は十一月で、《JUFリターンズ》は大晦日っすよね。そうすると……アトミックの十一月大会と一月大会が厳しくなるってことっすか?」
「ああ。一月大会は四週間の期間が空くから、《JUFリターンズ》の試合で負うダメージ次第だろう。しかし《フィスト》はアトミックの二週間前だから、ほとんど絶望的だな」
「でも……オリビア選手は二週間の間隔で連戦してましたよね?」
「そいつはあくまで、臨時のオファーだったからな。二週間の期間しか空けないで、出場の確約もできない興行のオファーを受けるなんざ、業界内のご法度だよ。お前さんも逆の立場になって考えれば、そいつは理解できるだろ?」
逆の立場とは、瓜子の対戦相手のことだ。
二週間前にいきなり対戦相手が変わるというのは、大変なことである。ちょうど瓜子も前回の七月大会で、その大変さを味わわされたところだ。ただあれは、後藤田選手が練習中に怪我をしたという、不慮の事故に他ならなかった。しかし、二週間しか猶予を空けずに、別々の興行にエントリーするというのは――後半にあたる興行を軽んじていると見なされてもしかたのないところであった。
「可能性があるとしたら、せいぜいエキシビションだろうな。今のパラス=アテナなら、エキシビションでもいいからお前さんに出場してほしいと言いたてるところだろう。それだって、事前の試合のダメージ次第だが……どうする?」
「はい……《フィスト》だって、前回の試合から五ヶ月以上も期間を空けてくれたんですもんね。王座を戴冠したからには、《フィスト》からのオファーも二の次にはできないと思います」
「ああ、それが道理だな。お前さんが道理のわかる選手で、よかったよ」
「押忍。たとえエキシビションでも、アトミックに出場できる可能性はあるんですもんね。ひと月に二回も試合ができたら、むしろお得だと考えることにします」
「……前言撤回しておくべきかな。まったく、困ったチャンピオン様だよ」
そうして瓜子は苦笑を浮かべた立松に頭を小突かれつつ、その日のミーティングを終えることになったのだった。
◇
その翌日である。
瓜子は日中の仕事の狭間に、千駄ヶ谷から呼び出しを受けることになった。
おたがいスターゲイトの本社まで出向く時間は取れなかったため、次の現場の付近にあるカフェに集合である。そうしてテーブルに着席するなり、千駄ヶ谷は真っ直ぐ瓜子の顔を見据えてきたのだった。
「本日は猪狩さんにご相談があったため、こうして時間を作っていただくことになりました。ユーリ選手はお気になさらず、どうかおくつろぎください」
「ええ? 緊急のお話って、自分にだったんすか? なんか、嫌な予感しかしないんすけど……」
「本来は、もっと早くにご相談するべき案件でありました。しかしこちらも、あれこれ業務が詰まっていましたもので」
そう言って、千駄ヶ谷は縁なし眼鏡の奥で切れ長の目を冷たく光らせた。
「ユーリ選手の北米出立まで、ついに十日間を切りました。それ以降、猪狩さんはどのようにお過ごしする予定でありましたか?」
「え? それ以降って……つまり、ユーリさんが不在の間っすよね? それはまあ、時間ができたら稽古に打ち込もうかと考えていましたけれど……」
「これといって、就労の予定もなく?」
「はい。だって、スターゲイトは副業を禁止してるでしょう? まあ、それで撮影の仕事に引っ張り出されるのは納得がいかないんすけど」
「なるほど。しかしユーリ選手は、最長で三ヶ月も日本を離れることになります。その期間、猪狩さんは完全に無給の状態になってしまうわけですが、それで支障はないのでしょうか?」
「ええまあ、かなり切り詰めることにはなりますけど、それぐらいは何とかなりますよ。ユーリさんもこれまで通り、家賃の半分は払ってくれると仰ってくれましたし……」
「あのマンションは、ユーリとうり坊ちゃんの愛の巣であるのです! ちょっぴり留守にするからと言って、ユーリが家賃の支払いを拒む理由はどこにも存在しないのです!」
「お静かに。……猪狩さんはスターゲイトの契約社員でありますが、完全歩合制であるために、このような事態に至ってしまったわけです。私はかねてより、そのことを申し訳なく考えていました」
「いえいえ。こんな変則的な契約を結んでくれる会社は他にないでしょうから、自分は感謝の気持ちでいっぱいですよ。どうかお気になさらないでください」
「いたみいります。……ただ、三ヶ月も無給の状態では、猪狩さんの生活が困窮する危険もありましょう。そこでひとつご提案させていただきたいのですが……その期間、猪狩さんのマネージメント業務をスターゲイトにおまかせくださいませんでしょうか?」
瓜子は「はい?」と小首を傾げることになった。
「自分のマネージメント業務って、なんのお話っすか? 選手活動に関しては、道場のほうできっちり受け持ってもらってますけど……」
「ですから、選手活動を除く副業に関してのマネージメント業務です」
瓜子が最初に抱いた不安感は、ようやく明確な形を取り始めたようであった。
「や、やっぱりお話がわかりません。パラス=アテナや格闘技マガジンとかからの撮影依頼でしたら、自分で何とかできますし……」
「それ以外にも、猪狩さんには数多くの撮影依頼が殺到しています。それらのおおよそはスターゲイトに届けられているものとお話しした覚えがあるのですが、ご記憶に留められているでしょうか?」
「は、はい。自分はスターゲイトの所属だから、出版社とかからの撮影依頼はそちらに届けられてるってお話でしたよね。でも千駄ヶ谷さんだって、そういう話は自分の商品的価値を落とすだけだっていうご判断だったんでしょう?」
「はい、これまでは」というのが、千駄ヶ谷の恐るべき回答であった。
「ですが猪狩さんはこの数ヶ月で、飛躍的に知名度を上げることになりました。選手活動におけるご活躍と『トライ・アングル』の特典商法による影響で、今や猪狩さんの人気は留まるところを知らない状態にあります。今こそが、これまで蓄積していた商品的価値を発露させる絶好のタイミングなのではないでしょうか?」
「いえいえ! そのようなものは、永遠に眠らせておきたく思います!」
「ですが、ユーリ選手はこのまま《アクセル・ファイト》と正式に契約を交わす公算が高いものと見なされています。当社のリサーチによっても、それは75パーセントという高い数値を指し示しているのです」
そんな高い確率で、ユーリは『アクセル・ロード』で優勝するものと目されているのだ。
このような際にあっても、瓜子は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「それはまことにめでたき話であり、私も心からのお祝いを届けたく念じております。ですが……それは、ユーリ選手が国内における選手活動を終了させるのと同義であるのです。《アクセル・ファイト》と正式契約を交わしたならば、ユーリ選手が日本国内で出場できるのは《JUFリターンズ》のみとなってしまうのです。それは女子格闘技界から最大のスターが消失するのと同義でありましょう」
「そ、そこは残された選手たちが頑張りますよ! グラビア活動とかではなく、試合の内容で!」
「しかし、《JUFリターンズ》を除くすべての興行は、有料チャンネルでしか放映されておりません。ユーリ選手はモデル活動と音楽活動で一般層にも名を知らしめていましたが、他なる選手にはそのすべがないのです。また同時に、ユーリ選手が国内の選手活動を終えることで、ここまで活性化した女子格闘技界が一気に沈滞する恐れもあるでしょう。世間は、新たなスターの登場を心から渇望しているのです」
瓜子はドロドロとした不定形の物体に、足もとからへばりつかれているような心地であった。
そして首から上は、絶対零度の眼光で凍結されている。瓜子が相手取っているのは千駄ヶ谷ひとりであるのに、脳裏に浮かぶのは「四面楚歌」という言葉であった。
「とはいえ――ユーリ選手が国内に残留する可能性も、いまだ25パーセントは残されています。ですから、猪狩さんが期間限定でピーアール活動に臨むという案は如何でしょうか?」
「はあ……きかんげんていっすか……」
「はい。九月の頭から十一月の中旬まで、およそ二ヶ月半。年内の課外活動はその期間のみと銘打てば、いっそうの撮影依頼が舞い込むことでしょう。それでどれだけの結果が出せるか、まずはそれをお確かめいただくというのはどうでしょう? ご自分の課外活動がどれだけの効果を発揮するか、それをご自分の目でしっかりと見定めていただきたいと、私はそのように願っています」
瓜子はKO寸前の心境で、かたわらのユーリを振り返ることになった。
そちらで待ちかまえていたのは、天使のように慈愛あふるる笑顔である。
「ユーリは何も強要できるような立場ではないのです。だから、うり坊ちゃんの決断をこのつぶらなお目々でお見守りするだけであるのです」
「……なんか、にこにこ笑う天使に崖から突き落とされたような心地です」
そうして瓜子は血反吐を吐くような思いで、千駄ヶ谷が準備していたプレゼンの資料に目を通すことに相成ったわけであった。