03 地獄のサーキット
灰原選手や鞠山選手を相手取った後にも、瓜子にはまだまだ楽しい試練が控えていた。
三ラウンド目の相手は、初の手合わせとなる高橋選手である。
身長百七十二センチ、体重七十五キロの高橋選手は、言うまでもなく強敵であった。
ただし瓜子はこの数ヶ月で、オルガ選手とのスパーを重ねている。力強さは同等であっても、攻撃および踏み込みの鋭さは、明らかにオルガ選手のほうがまさっていた。
とはいえ、これだけの体重差であれば一発の攻撃で大ダメージであるし、ましてやこのスパーではボディプロテクターも装着していない。むろん高橋選手も瓜子を壊さないように加減してくれていたが、こちらは全力で足を使い、すべての攻撃をかわした上で一発でも多くの有効打を当てるという稽古に取り組むことになった。
その次は、魅々香選手である。
魅々香選手もウェイトを上げたことで、さらにパワフルになっている。それでいて、スピードが落ちたという気配もない。よって瓜子は魅々香選手の豪快なフックをかいくぐり、得意の組みつきも回避しつつ、可能な限りはインファイトでやりあってみせた。
五番手は、愛音だ。
これこそ、手慣れた相手である。が、愛音も油断できる相手ではない。瓜子より八センチも長身であるくせに、ウェイトは軽くて敏捷性はあちらが上という、そんな厄介な相手であるのだ。瓜子が生半可なアウトファイターに動じなくなったのは、愛音のおかげでもあるはずであった。
お次は、青田ナナである。
彼女とは、一年ぶりの手合わせだ。しかも昨年の彼女はユーリや瓜子に反感を抱いており、立ち技のスパーも力まかせで、ついには女子選手との合同稽古を放棄してしまったのだった。
そんな彼女も、今回は邪心なく瓜子たちとの稽古に取り組んでくれている。
果たして、その実力は――瓜子の思い出の中よりも、遥かに難敵であった。
彼女はユーリと同じ背丈で、体重はさらにまさっている。しかし鈍重なところはなく、すべての点がまんべんなく鍛えられている。何か特化した強みがない代わりに、弱みらしい弱みも存在しないのだ。
攻守ともに隙はないし、打撃技も組み技も強い。防御した手足に感じる衝撃からして、KOパワーも持っているだろう。これほどにオールラウンダーという言葉が相応しい選手はなかなかいないのではないかと思えるほどであった。
よって瓜子は、大いに奮起することになった。
自分より二階級も上で、時には男子選手と対戦することもあるオールラウンダーの実力者に、自分の力がどれほど通用するか。ついつい熱くなってしまったのである。
その結果、瓜子は相手から一回のダウンを奪い、そして二回のテイクダウンを奪われることになったのだった。
そして次なるは、正真正銘の初手合わせとなる、香田選手である。
一転して、彼女は個性派のファイターであった。何せ体格からして、百五十六センチの身長に六十五キロのウェイトであるのだ。それは、青田ナナより十センチ以上も背が低いのに体重は同等である、という数値であるはずであった。
そんな彼女のファイトスタイルは、愚直な前進だ。
スピードとテクニックでまさる瓜子は、ひたすら前進してくる香田選手に遠慮なく攻撃を当てることができた。
しかし、香田選手の前進は止まらない。いかに防具をつけていて、全力の攻撃を出したりはしないスパーでも、瓜子の攻撃に何の痛痒も受けていない様子であるのだ。
そして彼女は、左右のフックと組みつきを得意にしている。
それは魅々香選手と似た特性であったが――彼女は魅々香選手よりもパワーでまさりつつ、打撃の技は小刻みで鋭かった。そこに、十キロばかりも軽い瓜子には一発のクリーンヒットでダウンは必至という重さが乗せられているのである。
これには瓜子も舌を巻き、時間いっぱい足を使うことになった。後方とサイドに逃げながら、迫り来る壁に何度となく攻撃を当て続けた格好である。危うい場面こそなかったものの、瓜子は著しくスタミナを削られることになってしまった。
その次は、大江山すみれである。
彼女も明らかに、打撃の技が磨かれていた。彼女は部外者のいる場においては古武術スタイルを封印する方針であるが、通常のMMAの技術がきちんと底上げされていたのだ。
もちろん彼女は愛音と同い年の高校生であり、本領は古武術スタイルであるために、他の選手に比べればまだまだ未熟である。
しかし瓜子は、何度か寒気を覚えることになった。
ふとした瞬間に繰り出されるカウンターが、ぞっとするほどの鋭さを備えていたためだ。
それはきっと、古武術スタイルの習得によって磨かれた技術であるのだろう。
それでけっきょく瓜子は二分間、まったく気を抜くことも許されず大江山すみれを相手取ることになった。それでもボディブローで一回のダウンを奪えたのは、彼女の打たれ弱さゆえであろうと思われた。高校生である彼女は、まだまだ身体ができあがっていないのだ。
そうしてついに迎えた、最終ラウンド――
よりにもよって、その相手がメイであった。
すでに十六分間の連続スパーをこなした後であるので、おたがい疲労困憊である。なおかつ、合宿稽古において本気のスパーはご法度と取り決めていたが――それでも、メイが強敵であることに変わりはなかった。それに、どれだけ疲れていようとも、瓜子を相手にしたスパーでははりきってしまうメイなのである。
毎日同じ場で稽古を積み、手の内も知り尽くした間柄であるために、本気のスパーでなければおたがいにクリーンヒットを許すこともない。
しかし瓜子は、残されていたスタミナをそこで綺麗に使いきった心地であった。
「では、十分間のインターバルを入れつつ、その間に指導をさせていただく。その内容を吟味して、次のセットに取り組んでもらいたい」
赤星弥生子が、十名全員に所見を述べていく。実にタイトな時間割だが、彼女の指導力というものは昨年の段階で証明されていた。
「こちらの班の軽量級の選手はいずれもステップが巧みであるため、ウェイトでまさる面々もつかまえることが困難であったようだ。高橋さん、香田さん、御堂さん、ナナの四名は、軽量級の誰にも攻撃をクリーンヒットさせることができなかった。ただその代わりに、高橋さんを除く三名は半数ていどの相手からテイクダウンを奪えたようだね。香田さんがテイクダウンを奪えなかったのは、猪狩さんとメイさんと鞠山さん。御堂さんは、それに加えて灰原さん。ナナは、鞠山さんとメイさん。……つまり、邑崎さんとすみれの両名は、三人全員からテイクダウンを奪われていることになる。これは両名の攻撃力が不足気味であり、強引な組みつきを防げなかった結果だろう。よって、邑崎さんとすみれは腕力に頼らない的確な攻撃を、香田さんと御堂さんとナナは打たれ強さに頼らないテイクダウン技術を磨くべきだと思われる。格闘技においてフィジカルは重要だが、そこに確かな技術を重ねることこそがさらに重要なのだと、私はそのように考えている」
瓜子を含めて、全員が真剣な面持ちで赤星弥生子の言葉を聞いている。初の合宿稽古である高橋選手と香田選手も、昨日の時点で赤星弥生子の鑑識眼は体感できているのだった。
「それに付け加えて、猪狩さんは……ナナとのスパーで、少々熱くなっていたようだね。だから一回の攻撃をクリーンヒットできた代わりに、二回のテイクダウンを奪われることになった。君が落ち着いて対処していれば、まったく違った結果になっていたように思う」
「押忍。二分の時間で結果を出したくて、つい逸りました。次のセットでは、落ち着いて取り組みます」
「うん。それと、すみれもだね。猪狩さんを相手にしたときだけ、君は殺気がこぼれていたよ」
赤星弥生子に鋭い眼光を向けられると、大江山すみれは虫も殺さぬ笑顔で「はい」とうなずいた。
「猪狩さんとのスパーを心待ちにしていたので、つい気持ちを抑えられなくなってしまいました。反省しています」
「うん。あるていど熱くなるのは仕方ないことだけど、これはあくまでスパーリングだ。技術の向上と怪我の防止を一番に考えてほしい」
そんな調子で指導は進められ、あっという間に二セット目の開始時間である。
そちらでも、瓜子は存分に激戦を満喫することができた。
一セット目で多少は感覚がつかめたと見えて、誰もが手ごわく感じられる。スタミナの消耗はおたがいさまであるので、ここで差が出るのはもともとの体力と精神力であった。
そこで際立った強靭さを感じさせたのは、魅々香選手と香田選手である。
長らく右肘の故障を抱えていた魅々香選手は、スタミナトレーニングと体幹の強化に励んでいたのだという。その成果が如実に表れて、魅々香選手は誰よりも余力があるように感じられた。
そして香田選手は、尻上がりに調子がよくなるタイプであるらしい。スタミナの残存量とは関係なく、瓜子の攻撃の間合いがようやくつかめたようであるのだ。彼女は先月の試合でも見せた的確なるバックステップによって、瓜子の攻撃の半分以上をかわせるようになっていた。
しかしまた、それ以外の人々も十分に難敵である。かつてはスタミナに難があった愛音や灰原選手も、他の選手に負けない勢いで二セット目のサーキットに取り組んでいた。
そうして二セット目のサーキットも終了し、また十分間の指導を受けたのちは、寝技のサーキットに移行である。
ストライカーたる面々にとっては、ここからが地獄の時間であった。しかも、軽量級である六名のうちストライカーでないのは鞠山選手のみであり、重量でまさる四名のうち高橋選手以外の三名は寝技を得意にしていたのである。
立ち技のスパーで翻弄された恨みを晴らすべく――というのはあくまで比喩表現であるが、とにかくここからは攻守が完全に逆転した。魅々香選手と香田選手と青田ナナの三名が、その重量と確かなテクニックで無双することになったのである。
そこで押し潰されなかったのは、彼女たちよりも技術でまさる鞠山選手と、そして軽量級らしからぬフィジカルを有するメイであった。なおかつメイは普段からユーリやオルガ選手に鍛えられているため、魅々香選手たちの重量や技術にまったく屈することもなかったのだ。さすがに一本を奪うまでには至らなかったようだが、最初のセットを終えたのちの指導では赤星弥生子もいたく感服していたものであった。
「メイさんと稽古をともにするのは初めてだったし、これまでの試合でもあまり寝技の攻防は拝見していなかった。いささかフィジカル頼みなところは否めないけれど、それでもこの面々に対抗できるというのは大したものだ。そのまま順当に稽古を重ねていけば、立派なオールラウンダーを目指せることだろう」
しかしそんな賛辞を浴びても、メイは不愛想に目礼するばかりである。彼女としては、魅々香選手たちから一本も奪えなかったことを不服に思う気持ちが先に立つのだろうと思われた。
だがそれは、魅々香選手たちの技術が優れているためだ。とりわけ魅々香選手は、ゴールデンウィークの合宿稽古の際よりも、さらに技術が向上したように思えてならなかった。
(もちろん魅々香選手だって、『アクセル・ロード』に向けて猛特訓してるんだ。あたしだって、負けてられないぞ)
瓜子とて条件はメイと同じはずであるのに、魅々香選手たちから一本を奪われてしまった。もちろんメイは瓜子よりもフィジカルで優れているし、寝技のキャリアも長いのだから、それが当然の結果であるわけだが。だからといって、妥協することは決して許されなかった。
そうして寝技の二セット目も終了したならば、ついに最初のステップもクリアである。
十分間の指導を終えた後、赤星弥生子は「さて」と言葉を重ねた。
「九ラウンドのサーキットを四セット終えたので、あちらの班と合流する。……ウォームアップは完了といったところかな」
「あんたさー! そんな涼しい顔で、人の心をへし折るようなこと言わないでよ!」
汗だくの灰原選手がすぐさま不平を述べたてると、赤星弥生子はいくぶんきょとんとした感じに「すまない」と応じた。
「確かに、五時間の稽古のうち二時間ていどは終えたのだから、ウォームアップと呼ぶには長すぎたかな。不適切な発言をしてしまい、申し訳なかった」
「だから、そういうセリフが重たいんだってばよー」
めげた顔で言いながら、灰原選手が瓜子にのしかかってくる。瓜子はその行動にこそ不平を申し立てたいところであったが、今のところはそんな気力も振り絞れなかった。
ここでキッズクラスの門下生たちは「お先に失礼します!」と退出していき、へとへとになったタツヤたちは壁際で見学していた千駄ヶ谷たちと合流する。そこでこちらに近づいてきたのは、師範代の大江山軍造であった。
「来栖さんと兵藤さんは引き続き、うちの若い連中の面倒を見てもらうぜ。こっちは、俺と青田が交代だ」
キリル選手を男子選手のほうに残す代わりに、今度は師範代が女子選手の面倒を見てくれるのだ。そしてここからは、赤星弥生子も稽古に加わるのだった。
「さあさあ、それじゃあ始めようか。今日から合流した面々もこの一年でどれだけ成長したのか、楽しみなところだな!」
そう言って、大江山軍造は豪快に笑う。
それはまさしく、地獄の赤鬼に相応しい姿に見えてならなかったのだった。