02 本稽古
そうしてあっという間に二時間が過ぎて、午後の三時半――MMAの体験スクールは、無事に終了した。
百名からの参加者たちは、頬を火照らせながら体育館を退出していく。『トライ・アングル』のメンバーおよび瓜子は複数の相手から握手や写真撮影をせがまれることになったが、なんとか大きな騒ぎには発展させずに事なきを得ることができた。
ここからは五時間みっちり、本稽古である。
最初の二時間はキッズコースの門下生と合同稽古であるが、最後の三時間は正規の門下生のみで赤星弥生子も加わる予定になっている。午前中のレクリエーションもこれまでの体験スクールも大切な時間であったものの、やはり瓜子たちにとってはここからが本番であった。
ちなみに『トライ・アングル』のメンバーは、キッズクラスの門下生と稽古をともにすることが許されている。すでに体験スクールで二時間もの稽古を積みながら、辞退を申し出たのは山寺博人ただひとりであった。
「では、今日は外部の方々全員と合流できたので、まずは女子選手のみでスパーに励んでもらいたく思う」
赤星弥生子が、凛然とした面持ちでそのように宣言した。
昨日から稽古に参加していた外部の女子選手は、魅々香選手、高橋選手、香田選手、オルガ選手の四名。
本日合流したのは、瓜子、ユーリ、サキ、愛音、メイ、灰原選手、多賀崎選手、小笠原選手、小柴選手、鞠山選手、オリビア選手の十一名。
そして、赤星道場の門下生は、青田ナナ、マリア選手、大江山すみれの三名。
総勢は、十八名となる。女子選手だけの人数で言えば、これは過去最大の規模であるはずであった。
その面倒を見る指南役は、赤星弥生子と青田コーチの二名である。来栖舞と兵藤アカネはキッズクラス、キリル氏は男子選手の面倒を見る手はずになっていた。これこそが、技術交流というものであるのだ。
「事前に説明していた通り、手の内を明かしたくない相手とはスパーでぶつからないように手配している。その兼ね合いもあって、まずはこの十八名を十名と八名で分けさせていただく。最初の二時間はその顔ぶれで稽古を進めたく思うので、そのつもりでいてもらいたい」
そんな説明とともに、瓜子たちは二つの班に分けられた。
瓜子が割り振られたのは、赤星弥生子に面倒を見られる十名の班である。その顔ぶれは、愛音、メイ、灰原選手、鞠山選手、魅々香選手、高橋選手、香田選手、青田ナナ、大江山すみれというものであった。
「この中で、対戦を避けたいという申請があったのは、邑崎さんとすみれの組み合わせのみとなる。今からでも、対戦を避けたいと希望する者はいるだろうか?」
申し出る者は、いなかった。
赤星弥生子は、「よし」と首肯する。
「では、邑崎さんとすみれのみ対戦を避ける形で、二分九ラウンドのサーキットを四セット行う。前半は立ち技、後半は寝技で、一周目に問題点を浮き彫りにして指導を行った後、二周目に取り組む形だ。立ち技は組みつきやタックルありで、スープレックスのみ禁止とする。よって、オープンフィンガーグローブとエルボーパッド、レガースパッドとニーパッドの着用を願いたい。肘打ちも関節蹴りも有効とするが、あくまで怪我をさせないという大前提で加減するように」
十八分のサーキットを四セットで、所要時間の合計は七十二分間だ。本稽古が開始されるなり、瓜子は気が遠くなるような思いであった。
が、これこそが瓜子たちの望んだ試練である。昨日はライブで身体も動かしていないので、そういう意味では手足が疼くような思いでもあった。
防具を装着した十名は、体育館の中で大きく広がる。
五名対五名の対戦で、瓜子の最初の相手は灰原選手であった。
「二分なんてあっという間だから、最初っからトバしてくよ! うり坊も、ギアを上げておいてよね!」
「押忍。でも、後半バテないように気をつけてくださいね」
「では、開始」と、赤星弥生子がタイマーを作動させる。
瓜子と灰原選手は「お願いします」とグローブをタッチさせ――そして、およそ二ヶ月ぶりのスパーを楽しむことになった。
灰原選手は宣言通り、いきなり躍動感にあふれかえったステップを見せる。
どちらに跳ねるかわからない、かんしゃく玉のような足運びだ。正統派のアウトファイターである愛音とも、無駄なステップは一歩として踏まないサキともまったく異なる、これこそが灰原選手のステップワークであった。
(うん。これで灰原選手はいきなりインファイトを仕掛けてきたり、最近では組み技を織り込んできたりもするから、まったく油断がならないんだよな)
これはスパーであるというのに、瓜子はもう二ヶ月前のラウラ選手との試合よりも大きなプレッシャーを感じてしまっていた。
こちらが一手でも間違えたら、KOパワーを持つパンチやキックをくらってしまうかもしれない。ラウラ選手には、この圧迫感がなかったのだった。
瓜子も最初からギアを上げて、ステップの中にスイッチを織り交ぜてみせる。
しかし瓜子がサウスポーになっても、灰原選手は動じる気配もなかった。同じ軽妙さでぴょんぴょん跳ね回り、時おり重心を落としてタックルのフェイントを入れる周到さである。
瓜子も的を絞らせないように、前後と左右に細かくステップを踏む。
そこにスイッチまで織り交ぜているのだから、灰原選手だってやりにくいはずだ。しかし、それを表に出さない豪胆さが、灰原選手の持ち味であるのだった。
そうして瓜子が何度目かのスイッチで右構えに戻ったとき、いきなり灰原選手が大きく踏み込んできた。
瓜子がすかさず後方に逃げると、腹の辺りに風圧が走り抜けていく。灰原選手は、初手からボディを狙ってきたのだ。
(これは、あたしの組みつきを嫌ってるってことなのかな。それにやっぱり、サウスポーだと攻めにくいのかもしれない)
一瞬でそのように判じた瓜子は、サウスポーにスイッチすると同時に、自分から踏み込んだ。
こちらは初手から、両足タックルである。灰原選手は弾かれたような勢いで後方に跳びすさり、「へへん」と鼻を鳴らした。
今の灰原選手であれば、タックルにアッパーや膝蹴りをあわせる技術も磨かれているはずだ。それで灰原選手は組みつきを得意にする亜藤選手に何度もカウンターを当てているのである。
しかし灰原選手はいかなるカウンターも出すことなく、ただ逃げた。これは、瓜子がサウスポーの構えから、しかも初手にタックルを狙ってくるとは想定していなかったという証であるはずであった。
(たった二分で灰原選手に有効打を当てるのは難しい。だったら徹底的に、裏をかいてやるんだ)
瓜子はサウスポーのまま、灰原選手に追いすがった。
そして、間合いぎりぎりの位置で左ハイを繰り出す。これも意表を突けたようで、灰原選手はカウンターも組みつきも狙ってこなかった。
瓜子はそのまま左足を前側に下ろして、さらに攻撃を繰り出そうと試みる。
しかしそれより早く、灰原選手が左のショートフックを振ってきた。
瓜子は頭部をガードしていたので、右前腕に重い衝撃が走り抜ける。この頃には、オリビア選手との試合で負ったダメージからも回復していた。
さらに灰原選手は、右のボディアッパーを放ってくる。
攻勢に出るのと同時に、瓜子の組みつきを警戒しているのだろう。
瓜子はインサイドに回ることでボディアッパーを回避して、右ストレートを射出した。
そしてさらに、右腕ばかりでなく右足も振り上げる。
高さと角度は、ミドルハイである。
灰原選手がガードを固めるか、後方に逃げるかすれば、この攻撃も不発に終わる。ただ、瓜子の右ストレートを回避するために、上体をアウトサイドに傾けたならば、ヒットする――そういう攻撃であった。
瓜子もそうまで勝算があったわけではない。流れの中で、自然に出した攻撃だ。
ただ、現在の灰原選手の立ち位置と姿勢であれば、アウトサイドに上体を傾けるのが自然ではないか――という、そんな思考が後から追いかけてきた。
その結果、レガースパッドを装着した瓜子の右すねはそれなりの勢いで灰原選手の横っ面にぶつかり、「ぷぎゃっ!」という声をあげさせることになった。
「くっそー! 次のパンチをクリーンヒットさせるはずだったのにー!」
後ろざまにひっくり返った灰原選手は子供のように手足をじたばたさせてから、ぴょんっと起きあがった。
しかし、そこで二分が終了してしまったため、再び「くっそー!」と不満の声をほとばしらせる。
「次のセットでは、絶対にあたしがダウンを奪ってやるからね! 覚悟しておきなよ、こんちくしょー!」
「押忍。ありがとうございました」
「ありがとうございましたっ!」
灰原選手は肩を怒らせながら、横合いに移動していく。
逆方向から現れたのは、にんまりと笑う鞠山選手である。瓜子にとっては、同階級のトップファイターと連戦という形であった。
こちらの地獄のサーキットにラウンド間のインターバルは存在しないため、「よろしくお願いします」と礼をしてからは、すぐさまスパーの開始である。
そうしてスパーが開始されるなり、鞠山選手もまたぴょんぴょんとステップを踏んでくる。
灰原選手と似て異なる、カエルのようなステップだ。
灰原選手と似ているのは、そのスピードと力強さであろう。
似ていないのは、歩幅の短さと重心の低さである。鞠山選手は瓜子より四センチ小柄である上に、ずんぐりとした体形で平均よりも足が短いのだった。
が、組みつきを得意とする鞠山選手にとって、この重心の低さは大きな武器であろう。彼女は名うてのグラップラーであるのだから、とにかくテイクダウンを一番に警戒しなければならないのだ。
そうして組みつきを警戒していると、豪快なフックやローキックが飛ばされてくる。タイプは違えど、厄介さは灰原選手にまったく負けていなかった。
鞠山選手は、まぎれもなく実力者である。
同階級のトップファイターでも、鞠山選手に苦戦しなかった選手というのは一人として存在しないのだ。
しかしそれでも鞠山選手は《アトミック・ガールズ》の設立以来、長きにわたって『中堅の壁』とされていた。中堅以下の選手には必ず勝つが、トップファイターには一歩及ばない、そういうポジションであったのだ。
それはやっぱり、鞠山選手の体格が原因であったのだろう。
身長百四十八センチで、平均よりも手足が短いという特殊な体形が、鞠山選手のウィークポイントになってしまったのだ。たいていのトップファイターは、とにかくリーチでまさる利点を活かし、鞠山選手の接近を許さず、何とか相手よりも多くの有効打を当てて、判定勝ちを狙う――そんな戦略で、鞠山選手を退けていたのだった。
その証拠に、瓜子は鞠山選手がKOで負ける姿を、ほとんど目にした覚えがない。少なくとも、この六、七年の間で鞠山選手をKOできたのは――サキと瓜子の二名のみであるはずであった。
なおかつ、鞠山選手はアトミックで最強のグラップラーという誉れも高いので、一本負けなどは論外である。鞠山選手は白黒半々の戦績であったが、負けの内容はそのほとんどが判定勝負の結果であったはずであった。
(でも、あたしだってこの階級では小さいほうだし、最初っから判定勝ちを狙うなんて性分じゃない。攻めることで、鞠山選手の組みつきを防ぐんだ)
瓜子は相手に負けじとステップを踏んで、今回もスイッチを織り交ぜつつ、鞠山選手のもとを目指した。
しかしやっぱり鞠山選手も、瓜子のスイッチに動じる気配はない。鞠山選手こそ熟練のベテランファイターであるので、サウスポーもスイッチャーも今さら苦手にする理由などないのだろう。それに、鞠山選手も柔術においてはサウスポーの構えであるはずなので、左右のどちらからでも組みつきを狙えるのだった。
(諸先輩がたは、よくもこんな厄介な相手から判定勝ちを狙えるもんだよ。やっぱりあたしは、泥臭くインファイトを仕掛けるしかない)
サーキットはまだ二ラウンド目であったが、瓜子はさらにギアを上げることにした。アッパーや膝蹴りのフェイントを入れて相手の組みつきを牽制しつつ、懸命にステップを踏んで間合いを詰めていく。
と――鞠山選手が、いきなりアウトサイドに移動した。
カエルの大ジャンプを思わせる、豪快なステップである。
意表を突かれた瓜子は頭部をガードしつつ、そちらに向きなおる。
その右肩口に、衝撃が走り抜けた。鞠山選手が短い足を振り上げて、ミドルハイを狙ってきたのだ。
リズムを乱された瓜子は、その勢いに押されるようにして後方に逃げる。
しかし鞠山選手は、執拗に追いすがってくる。その目は瓜子の足もとを見ており、続いて重心がぐっと落とされた。
膝蹴りを出せるタイミングではなかったため、瓜子は両腕で突っ張ろうと試みる。
その左腕をかすめるようにして、右フックが飛ばされてきた。
タックルをフェイントにした、右フックだ。MMAでは常套のテクニックであったが、瓜子は完全に引っかかってしまっていた。
瓜子はマウスピースを噛みしめて、左頬に叩きつけられた衝撃に耐える。
そして、前側にのばした両腕で、鞠山選手の頭を抱え込んだ。
鞠山選手はすぐさま頭を振って逃れようとしたが、その逃げる先に右膝を振り上げる。鞠山選手の肉厚な胴体に、ニーパッドを装着した瓜子の右膝が炸裂した。
鞠山選手は「ぐえ」とうめいて、その場にうずくまる。
いっぽう瓜子も、目の奥に小さな火花を知覚していた。さきほどの右フックはクリーンヒットであったので、当たった場所がテンプルや下顎であったなら、瓜子のほうこそダウンしていたはずであった。
「なかなかやるだわね……でも、これが四オンスのグローブだったらダメージも倍増で、こんな強烈な膝蹴りは出せなかったはずだわよ」
「はあ。でも、試合でもスパーでも、たらればは禁物でしょう?」
「ただの事実確認だわよ。先にクリーンヒットさせたのは、わたいなんだわよ」
鞠山選手はカエルのように舌を出してから、のそりと立ち上がった。
そこで、二ラウンド目は終了である。
サーキットはまだまだ始まったばかりであったが――この段階で、瓜子はもう途方もない充足感を噛みしめてしまっていた。