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アトミック・ガールズ!  作者: EDA
18th Bout ~Intense summe Ⅱ~
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ACT3 赤星道場合宿稽古(下) 01 MMA体験スクール

 二時間半に及ぶレクリエーションを終えた後は、宿に戻ってランチである。

 中庭には昨年に負けない豪華な料理が準備されており、そしてそこではひさびさに見る赤星大吾がひとり元気に立ち回っていたわけであった。


「やあ、猪狩さんたちはひさしぶりだね。今年も合宿にご一緒できて、嬉しいよ」


 ビア樽のような図体に、童話の熊さんを擬人化したような髭面で、両膝が悪いためによちよちと歩く赤星大吾である。そんな彼がエプロン姿で甲斐甲斐しく働く姿に、『トライ・アングル』の多くの面々は目を丸くしてしまっていた。


「お、そちらが例の、バンド仲間っていうお人たちかな? 俺はそっち方面に疎いんだけど、ユーリさんの活躍っぷりはマリアたちから聞いてるよ! 遠慮はいらないから、好きなだけ食ってくれよな!」


 快活な笑顔を残して、赤星大吾は立ち去っていく。その巨大な後ろ姿を見守りながら、リュウは溜息をついていた。


「なんかのグルメ番組で見たことはあるけど、実物はすげえボリュームだな。それに……やっぱり極悪大怪獣の面影は、これっぽっちも残ってないみたいだ」


「そうっすね。リュウさんは、現役時代の大吾さんをご存じなんすか?」


「ご存じって言っても、ネットで拾った過去映像ぐらいだけどな。《レッド・キング》の全盛期なんて大昔だし、BSチャンネルぐらいでしか試合も放映されてなかったから、よっぽどのマニアじゃなきゃ目にする機会もなかっただろうと思うよ」


 格闘技が一般層をも巻き込む一大ブームを起こしたのは、《レッド・キング》が衰退したのちのことであるのだ。赤星大吾の活躍を知るのは、三十代以上に限定されるのかもしれなかった。


 ともあれ、豪勢なランチである。この後には稽古を控えているので加減は必要であったが、それでもレクリエーションでそれなりのカロリーを消費していたため、誰もが赤星大吾の心尽くしに舌鼓を打つことになった。


 そうしてゆっくりと食休みを取ったのちは、まずMMAの体験スクールである。一般から参加者を募って、無料でMMAの基礎をレッスンするという、合宿稽古の定例行事だ。


「ただ今回は、事前予約の段階で百名の参加者が集まってしまったんだ。桃園さんや猪狩さんが参加するのかという問い合わせには、現時点では未定と答えていたんだが……期待を込めて、それだけの参加者が集ってしまったらしい」


 宿泊施設に併設されている体育館に向かいながら、赤星弥生子は申し訳なさそうな眼差しでそう言っていた。去年も門下生の竹原選手がSNSでユーリの参加を触れ回ってしまったため、大変な人数を呼び寄せることになってしまったのである。


「ただ今回も、コーチ役をお願いできる方々が多々おられるからね。そういう意味では、心強く思っている」


 赤星弥生子が言っているのは、もちろん来栖舞と兵藤アケミと、それにキリル氏についてであった。来栖舞は天覇館の指導員、キリル氏は『チーム・マルス』の名トレーナー、そして兵藤アケミも熟練の柔術家であるのだ。ことトレーナーとしての実績で言えば、キリル氏が群を抜いているはずであった。


 そしてもちろん外部の女子選手たちも、それをサポートする立場である。瓜子と小笠原選手とオリビア選手は立ち技部門、ユーリと鞠山選手は寝技部門の講師役だ。それ以外の選手についても、それぞれの得意分野に分かれて講師役の面々を手伝う約束になっていた。


 そして、『トライ・アングル』の関係者たちである。

 この時間、メンバーの過半数は一般の参加者とともにレッスンを受ける手はずになっていた。それを辞退して見学役に回ったのは、なんと千駄ヶ谷と漆原の両名のみである。


「え? ヒロさんやジンさんも、レッスンを受けるんすか?」


 瓜子が思わず驚きの声をあげると、山寺博人に前髪の向こう側から「なんだよ?」とにらまれてしまった。


「朝から晩まで見物だけじゃあ、尻に根っこが生えちまうだろ。なんか文句でもあるのかよ?」


「い、いえ、文句なんてありませんけど……怪我だけはしないように気をつけてくださいね?」


 山寺博人は「保護者づらすんな」と手をあげかけたが、なんとか自制して自分の頭をかき回した。そのかたわらで、陣内征生はおどおどと目を泳がせている。


「ぼ、ぼ、僕も運動音痴なので、どうするかずっと迷ってたんですけど……じゅ、柔術っていうのは女性や子供が護身術として習うこともあるって、キッペイさんから聞いていたので……思い切って、参加することにしました」


「そうっすか。それで格闘技の楽しさを知ってもらえたら、自分も嬉しいです」


 瓜子が笑顔で答えると、山寺博人が「おい」と顔を寄せてきた。


「俺とジンで、ずいぶん扱いが違うじゃねえか。いくら俺のことが気に食わねえからって、あからさますぎんだろ」


「ええ? そんな扱いを変えたつもりはありませんし、そもそもヒロさんのことを悪く思ったりはしてないっすよ」


「そ、そ、そうですよ。い、猪狩さんは最初から、僕たち二人のことを同じように心配してくれてたじゃないですか。そ、それに噛みついたのはヒロくんなんだから、ヒロくんが文句を言うのはおかしいと思います」


「へえ……お前は長年のメンバーを裏切るんだな。わかった。それなら、お前の好きにしろよ」


「あっ! た、大変です! ヒ、ヒロくんがすねちゃいました! い、猪狩さん、どうかヒロくんを慰めてあげてください!」


「誰がすねてるんだよ! 本気でぶっとばすぞ!」


 そんな微笑ましくも騒がしいひとときを乗り越えて、いざ体験スクールである。

 開始時間である午後一時半が近づくと、体育館には百人できかない参加者が集結した。それを迎え撃つこちらの関係者も七十名弱という人数であるのだから、大変な騒ぎである。そして参席者の面々は望み通りにユーリの姿を発見して、歓喜の声をあげていたのだった。


(去年なんかは《カノン A.G》がらみのスキャンダルの真っ只中だったから、まだ少しは落ち着いてるほうだったのかな)


 瓜子はそんな風に考えていたが、やがてそれがまったく他人事でないことを思い知らされることになった。本年はユーリばかりでなく、瓜子にまで熱い視線が向けられているようなのである。


 去年は瓜子も暫定王者になったばかりの立場であったし、ユーリの音楽活動がらみで撮影地獄に引きずり込まれる機会もごく限られていた。ゆえに、瓜子の知名度などユーリとは比較にもならなかったのだ。それが現在では、ユーリに次ぐほどの――下手をしたら、ユーリに並ぶぐらいの注目を集めているのではないかと思えるほどであったのだった。


(格闘技の実績でいったら、来栖さんや兵藤さんのほうが上回ってるはずなのに……これも全部、特典商法のせいだな)


 瓜子はそのように考えたが、とにかく胸を張っておくことにした。たとえ運命の悪戯であったとしても、瓜子は《アトミック・ガールズ》の現王者として看板を背負っていくと覚悟を固めた身であるのだ。それで瓜子が注目を集めているというのなら、決して恥ずかしい姿は見せられなかった。


 そしてやっぱり、『トライ・アングル』の存在も勘付かれてしまったようである。みんなまさかと思いつつ、ユーリとの関連でそれらが本物のメンバーであると確信するに至ったのだろう。ただ、タツヤたちはすました顔で参加者の列に並んでいたので、無作法に声をかけられたりはしていない様子であった。


「それでは各グループに分かれて、レッスンを始めていただきます。集中して、最後まで怪我のないように取り組んでください」


 そのように挨拶をする赤星弥生子の凛々しい表情や眼光も、参加者たちの浮き立つ気持ちを抑制してくれたのだろう。体育館には身体を動かす前から熱気がたちこめていたが、それでも粛然とレッスンを開始することができた。


 それで、レッスンはというと――『トライ・アングル』の六名の内、寝技部門に参加したのは西岡桔平と陣内征生の二名のみであった。山寺博人と『ベイビー・アピール』の三名は、こぞって立ち技部門の参加を表明していたのである。なおかつ、赤星弥生子の取り計らいで、そちらの四名は瓜子と愛音の班に割り振られたわけであった。


 ひとつの班は、八名ていどで編成されている。その内の四名が『トライ・アングル』のメンバーで、残りは若い主婦層と中学生だ。瓜子と愛音も『トライ・アングル』の関係者であることは否めなかったので、それらの参加者たちは誰もが目を輝かせているようであった。


「……それでは、レッスンを開始します。自分は猪狩瓜子、こちらは邑崎愛音さんで、どちらも赤星道場さんと懇意にさせていただいている新宿プレスマン道場の門下生となります。若輩者で恐縮ですが、最後までよろしくお願いします」


「よろしくお願いしまーす!」と、タツヤたちは誰よりも元気な声を返してくる。瓜子としては、笑顔をこらえるのが大変なところであった。


「それじゃあまずは、ウォームアップからですね。これを怠ると怪我に直結しますので、気を抜かずに取り組んでください」


 瓜子のような若輩者が講師役をおおせつかるなど、恐縮の限りである。しかし赤星弥生子に任されたからには、全力で役目を全うするだけだ。もとより愛音も根っこは生真面目な性格であるために、こういう際には心強くてならなかった。


 レッスンには二時間の枠が取られているが、前後の十五分間はウォームアップとクールダウンに使われるため、実質的には九十分となる。さらにそれが四十五分で分割されて、後半は寝技部門に移るか、あるいは立ち技部門の次のステップに移行するか、参加者たちの希望しだいだ。瓜子たちが受け持つのは、あくまで立ち技の基礎をレッスンするファーストステップのみであった。


 ウォームアップを終えた後は、基本的な攻撃と防御の型、そしてステップワークについて指南する。この時点で、瓜子は『トライ・アングル』の面々がそれなりの体力を有していることを知らされた。運動不足の人間であれば、この段階で息が切れることも多いのだ。


(まあ、二時間以上のステージをこなすには、それだけの体力が必要だもんな。最近は、みんな煙草も控えてるみたいだし)


 そういえば、『ベイビー・アピール』と初顔合わせであったスタジオ練習においては、室内に煙草の煙が充満していたのだ。あれはおそらく、瓜子とユーリに嫌がらせをしようという魂胆であったのだろう。今の彼らからは想像もつかないような悪ふざけであった。


 ただやはり、タツヤやダイは時おり煙草をふかしているので、喫煙家ならぬ山寺博人やニコチンレスの電子煙草派であるリュウよりはスタミナに難があるようだ。特に、長袖のラッシュガードを着用したタツヤなどは、早い段階でスキンヘッドを汗に濡らしていた。

 しかしそれでも、表情は元気いっぱいである。瓜子の指導のもとで格闘技を学ぶことを、心から楽しんでいる様子であった。


「では次に、ミットに攻撃を当ててみましょう。手本を見せますので、防具の着用をお願いします」


 拳サポーターと十六オンスのボクシンググローブ、そしてレガースパッドの着用だ。そこで子供のように挙手をしたのは、頭にタオルを巻いたダイであった。


「瓜子センセイ! このグローブ、俺には少し小さいみたいです!」


「そうっすか。中山さんは、手も大きいですもんね。それじゃあこっちのワンサイズ大きいのを試してみてください」


「えっ! 瓜子ちゃん、俺の苗字なんて知ってたのかよ!」


「いや、レッスンの最初に自己紹介してもらったじゃないですか。それと、公私混同はお控えください」


 瓜子が笑いをこらえてそのように応じると、若い奥様がたがくすくすと笑い声をこぼした。ダイは「ちぇっ」と気恥ずかしそうに笑う。


「それじゃあ、グローブのチェックをしますね。片方の手はどうしてもマジックテープを留めにくいでしょうから、こちらで留めなおすことになるかと思います」


 一列に並んでもらった参加者の端から、グローブのチェックをしていく。その三人目であった山寺博人は、左右ともにマジックテープの留め方が甘かった。


「こちらも直させてもらいますね。ちょっときつく感じるかもしれませんけど、しっかり固定しないと手首を痛めちゃうんですよ。……ギタリストの手は、大事に扱わないといけませんからね」


「……それは公私混同じゃねえのかよ?」


「はい。自分は山寺さんのご職業を存じてますので、公私混同には当たらないかと思います」


 瓜子がすました顔で答えると、山寺博人は心底から憎たらしそうに顔をしかめた。やはり瓜子は、笑いをこらえるのに必死である。

 しかしレッスンには、真剣に取り組まなくてはならない。瓜子と愛音は見本のために装着した拳サポーターを外し、それぞれパンチングミットを掲げることになった。


「まずは、最初にレッスンしたワンツーからですね。力まずに、軽く当てる感じでお願いします。自分が初めてレッスンを受けたときは、キャッチボールでボールを投げる感覚でと教わりました」


 中学生や若い奥様がたはともかくとして、『トライ・アングル』の面々はいずれも立派な男性だ。特にダイなどは大柄な体格をしていたために、瓜子も腰を据えてパンチを受けることになった。

 が、そこで意外な才能を見せたのは、タツヤである。タツヤはこのメンバーの中でもっとも小柄かつ細身であったのに、体重の乗せ方が上手く、大柄なダイに匹敵するほどの衝撃を瓜子の手の平に伝えてきたのだった。


「いいですね。新庄さんは、何かスポーツでもやってらしたんですか?」


「ああ、中坊の頃までは、野球をちょっとな。……てか、瓜子ちゃんに苗字で呼ばれるのが、すっげえこそばゆいんだけど」


「公私混同は禁物ですので」


 瓜子が目だけで笑いかけると、タツヤも照れ臭そうに笑った。

 その次のリュウも細身であったが、こちらもなかなかフォームがさまになっている。そういえば、彼は《NEXT》の有力選手と友人であり、ジムに遊びにいったこともあるという話であったのだ。そのときに、サンドバッグを殴らせてもらったりしていたのかもしれなかった。


 そして最後は、山寺博人だ。

 彼は何となく、人間として迫力のあるタイプであるのだが――その細腕から繰り出されるのは、いかにも素人らしいひょろひょろのパンチであった。


「はい。力みがなくて、いい感じだと思います。ただ、ちょっと手打ちになってるみたいなんで、腰のひねりを意識してみてください」


 山寺博人は不貞腐れたような顔をしながら、それでも瓜子の指示に従おうという姿勢を見せてくれた。ただやっぱり、全身の動きが連動できていないようだ。

 しかしまあ、未経験者としてはこれが平均的なレベルである。瓜子が細々とした指示を与えると、最後には何とかそれらしいフォームを身につけることができた。


「それじゃあ次は、ローキックですね。こちらも力むと転ぶ危険があるので、十分に気をつけてください」


 不公平になってしまわないように、こちらでは担当の四名を愛音と交代する。若き奥様方と中学生の少年たちは、いずれも初々しいフォームでローキックを繰り出していたが――その中でひとり、玄武館の経験者であると申告していた少年は、予想通りの重いローキックを披露してくれた。


「いいですね。ブランクがあるとは思えない威力ですよ」


「本当ですか?」と、その少年は熱っぽい面持ちで瓜子のほう身を寄せてきた。中学生でも、身長は瓜子より十センチ以上はまさっている。


「俺、空手を面白いと思えなくって、小学校を卒業するときに玄武館もやめちゃったんですけど……今、MMAを習うかどうか、迷ってるんです」


「そうですか。玄武館の経験は、MMAでも活かせるはずですよ。あちらのオリビア選手も、玄武館の所属ですしね」


「はい、知ってます。四年前の、世界王者ですよね。それに……先月のアトミックの試合も、テレビで観ました」


 と、少年のつるりとした顔がいっそう紅潮した。


「これ、学校の連中には言えないんですけど……俺、あの試合でMMAをやってみたいって思ったんです。玄武館のオリビア選手も凄かったけど、それを倒した猪狩さんはもっとカッコよかったから……」


 予想外の告白を受けて、瓜子は思わず口ごもってしまった。

 少年は、どこか思い詰めたような眼差しになっている。それで瓜子も、大急ぎで気持ちを整えることになった。


「そんな風に言ってもらえるのは、光栄です。でも、どうして学校の人たちには言えないんすか?」


「え、だって……女の試合をカッコいいとか言ったら、冷やかされるに決まってるし……猪狩さんのことをそんな風に冷やかされるのは、すごくムカつくから……」


「あ、そうか。中学校って、そういうもんっすよね。でも、アトミックの試合を観てくれてるなら、自分はすごく嬉しいです」


 瓜子が笑顔を届けると、その少年もはにかむように笑ってくれた。が、すぐに不安げな顔になってしまう。


「それであの、猪狩さんに聞いておきたかったんですけど……猪狩さんって、《フィスト》と仲が悪いんですか?」


「え? そんなことはないっすよ。いちおうこれでも、《フィスト》の王者ですしね」


「でも、前の王者のラウラって選手は、猪狩さんやアトミックのことをすごく挑発してたし……それで怒った猪狩さんが、《フィスト》のチャンピオンベルトをぶん取ったんだってネットニュースになってたんですよね」


「それはまあ、自分はアトミックのほうに思い入れを持ってますけど、でも、《フィスト》を敵だと思ったことはないですよ。ラウラ選手のことだって、自分の趣味には合わないですけど、嫌いなわけじゃありません。……でも、どうしてそんなことを気にするんですか?」


「俺の家から通える範囲には、《フィスト》系列のジムしかないんです。でも、猪狩さんが《フィスト》と敵対してるなら、そこには通いたくなかったから……」


 そう言って、少年はいっそう顔を赤らめてしまった。

 瓜子はつい、「あはは」と笑ってしまう。


「自分は《フィスト》系列の灰原選手や多賀崎選手とも仲良くさせてもらってますよ。それに、《フィスト》そのものも嫌ったりはしてません。MMAを始める人がひとりでも増えたら、嬉しく思います」


「それじゃあ俺、入門します!」


 少年は決然とした口調で言い放つや、大慌てで頭を下げてきた。


「稽古中に無駄口ばっかり叩いてすいませんでした! 残りの時間もお願いします!」


「押忍。こちらこそ、よろしくお願いします」


 少年は最後に純朴きわまりない笑みを残して、待機側の列に戻っていく。

 そこで気配を感じた瓜子は背後を振り返り、思わず「うわ」と声をあげることになった。


「み、みなさん何をしてらっしゃるんですか? 順番が終わっても、見取りの稽古っすよ」


「だって何か、すっげーシリアスな空気だったからさ。何を話してるのかって気になっちまったんだよ」


 その場には、『トライ・アングル』の四名がずらりと立ち並んでいたのだ。しかし、山寺博人を除く面々は、みんな無邪気な笑顔であった。


「やっぱ、瓜子ちゃんはすげえよな。俺だったら、中坊のバンド小僧なんかと、そんな真正面から語らえねえよ」


「い、いいから列に戻ってください。次のステップに進みますよ」


 タツヤたちは「はーい」と子供のように答えながら、待機の列に戻っていった

 瓜子はレッスンを進行させつつ、胸中に不可解な熱を抱いてしまっている。

 そして脳裏に渦巻くのは、かつて立松から聞かされていた言葉の数々であった。


「世間では、お前さんに憧れて格闘技を始めた人間ってのがぽつぽつ出始めてるらしいんだよな」


 あれはたしか、格闘技マガジンからの撮影要請で、瓜子が深く思い悩んでいたとき――立松は、そんな言葉で瓜子を驚かせてくれたのだった。

 縁もゆかりもなかった相手が、瓜子の試合を目にしたことで、格闘技を始めようと決断する。そんな話は、どうしてもなかなか実感できなかったのだが――瓜子は今日、ついにその風聞が事実であることを自分の目で見届けてしまったのだった。


 瓜子がサキに憧れたように、あの少年も瓜子などに憧れてくれたのだ。

 サキとは比較にもならない瓜子の泥臭い試合を観て、自分もMMAをやってみたいと――そんな思いを胸に抱いてくれたのである。

 レッスンに集中しなければと自戒しつつ、ともすれば瓜子は情緒がどうにかなってしまいそうだった。

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