03 レクリエーション
そうして三十分の食休みを終えたのちは、ついにビーチでレクリエーションである。
灰原選手や鞠山選手の前に抵抗は無駄であると思い知らされている瓜子は、本年も泣く泣くユーリの準備した新作の水着を着込むことになったわけであった。
そんな瓜子が最後の抵抗として準備したのは、ビーチ用のパーカーとショートパンツである。浜辺までへの移動やパラソル下での休憩時だけでも露出を控えるべく、瓜子は自腹でそれらのアイテムを買いそろえていたのだった。
着替えを終えた一行は宿の前で集合してから、列になって浜辺を目指す。宿から浜辺までは、わずか徒歩三分だ。
こちらのメンバーに限っても、水遊びをする気のない人間はそれなりの人数に及んでいる。紫外線を敵視する鞠山選手に、日光アレルギーであるという魅々香選手、膝の故障を抱える来栖舞と兵藤アケミ、千駄ヶ谷と漆原、山寺博人と陣内征生といった顔ぶれである。しかしそういった面々にも荷物番という重要な任務が発生するし、何よりこれは交流を深めるための時間であるのだから、よほどの事情がない限りは欠席も許されないのだった。
「おー、海だ海だ! 本物の海で水遊びなんて、何年ぶりの話だろうな!」
タトゥーを隠すために長袖のウェットスーツを着込んだタツヤも、はしゃいだ声をあげている。今は瓜子もパーカーやショートパンツのおかげで、男性陣の姿を温かく見守ることができた。
去年よりは早い時期であったため、ビーチはそれなりに賑わっている。こちらは総勢七十名弱という一団であったので、岩場に近い浜辺の外れを拠点にすることに相成った。
キッズクラスの子供たちは無邪気にはしゃいでいるし、こちらの一部の男性陣もそれに負けていない。そして、麦わら帽子にパーカーの姿であるユーリも、心から楽しそうに笑み崩れていた。
「にゅふふ。うり坊ちゃんとビーチでたわむれるのも、これで三年連続なのです。来年も再来年も楽しみなところでありますにゃあ」
「今は目の前の楽しみを噛みしめてくださいよ」
瓜子は苦笑を浮かべつつ、その胸中には温かい気持ちが満ちていた。瓜子が頑強にビーチ遊びを拒むことができなかったのは、ユーリがこのイベントを心待ちにしていたゆえでもあるのだ。今年に限っては、目の前に離別の時間が迫っていたため、ユーリの気持ちを少しでも慰めたいという思いがつのってやまなかったのである。
しかしやっぱりいざビーチに到着してみると、なかなか肌をさらす気になれない。それで瓜子は往生際悪く、パーカーを着たまま準備運動することに相成った。
瓜子たちが荷物を置かせていただいたパラソルの下では、鞠山選手が早くもデッキチェアを設置している。そのかたわらに魅々香選手がちょこんと座しているのも、去年と同じ光景だ。ただ本年はそこにキリル氏も加わっているのが、なかなかの存在感であった。
「ミミーって英語がペラペラなんだもんねー! キリルコーチと普通におしゃべりしてるから、びっくりしちゃったよ!」
と、すでに魅惑的なビキニ姿をさらしている灰原選手が、ビーチボールをふくらませる合間にそのように言いたてた。スキンヘッドに深くキャップをかぶった魅々香選手は、慌てた様子で首を横に振っている。
「わ、わたしなんて、なんとか日常会話をこなせるぐらいです。別にその、資格とかを持ってるわけではありませんし……」
「日常会話に不自由がなければ、十分でしょ! あたしも英語ができたら、あちこち旅行に行ってみたいんだけどなー!」
そんな風に言いながら、灰原選手は笑顔で魅々香選手の顔を覗き込んだ。
「ところで! 話はまったく変わるけど、ミミーはちょっぴりお肉がついてきたね! やっぱあたしの想像通り、かっちょよくなったみたい!」
「あ、いえ、『アクセル・ロード』はバンタム級の規定だったので……このままいくとリミットを超えてしまうので、しばらくしたらもう少し絞ることになるかと思います」
魅々香選手は五十六キロ以下級の選手であるが、もともと平常体重は六十キロを超えている。今はさらにウェイトアップして、そして『アクセル・ロード』の開始前に六十一キロジャストでベストコンディションを保てるように調整しているようであった。
よって現在も、そうまで極端に体重を増やしたわけではないのだろうが、確かにげっそりとこけていた頬に自然な肉感が加えられている。病気のために髪や眉毛がなく、鼻筋も過去の負傷で歪んでしまっている魅々香選手であるが、もともと彫りの深い顔立ちをしているために、口さえ開かなければずいぶん凛々しく思えるほどであった。
「やっぱミミーは、階級を上げるべきだと思うよ! そのままいけば、マコっちゃんぐらいかっちょよくなれると思うもん!」
「やかましいよ」と、多賀崎選手が苦笑を浮かべつつ灰原選手の頭を引っぱたいた。そちらはハーフトップにショートパンツという、試合衣装とほぼ変わりのない水着姿だ。
「痛いなー! 人気ファイターを目指すなら、ビジュアルを重視したって――」
と、多賀崎選手のほうを振り返った灰原選手が、ぎょっとした様子で目を剥いた。同じ方向に目をやった瓜子も、思わず「わっ」と声をあげてしまう。
そちらでは、準備運動を終えたメイとオルガ選手がTシャツとショートパンツを脱ぎ捨てたところであったのだ。そして両名は、まごうことなきビキニを纏っていたのだった。
「あ、あんたたちも、海に入るんだね! なんか……すごい迫力だなぁ」
「迫力?」と、メイはうろんげに小首を傾げた。
メイは瓜子とそっくりの体格で、そしてくっきりと黒い肌をしている。そしてその身に、目にも鮮やかな純白のビキニを着用していたのだった。
いっぽう白と青のストライプのビキニを着たオルガ選手は百七十四センチの身長に六十六キロというウェイトで、骨格は頑健きわまりないが、きわめて均整の取れた体格をしている。そして、ユーリや灰原選手のように肉感的ではないものの、白人女性らしく起伏の豊かなスタイルをしており、とりわけ骨盤の発達具合が群を抜いていた。それで、試合衣装や練習着では隠されているヒップラインがあらわにされて、意想外なほど女性らしいプロポーションとなっていたのである。
「にゅっふっふ。実はお二人の水着を見つくろったのは、このユーリであるのです! お二人は素晴らしいプロポーションであったので、選び甲斐がありましたわん」
パラソルの下で日焼け止めオイルを塗っていたユーリが、ピンクのビキニに申し訳ていどに隠された胸もとを張って、そのように言いたてた。
「と言っても、おたがい忙しい身であったので、通販サイトからチョイスしただけなのですけれど、予想に違わぬかわゆらしさでユーリも感無量ですわん」
「そ、そうだったんすか。まったく油断のならないお人ですね」
そんな風に言いながら、瓜子は思わずまじまじとメイたちの姿を注視してしまった。
赤みがかった金色のドレッドヘアの隙間で、メイはいくぶんすねたようなお顔になっている。
「僕とオルガ、海水浴、初めてだったから、水着、持ってなかった。だから、服飾に詳しいユーリに相談した。……何か、おかしい?」
「い、いえ。おかしいことはないっすよ。とてもよくお似合いだと思います」
瓜子がそのように答えたとき、パラソルの下でキリル氏が何事かつぶやいた。どのみち瓜子には聞き取れないが、ロシア語ではなく英語のようである。するとそれを、魅々香選手が通訳してくれた。
「え、ええと、我々は、海のない地で生まれ育ちました。また、海水浴を楽しむ気風でもありませんでした。ですがオルガは、私に遠慮をしていただけなのかもしれません。今日のこの時間を、とても楽しみにしていたようです。と、キリルさんは仰っています。……わわ、ごめんなさい!」
魅々香選手が首をすくめたのは、オルガ選手が早口の英語で何かをまくしたてたためである。おそらく、「いちいち通訳するな!」とでも言ったのだろう。いつも石像のように無表情であるオルガ選手は白い頬を染めながら、瓜子たちの視線から逃げるようにそっぽを向いてしまった。
「オルガっちも、けっこう可愛いとこあるじゃん! この時間を楽しみにしてたのは、あたしらも一緒だよ!」
灰原選手がそのように言いたてると、メイが瓜子を見つめてきた。
「ヒサコの言葉、通訳するべき?」
「あ、はい。後半だけお伝えするのがいいと思います」
メイが瓜子の言葉に従うと、オルガ選手はそっぽを向いたまま頭をかいた。まだ頬が赤いままであるので、そんな仕草も普段よりずいぶん人間がましく見えるようだ。
「それにしても、オルガっちはかっちょいいなー! 白人は肌の劣化が早いって聞いてたけど、どこもかしこも白くてすべすべだし! そういえば、オルガっちってまだけっこう若いんだっけ?」
「オルガ、僕より三歳年少。だから、ウリコと同じ年齢」
メイの返答に、灰原選手は「は?」と目を丸くした。
「オ、オルガっちって、うり坊と同い年なの? あんた、自分と間違えてない?」
「間違えてない。オルガ、ウリコと同じ年齢。僕、サキと同じ年齢」
灰原選手は呆れ返った様子で、瓜子とメイとオルガ選手の姿を見比べた。入念な準備運動を続けていた瓜子は、「なんすか?」とそれをにらみ返してみせる。
「幼児体型で悪かったっすね。そんな言葉は、もう聞き飽きてますよ」
「いやいや、うり坊は妙に色っぽいから、ガキっぽいとは言わないけどさ! ただ、オルガっちと同い年とか言われちゃうとねー!」
「そういう灰原選手だって、オルガ選手より六歳もお年を召してるとはとうてい思えないっすよ」
「なんだよー! そんなにすねるなってばー!」
灰原選手はへこたれた様子もなく、にっと白い歯をこぼした。
「ていうか、あんたはいつまで準備運動してんの? いいかげん、色っぽい幼児体型をお披露目してよ!」
「ますますお披露目する気が減退しました。ユーリさん、オイルを塗るのをお手伝いしますよ」
「うん、ありがとぉ」
そうして瓜子は悪寒に震えるユーリの背中にオイルを塗ることになったが、時間稼ぎもそこまでであった。他のパラソルを拠点にしている人々は、とっくに水遊びを開始しているのである。
こちらで待機しているのは、瓜子とユーリ、灰原選手と多賀崎選手、メイとオルガ選手、そして愛音の七名となる。サキは最初から六丸のそばについて回っていたので、おそらく膝の調子を見てもらっているのだろう。そして隣のパラソルでは、来栖舞や兵藤アケミが荷物番の役を果たしていた。
「あれれ? そういえば、男連中の姿が見えないね! あんなにうり坊の水着姿を楽しみにしてたのに、どこ行っちゃったんだろう?」
「きっとリュウさんの説得で、ワンクッション入れてくれたんすよ。リュウさんの心づかいは、涙が出るほどありがたいです」
「なーにそれ! うり坊ももう二十歳になったんだからさー! 水着姿ぐらい、いくらでも見せつけてやればいいじゃん!」
「灰原選手とは、違う価値観で生きてるんすよ。ここは多様性ってやつを重んじてください」
瓜子はそのように言いつのったが、限界が近いのは承知の上であった。瓜子とて、ユーリとの思い出作りをする覚悟でこの場に臨んだ身であるのだ。
「えーと……ちなみにこのパーカーとかって、このまま海に入ってもいい仕様なんすよね」
「却下! けっきょくあたしの腕力の出番なのかなー?」
「灰原選手の怪力で引っ張られたら、新品のパーカーが破けちゃいますよ」
オイルの塗布を終えた瓜子は、最後の勇気を振り絞ってパーカーとショートパンツを脱ぎ捨てることになった。
ユーリが本年準備したのが、黒いベースで白のふちどりが入ったタイサイド・ビキニ である。ボトムのサイドに結ばれた紐を、瓜子はあらためてぎゅうぎゅうに締めつけておくことにした。
「さあ、それじゃあ海に入りましょう。今すぐ入りましょう。自分は遠泳にチャレンジしてみたいです」
「それより、まずはボール遊びでしょ! せっかくふくらませたんだからさ!」
というわけで、瓜子たちは海に突撃することになった。
そこで優雅にくつろいでいた鞠山選手が、「メイメイ」と声をかけてくる。そちらを振り返ったメイの鼻先に、鞠山選手の指先からピンと何かが弾き飛ばされた。何かと思えば、太めのヘアゴムである。
「わたいからのプレゼントだわよ。その頭で海水浴は、鬱陶しさの極致なんだわよ」
前髪をあげることを嫌っているメイはいくぶん悩む様子であったが、やがてあきらめたようにドレッドヘアを頭の天辺にくくりあげた。
そうすると前髪による陰影が消え去って、意外に子供っぽい顔があらわにされる。白いビキニと相まって、可愛らしさも倍増であった。
あらためて、七名の女子選手は海に突撃する。
頭から海に飛び込んだユーリは、「うきゃー!」と喜びの雄叫びをあげた。
「これこれ! べとつく海水に、お肌の天敵たる紫外線! こんなに不愉快な要素が山盛りなのに、どうしてこんなに気持ちよいのだろうねぇ」
「さあ? ユーリさんも、ドMなんじゃないっすか」
「にゅふふ。憎まれ口を叩きつつ、うり坊ちゃんも楽しそうなのです」
「そりゃまあ、海は気持ちいいですからね」
瓜子が忌避するのはただ一点、過度なる肌の露出のみであるのだ。もとより海水浴が楽しいことは、去年の合宿稽古で立証されていたのだった。
そうして瓜子が海水の冷たさを満喫していると、いきなり背後から黒い人影がしがみついてくる。瓜子がびっくりして振り返ると、自分の肩越しにメイの強張った顔が見えた。
「ど、どうしたんすか、メイさん? 足でもつったんですか?」
「足、つってない。……波の動き、不気味なだけ」
ここはまだ、小柄な瓜子たちの腰がつかるていどの浅瀬である。しかしメイは全力で瓜子にしがみつき、親の仇のように波打つ海面をにらみ据えていた。
「そっか。メイさんやオルガさんは、初めての海水浴だって言ってましたもんね。もしかしたら、海そのものが初めてだったんすか?」
「うん。僕の故郷、内陸だったし……養父に引き取られてからは、遊ぶ時間もなかったから」
「なるほど。それじゃあこれだけでも、日本に居残った甲斐がありましたね」
瓜子が笑顔でそのように応じると、メイは笑うか怒るか迷うように口もとをごにょごにょさせた。
「僕、困ってるのに、ウリコ、楽しそうなのは、何故?」
「あ、メイさんが困ってるのを楽しんでるわけじゃないんすよ。ただ、メイさんが初めて体験する海水浴にご一緒できたことが、嬉しいだけです」
瓜子がそんな風に答えたとき、ユーリが「にゅわー!」と悲鳴をあげた。見ると、そちらではオルガ選手がユーリの肢体にしがみついている。そしてオルガ選手もまた、灰色の鋭い眼光で揺れる海面をにらみ据えていたのだった。
「大丈夫っすか、ユーリさん? たぶんオルガ選手も、波の動きが気持ち悪いんだと思います」
「そこでユーリを頼っていただけるのは、光栄の限りなのですけれども! ここでオルガ選手を投げ飛ばしてしまったら、やっぱりご不興を買ってしまいますでしょうか?」
「はい。今後のすこやかな関係のためにも、どうかこらえてあげてください。……灰原選手、多賀崎選手、ちょっとヘルプをお願いします!」
「んー? あんたたち、女同士で何を絡み合ってんのさ?」
灰原選手はにまにまと笑いながら、瓜子とメイのもとに頭からダイブしてきた。
その勢いに押し倒された瓜子は頭まで海水につかってしまい、そしてメイはいっそう必死にしがみついてくる。瓜子も一瞬パニックを起こしかけてしまったが、なんとか力ずくでメイごと身を起こすことができた。
「ああもう、加減を知らないお人ですね。……メイさん、大丈夫っすか?」
「大丈夫」と応じながら、メイは火のような目で灰原選手をにらみ据えた。感情を殺した顔に海水がしたたって、試合中のような迫力である。
「でも、海水が鼻に入って、すごく苦しかった。……ヒサコ、こらしめたい」
「了解です。それじゃあ、一緒にこらしめましょう」
「へっへーん! やれるもんなら、やってみな!」
ビーチボールを小脇に抱えて、灰原選手はざぶざぶと水しぶきをあげて逃げていく。それを追いかけながら横目で確認すると、オルガ選手は多賀崎選手と愛音によって無事に救助されていた。
かくして瓜子は、何とかかんとか羞恥心を上回る昂揚を手中にすることがかなったわけであった。